Chat Noir -黒猫と私- Deux(2nd)
Cat №47 黒猫と動き出した列車
その①
『Cat №47 黒猫と動き出した列車 その①』
樗木さんの時間は止まったまま。
あのときの事故から、ずっと。
P.362
仕事中だったらどうしよう…と思いメールにしようかとも思ったけれど、やっぱり電話にしたかった。
大事なことを切り出すのに―――メールじゃ失礼よね。
幸いにもチェシャ猫さんはすぐに電話に出てくれた。
「も…もしもし……」
『はい。樗木です。真田さん?嬉しいな、真田さんから連絡くるなんて』
と四日ぶりに聞く声はふつー通り。
特に四日前の変な別れを気にしていない様子だった。大人だからか?
私は―――と言うと、何話していいのかあれこれ準備していた身だから正直拍子抜け。
ううん……でもやっぱり普通通りがいいよ。
「あ、あの突然ですが今日の夜空いてませんか?」
『すみません…今日の夜は。打ち合わせが入ってまして。打ち合わせと言っても営業先の接待なんですけどね』
撃沈↓↓
「……じゃぁ…」言いかけたときに
『今からなら空いてます。約束が18時にあるんでそれまでの間なら』
い、今から…とな!
で、でも迷ってる暇はない。
こうゆうのはタイミングとチャンスが必要で。
「分かりました!今からOKです!!場所は―――」
私のアパートの近くにある公園を指定した。
以前、黒猫と夜のお散歩をした場所であり、ミケネコお父様と恋愛相談なんてしちゃったりしたところ。
カフェでのんびり話す内容でもないし、かといってチェシャ猫さんちや車の中は無理!
あの公園ならひと気がないから静かに話せるし。と言う意味で指定すると
『分かりました。今から向かいます』とあっさり了承。
電話を切って、今度は慌ただしくチヅルさんに電話を掛けた。
番号聞いておいて良かったよ~~~!!
『はい、もしもし』
チヅルさんの方も割と時間に融通が利くのか、あっさり出てくれた。
「あ、あの……チヅルさん――――……」
これで役者(乗客)はそろった。
P.363
その後私は、たい焼きを買ってそれを手にアパートまでの道を急いだ。
運よく電車もすぐに来てくれたおかげでそこから三十分とかからなかった。
「今日の主役はチェシャ猫さん!私は脇役……そう脇役よ!!ってかいつも脇役なんだけどね(泣)」
独り言をぶつぶつ言いながら公園にたどり着くと、すでにワンボックスカーが公園の脇に止められていて、その車が溝口さんの乗ってるものと同じ車種であることはすぐに分かった。
チェシャ猫さんの社用車だ。
慌てて公園の入口に向かうと、古びたベンチの隅にチェシャ猫さんが座っていて雑誌のようなものを読んでいた。それを目に入れると思わず私の足は躊躇して止まってしまった。
でも――――ここで立ち止まってはダメ。
せっかく決心した心を必死に奮い立たせ、それでも私のつま先は僅かに震えた。
ゆっくり…ゆっくり―――とチェシャ猫さんの座るベンチに近づくと、私の存在に気づいたのかチェシャ猫さんはゆっくりと顔を上げた。
その顔にはいつもの笑顔が張り付いている。
何事もなかったように―――
チェシャ猫さんにとってあの夜の出来事は、
あの夜降った雨で流してしまったのですか?
それともあの夜に流してしまったのは
もっと他の感情ですか?
P.364
私はチェシャ猫さんの横に腰掛けると、たい焼きの袋を軽く掲げた。
「たい焼き食べません?」
‟こんにちは”も‟お久しぶりです”も、何もなく挨拶をすっ飛ばして聞いてみたのは
特に意味があったわけじゃない。
早く本題を切り出したかったから、とかでもない。
ただ、チェシャ猫さんの顔を見てそう思ったから。
気づいたら―――私はチェシャ猫さんのペースに巻き込まれっぱなしだった。でも今は―――私がチェシャ猫さんのペースそのもの。
「いただきます。でもなぜにたい焼き?まぁおいしい季節になりましたよね~秋だし」
チェシャ猫さんは笑顔になって素直に手を伸ばしてきた。
たい焼きの一つを手渡しながら、私は
「さっきまでデートしてたんです。たい焼き食べながら」
と、ことさら何でもないように言い出した。
たい焼きの頭からかぶりつこうとしていたチェシャ猫さんの手が止まった。
口を不自然に開いて、ゆっくりと私の方を見てくる。
さらに私は、そんな珍しく変顔のチェシャ猫さんに問いかけた。
「相手は高校生です」
チェシャ猫さんは口を噤むと、眉の端をぴくり……動かした。
「それは――――」
「黒猫……倭人―――元彼じゃないです。
倭人のクラスメイト。デートってほどでもないです。ちょっと喋っただけ」
私の言葉にちょっとだけほっとしたように頬を緩めるチェシャ猫さん。
けれど次の言葉でチェシャ猫さんの表情はまた変な風に固まった。
「嫉妬してくれる程度には――――
私のこと好きでいてくれたんですね」
P.365
「何言って――――当たり前じゃないですか」
チェシャ猫さんがちょっと怒ったように眉を吊り上げる。
はじめてかもしれない。この人のこうゆう表情を見たのは。
思えば私――――想い出の中のチェシャ猫さんはいつも笑顔のチェシャ猫さんしかいない。
怒ったり、泣いたり、悲しんだり―――もっともっといっぱいチェシャ猫さんの表情を見たかった。
けれどそれを見られるのは
チヅルさんだけ。
「樗木さん、今までありがとうございました。
あなたは―――チヅルさんの元へ戻ってください」
ずっと言いたくて言えなかった言葉は、案外あっさりと口から出た。
“別れ”とはこんなにもあっさりしているのだろうか。
だとしたらあっさり別れられなかった黒猫との恋は私にとって何だったんだろう―――
ポトッ……
何かが落ちる小さな音が聞こえて、それがチェシャ猫さんが手にしていたたい焼きだってことに気づくのが遅れた。
「すみません。落としてしまいました。
でもどうして……突然」
チェシャ猫さんは屈みながらたい焼きを拾って脇に避けると、私の横顔を見据えてきた。
まだ一口も口を付けられていないたい焼きが寂しそうにチェシャ猫さんの横から私を見上げている。
「どうして?チヅがそこに出てくるんですか。
真田さんが僕と別れたいんですか?だったら理由を―――」
早口に言いかけてチェシャ猫さんは前髪をぐしゃり、と掻き揚げた。
「あの夜の―――ことを考えていらっしゃるなら、あれは無視してください。
虫のいい話かもしれませんけど」
チェシャ猫さんの言葉に私はゆるゆると首を横に振った。
無視―――なんてできない。
だって
はじめてチェシャ猫さんの本心に触れられたんだもの。
P.366
「僕は真田さんが好きです。
せっかくそう思える人と出会えたのに、別れるなんて絶対にいやです」
そう言ってくれて――――
嬉しいです。
でも
「“Like”?“Love”じゃなくて?」
と言う質問に、チェシャ猫さんは戸惑ったように目をまばたきさせた。
「そうゆうことです。
あなたの心の中に居る人は―――私なんかじゃない。あなたの“好き”って言うのは、恋人としての意味じゃない」
「僕はずっと真田さんのこと考えています」
チェシャ猫さんは弁解するように大仰な手振りで説明をした。
「じゃぁ……」
私が短く息を吸い込んだのを確認して、チェシャ猫さんはその言葉に耳を傾けていた。
「じゃぁ何で私に触れようとしないんですか」
私ははっきりとチェシャ猫さんを真正面から見据えて言い切ると
「何言って………手ならこうやって繋いでるじゃないですか」
とチェシャ猫さんの手が私の手に重なった。
チェシャ猫さんは私と二人きりになっても、手以外の場所に触れようとはしてこなかった。
四日前のあの微妙な夜を覗いては、ハグだってしなかったしもちろんそれ以上も―――
触れる―――
と言うことは恋人間の中でもとりわけ大きなことで、それがコミュニケーションにもなるし、相手のことを知れるのだ。
その行為をやり過ごして、今まで来たのが奇跡だと思う。
「そもそも僕は大切な人と手を繋ぐのが好きな方で―――」
チェシャ猫さんの言葉に私は言葉をかぶせた。
「それは!」
チェシャ猫さんの指先がぴくり、と動いた。
「それはチェシャ猫さんが五年前にチヅルさんの手を離してしまった罪悪感からです」
P.367
小さな子供に言い聞かせるように一言一言丁寧に、真剣に向き合って言った。
「だから俺と別れる―――と…?事故のことは真田さんに関係ない。
俺はあなたと一緒に生きる道を選んだんだ」
チェシャ猫さんは自分のことをいつもの“僕”とは言わず“俺”と呼んだ。
皮肉なことに、ここにきてはじめて気づいたよ―――
あなたの口癖。
あなたは本心を喋るときだけ“俺”と言うのね―――
「いいえ、違う。あなたは逃げている」
「違わない!」
チェシャ猫さんは突如大声を挙げて、怒鳴った。
P.368
はじめて怒鳴られた。
急角度につり上がった目の端がさらにつり上がって、険悪の形相を帯びていた。
その只ならぬ迫力に一瞬だけ言葉を飲み込む。
いつもにこにこしてる人って怒ったら―――怖いって言うよね。
まさにその通り。
チェシャ猫さんの剣幕に押されて何も言えないでいると
「………すみません。大きな声を出して…」とまたいつもの優しい瞳をして私の手をそっと握ってくる。
「とりあえず……この場で話し合うことじゃないですよね。
僕と別れたいって言うのなら、ちゃんとした理由を用意してください。
そのときまたゆっくり話し合いましょう。
僕―――仕事に戻ります」
チェシャ猫さんが私の手から手を離してゆっくりと立ち上がる。
するり
チェシャ猫さんの手が私の手から離れた。
チェシャ猫さんの約束の18時まではまだ一時間ほどある。
「ちょ、ちょっと待って!ちゃんと聞いてください!」
私は慌ててチェシャ猫さんの手を引いた。
ああ、もう!!
今まで私―――ちゃんとした別れって言うのを経験したことがなかったから何て切り出していいのか分からない。
「僕の方は話はないです。すみません、仕事に戻ります」
チェシャ猫さんは私の手を一層強く握ると、次の瞬間やや強引と思われる力で手を引き抜いた。
チェシャ猫さんは公園の入口の方へ足を向けている。
行っちゃう……
だめ―――
どうしたら引き止められる?
どうしたら―――?
「チヅルさんが好きなのは樗木さんって知っても―――
あなたは私と付き合っていられますか?」
あれこれ考えて私は最後の最後―――
順序立てて説明する言葉を急きょひっぱり出して投げかけると、チェシャ猫さんの足はぴたり
止まった。
止まって
くれた。
P.369
チェシャ猫さんの手が今度ははっきりと分かるようにぴくりと大きく動き、ゆっくりと振り向くと目をいっぱいに広げていてその突き刺さるような視線を私に向けてきた。
「……すみません。事故の詳細を……チヅルさんに聞きました。
勝手なことして申し訳ないと思ってます。それは謝ります」
腰を折って説明すると
「チヅから……?」
とチェシャ猫さんは深いため息を吐いた。
「彼女から何を聞いたのか分かりませんが、でも彼女は決して真田さんを傷つける女じゃないです。
だから彼女が原因だと言うのなら……」
「分かってます!」
今度は私が怒鳴った。
その声は小さな公園に響いて、入口を横切って行った小学生ぐらいの男の子二人組がびっくりしたように脚を止めた。
それを見て、怒鳴った後に後悔した。
もし――――もし本当に違ったら……?
私は―――チェシャ猫さんを傷つけるかもしれない。
一抹の不安が浮かんで、そう思ったら急に自分のやってることがいけないことだと、後ろ足を踏みそうになった。
でも
歩みを止めてなならない。じゃないと
―――誰も前に進めない。
私は今ゆっくりと立ち上がり、真正面から彼を見据えた。
「樗木さんの時間は止まってるんです。
あのときの事故から――――ずっとずっと」
P.370
「あなたは――――顔は笑ってるけれど、心で泣いてる――――
私には分かるんです。チヅルさんのこと、救えなかった自分に怒り、足を悪くしたチヅルさんのことを想って自分を責めて…」
言いかけたとき、またも
「違う!」
チェシャ猫さんは怒鳴った。
今度は私も居竦むことは―――なかった。
「いいえ、違わない。あなたはただずっと
泣いてる―――
心の中で」
「俺が――――………泣いてる……?
違う……
違うよ」
チェシャ猫さんは私に顔を向けたまま、視線だけは地面の辺りを彷徨わせていた。
少しの間沈黙があって、
「違う」
とチェシャ猫さんは温度のない声で弱々しくぽつりと吐いた。
「いいえ、違わなくない」
またも私がかぶせると
「…………違う」
チェシャ猫さんはとうとう膝を折って、地面に両膝を突き、両手で頭を抱えて蹲った。
その姿は―――五年前に………ううん、私の夢の中で
泣いていたチェシャ猫さんの姿そのものだった。
P.371
「泣いていいんです。悲しんでいいんです、怒っていいんです。ずっとしまい込んでた感情を―――解放させてあげてください」
私はゆっくりとチェシャ猫さんの元へ歩いていくと、肩を引き寄せ、頭を抱き寄せた。
「泣いてなんか――――ない。俺は――――悲しんでなんか―――……
俺は……俺は千鶴のために泣いていい身分じゃない………
千鶴のために―――何もしてやれなかった」
とチェシャ猫さんは切れ切れの声で私の腕の中で何とか答える。
けれどその声は僅かに嗚咽が混じっていた。
ポツリ……ポツリ…と
赤土の上に濃い茶色が広がり、それが涙のしずくの跡だと気づいた。
「樗木さんは大切な人を助けられなかった―――……その想いが強すぎて、自分に呪いをかけてたんです。
解けない呪いを」
“俺が手を離さなければ”
まるで呪詛のように繰り返していた―――とチヅルさんは言った。
そう、それは呪詛そのものだよ。
五年前から今までチェシャ猫さんはその言葉に囚われていた。
私が解放してあげるの。
その呪いから。
チェシャ猫さんは私の腕を掴むと、声を挙げて
泣いた。
P.372
「チヅ――――」
「チヅ………――――」
「千鶴――――ごめん。
ごめんな
俺
本当は千鶴のこと手放したくなかった―――
だけど怖かった。
千鶴から逃げた
ごめんな」
チェシャ猫さんの声はあなたに届きましたか?
私は公園入口に呆然と突っ立っていたチヅルさんの方を見た。
P.373
「省……」
チヅルさんが小さな声を出して両手を口元に当てている。
その頬に光る一筋の光を見た。
「省吾―――……」
チヅルさんがチェシャ猫さんを呼んだ。
「チヅ……?」
その声でチェシャ猫さんが顔を上げた。
その顔には涙が浮かんでいた。
「行って……」
私はチェシャ猫さんを立たせると、そっと彼の背中を押した。
「………真田さん…」
チェシャ猫さんが困惑したように私とチヅルさんを見比べる。
「行ってください……」
それでも戸惑ったようにチェシャ猫さんのつま先は私の方を向いている。
「行きなさい!
あなたはチヅルさんのこと―――好きなんでしょう!
五年前、あなたは手を離したかもしれない。
けれど離した手は
また繋ぐことができる。
生きてるんだから。
あなたたちは生きてるんだから―――」
以前、この公園でミケネコお父様とお喋りしたことがある。
彼もまた亡くなった前の奥さん……サエさんのことで悩んでいた。
天秤にかけるつもりはないけれど、でも生きていれば―――取り返すことだってできるんだよ。
「生きなさい」
私がもう一度言うと、チェシャ猫さんは大きく頷き
「真田さん……ごめん」
と一言言い置き、チヅルさんの元へ走り出した。
P.374
動き出す。
止まっていた時間が―――
五年と言う月日を経てようやく
走って
走って
「千鶴」
走って―――その手で
「省吾」
運命を
掴んで――――
さよなら
チェシャ猫さん
P.375
冬の夜
キミへの気持ちを窓に託しました
たった一言が言えない私は臆病者ですか?
でも今はこれが精一杯
雪に想いを
『次はお天気コーナーです。今日から明日にかけて低気圧が日本の南を発達しながら東北東に進み、明日には日本の東に進む見込みです。
関東甲信地方では今夜から雨が次第に雪に変わり、あす午前中にかけて山沿いを中心に、平野部でも積雪となる所がある見込みです。雪による交通障害、架線や電線、樹木等への着雪、路面の凍結に注意してください』
今朝のワイドショーのお天気キャスターの言葉を思い出したのは、勤めている会社の定時を迎え業務を終えたときだった。
「えー!やだっ!雪降ってるじゃん」と誰からともなく声が挙がり
「ホントだー、私傘持ってきてない」
「どうりで冷えると思った」
と同僚たちが次々と口にする。
またも誰かが「せっかく彼氏に買って貰ったバッグが濡れちゃう」と言い出し、それでもちっとも困った様子ではなく、どこか誇らし気だ。
そしてその周りの女子たちが盛んに羨ましがる。
「いいなー、でもあたし今度のクリスマスにダイヤの指輪ねだっちゃうんだー」と一人の女の子。
「いいなー!」黄色い声に、私は苦笑いを浮かべるしかない。ここでの男の年収と、女の品格は反比例する。いかにいい服を着るか、いかにいいバッグを持つか、いかにいい男を彼氏にするか、年中こんな会話でうんざりする。
かと言って輪に加わらないわけにはいかない。仕事とプライベートの内容こそ比例するのだ。
P.1
「仁科《にしな》さんはいつも素敵な服着てますよね」ふいに一人から話題を振られた。
「えっ、そう?」私は曖昧に笑って言葉を濁した。今日の服装は白いタイトワンピ。腰回りに太いベルトが巻き付いていて、ちょっと豪華に見えるゴールドのバックルがワンポイント。
そして同じくゴールド系のスパンコールが襟元に入ったコートを腕にかけて帰りたいアピール。
シンプルな服装だったけど、流石は目が肥えている女子たち。すぐにそれが高価なものだと見破った。女のチェック程厳しいものはない。私がオシャレをするのは対、男ではなく、彼女たちの為。
「仁科さんてぇ、結婚しないんですかぁ」間延びした話し方が赦されるのはこの年代の特権だ。
「結婚ね……相手がいないから」私は適当にごまかして再び言葉を濁した。
こう言っておけば大抵の女は引き下がる。私が長い間、人付き合いをしてきて、これが最良の方法だと知ったのはつい最近のこと。
私がこの会社に勤めはじめて五年になる。この会社での女性正社員では長いほうだ。後から派遣された若い女の子たちから見れば私なんてお局のようだった。
「そう言えばぁ仁科さん、この前見ちゃったんですぅ」一人の女の子が思わせぶりに口元へ手をやった。
短く切った髪にはパーマがあててあり、傍から見ればマシュマロのように可愛らしい女の子だ。
だが、そんな可愛らしさに惑わされてはいけない。女はいつでも顔の下にしたたかな一面を隠しているのだから。
P.2
「何を?」私は平静を装って取り澄ました。
もしかして“アイツ”と居る所を見られた?と思ってドキリとしたが
「この前の金曜日、青山のイタリアンレストランで、経理の前田さんと一緒にいるところぉ」
ああ、そっちか。とちょっとほっと安堵する。
「ええー!!」周りから黄色い声が飛ぶ。私は思わず頭を押さえたくなった。
そう、確かに経理の前田に誘われて先週の金曜に青山まで行った。
でも食事をしただけで、別に艶かしい関係ではない。だが、ここで重要なのが、経理の前田という男、この会社ではなかなかのハンサムでしかも独身、きさくな性格をしているわりには頼れる上司でもあるのだ。そうゆう男を若い女性社員が放っておくわけがない。
「いいなー、ねえお二人って付き合ってるんですか?」
食事をするイコール男女の関係と、どうして若い子たちはそう短絡的なのだろう。私はこの場から逃げ出したくなった。だけど、この場から立ち去ると認めたことになってしまう。
「別に、ただお食事に誘われただけよ」
「うそー、絶対前田さん仁科さんのこと狙ってるわよぅ。だって、あたしたちがいくら誘っても全然だったのよー。それなのに前田さんは仁科さんのこと」
嫉妬心と羨望の眼差しで見られ、私は思わず後ずさり。
何とか前田との話を切り返し、従業員出入り口から女子の群れに混ざって出てきた所だった。
遠くで派手なエンジン音が聞こえてきて、この狭い路地裏へと近づいてきた。この聞き慣れたエンジン音。私は嫌な予感がして思わず一方通行の標識を見つめた。
「よーう、仁科」黒のポルシェの窓から腕を出し、銜えタバコをしながら九条《くじょう》が手を振っている。
「やっぱり」
私は、今度こそ頭痛をこらえるように頭をしっかりと押さえた。
P.3
「仁科、今終わりか?これから飯でも食わねー?」
この状況を知らずに能天気に笑ってるその整った横っ面に今すぐ張り手を食らわせたい。
「あ、あんたいつ東京に戻ってきたわけ?」私は女の子の群れから一人離れると、九条の車に近づいた。
「あー、悪い。三日ぐらい前かな?この前言ってた日本料理屋行こうぜ」
「あんたっていつも何で急なのよ」
私が声を潜めて九条を睨んでいるときだった。
「えー、仁科さんの彼氏さんですかぁ?かっこいい!」
女の子たちの視線が九条に移った。予想していなかった最悪の事態。
上半身しか見えなかったが、今日の九条は黒いジャケットの中に白いカットソーを着ていて、真冬だって言うのに襟ぐりに濃いサングラスをかけている。いつものように髪をラフにセットしてあって、左耳には輪っかのようなピアスが三つ光っていた。
そう
どこからどーみてもこいつは
ホスト。
P.4
「仁科、今終わりか?これから飯でも食わねー?」
この状況を知らずに能天気に笑ってるその整った横っ面に今すぐ張り手を食らわせたい。
「あ、あんたいつ東京に戻ってきたわけ?」私は女の子の群れから一人離れると、九条の車に近づいた。
「あー、悪い。三日ぐらい前かな?この前言ってた日本料理屋行こうぜ」
「あんたっていつも何で急なのよ」
私が声を潜めて九条を睨んでいるときだった。
「えー、仁科さんの彼氏さんですかぁ?かっこいい!」
女の子たちの視線が九条に移った。予想していなかった最悪の事態。
上半身しか見えなかったが、今日の九条は黒いジャケットの中に白いカットソーを着ていて、真冬だって言うのに襟ぐりに濃いサングラスをかけている。いつものように髪をラフにセットしてあって、左耳には輪っかのようなピアスが三つ光っていた。
そう
どこからどーみてもこいつは
ホスト。
P.4
でも勘違いしてもらっては困る。私はこいつの客じゃない。東京を離れていたのも、大方客の一人と遠征旅行でもしていたのだろう。
「違っ!こいつとは単なる腐れ縁。彼氏とかじゃないから」
と慌てて否定するも秒の単位で噂が回るこの会社で明日の朝には『仁科さんて、ホストに貢いでるらしいよ』とあちこちで言われるに違いない。
くらり、と眩暈が起きた。
腐れ縁、と言うのは間違いない。中学からの同級生だから。
「じゃあ、本命は前田さんですかぁ?」女の子達が興味津々で目を輝かせている。
「前田??ひどいなー、仁科ぁ。俺たち何度もセック……もがっ」
最後の方が言葉にならなかったのは私の手が九条の口を塞いだから。
ふざけんな!何言い出すんだこいつぁ!!
空気読めっつうの!
と言うことを目で訴えると、流石に冗談が過ぎたと思ったのか九条は苦笑い。
「で?行くの?行かないの?」せっかちに聞かれて
「わかったわよ!行くわよ」半ば怒鳴るように九条を睨みつけると、私はそそくさと助手席に回った。
「それじゃ、私はこれで。お先に」女の子たちにはなるべく平静を装って、にこやかに手を振る。
ため息をついて車の助手席を開けると、運転席から九条が笑顔で手を差し伸べてきた。
「ただいま、仁科」
昔とちっとも変わらない笑顔。眉が下がり、目を細める、優しい笑顔。そして時々その低い声で呼ばれる、自分の名前。何だかくすぐったいが、この笑顔を向けられたら、たとえ九条の勝手に振り回されても、赦せてしまう。
「……おかえりなさい」私は俯くと、小さく返事を返した。
P.5
前述した通り私と九条とは中学からの付き合いだ。かれこれ十年以上の付き合いになる。十年、と言う歳月は長く感じられるけれど、その間に音信不通になったり、そしてどこからか連絡先を入手して電話を寄越して来たり、をだらだらと繰り返している。
でも、私たちははっきりと『付き合って』はいない。もちろん九条のブラックジョークの『体の関係』もない。
あるのは中学生から変わらないノリと
私が九条のこと「好き」
と言うことだけ。歳を重ねて、九条がホストになって……あ、今はホストじゃなくホスト店を経営してるオーナー様でもあったかしら。とにかく環境は変わったものの、不変的な何かは確実に存在している。
パワーウィンドウの外をちらほらと雪が降っていた。
「北海道行ってきたんだ~土産に蟹買ってきてやったぞ」と九条は運転しながらどこか楽しそう。
「北海道……ここより雪が多そうね」ぼんやりと呟きながら、九条に気づかれない程度にこっそりと、外気との差で曇った窓ガラスに、人差し指で
『好き』
と書く。
私の書いた文字は私の体で隠れて九条からは見えない。
「蟹すきしようぜ~、お前んちで」
「何であんたを一々上げないといけない?」
言い合いをしながら、やがて私のマンションに着く頃にはみぞれになった大粒の白いものが私の『好き』をかき消す。
「だってお前んち床暖あるじゃん?」
「そんな理由かよ」
中学生から変わってないこの関係とノリ。
今はまだ―――
この関係でいいや。
~FIN~
P.6