Fahrenheit -華氏- Ⅱ
運命に惑わされ、陰謀に溺れて
■Heart sound(心音)■
*Heart sound*
A person I love
(大好きな人)
Important person
(大切な人)
Irreplaceable person
(かけがえのない人)
Just listen to that person's heartbeat
(その人の鼓動を聞くと)
By itself
(それだけで)
Feel relieved
(安心する)
Thank you for being alive
(生きててくれてありがとう)
Put your hands on my chest
(胸に手を当てて)
First
(まずは)
Please say to yourself
(自分に言ってあげて?)
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俺はマックスに似てたのか……だから瑠華に好きになってもらったってこと??
ずーん…と気落ちしてることも知らず
「でも、アイツ瑠華に一目惚れしたの。
良くあるじゃない?遊びと本気は違うって、あれじゃない??」
いや、俺は遊びでもかなりタイプではあるが、そこまで一緒!
ちょっと…ちょっと、ちょっとちょっと!!俺は自分の行動を思い起こす意味で胸に手を当てた。もしかして、もしかしなくても、精神的双子!?
思った以上にドキドキしてる……ケドそれは良い意味でのドキドキじゃなく悪い意味で…
「瑠華はまぁ、モテる方で。でもそれほど恋愛してたわけじゃなくてね、元カレは一人だけ居たけど…」
心音ちゃんの話に寄れば瑠華の元カレは高校時代のクラスメイトで、心音ちゃんも同じ高校だったが、本人曰く記憶が薄いから冴えない感じで、付き合いも大したロマンチックなものじゃなかったらしい。
初めて聞く瑠華の過去の恋……
マックス以前にもちゃんと……
―――恋
してたんだな…
その後、瑠華が大学に進学すると(元カレは違う大学)何となく疎遠になり、自然消滅したらしい。
そっか……まぁありがちだよな。俺もはじめて付き合ったのは中学生だったけど、そのときの彼女とは高校進学のときに何となく疎遠になっちまってそれきり……今はどこで何をしてるのかサッパリだ。
「Maxが瑠華に真剣になるなんて予想外だったわ。遊び相手にも選ばれないって言う自信はあったから」
「心音ちゃんとマックスとはどうゆう……関係だったの?」
俺がおずおずと聞いた。
「あたし?
あたしはMaxの兄貴のJoshuaと付き合ってたの。だから親しくしてただけ」
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ジョシュア―――…
はじめて耳にする名前だ。マックスは次男だからつまり、兄貴であるジョシュアがヴァレンタインの次期総帥ってワケか。
「てか、過去形?」
笑っていいのか分からなかったが、何故だかそうするのが一番妥当だと思えた。
心音ちゃんはきっとそのジョシュアと言うオトコと別れたんだろう。
でも、ちっとも悲しそうじゃないし。
「そ。過去形。別れて……まだ数か月」
心音ちゃんは明るくキッパリと言いきった。
心音ちゃんにとってそのジョシュアとの別れは大した出来事ではなさそうだ。まるで拾った飼い犬が逃げ出した、けどまぁどこかで元気にやってるでしょ?的な感覚に思える。
心音ちゃんがワイングラスを傾け、一口ワインを喉に通して
「でもね、幾らあたしとMaxが未だに付き合いがあるとは言え、独りで参加するのは癪に触るワケ。
だってそのparty、Joshも参加するし、しかもアイツは富豪の娘と婚約したばかり。
悔しいからアクセサリーをね」
心音ちゃんはまたも悪戯っぽく笑って一台のノートPCを俺に見せてくれた。俺は閉じられたノートPCがほんのちょっと気になったが、その考えがすぐに吹き飛んだ。
心音ちゃんは「アクセサリー」だと言った。ネックレスやピアス、ブレスレットの類を探していると思って居たが見せられた画像は
何人かの男の写真だったからだ。
いや…
いやいやいや!
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開いた口が塞がらない、と言うのはこうゆうときに使うものなんだな。
出会い系サイトか何かなんだろうか。画面いっぱいを埋め尽くす男たちの顏、顏、顏。
ある程度こちらの要望を伝えてあるのか、男たちの顏はどこか似通っていた。
心音ちゃんのタイプなのかな。白人で髪の色はダークブラウン~明るいブラウン。目の色はブルー系だった。
男たちの顔面レベルは割と…てか結構高い。
「色々悩んでるんだけど、イマイチピンとくるものがなくてね~」
と、心音ちゃんは小さく唸って画面を睨む。
瑠華は確かに心音ちゃんのこと「破天荒」だと言ったが、これはぶっ飛び過ぎだろ!
もう何も言い返せず、俺は魂の抜けかかった目で心音ちゃんのディスプレイを流し見するしかできん。
ちょうどグラスの中のワインが空になった。キリがいいしこれ以上俺は何も言えん。「ごちそうさま。もう寝るよ」と言って立ち上がろうとした。
「Hey.(ねぇ)」
ふいに心音ちゃんに声を掛けられて、俺は再びソファに座りなおした。
『この男なんてどう?』と言う意見を求められたら、適当に返事をしようと思っていたが
俺の予想に反して
「瑠華の過去、どこまで知ってるの?」と聞かれて
俺は目をまばたいた。
「全部」
間髪入れずに答えた。全部知っている自信があったし、今更知らないことが出てきても受け止める自信もある。
「All?Truly?(全部?本当に?)」
試すような物言いで聞かれて、俺はぎこちなくも頭を縦に振った。
「それでいて付き合おうと?」また聞かれて、俺はそれにも頷いた。
「瑠華は良い人に巡り合えたようね」
心音ちゃんはどこか満足そうに……見えたら良かったけれど、その眼はどこかしら羨ましさや、ほんのちょっとの焦燥感なんかが見えた気がする。
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「俺からも質問していい?」
ふと、何故だかここになってちょっとした疑問。
「What?」心音ちゃんは興味深そうに、ソファの背に両肘を置くとわくわくと目を輝かせて俺を見上げている。
「心音ちゃんて本名?」
心音ちゃんは俺の質問に、若干がっかりしたような表情を浮かべ軽く肩を竦める。
「本名よ。偽名名乗ってどうするのよ」
まぁ、確かに……
「でも心音ちゃんの漢字、瑠華から聞いてるけど日本語だと『しんおん』とも取れるよね。ちょっと凄い……じゃなくて変わった名前だな~って思って」
「良く言われるわ」心音ちゃんは慣れたもので、再び肩を竦めると
「あたしね、両親の顏を知らないの。
生まれたばかりのとき、修道院の前に捨てられてて―――」
え―――……?
俺は目を開いた。瑠華からそんなこと聞いてない……ってまぁ、人の暗い過去を幾ら恋人だからって軽く言いふらすような人じゃないよな、彼女も。
マズイこと聞いちまった―――
俺は地雷を踏んだことに間違いがなかったから、何か答えなきゃいけなかったものの、心音ちゃんにとっては大したことじゃないらしく、ちょっと皮肉そうに笑って続ける。
「その修道院のシスターがね、あたしを見つけたんだけど
毛布に包まれてたあたしは
息をしてなかったんだって」
え―――………
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「慈悲深いシスターは、赤ん坊の亡骸をそのまま放置するのも心苦しくて
せめて聖母マリアさまの御許で安らかに眠らせてあげようと、してくれたわけ。
するとびっくり!
途絶えていた呼吸が吹き返ったの。
それで心音」
心音ちゃんは両手を広げてわざとオーバーリアクション。
「そう―――……だったの……
それは奇跡だね。でもごめん……俺、知らなかったとは言え不躾なこと聞いた……」
心音ちゃんが孤児だったことも、一瞬だとしても息絶えていたことも………俺なんかが軽く聞いちゃいけないことだ。
思わず俯くと
「な~んて♪
信じた?」
と、心音ちゃんは悪戯っ子のようにあかんべぇをして楽しそうに俺を見上げている。
へ!?
嘘!!!!
「ケイトって意外に信じやすいタチ?
女の涙に弱いでしょ」
指摘されて、
う゛!と詰まった。
確かに俺は女に泣かれると弱いが……
てか今まで、巧みに作り話をして同情を引こうとしていた女は決して少なくなかったが、それでもどんな女にも騙されたことがない、この俺が!!
簡単な罠(?)にかかった!!?
そんな自分がかっこ悪すぎて、そしてブラック過ぎるジョークを簡単に言ってのけた心音ちゃんに、ちょっと嫌気がさし、俺は今度こそ
「おやすみ(怒)」と短く言ってリビングを後にした。
「Good night♪」
軽やかな心音ちゃんの挨拶が聞こえてきたが、俺はそれに振り返りもしなかった。
何で―――
瑠華は心音ちゃんと友達で居るんだろう。
ホント
謎
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いや、悪い子ではないとは思うんだけどね。
何て言うか、瑠華が一番嫌がるタイプ……相手を振り回すタイプだ。なのに、瑠華は心音ちゃんのことを『親友』と呼ぶ。
女の友情程、
わっかんねーな……
歯を磨き終えて、俺もアルコールが入ったことで少しだけ遠のいていた眠気が再びやってきた。
寝室に行って瑠華の隣に潜り込もうとすると、瑠華が僅かに寝返りをうった。
カーテンが開いたままになっていた窓から眠らない街、東京の夜の人工的な光が瑠華の頬を照らし出している。
白くて、まるでビスクドールのようなきめ細やかな肌が幻想的に浮き上がっている。
「瑠華」
俺はそっと彼女の名前を呼び頬を撫でた。
その手に気づいたのだろうか、ごそごそと衣擦れの音が響き、瑠華が再び寝返りを打ってこちらに体を向ける。
こちらを向いた瑠華の無防備な寝顔を眺めて、そしてその柔らかい唇にそっと口づけ。
「愛してる」
たった一言呟いた言葉が眠ったままの彼女に届いたのかどうかは謎だったが、でも
言わずにはいれなかった。
この気持ちが永遠に続くものだと思っていたし、瑠華に俺の気持ちが伝わって欲しいと願って。
「おやすみ」
再び頬にキスを落として、俺は目を閉じた。
今度は短い睡眠リズムではなく、久々に夢も見ず、ぐっすり眠れたのは
隣に瑠華が居るからだろうか。それとも、瑠華に少しでも思い悩んでいた『真咲』の存在を打ち明けられたからだろうか―――
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次の日、目覚めるとすぐ近く……瑠華が眠っていた場所はもぬけの殻だった。
シーツに手を這わせてみると、少しばかりの温もりも感じられなかった。
確認する意味で近くの携帯を引き寄せ、時間を確認するとデジタル時計は13:32を指していた。
「ヤッベ…俺、寝すぎ」
幾ら瑠華の隣だからって気が緩んでる。昼過ぎまで恋人の部屋で寝るとか、ありえんだろう!
ガクリと肩を落として、それでもノソノソとリビングに向かった。
心音ちゃんはあまり日本に来たことがない様子だったから、今日辺り瑠華と一緒に東京観光でもしてるかもしれない。
明日になれば、俺も瑠華も仕事だし心音ちゃんの相手をしてあげられる余裕なんてないしな。
と思ったケド、意に反して二人の女はリビングのソファでくつろぎ中だった。
心音ちゃんは何が楽しいのか妙にハイテンションだったけど、その反対に瑠華はげっそりとしてソファの背に頭を預けている。
俺を見ると瑠華は救世主の登場かの如く目を輝かせて頭を上げる。
な、何があったの!?
「おはようございます」
「お……おはよ~…」俺は何とか苦笑を浮かべ、へらへらと手を振る。
二人の間で何があったのか分からないが
ま、まぁ??心音ちゃんのあのテンションに付き合ってくのは大変だよね。
いくら見た目がいい女でも、俺でも半日で「バイバイ!」だ。
だが二人は単なるお喋りでこうなっているわけではないらしい。二人の話に寄ると、どうやら一晩中心音ちゃんは東京の行きたい所を検索して、早朝に瑠華を無理やり起こし、今の今まで東京を案内させていたと言うわけだ。
っていうか、瑠華を起こしにきた時点で俺も気づけよ!って感じだよな。
いつもの神経質、どこへ行った!?
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「心地よさそ~に眠ってたから、起こしたら可哀想だと思って、瑠華だけ呼んだの♪」
と、心音ちゃん。心音ちゃんも変なところで常識人だな。
ま、心音ちゃんだって会ってまだ一日しか経ってない男も一緒よりも、気心しれた女二人の方が楽は楽に違いないが。
でも瑠華のこの疲れよう…
一体どこまで行ってきたの!?
「浅草と~築地(現在は豊洲ですね)と~、アキバと、それから原宿☆」
と、心音ちゃんは楽しそうに教えてくれる。
浅草、築地は……何となく分かる。いかにも外国人ウケしそうだしな。だけど何で秋葉原と原宿??
「東京タワーとか、皇居とか、明治神宮とか、普通は行きたいんじゃない?」
心音ちゃんは見た目100%日本人だが、99%ニューヨークっ子だから、ほぼアメリカ人と考えれば行きたがる所は俺が今連ねた名所だとばかり思っていたが。
「TOKYOタワーは明日ぐらい見にいくわ。何せ一週間は滞在する予定だし」
一週間……
つまり7日間は心音ちゃんが瑠華の家に居るってわけだよな~
一週間……何も起きなきゃいいけど……
「秋葉原でメイド喫茶なるものに連れて行かれました」瑠華はまたもぐったりとソファに逆戻り。
アキバでメイド喫茶!?瑠華と心音ちゃんが!?
激しく不釣合いなんですけど!どこでどーしてそーゆう流れになった!?
と、もう突っ込みどころ満載!
「日本のオモテナシは最高levelね♪究極の接客業だったわ!」と心音ちゃんは一人でエキサイティング。
「も、もしかして……もしかしなくても
『お帰りなさいませ。ご主人さま❤』とか言われちゃったり!?」
俺の問いかけに
「………」
瑠華は無言。
代わりに心音ちゃんが「Yeah!」と一人だけ楽しそう。
俺だって行ったことないのに!
「欲しかったPCのパーツもあったし、交渉したら値引いてくれたわ♪素敵な国ね!」
いや、値引きしてくれたのは店員が男で、ついでに言うとあふれ出すフェロモンで心音ちゃんが迫ったに違いない。
「原宿は、そうね……何て言うのかしら、もうExciting!
あちこちでロリータファッション??って言うの?したかっこの女の子たちが居たし、たくさん写真撮ったわ!
Fashionableな街ね、原宿は♪」
心音ちゃんは持参してきたであろうデジカメを俺に手渡してくれて、その何枚か見せてもらったが、確かに俺の理解できない派手派手フリフリフワフワなまるで人形のような格好をした女の子たちと笑顔を浮かべてこちらにピースサイン。
俺は忘れていた。
心音ちゃんが若干、オタクが入っているってことを。
「この貴重な経験を次のGameにしようかと思うの!」
ああ、そ。もう俺、心音ちゃんのペースについてけないよ。
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「あたしが得意とするのはシューティングゲームだけど、今度は美少女育成ゲームにChallengeしようかと♪」
あ、そ。勝手にしてくれ。
と俺は若干呆れ気味。
「オンラインゲームで、オタクたちをたくさん吊るの。よりハイスペックな女の子を育成するために、顧客から金を引っ張れるわ♪」
と、まぁ彼女は彼女なりにビジネスには貪欲だってことだな。
と言うわけで約半日の観光を経て、それに振り回された瑠華は魂が漏れ気味。
よく見るとローテーブルにはビールの空き缶が数本と、赤ワインのボトルが一本置かれていて、
こんな時間に、アルコール!?
と思ったが、飲まなきゃやってられない、と瑠華の視線が物語っていた。
たった半日で瑠華をここまで消耗させるのは、流石に「破天荒」な心音ちゃんしかできないと思う。
俺、寝てて正解だったかも……と今更気づいた。
「ケイト、ねぇお腹すいちゃったわ。何か作ってよ、料理上手だと瑠華から聞いてるわ」
と、心音ちゃんはマイペース。
はいはい、作りますよ。
心音ちゃんに何を言っても無駄だと早々に諦めた俺。
結局、瑠華の家の冷蔵庫にある食材で、簡単なものだったが、天ぷらと大根と揚げの味噌汁、キノコ類の炊き込みご飯を作ってテーブルに出すと
ようやく瑠華が元気を取り戻したように、俺の料理をおいしそうに食べ始めた。
それを見てちょっと安心。
「Wow!このエビ天最高!こっちのは??」と海鮮掻き揚げを口に頬張り心音ちゃんはご満悦。
食事をしながら、心音ちゃんは飲む、飲む、飲む!!
珍しい日本酒は俺が以前、瑠華にプレゼントしたものだったが、それも一升瓶空にしてったからな。
ああ、早く明日にならないかな……
仕事してた方がまだ…いや、全然楽!
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結局、その日も俺は瑠華の家にお泊りした。瑠華が願ったわけじゃない。
何故か、心音ちゃんにしつこく誘われたからだ。
「ね~ケイトも一緒に遊びましょうよ~♪」
と。普通なら大人の女の言う『遊び』が何なのか大体の察しが付くし、瑠華と付き合ってなけりゃ即OK!
だけど、色んな意味で彼女の言う遊びがふつーじゃなかったり……
三人でガチでポーカーやって、大損↓↓因みに一番強かったのが意外に(?)いやいや、もともとポーカーフェイスの瑠華が勝つわけで。
24時間365日一緒に居たい俺としちゃ嬉しい!しかも美人もついてる!って喜ぶべきところだケドね……
喜びを不幸のどん底へと落としてくれる、『(美人な)付属品』がもれなくくっついてるわけでー
俺は月曜日なのに、もうへとへと。
朝、髭を剃り、歯を磨いて顏を洗って洗面所で顏を確認すると、たった二日間でげっそりと病みやつれた俺の姿が映って余計にげんなり。
心音ちゃんは瑠華と同い年だって言った。時差ボケもあるだろうけど、俺は心音ちゃんが自室で休んでいる姿を見たことがない。一体いつ寝てるの!それなのに、やたらとパワフルだし。
あの若さと美貌を、俺から吸い取って保っているに違いない!!
髪をセットして瑠華が淹れてくれたコーヒーを飲み、新聞は……ここじゃゆっくり読めないから会社だな。と言う意見は瑠華と一致して、二紙を脇に抱え言葉も少な目に
「行ってきます」
と玄関口で靴を履いてると
「I’ll see you later.♪(行ってらっしゃ~い♪)」と元気な心音ちゃん。
扉がパタリと閉じると、当然彼女の姿も視界から消えるわけで、俺は盛大にため息を吐いた。
「何か……ごめんなさい。心音が啓にご迷惑を…」と何故か瑠華が気を遣ってくれる。
きゅん……優しいね…
と、トキメイテいるときでも
「It’s a lost article.(忘れ物~)」と心音ちゃんがひょいと顏を出す。
「え?忘れ物??携帯も持ったし、新聞もあるし…」と一応確認をしていると、心音ちゃんは全然不自然じゃない動作で瑠華に軽くハグ。
「Enjoy.(行ってらっしゃい)」と言い、瑠華の両頬にこれまた慣れた様子でキス。
瑠華の方も慣れているのか、顏を交互に向ける動作でさえ様になっている。
キスの挨拶は……当然ながら瑠華にだけで、俺を見ると心音ちゃんは手をひらひら。
「Bye.」
「またね」
俺が返すと、心音ちゃんはそれ以上何も言わずに扉を閉めた。
だが、扉が完全に閉まる間際
彼女の妖艶とも呼べる赤い唇が不敵につり上がったのを
見た。
嫌な予感………
P.565
見慣れた広尾のこの自社ビルも、従業員通用口のカードスキャナーさえも、そこを通り抜ける際に警備員に掛ける挨拶さえも、何だか妙に懐かしい。
二日間……
そう、仕事を休んでいたのはたったの二日間なのに、内容が濃すぎて(ぶっ飛び過ぎていて、とも言う)この何の変哲もない空間に妙に安心感を覚えたり。
「おはようございま~す、あれ??
神流部長と柏木補佐、同伴出勤?」
と声を掛けてきたのは、魔王二村ではなく、同じフロアの広報二課の課長だった。
広報部は一課と二課が存在していて、一課は主に社外に我が社のPRを(最近は主にインターネットだが)二課は社内報を手掛ける社内向けの仕事をしている。
広報二課の課長は俺より10も年上の妻子持ちで、だけど社内で不倫しているとの噂あり。(Fahrenheit -華氏-でも登場していましたね♪)で、とりあえずはほっと安堵。
「たまたま偶然ですよ」
俺は苦笑い。いつもなら課長の冗談をさらりと受け流すが、今日ばかりは疲労が溜まっていて、それ以上の言い訳が思いつかない。
まぁ?課長の方も人に言えない秘密があるからな、(噂はどこまで本当なのか分からないが)それ以上は深く突っ込まれず、まぁ挨拶みたいなもんだな。
課長の方も特に気にした様子でもなく
「朝早くからお疲れ様です」とにこやかに挨拶。「今度の社内報、見出しに『外資物流事業部のビッグカップル!誕生』で、どうですか?」と冗談か本気かどうか分からん問いかけに、俺は疲れで何も言い返せなかった。
「報道の自由、とおっしゃりたいようですが、生憎ここは“会社”と言う独自の“社会”です。
ある程度の秩序とルール、それからプライバシーを尊重すべきです」
と、こっちは朝から絶好調。
隙もなけりゃ、広報二課長の冗談(?)にもクール過ぎるぐらいの対応。
ひゅぅう~
と、木枯らしが俺と広報二課長の間を通り抜けて行ったように
思えた。
P.566
冬の夜
キミへの気持ちを窓に託しました
たった一言が言えない私は臆病者ですか?
でも今はこれが精一杯
雪に想いを
『次はお天気コーナーです。今日から明日にかけて低気圧が日本の南を発達しながら東北東に進み、明日には日本の東に進む見込みです。
関東甲信地方では今夜から雨が次第に雪に変わり、あす午前中にかけて山沿いを中心に、平野部でも積雪となる所がある見込みです。雪による交通障害、架線や電線、樹木等への着雪、路面の凍結に注意してください』
今朝のワイドショーのお天気キャスターの言葉を思い出したのは、勤めている会社の定時を迎え業務を終えたときだった。
「えー!やだっ!雪降ってるじゃん」と誰からともなく声が挙がり
「ホントだー、私傘持ってきてない」
「どうりで冷えると思った」
と同僚たちが次々と口にする。
またも誰かが「せっかく彼氏に買って貰ったバッグが濡れちゃう」と言い出し、それでもちっとも困った様子ではなく、どこか誇らし気だ。
そしてその周りの女子たちが盛んに羨ましがる。
「いいなー、でもあたし今度のクリスマスにダイヤの指輪ねだっちゃうんだー」と一人の女の子。
「いいなー!」黄色い声に、私は苦笑いを浮かべるしかない。ここでの男の年収と、女の品格は反比例する。いかにいい服を着るか、いかにいいバッグを持つか、いかにいい男を彼氏にするか、年中こんな会話でうんざりする。
かと言って輪に加わらないわけにはいかない。仕事とプライベートの内容こそ比例するのだ。
P.1
「仁科《にしな》さんはいつも素敵な服着てますよね」ふいに一人から話題を振られた。
「えっ、そう?」私は曖昧に笑って言葉を濁した。今日の服装は白いタイトワンピ。腰回りに太いベルトが巻き付いていて、ちょっと豪華に見えるゴールドのバックルがワンポイント。
そして同じくゴールド系のスパンコールが襟元に入ったコートを腕にかけて帰りたいアピール。
シンプルな服装だったけど、流石は目が肥えている女子たち。すぐにそれが高価なものだと見破った。女のチェック程厳しいものはない。私がオシャレをするのは対、男ではなく、彼女たちの為。
「仁科さんてぇ、結婚しないんですかぁ」間延びした話し方が赦されるのはこの年代の特権だ。
「結婚ね……相手がいないから」私は適当にごまかして再び言葉を濁した。
こう言っておけば大抵の女は引き下がる。私が長い間、人付き合いをしてきて、これが最良の方法だと知ったのはつい最近のこと。
私がこの会社に勤めはじめて五年になる。この会社での女性正社員では長いほうだ。後から派遣された若い女の子たちから見れば私なんてお局のようだった。
「そう言えばぁ仁科さん、この前見ちゃったんですぅ」一人の女の子が思わせぶりに口元へ手をやった。
短く切った髪にはパーマがあててあり、傍から見ればマシュマロのように可愛らしい女の子だ。
だが、そんな可愛らしさに惑わされてはいけない。女はいつでも顔の下にしたたかな一面を隠しているのだから。
P.2
「何を?」私は平静を装って取り澄ました。
もしかして“アイツ”と居る所を見られた?と思ってドキリとしたが
「この前の金曜日、青山のイタリアンレストランで、経理の前田さんと一緒にいるところぉ」
ああ、そっちか。とちょっとほっと安堵する。
「ええー!!」周りから黄色い声が飛ぶ。私は思わず頭を押さえたくなった。
そう、確かに経理の前田に誘われて先週の金曜に青山まで行った。
でも食事をしただけで、別に艶かしい関係ではない。だが、ここで重要なのが、経理の前田という男、この会社ではなかなかのハンサムでしかも独身、きさくな性格をしているわりには頼れる上司でもあるのだ。そうゆう男を若い女性社員が放っておくわけがない。
「いいなー、ねえお二人って付き合ってるんですか?」
食事をするイコール男女の関係と、どうして若い子たちはそう短絡的なのだろう。私はこの場から逃げ出したくなった。だけど、この場から立ち去ると認めたことになってしまう。
「別に、ただお食事に誘われただけよ」
「うそー、絶対前田さん仁科さんのこと狙ってるわよぅ。だって、あたしたちがいくら誘っても全然だったのよー。それなのに前田さんは仁科さんのこと」
嫉妬心と羨望の眼差しで見られ、私は思わず後ずさり。
何とか前田との話を切り返し、従業員出入り口から女子の群れに混ざって出てきた所だった。
遠くで派手なエンジン音が聞こえてきて、この狭い路地裏へと近づいてきた。この聞き慣れたエンジン音。私は嫌な予感がして思わず一方通行の標識を見つめた。
「よーう、仁科」黒のポルシェの窓から腕を出し、銜えタバコをしながら九条《くじょう》が手を振っている。
「やっぱり」
私は、今度こそ頭痛をこらえるように頭をしっかりと押さえた。
P.3
「仁科、今終わりか?これから飯でも食わねー?」
この状況を知らずに能天気に笑ってるその整った横っ面に今すぐ張り手を食らわせたい。
「あ、あんたいつ東京に戻ってきたわけ?」私は女の子の群れから一人離れると、九条の車に近づいた。
「あー、悪い。三日ぐらい前かな?この前言ってた日本料理屋行こうぜ」
「あんたっていつも何で急なのよ」
私が声を潜めて九条を睨んでいるときだった。
「えー、仁科さんの彼氏さんですかぁ?かっこいい!」
女の子たちの視線が九条に移った。予想していなかった最悪の事態。
上半身しか見えなかったが、今日の九条は黒いジャケットの中に白いカットソーを着ていて、真冬だって言うのに襟ぐりに濃いサングラスをかけている。いつものように髪をラフにセットしてあって、左耳には輪っかのようなピアスが三つ光っていた。
そう
どこからどーみてもこいつは
ホスト。
P.4
「仁科、今終わりか?これから飯でも食わねー?」
この状況を知らずに能天気に笑ってるその整った横っ面に今すぐ張り手を食らわせたい。
「あ、あんたいつ東京に戻ってきたわけ?」私は女の子の群れから一人離れると、九条の車に近づいた。
「あー、悪い。三日ぐらい前かな?この前言ってた日本料理屋行こうぜ」
「あんたっていつも何で急なのよ」
私が声を潜めて九条を睨んでいるときだった。
「えー、仁科さんの彼氏さんですかぁ?かっこいい!」
女の子たちの視線が九条に移った。予想していなかった最悪の事態。
上半身しか見えなかったが、今日の九条は黒いジャケットの中に白いカットソーを着ていて、真冬だって言うのに襟ぐりに濃いサングラスをかけている。いつものように髪をラフにセットしてあって、左耳には輪っかのようなピアスが三つ光っていた。
そう
どこからどーみてもこいつは
ホスト。
P.4
でも勘違いしてもらっては困る。私はこいつの客じゃない。東京を離れていたのも、大方客の一人と遠征旅行でもしていたのだろう。
「違っ!こいつとは単なる腐れ縁。彼氏とかじゃないから」
と慌てて否定するも秒の単位で噂が回るこの会社で明日の朝には『仁科さんて、ホストに貢いでるらしいよ』とあちこちで言われるに違いない。
くらり、と眩暈が起きた。
腐れ縁、と言うのは間違いない。中学からの同級生だから。
「じゃあ、本命は前田さんですかぁ?」女の子達が興味津々で目を輝かせている。
「前田??ひどいなー、仁科ぁ。俺たち何度もセック……もがっ」
最後の方が言葉にならなかったのは私の手が九条の口を塞いだから。
ふざけんな!何言い出すんだこいつぁ!!
空気読めっつうの!
と言うことを目で訴えると、流石に冗談が過ぎたと思ったのか九条は苦笑い。
「で?行くの?行かないの?」せっかちに聞かれて
「わかったわよ!行くわよ」半ば怒鳴るように九条を睨みつけると、私はそそくさと助手席に回った。
「それじゃ、私はこれで。お先に」女の子たちにはなるべく平静を装って、にこやかに手を振る。
ため息をついて車の助手席を開けると、運転席から九条が笑顔で手を差し伸べてきた。
「ただいま、仁科」
昔とちっとも変わらない笑顔。眉が下がり、目を細める、優しい笑顔。そして時々その低い声で呼ばれる、自分の名前。何だかくすぐったいが、この笑顔を向けられたら、たとえ九条の勝手に振り回されても、赦せてしまう。
「……おかえりなさい」私は俯くと、小さく返事を返した。
P.5
前述した通り私と九条とは中学からの付き合いだ。かれこれ十年以上の付き合いになる。十年、と言う歳月は長く感じられるけれど、その間に音信不通になったり、そしてどこからか連絡先を入手して電話を寄越して来たり、をだらだらと繰り返している。
でも、私たちははっきりと『付き合って』はいない。もちろん九条のブラックジョークの『体の関係』もない。
あるのは中学生から変わらないノリと
私が九条のこと「好き」
と言うことだけ。歳を重ねて、九条がホストになって……あ、今はホストじゃなくホスト店を経営してるオーナー様でもあったかしら。とにかく環境は変わったものの、不変的な何かは確実に存在している。
パワーウィンドウの外をちらほらと雪が降っていた。
「北海道行ってきたんだ~土産に蟹買ってきてやったぞ」と九条は運転しながらどこか楽しそう。
「北海道……ここより雪が多そうね」ぼんやりと呟きながら、九条に気づかれない程度にこっそりと、外気との差で曇った窓ガラスに、人差し指で
『好き』
と書く。
私の書いた文字は私の体で隠れて九条からは見えない。
「蟹すきしようぜ~、お前んちで」
「何であんたを一々上げないといけない?」
言い合いをしながら、やがて私のマンションに着く頃にはみぞれになった大粒の白いものが私の『好き』をかき消す。
「だってお前んち床暖あるじゃん?」
「そんな理由かよ」
中学生から変わってないこの関係とノリ。
今はまだ―――
この関係でいいや。
~FIN~
P.6