Chat Noir -黒猫と私- Deux(2nd)
黒猫とライラック
『黒猫とライラック』
ライラックの花言葉は想い出。
P.59
―――
「突然すみません」
いつも以上に丁寧に頭を下げると、何となく雰囲気で察したのか
「今日は少し早めに閉めるよ。お客さんも少ないし」と言ってミケネコお父様はぎこちなく笑う。
言葉通り、その十分後には最後のお客さんが帰っていき、そのまた十分後にはお店の掃除なんかも省いて従業員を帰らせるお父様。
二人きりになった店内で、ミケネコお父様は無償でカクテルをつくってくれた。
マルガリータだ。
ミケネコお父様はウィスキーのロックを傾け、
「家庭教師を辞めさせてください」
重苦しい沈黙の中、それ以上に重い口調で何とか切り出すと
カラン…
ロックグラスの中で氷を鳴らしてミケネコお父様はウィスキーを飲み干した。
「そんなことだろうと思ったよ。倭人と何かあった?」
私を攻めるような声音じゃなく、ミケネコお父様は穏やかに聞いてきた。
「別れることにしました。
勘違いしないでほしいのですが、彼に何一つ落ち度はありません。
私の勝手なわがままです。申し訳ございません」
声がどんどん小さくなっていく。
風邪薬のせいか喉がカラカラに干上がって、私はマルガリータにせわしなく口をつけた。
「朝都ちゃん…他に好きな人ができた?」
またもやんわり聞かれ、私は慌てて首を横に振った。
「じゃ、何で別れるの?」
次の言葉は予想できたけれど
「まぁ、男と女の仲は一言で言い表せるほど簡単なものじゃないしね」
ミケネコお父様は無理やり笑顔を浮かべて、お代わりのウィスキーをグラスに注いだ。
P.60
その手を途中で止めて
「てか一丁前に“男女の仲”とか、あいつには早すぎる言葉だけど」
と私に笑いかける。
私は曖昧に笑みを返し、空になったグラスをミケネコお父様はそっと取り上げ
「何か飲む?新しいの作るよ」といつもの穏やかな微笑み。
その笑みに気が緩んで―――
今日一日張り詰めていた何かが途切れた。
「私……私は―――まだ倭人のことが好きです。
本当にごめんなさい」
失恋で人前で泣くのはかっこわるいと思ってたのに、一番涙を見せちゃいけない人の前で涙腺はあっけなく壊れ
涙はあとからあとからとめどなく落ちる。
マルガリータのグラスの淵にくっついた塩と同じ味の涙が流れ、頬を伝い唇に流れ込んできた。
こんなときにも思う。
ああ、やっぱり店長の作るお酒は本当においしい、って。
きっと店長の優しさがそのままカクテルに注がれてるんだ、って。
「……ごめんなさ…」
ひたすらに謝る私の言葉をさえぎり、
「謝らないでよ。だってきっと誰も―――悪くない」
ミケネコお父様は私の髪をそっと撫で、
「新しいのを作ろう。何が良い?
今日は僕のおごりだからたくさん飲んでいって」
眉を下げて微笑んでくれた。
P.61
そのあとはくだらない話でミケネコお父様は私を笑わせてくれた。
酒の力もあってか、くだけた雰囲気の中
何杯目かのカクテルを飲み干して、私たちはカウンターの席からお店のソファ席へと移動して二人並んで座ることにした。
ミケネコお父様のグラスはショットグラスで、中にはテキーラが入ってる。
「ねぇ、朝都ちゃん~、いきなり辞めちゃうんじゃなくて、一ヶ月間の休職ってことでどうだろう?」
ソファの背もたれに背を深く預け、なっがい足を組みながらソファの背に腕を乗せてるミケネコお父様。
私の背中にミケネコお父様の腕があるときんちょー……
………しないな。
だって店長だもん。
黒猫とは別れたし、私たちは元から店長と従業員って関係。店長はお店の女の子に手を出す人じゃないって分かりきってるし、
今までセクハラなんてされたこともないし、聞いたこともない。
私もソファの背に深く背を預けてウォッカトニックのグラスを両手で包みながら天井を見上げた。
「お言葉はありがたいんですが。
もう戻れるとは思えないし…」
戻れるものなら戻りたい。
やり直せるならやり直したい。
でもカリンちゃんがいる限り、それは無理だよ。
戻ったらまたカリンちゃんの具合が悪くなっちゃうだろうし。
「そんなこと言わないでよ~、やっと倭人と気が合う家庭教師見つけたんだから~」
ミケネコお父様は冗談ぽくスリスリと私の頭にすりよってくる。
珍しい。だいぶ酔ってるな。
お父様の髪質とかはやっぱり黒猫のそれと似ていて、一部分だけきれいに染め上げられた赤茶の髪が
だめだ…私にはミケネコに擦り寄られてるとしか見えないよ。
甘えん坊の大きなネコ。
私は大人しくされるがまま。
「ありがたいお話しですが…」もう一度断ろうとすると
すぐ間近で迫ったお父様は真剣なまなざしで
表情で――――
「通常のお給料の八割は出すよ?」
指でマルを作り円マーク。
「マジすか¥¥」
P.62
「だってあのバカ息子の家庭教師半年以上続いたの朝都ちゃんがはじめてなんだよ?」
いつの間にか回された手で肩を引き寄せられて、ミケネコお父様はまたも人懐っこい笑顔を浮かべる。
「そうみたいですね…倭人クラッシャーみたいだから」
「やってらんないよ、あいつの無愛想なんとかしてよ」
お父様はテキーラのショットをぐいと煽り、すぐ近くに置いてあるテキーラのグラスからまた新たに注ぎいれる。
「ご自分の息子じゃないですか。
何とかするのは親の務めじゃないですか?」
「朝都ちゃん冷たいなぁ↓↓
倭人もなーんで、あんな風に育っちゃったんだろうな~、昔は可愛かったのに。
やっぱり母親がいなかったからかなー…」
ミケネコお父様は私から腕を引き抜くと、どこからかタバコの箱を取り出した。
タバコやめたんじゃ……
「長い間禁煙してたんだー…料理人が喫煙はマズイっしょ?」
そう聞かれて、
「マズイですね。てかその言い方チャラいですよ?」
私が答えるとミケネコお父様は声をあげて笑った。
「この店を出したときからさー、厨房に入ることも少なくなったし、メインは酒だからそれほど影響でないんだよねー」
笑いながらもタバコに火をつけて、またも私の肩に腕を回してくる。
「今はペルシャ砂糖さんのために禁煙じゃないんですか。赤ちゃんだって(お腹の中に)いるわけだし」
「うん、そうなんだけどねー…」
お父様はタバコの煙を吐き出して、
私にもたれかかってきた。
「僕だって悩むことはあるんだよー」
P.63
悩みのない人間なんていない。
いつも明るくてきさくなミケネコお父様だって言わないだけで、きっと何か抱えてる…
「ペルシャ砂糖さんとの間で何かありました?
喧嘩とか??」
「いや?カズミちゃんとは仲良しだよ」
さいですか。
ノロケかよ。
私は失恋したってばかりなのに。
スレ気味でカクテルを口にすると、
ミケネコお父様は私の肩に乗せてた頭をふいに上げ、
私の肩に回した腕でさらに私を引き寄せ、その手で優しく髪を撫で梳いた。
私の顔を引き寄せると、驚くほど間近にミケネコお父様の顔があってびっくりした。
ドキリ…
としたのは、その顔がやっぱりどこか倭人に似ていて
倭人に見つめられてる感覚になったから。
「てんちょ……」
言いかけた私の言葉をさえぎるようにお父様の顔が近づいてきて、
キスされそうな程近づいた顔は、私の顔を覆うわけではなく
私の髪にそっと口付け。
「朝都ちゃんの髪、良い香りがするね。
ライラックの香りだ―――」
耳元でくすぐるような甘い囁き声。
背中に甘い痺れが伝わってきたのは、やっぱり倭人とどこか似ていたからだろうか。
「店長………?」
P.64
――――……私も酔っ払っていたのかもしれない。
いつもなら酔わない量のアルコールだけど、きっと風邪もまだ完治してないし、薬だって飲んでたわけだし。
ミケネコお父様は私の髪を梳き、ときおり撫でて手を握り、そっと肩を抱き寄せては撫でる。
全然いやらしさを感じないのは、
ミケネコお父様が世に言うイケメンだからだろうか。
倭人と違って大人の男の色気だってあるし。
それとも―――
その手から深い愛情が伝わってくるからだろうか。
まるで大事なものを愛でるようにその手つきは慎重で優しかった。
ミケネコお父様の香り…
黒猫と違ったメンズものの香水がほんのり香ってきて、抱きしめられ背中を撫でられる度に
堕ちていく感覚があった。
文字通り。
だめよ、朝都。
だって彼は元彼のお父様よ―――
だめだよ。
P.65
ミケネコお父様は私の髪を撫で梳くと顔を近づけてきて、私はそれを拒めなかった。
顎を持ち上げられて優しいキス。
「朝都―――……
好きだ」
―――――
――
「……だめ。絶対にだめ……」
自分の寝言で目が覚めた。
パチッ!
―――…夢…?にしちゃリアルだ。
欲求不満??
ありえないんだけど。
だって元彼のお父様だよ!!
自分どんだけ欲求不満なんだ…と起きた瞬間思わず両手で顔を覆った。
覆った指の隙間から見えた天井が私のアパートの天井より高くて…
「―――っへ?」
私は思わず半身を起こした。
ここで最初に気にすることが…
服!!
「良かった…ちゃんと着てる…」
そのことにちょっとほっ。
自分が寝ているのは大きなダブルサイズのベッドの上で、黒を基調としたスタイリッシュな家具はどれも見覚えのないものだった。
「………ここ、どこ…?」
ふわふわの羽毛布団の端を握って当たりをきょろきょろ。
部屋の明かりはついてなくて、薄暗い部屋の中不安げにベッドから降り立ち、何とか部屋の明かりのスイッチを押すと
ベッドやクローゼットとナイトテーブルだけのシンプルな広い部屋だと分かった。でもまったく見覚えがない。
部屋には私しか居らず、恐る恐る部屋を出ると、明るいリビングが目に飛び込んできた。
何てことない。
そこは―――
黒猫のおうちのリビングだった。
P.66
な、何で私は黒猫のおうちに……?
しかも黒猫のお部屋じゃなかったし。てか黒猫は…?
きょろきょろしていると、リビングの大きなソファでブランケットをかぶったミケネコお父様が心地良さそうに眠っていた。
ミケネコお父様……
確か私はミケネコお父様と彼のバーで飲んでて、飲んでて……?
朧げな記憶の中、記憶の欠片を必死に拾い集めて
サー…
私の顔から血の気が失せた。
ちょっと待って…
私…昨日―――
ミケネコお父様とキスしちゃった!?
P.67
記憶の最後に聞いた言葉。
『朝都、好きだ―――』
あれは……どういう意味なんだろうか…
だってお父様にはペルシャ砂糖さんて言う婚約者が居るんだよ!
第一、こんな小娘相手にしないって!
必死に言い聞かせるも、
現にこうしてお父様のお部屋だと思われる部屋に寝かされてたわけだし。
ギャァアアア!
私は何てことを!
一人焦っていると、
「………ん」
お父様が小さく声を漏らして寝返りを打った。
気になってそぉっとブランケットの中をのぞくと、
ほっ。ちゃんと服着てる。
つまりそれ以上のことは何もなかったと思っていいのね。
ミケネコお父様は寝返りを打ってこちら側に身を返し窮屈そうに身をよじりながらも起きる気配はない。
こうやって見ると、寝顔も黒猫に似てる―――
長いまつげを伏せて無邪気な少年のようなあどけない寝顔。
唯一違う彼の一部赤茶に染められた髪をそっと撫でると
「紗依――――……」
寝言だろうか、お父様は一言呟き、閉じた目から一粒の涙が零れ落ちた。
サエ―――…
それは黒猫の死んだお母さんの名だ。
P.68
き、聞いてはいけないことを聞いてしまった。
私は慌てて手を引っ込めようとするも
ミケネコお父様は私が髪を撫でていた手をそっと掴んで、涙のたまった目をうっすらと開けた。
「す、すみません…!」
再び手を引っ込めようとすると、
「紗依……」
ミケネコお父様は私を亡くなった奥さんと勘違いしているのか、私の手をぐいと力強く引き寄せ
ぎゅっと私を抱きしめる。
ギャーーー!!
「お、お父様!!私です、朝都です!」
慌てて押し戻すと、
パチッ
お父様が目を開いて、すぐ近くで長いまつげをまばたきさせながら私だと言うことを確認して
慌てて腕を離した。
「あ、朝都ちゃん!」
驚きすぎてか、それとも寝起きだからだろうか声がひっくり返ってる。
「どうして…?」
「そ、それは私が聞きたいですよ……、あの昨日…」
言い辛そうにもじもじと手を合わせると、
「ごめん!」
ミケネコお父様は突然手を合わせて頭を下げた。
P.69
ま、まだ何も言ってませんが…??
ビクリとして思わず目を丸めると
「…昨日のことだろ?
ホントにごめん……酔ってたとは言え僕は君に……」
ミケネコお父様はわずかに寝癖のついた前髪を掻き揚げて、キマヅそうに私から視線を逸らす。
や、やっぱり私…
ミケネコお父様とキスしちゃった……!?
「ごほん…」
ミケネコお父様は咳払いをして
「…信じて欲しいけどはじめてなんだ…その…君みたいな若い子に…」
「いえ…あの……本気なんですか…?」
キスと、最後の言葉―――
“朝都が好きだ”
「本気…?」
ミケネコお父様は首をひねって目をきょとん。
「……本気って聞かれたら…本気なのか…冗談なのか…」
ミケネコお父様は首をかしげて額に手をやる。
本気なのか、冗談なのか…だぁ?
ブチっ
私の中で何かがキレた。
うら若き乙女(?)…失礼、半分おっさんだけど、寄りによって傷心中の小娘を
この人はその気もないのに(いえ、あったら困るんですけど)からかって笑ってたってわけ!?
「冗談にしちゃキツ過ぎます!
私にキスしておきながら、なかったことにしようって言うんですか!」
思わずミケネコお父様に勢い込むと、ミケネコお父様はびっくりしたように目を開いた。
P.70
「……え゛?ちょっと待って…
誰と誰が……キス…?」
ミケネコお父様が探るように目だけをあげてきて、
「誰がって決まってるじゃないですか!
お父様と私がですよ!」
「僕と朝都ちゃんが!?」
ミケネコお父様は素っ頓狂な声をあげて目をパチパチ。
「分かり辛いのなら説明しますよ。
スペルはK・I・S・S。
どうですか!」
私がお父様の鼻の先に指をつきたてると、
「はぁ!?」
と、お父様はまたも素っ頓狂な声。
だけど
「してない!してない!昨日はかなり飲んだけど、記憶はちゃんとある!
朝都ちゃんにべたべた馴れ馴れしく触っちゃったり…」
言いかけてミケネコお父様はずーんと気落ち。
「……ホントにごめん。気持ち悪かったよね…こんなおじさんに…」
いえ、店長はおじさんじゃありません。
むしろおっさんなのは私の方で……
「ライラックの香りが―――
懐かしかったんだ」
ミケネコお父様は前髪を掻き揚げたまま、ぼんやりと遠くを眺めていて
「ホントにごめん……」
小さく謝った。
P.71
―――
ライラックの香りが懐かしいってどうゆう意味だろう。
あの口調からすると黒猫のお母さんが使ってた香りと似てる…てことだよね。
私は香水なんて使ってないからシャンプーの香りとか??
消毒液臭いとか言われなくて良かったっちゃ、良かったケド…
って、気にするところ違うよ!
黒猫のおうちから帰りながら、私は一人で悶々。
ミケネコお父様は送るって言ってくれたけど、さすがに気まずい。
(かなり失礼な勘違いでお父様を責めちゃったし)
それにしてもミケネコお父様とキスしてなくて良かったー…
ん??
てことは、あれは誰が―――……
私を“朝都”と呼ぶのは―――
やっぱり黒猫?
でも
そんなのありえないよ。
黒猫は早朝のバイトですでに家に居なかったし、おかげで私は黒猫と顔を合わせることなくマンションを出られたわけだけど。
てか考えたら私……かなりひどいことしたよね。
だって酔っ払った挙句、
「家に帰りたくない。黒猫に会いたい」
と、ほざいてわがままを言い、親切にお父様がタクシーで自分の家に連れて行ってくれたものの、家についた途端
爆睡とか…
しかもミケネコお父様は自分の寝室を私に貸してくれて、自分はソファのベッドでお休みとか。
ミケネコお父様はセクハラ上司じゃなく、ジェントルでした。
「ごめんなさぃい」
まぶしい朝日を背にひたすら謝りながら、私は自分のアパートまでの道を走った。
P.72
――――
―
くんくん…
私は涼子のつやつやきれいな髪に鼻を近づけて香りをかいだ。
涼子のサラサラ髪、高級な薔薇の香りがする。
髪の香りまで美人って羨ましいっっ!
「……朝都…何やってんの?
あんた風邪ひいてから、またバイオハザードウィルス増殖させた??」
涼子は思い切り不審顔で私から離れる。
「違う違う。髪の香りについて調査中なのです。何のシャンプー使ってるの?」
私が軽く手を挙げると、
「また変な研究?別に普通の市販のシャンプーだよ」
涼子は思い切り顔をしかめて腕組み。
変な研究…って涼子にだけは言われたくないわよ。
私はかくかくしかじか昨日のいきさつを軽~く涼子に話し聞かせた。
「ふ~ん、また意味深ね♪」
涼子はひとごとだと思ってるのかにやりと笑って、またどこからかスチャっとケータイを取り出す。
「なぁに?またツイッター??」
「そうよ♪ライラックの香りのシャンプーについて聞こうよ」
聞いてどーするんだよ。
そう思ったけれど、すぐに涼子のケータイが光り、
「コメきたっ!」
てか早っっ!!
「なになに…
ライラックの花言葉は
想い出―――…」
P.73
―――……
「想い出…かぁ。ミケネコお父様、まだ黒猫のお母さんのこと忘れてないのかな…」
講義の前に、カフェテリアで一杯¥180の薄いコーヒーを注文してセルフカウンターで受け取ると、
「だって離婚とかじゃないでしょ?死別だったら恨み言もないし、
悲しいよね」
涼子もちょっと考えるように顔を伏せて参考書を脇に抱える。
片手でアールグレイティーを受け取りながら、砂糖のパックも手に取った。
「それはそうかもしれないけど…」
でも立ち直って、今は可愛いペルシャ砂糖さんて言う婚約者だって居るわけだし。
新しい命だって―――
「あんたはその亡くなった黒猫くんのお母さんに似てるんじゃない?
だからって言うわけじゃないけど…黒猫くんもあんたをお母さんの面影に重ねてるのかも…」
そう…
なのかなぁ…
いや…いやいやいや。あんな美人のお母様、私とどこが似通ってる。
でも
「って言うことは、黒猫はマザコン??」
涼子を見ると
「男はみんなマザコンよ」
涼子はまたもにやり、と意味深に笑って砂糖をさらさらと紅茶に落とし入れる。
涼子!あんた大人ねー!!
P.74
「まぁ黒猫くんのはマザコンとかじゃないだろうけど。
だってあの子の小さい頃に亡くなってるんでしょ、お母様」
涼子の言葉に私はこくこく、大きく頷いた。
「大体あの子が『ママ~』とか言ってるの想像できない」
いや、私だってそれは想像できないよ。
「そうゆう溝口さんはどーなのよ。男はみんなマザコンだって言うんなら溝口さんだって」
私が口を尖らせると
「やっぱり母親には頭が上がらないみたいよ?
たまに電話掛かってくるけど、もうたじたじ。
最近知ったけど、お義母さま京都の老舗和菓子屋さんの女将だったんだって!
『正月には彼女連れてくさかい』って」
涼子は溝口さんの口真似をして真剣。
知らなかった。きれいな標準語だからこっちの人かと思ってたけど。
「てか涼子……連れてくって、ご両親に紹介!?
うそっ!凄いじゃん!」
それって結婚前提に!ってことじゃん。
「凄くないよ~!!今から緊張だよ!お正月までまだ一ヶ月もあるのに」
涼子は参考書をテーブルに放り投げてテーブルに突っ伏した。
私もミケネコお父様に紹介してもらうときはきんちょーしたしな。
「だってこのままいけば、私が和菓子屋の女将だよ??和菓子は好きだけど……研究の方がもっと好きだし…」
「あんたも院生で残るもんね。ま、深く考えずに挨拶だけしてこれば?
呼ばれるうちが華だよ」
今度は私が人ごとみたいに涼子の肩をぽんぽん。
「まぁ私の方はいいとしてー…あんた、どうするの?お父様の提案通り休職するの?」
涼子がうつろな目を上げてきて、私は首を横に振った。
「戻るつもりもないのに、気だけ持たせちゃ悪いよ」
ちゃんと断るつもりでもう一度お父様に会いに行こう。
「じゃぁ本当に本当に、これでお別れなのね」
涼子が少しだけ悲しそうな顔をして私を見上げて、
「そうするしか―――ないよ」
私はまずいコーヒーを飲み干した。
P.75
それから三日。
私は研究に没頭する毎日を送っていた。
余計なことは考えたくなくて、ひたすらマウス相手に過ごしている。
白髪防止の研究はやめた。
カーネル教授は
「面白そうな研究でしたのに」と少し残念そう。
最初の方は乗り気じゃなかったのに。
まぁカーネル教授も見事は白髪だから気にしてるのかな…とかちょっと思ったけど
「ヴィクトリア(教授の愛猫のペルシャ猫)とお揃いだから♪」
と、飼い猫とラブラブ。
あ、そーですかぁ。
私は飼い猫を手放したばかりだと言うのに、仲がよろしくて結構なことですねー。
私の猫ちゃんは―――
元気だろうか。
飼い主がいなくなって、また野良やってるのかな。
それとも新しい飼い主を見つけたかな。
可愛くて優しくて若い……
カリンちゃんの姿を思い浮かべて私は頭を振った。
余計なこと考えたくないのに、考えるのはいつも黒猫のこと。
こんなんじゃいつまで経っても立ち直れないよ。
それとも時間が解決してくれるのかな。
開け放った窓から風が吹いてきて、私の髪をふわりとなびかせた。
香ってきたのは
ライラックの香り。
私と黒猫の記憶も
想い出として……またいつかゆっくり向き合える日まで封印されるのだろうか。
P.76<→次へ>
冬の夜
キミへの気持ちを窓に託しました
たった一言が言えない私は臆病者ですか?
でも今はこれが精一杯
雪に想いを
『次はお天気コーナーです。今日から明日にかけて低気圧が日本の南を発達しながら東北東に進み、明日には日本の東に進む見込みです。
関東甲信地方では今夜から雨が次第に雪に変わり、あす午前中にかけて山沿いを中心に、平野部でも積雪となる所がある見込みです。雪による交通障害、架線や電線、樹木等への着雪、路面の凍結に注意してください』
今朝のワイドショーのお天気キャスターの言葉を思い出したのは、勤めている会社の定時を迎え業務を終えたときだった。
「えー!やだっ!雪降ってるじゃん」と誰からともなく声が挙がり
「ホントだー、私傘持ってきてない」
「どうりで冷えると思った」
と同僚たちが次々と口にする。
またも誰かが「せっかく彼氏に買って貰ったバッグが濡れちゃう」と言い出し、それでもちっとも困った様子ではなく、どこか誇らし気だ。
そしてその周りの女子たちが盛んに羨ましがる。
「いいなー、でもあたし今度のクリスマスにダイヤの指輪ねだっちゃうんだー」と一人の女の子。
「いいなー!」黄色い声に、私は苦笑いを浮かべるしかない。ここでの男の年収と、女の品格は反比例する。いかにいい服を着るか、いかにいいバッグを持つか、いかにいい男を彼氏にするか、年中こんな会話でうんざりする。
かと言って輪に加わらないわけにはいかない。仕事とプライベートの内容こそ比例するのだ。
P.1
「仁科《にしな》さんはいつも素敵な服着てますよね」ふいに一人から話題を振られた。
「えっ、そう?」私は曖昧に笑って言葉を濁した。今日の服装は白いタイトワンピ。腰回りに太いベルトが巻き付いていて、ちょっと豪華に見えるゴールドのバックルがワンポイント。
そして同じくゴールド系のスパンコールが襟元に入ったコートを腕にかけて帰りたいアピール。
シンプルな服装だったけど、流石は目が肥えている女子たち。すぐにそれが高価なものだと見破った。女のチェック程厳しいものはない。私がオシャレをするのは対、男ではなく、彼女たちの為。
「仁科さんてぇ、結婚しないんですかぁ」間延びした話し方が赦されるのはこの年代の特権だ。
「結婚ね……相手がいないから」私は適当にごまかして再び言葉を濁した。
こう言っておけば大抵の女は引き下がる。私が長い間、人付き合いをしてきて、これが最良の方法だと知ったのはつい最近のこと。
私がこの会社に勤めはじめて五年になる。この会社での女性正社員では長いほうだ。後から派遣された若い女の子たちから見れば私なんてお局のようだった。
「そう言えばぁ仁科さん、この前見ちゃったんですぅ」一人の女の子が思わせぶりに口元へ手をやった。
短く切った髪にはパーマがあててあり、傍から見ればマシュマロのように可愛らしい女の子だ。
だが、そんな可愛らしさに惑わされてはいけない。女はいつでも顔の下にしたたかな一面を隠しているのだから。
P.2
「何を?」私は平静を装って取り澄ました。
もしかして“アイツ”と居る所を見られた?と思ってドキリとしたが
「この前の金曜日、青山のイタリアンレストランで、経理の前田さんと一緒にいるところぉ」
ああ、そっちか。とちょっとほっと安堵する。
「ええー!!」周りから黄色い声が飛ぶ。私は思わず頭を押さえたくなった。
そう、確かに経理の前田に誘われて先週の金曜に青山まで行った。
でも食事をしただけで、別に艶かしい関係ではない。だが、ここで重要なのが、経理の前田という男、この会社ではなかなかのハンサムでしかも独身、きさくな性格をしているわりには頼れる上司でもあるのだ。そうゆう男を若い女性社員が放っておくわけがない。
「いいなー、ねえお二人って付き合ってるんですか?」
食事をするイコール男女の関係と、どうして若い子たちはそう短絡的なのだろう。私はこの場から逃げ出したくなった。だけど、この場から立ち去ると認めたことになってしまう。
「別に、ただお食事に誘われただけよ」
「うそー、絶対前田さん仁科さんのこと狙ってるわよぅ。だって、あたしたちがいくら誘っても全然だったのよー。それなのに前田さんは仁科さんのこと」
嫉妬心と羨望の眼差しで見られ、私は思わず後ずさり。
何とか前田との話を切り返し、従業員出入り口から女子の群れに混ざって出てきた所だった。
遠くで派手なエンジン音が聞こえてきて、この狭い路地裏へと近づいてきた。この聞き慣れたエンジン音。私は嫌な予感がして思わず一方通行の標識を見つめた。
「よーう、仁科」黒のポルシェの窓から腕を出し、銜えタバコをしながら九条《くじょう》が手を振っている。
「やっぱり」
私は、今度こそ頭痛をこらえるように頭をしっかりと押さえた。
P.3
「仁科、今終わりか?これから飯でも食わねー?」
この状況を知らずに能天気に笑ってるその整った横っ面に今すぐ張り手を食らわせたい。
「あ、あんたいつ東京に戻ってきたわけ?」私は女の子の群れから一人離れると、九条の車に近づいた。
「あー、悪い。三日ぐらい前かな?この前言ってた日本料理屋行こうぜ」
「あんたっていつも何で急なのよ」
私が声を潜めて九条を睨んでいるときだった。
「えー、仁科さんの彼氏さんですかぁ?かっこいい!」
女の子たちの視線が九条に移った。予想していなかった最悪の事態。
上半身しか見えなかったが、今日の九条は黒いジャケットの中に白いカットソーを着ていて、真冬だって言うのに襟ぐりに濃いサングラスをかけている。いつものように髪をラフにセットしてあって、左耳には輪っかのようなピアスが三つ光っていた。
そう
どこからどーみてもこいつは
ホスト。
P.4
「仁科、今終わりか?これから飯でも食わねー?」
この状況を知らずに能天気に笑ってるその整った横っ面に今すぐ張り手を食らわせたい。
「あ、あんたいつ東京に戻ってきたわけ?」私は女の子の群れから一人離れると、九条の車に近づいた。
「あー、悪い。三日ぐらい前かな?この前言ってた日本料理屋行こうぜ」
「あんたっていつも何で急なのよ」
私が声を潜めて九条を睨んでいるときだった。
「えー、仁科さんの彼氏さんですかぁ?かっこいい!」
女の子たちの視線が九条に移った。予想していなかった最悪の事態。
上半身しか見えなかったが、今日の九条は黒いジャケットの中に白いカットソーを着ていて、真冬だって言うのに襟ぐりに濃いサングラスをかけている。いつものように髪をラフにセットしてあって、左耳には輪っかのようなピアスが三つ光っていた。
そう
どこからどーみてもこいつは
ホスト。
P.4
でも勘違いしてもらっては困る。私はこいつの客じゃない。東京を離れていたのも、大方客の一人と遠征旅行でもしていたのだろう。
「違っ!こいつとは単なる腐れ縁。彼氏とかじゃないから」
と慌てて否定するも秒の単位で噂が回るこの会社で明日の朝には『仁科さんて、ホストに貢いでるらしいよ』とあちこちで言われるに違いない。
くらり、と眩暈が起きた。
腐れ縁、と言うのは間違いない。中学からの同級生だから。
「じゃあ、本命は前田さんですかぁ?」女の子達が興味津々で目を輝かせている。
「前田??ひどいなー、仁科ぁ。俺たち何度もセック……もがっ」
最後の方が言葉にならなかったのは私の手が九条の口を塞いだから。
ふざけんな!何言い出すんだこいつぁ!!
空気読めっつうの!
と言うことを目で訴えると、流石に冗談が過ぎたと思ったのか九条は苦笑い。
「で?行くの?行かないの?」せっかちに聞かれて
「わかったわよ!行くわよ」半ば怒鳴るように九条を睨みつけると、私はそそくさと助手席に回った。
「それじゃ、私はこれで。お先に」女の子たちにはなるべく平静を装って、にこやかに手を振る。
ため息をついて車の助手席を開けると、運転席から九条が笑顔で手を差し伸べてきた。
「ただいま、仁科」
昔とちっとも変わらない笑顔。眉が下がり、目を細める、優しい笑顔。そして時々その低い声で呼ばれる、自分の名前。何だかくすぐったいが、この笑顔を向けられたら、たとえ九条の勝手に振り回されても、赦せてしまう。
「……おかえりなさい」私は俯くと、小さく返事を返した。
P.5
前述した通り私と九条とは中学からの付き合いだ。かれこれ十年以上の付き合いになる。十年、と言う歳月は長く感じられるけれど、その間に音信不通になったり、そしてどこからか連絡先を入手して電話を寄越して来たり、をだらだらと繰り返している。
でも、私たちははっきりと『付き合って』はいない。もちろん九条のブラックジョークの『体の関係』もない。
あるのは中学生から変わらないノリと
私が九条のこと「好き」
と言うことだけ。歳を重ねて、九条がホストになって……あ、今はホストじゃなくホスト店を経営してるオーナー様でもあったかしら。とにかく環境は変わったものの、不変的な何かは確実に存在している。
パワーウィンドウの外をちらほらと雪が降っていた。
「北海道行ってきたんだ~土産に蟹買ってきてやったぞ」と九条は運転しながらどこか楽しそう。
「北海道……ここより雪が多そうね」ぼんやりと呟きながら、九条に気づかれない程度にこっそりと、外気との差で曇った窓ガラスに、人差し指で
『好き』
と書く。
私の書いた文字は私の体で隠れて九条からは見えない。
「蟹すきしようぜ~、お前んちで」
「何であんたを一々上げないといけない?」
言い合いをしながら、やがて私のマンションに着く頃にはみぞれになった大粒の白いものが私の『好き』をかき消す。
「だってお前んち床暖あるじゃん?」
「そんな理由かよ」
中学生から変わってないこの関係とノリ。
今はまだ―――
この関係でいいや。
~FIN~
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