Chat Noir -黒猫と私- Deux(2nd)
Cat №32 黒猫と新しい路
『黒猫と新しい路』
景色は、色を変え
確実に時が流れていることを実感させられる。
黒猫のことを思い出して、悲しくならなくなる日がいつか来るのだろうか。
木々が紅葉から雪を積もらせた雪景色に変り、やがては桜が咲くころ…?
それを一体何度繰り返すのだろう。
P.99
黒猫と別れて一週間過ぎ、二週間過ぎ…
ほんのり色づいていた銀杏の木は鮮やかな黄金色を纏い、見事な紅葉を見せていた。
毎日研究に明け暮れながら、一向に結果がでないマウスを相手に
研究室の窓から眺める景色だけは…
二週間の間で変わり、木々は青々した緑色から黄色や茶色、赤色に色を変えていて
確実に時が流れていることを実感させられた。
たったの二週間なのに、“もう”二週間だ。
私は研究に没頭し、時々涼子が研究室で栽培した枝豆やらイチゴを持ってきてくれて
後輩くんは相変わらず妖しい研究を続けているし、溝口さんも変わりない。
黒猫が居ない日常は、淡々と過ぎ
だけどその間、何度も黒猫から電話があった。
その度に心臓がよじれるかと思うぐらい心が締め付けられた。
私はその電話を無視して音が消えてなくなるのをやり過ごし、
それでもしつこいぐらい掛かってきたのにここ三日ほどは諦めたのか静かになった。
最後の着信に、留守番メッセージが録音されていて
『朝都、ちゃんと話そうよ。
俺諦められない。
俺は朝都のことが好きだよ』
P.100
このメッセージを聞いたときに、胸が締め付けられる想いをした。
胃痛にも似た鈍い痛みが心臓を襲い、ぎゅっと苦しくなって息苦しくなる。
一方的に別れを告げた私を攻めるようなことはなく、黒猫はまだこんな私のことを好きで居てくれる。
「私も好きだよ」
何度もその一言を告げたくて衝動的に電話を掛けようとしたけれど、結局最後の最後になって通話ボタンを押す指は躊躇した。
大学の研究棟の裏に位置している広い庭のベンチに腰掛け、私は開いたケータイをじっと見つめていた。
ザワッ
風が大きく吹いて、目の前を黄金色の葉が舞う。
黒猫からのメッセージは何度も何度も聞いて、削除はしなかった。
正しくは“削除できなかった”だ。
黒猫の声を聞いては涙を流して、何度も何度も黒猫に電話を掛けそうになった。
『涙は枯れる』って言うけど、いつになったら
黒猫のことを思い出して、黒猫の声を聞いて悲しくならなくなる日が来るんだろう。
木々が紅葉から雪を積もらせた雪景色に変り、やがては桜が咲くころ…?
それを一体何度繰り返すのだろう。
何度―――……
ふわり
突如風に乗って、覚えのある香りが香ってきて、
「よ」
背後から聞きなれた声に呼ばれた。
P.101
ふわり…
白衣の裾を風でなびかせて、気まづそうに立っていたのは
浩一だった。
「よ、よぉ…!」
私は慌てて手を挙げた。
あの雨の日以来…浩一と二人きりで話すのはこれがはじめて。
そいや白衣返してないし……一瞬、その催促かと思ったけれど
「紅葉、ピークだな」
浩一はぶっきらぼうに言って私の隣に腰掛けてきた。
浩一の愛用している香水と、セブンスターの香りが一層近づいて
何故だか胸が鳴る。
あの雨の日を思い出す。
『雨があがったら、理由なくここに居られないから―――
朝都と一緒に居られないから。
雨があがるまででいい。
あのネコじゃなくて、俺だけのこと
考えて?』
雨はあがった。
今日はすっきりとした秋晴れだ。
「涼子から聞いた…」
浩一が切り出し、ドキリと心臓がねじられる。
黒猫と別れたことをもう知ったのか、と思うと…浩一がどんな行動に出るか何となく想像できたから。
だけど浩一の言葉は私の想像したものとはちょっと違った。
「風邪ひいてたんだって?大丈夫かよ」
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「ああ……風邪??
うん!風邪ね、もう大丈夫!」
正直拍子抜けした。変な顔になって慌てて答えると
「どうした、お前。まだ具合悪いの?」と浩一は疑り深い目で私をじとっと見てくる。
「大丈夫だよ。ナース涼子が看病してくれたおかげでもうすっかり元気」
私は慌ててケータイを白衣のポケットにしまいこむと両手でガッツポーズ。
「ナース涼子…って響きがエロ…」
浩一がちょっと含みのある笑いをして私は目を丸めた。
「え、エロとなっ!!」
「ふははっ!」
浩一は声をあげて笑い、
「久しぶりに聞いたかも、お前のその言葉」
わずかに前のめりになりながらもまだ笑ってる。
「何よ」
「お前の口癖みたいなの?びっくりしたとき『とな!』って言うの。
何だそれ、って最初思ったけどすっげぇ面白くなってさー」
浩一は私が失友する以前の笑顔で無邪気に笑う。
「何よ」
私はもう一度呟いてちょっと口を尖らせながら浩一を睨んだ。
「涼子はエロくないもん。美人さんなんですぅー。友達をそんな目で見るとか浩一サイテー」
い゛ーと歯を剥き出して威嚇していると
「そうだよなぁ。俺ら友達だもんな」
浩一は遠くの方を見てうっすらと口元に笑みを浮かべていた。
ザザっ
風がまたも強く吹き、私たちの目の前を色鮮やかな秋の葉が舞った。
私たちの間に流れていた時間が物語っていたように、青春の青い香りを漂わせていた三人での日々がいつの間にか、劣化して枯れてしまったように
思えた。
P.103
「勘違いするなよ。嫌味で言ったわけじゃないんだ。
たださー、最近思うんだよね。
またいつか三人でバカみたいな話で盛り上がったり、くだらないことで笑い合ったり
小さなことを張り合ったりとか
できないかな、とかね」
浩一の言葉に私はゆっくりと顔を上げた。
「このままギクシャクしたまま卒業とか嫌じゃん?
最後は笑っていたいよ。
特にお前は―――就職組だし、そしたらもう本当にこの大学で過ごした想い出がそこで途切れちまうって言うか」
「……そうだね」
私は膝の上でぎゅっと手を握った。
でも
「じゃぁ戻ろう」って言って簡単に戻れるならとっくにそうしてたよ。
一度壊れちゃったものは、完全には元通りにならない。
そんなことを考えていると
「あー、もぉ!!」
突如浩一が声をあげて頭を抱え、腰を折った。
ぎょっとして隣を振り向くと
「これだからイヤだったんだよ!
俺がお前に気持ち伝えたら、確実に俺たちの関係が変わるって分かってたから!
壊したのは自分なのに、元に戻りたいとか…自分勝手にもほどがある。
ガキみたいな自分がイヤになる」
浩一は頭を抱えて一気に喚き、
「こ、浩一…」
私は掛けるべき言葉が思い浮かばなかった。
いつもなら気軽に触れていた浩一の肩に手を置けず、変な風に宙ぶらりんにしていると
「でも俺、
後悔はしてないから」
浩一は手で顔を覆ったまま、くぐもった声で呟いた。
P.104
「告わなくて後悔するよりさ、告って後悔した方がやっぱいいじゃん?
やれることだけやって、でもダメだったらそれもありかなーとか…
結果や成果が全ての研究と違って、人の気持ちには完全な何かは存在しないんだ。
だからやるだけのことをやって、その上の後悔なら俺はいいと思う。
って…そう思ってるのは俺だけで押し付けられた朝都にしちゃ良い迷惑だよなー…」
最後は自信無げに言って浩一は小さくため息。
「そんなことないよ」
気休めじゃなく本気で言うと浩一はほっとしたように頬を緩めた。
「今度さ…飲みに行こうぜ。また三人で」
そう言って握った拳を軽くかざし、私もそれにならった。
空中で握った拳がこつんと合わさり、ふと昔に戻れた気がした。
でもそれは戻れたんじゃなくて、新たなる出発。
私たちの友情は一度壊れちゃったけれど
でもまた新しく関係を…絆を―――築き上げようとしている。
前を向こう。
いつまでもくよくよしていられない。
いつまでも思い出に縋っちゃダメだ。
時間を掛けて浩一が自分の行いと向き合ったように、受け入れ、そして新たな気持ちで現実を受け止めようとしたように
私も
がんばらないと。
P.105
―――
「とりあえずは新しいバイトよね」
例のごとく私はカフェテリアでコンビニで買った求人雑誌を開いて、A4版にぎっしり詰まった情報を目で追った。
「バイトって言ったってあと数ヶ月じゃん?貯金だってあるでしょ?」
涼子はのんびり言って紅茶を飲んでいる。
私もコーヒーを飲みたかったけれど節約のため、無料の水。
結局水じゃ味気なかったから研究室に移動することに。
インスタントだけど、ただでコーヒー飲めるし。
その移動の最中
「そりゃちょっとは貯金あるけど、家庭教師のバイトも辞めちゃったし…その数ヶ月で何が起こるか分かんないじゃん」
「オレオレ詐欺に引っかからない限り大丈夫よ。
あんた現実じみてるし~、疑い深いから」
…随分な言われようだな。
でも
黒猫のフリして電話が掛かってきたら、きっと私
慌てちゃう。
冷静に考えればきっと黒猫の声だって聞き分けられるだろうけど、
今は黒猫の皮を被った白ネコが現れても信じちゃうかもしれない。
恋は盲目―――って言葉があるけれど、別れてはじめてその言葉を実感するあたり
それほど夢中になっていた自分に
嫌気がさす。
ううん、嫌気がさすのは自分の恋心じゃなく
それを手放したバカな自分自身だ。
P.106
研究室に行く前に私は涼子を連れて構内のATMに寄り道。
大手銀行の通帳を差し入れて残高を確認すると…
んん??
私は通帳のページを開いて思わず目をこすった。
「どうした?覚えのないところから引き落としされてた?」
涼子が心配そうに覗き込んでくる。
「ううん、その逆。
振込みされてる。それもありえない高額」
振込先は
ザイツ タクミ
財津 巧美って……ミケネコお父様!!
私は慌ててお父様に電話。幸いにも出勤前ですぐに繋がった。
もう二度と連絡すまいと思っていたのに、早速話してるし。
「どうゆうことです!私、退職扱いになったはずじゃ」
卒業までの四か月分がきっちり入金されていて、私は思わず勢い込んだ。
『退職扱いだよ。それは、ほらっ口止め料…??慰謝料、どっちがいい?』
お父様は電話の向こうでにゃははと明るく笑う。
「口止め料に慰謝料…!?って、変な言い回しやめてください。
私たち何もなかったじゃないですか」
思わず白い目で通帳を眺めると
『気持ちの問題だよ。お金でお礼ってのもいやらしいけど
僕は君に救われた―――
だからそれは感謝代だ。
受け取っておいて』
「いえ……!そうゆうわけには…」
言いかけると
『あ!キャッチ入っちゃった!ごめんね~』
そう言われて通話は一方的に切れた。
プツ…ツーツー…
虚しい電子音を聞いて、
「どうすりゃいいの、これ」
私は通帳を握ったまま思わず涼子を見た。
P.107
研究室に行く予定だったけど、結局またもカフェテリアに逆戻り。
またも水でおなかを満たそうとしていた私を見かねて、涼子がコーヒーを奢ってくれた。
「て言うか口止め料に慰謝料なんて…随分危険な言葉だわね♪
あのおとーさまとナニかあったの?」
涼子が私の通帳を眺めながら興味津々ににやりと笑う。
「何もない………ちょっと、ハグしただけ…」
それも一瞬。
「ハグでこの金額!じゃぁもっと触らせたらもっと貰えたわけ??」
「そんなんじゃないから!」
私は涼子から通帳を奪うと、
「そんな…ミケネコお父様にそんなやましい気持ちがあったわけじゃないよ。
私たちはそんな関係じゃない」
涼子の奢ってくれたコーヒーを一口。
「まぁね~、わざわざ援交してまで女の子に手を出すタイプじゃないわねー。
むしろお金払いたいって女子の方が多いんじゃない?」
大真面目に言われて私は思わず笑った。
まぁ顔だけなら…確かにイケメンだとは思うけど…中身がねーチャラいからね~
「スーツ着せたらホストでもいけるよ」
「なにそれ…」
すっごい似合いそうなんだけど!!
「…で、どーだった?」
またも大真面目に聞かれて、私は目をきょとん。
「どうって…?」
「お父様よ。あんたしたんでしょ?」
「してないしてない!大体ペルシャ砂糖さんだって居るのに!」
一瞬そうなってもいいかな…と思ったけれど、アルコールも入ってたし、それはほんの一瞬の気の迷い。
若気の至りだ。
「だってお父様スタイル良いし~なまじ歳を重ねてるだけに大人の色気??みたいなものもあるし~♪
経験も豊富そうだし?
高校生なんかより満足させてくれるよ」
ま、満足!とな……
「ま、まぁ体は良いと思う…」
抱きしめられたときちょっと触れた。華奢だけどきれいな筋肉がついてて……
「何だ、やっぱしたんじゃん♪」
「だからしてないって!」
ああ、私のバイオハザードウィルス……とうとう私の体からにじみ出て涼子にまで浸透しちゃったみたい。
P.108
「まぁさー、事情は分かったし、そのお金はありがたく受け取っておきなよ」
涼子はミルクティーに口を付けてうっすらと微笑む。
「お父様がそうしたいって言うならそれに甘んじるべきよ。
ここでつき返すのも逆にプライドを傷つけちゃったりするでしょ?」
プライド…かぁ。
「それにお父様のその慰謝料ってのは自分の行為に、とかじゃなく
黒猫くんのことも一緒に謝ってるんじゃない?」
そう言われて私は目をまばたいた。
「お父様があんたのこと可愛がってたのは目に見えて分かったよ。
でも女とかじゃなく、娘みたいに―――
だから息子と別れたせいで朝都に苦労させたくなかったんじゃないの?」
そう言われて私は改めてぎゅっと通帳を握った。
そんな私に涼子が元気付けるように
「暗い話はやめ、やめ!
これで卒業までの生活は困らないし、あんたは就職だって決まってる。
朝都に足りないもの、それは
オトコ!」
ズバリ!言い切られて私は目を丸めた。
何でそーなる。
「今度の土曜日合コンあるの♪溝口さん主催で製薬会社の若きホープたちを集めてくれるって☆
何と!全員年収700万!!
あんたも参加しなよ」
「は?いかないし。
てか涼子だって溝口さんがいるじゃん」
「私は主催者側よ?研究室の友達に頼まれて開くわけだけど、一人女の子足りなかったしちょうど良かった♪」
ちょうど良いって、全然良くない!
「私パス。合コンとか好きじゃない」
第一気分じゃない。黒猫と別れたからってすぐに新しい彼氏を見つける気なんてなれない。
P.109
――――
――
合コンなんて行く気さらさらないし。てかその前にこのお金…ホントにどうしよう…
と考えているうちにあっという間に土曜日になってしまった。
バイトも辞めたし、大学も休み。
急に暇になって何をやっていいのか分からず、私は朝から家でごろごろ。
くだらないバラエティー番組を見てたけど、あまりのつまらなさに冷蔵庫を開けて余り物を料理することに決めた。
何かやってれば気が紛れる。
「あ、お母さんが送ってくれたひじきと切干大根…そろそろ期限切れるや。
早く料理しないとね」
なんて言いながらキッチンを漁り、その小一時間後には
ひじきの煮物(涼子が栽培してくれた枝豆入り)と切干大根の味噌汁、焼き鮭、そして豆腐のハンバーグが出来上がった。
全部賞味期限ギリギリだったけど。
ふぅ危ない危ない。危うくゴミ箱行きになるところだったよ。
お昼からちょっと豪華か?ま、いいか気軽な独り暮らしの休日だし~
テーブルに並べて一人、
「いただきます」
誰に言うわけでもなく手を合わせた。
なんかヤダな…
この生活、二十年後も変わってなさそう。
つまりは、せっかくの休日だと言うのに出かける予定もなければ、趣味と言えば家の残り物を片付けるだけ。
一人の寂しい食事。
………
ちょっと想像して、私はご飯を喉に詰まらせた。
やだ、やだ!何で私こんなこと考えるのよ。
慌てて頭を振るも、前はこんなこと考えもしなかったのに…
寂しいなんて、あんまり感覚が分からなかったのに。
誰かが近くに居てくれて、その温かみを知っちゃったから―――
何気ない日常すら―――黒猫の温かみを思い出す。
P.110
もし今黒猫が私の向かい側に居てくれたら、
「うまそう!」とか言ってくれたかな。
ふと考えがよぎり、私は目を伏せた。
またバイオハザードウィルスか…
そのウィルスは部屋中に分散し、空気中に感染して私をいつだって苦しめる。
独りでする食事は味気なかった。
慣れてるはずなのに―――どこか虚しく感じて、私の箸は早々に止まった。
結局、たくさん作りすぎたってのもあるけどそのほとんどが残り、
「涼子なら食べてくれるかなー…」
と、またも涼子に差し入れを考え、タッパーにおかずをつめる。
まだ
一人で居たくない。
いつになったらこの言い様のない寂しさは埋まるのだろうか。
新しい恋をしたら?
仕事をはじめたら?
それでも私は生涯忘れないだろう。
あの太陽のような香りをまとって、無邪気に笑う少年を―――
自分で手放したのに、失ったものの代償はあまりに大きかった。
カタン…
菜箸を置いて、私はそのタッパーをじっと見つめていた。
どれぐらいそうしていただろう。
TRRRR…
タイミング良く良子から電話が掛かってきた。
『大変なの!今すぐうちに来てっ!』
そう言われて、いつも以上に緊張を帯びた涼子の言葉にびっくり。
涼子のSOSだっ!!
涼子が困ってる!
理由は深く聞かなかったけれど、私はタッパーを慌てて紙袋に詰め、アパートを飛び出した。
P.111
涼子のおうちに来たのは実はこれが三回目。
いっつも私のアパートに涼子が来てくれるから、ってのあるけれど涼子は実家暮らしだからなかなか騒げないってのもあるしね。
「朝都……」
立派な三階建てのおうちの、これまた立派な玄関から涼子が顔をひょっこり出し、
「涼子!どうしたの!!何があった!
食料なら持って来たから安心してっ!」
これで飢え死にしないわよ!
思わず勢い込むと、
「大したことじゃないの。実はー…」
涼子は言い辛そうに苦笑いで玄関から姿を現し、その姿を見て私は目を見開いた。
黒い喪服のワンピース。首にはパールのネックレス。
涼子……
「ごめん…私、お身内の方にご不幸があったなんて知らずに…
まさか溝口さんが……」
ああ溝口さん、失礼な発言ばかりで正直腹が立ったことも多かったけど、死んじゃったらそんなの無効よね。
……ごめんなさい。
何て声を掛けていいのか分からず口元に手をやっていると、涼子はカラカラ。
「あー、違う違う…溝口さんちゃんと生きてるわよ!って言うか違わないか。親類の法事だったことすっかり忘れててね」
法事……?
「あの…それがどーして私を呼ぶことになったの?」
とりあえず涼子の近しい人が亡くなったわけじゃなくほっとしたけど、じゃぁあの切羽詰まった電話は何だったんだ、って今更になって思えてくる。
「今日、溝口さんの合コンだったでしょ~?覚えてる?」
………
そんなこと言ってたような言ってなかったような…
正直全然興味なかったし、記憶から抜け落ちていた。
「私は法事を忘れてて、合コン参加できないし、かと言って急過ぎるから中止にもできないし」
「で?」
私はお弁当が入った紙袋を抱きしめてせっかちに聞いた。
大体言いたいことは分かるけどね。
P.112
―――
数回入っただけの涼子のお部屋は“The 女の子のお部屋”って感じで相変わらずかわいらしかった。
白い壁紙に家具、ピンクの花柄のカーテン。薔薇の香りまで漂ってくるし。
「お願い!溝口さんを見張ってて!絶対女の子に目を付けられるから」
大体想像はついたけどね。
「溝口さんを信じたら?彼なら大丈夫よ。涼子にぞっこんて感じだし」
「そうは言っても心配なのよ!あんただって分かるでしょ?」
鬼気迫った感じで詰め寄られ、私が逃げ腰。
分かるけどぉ。私だって黒猫にその気がなくても黒猫の周りに可愛い女の子とか居たらやっぱり気にするし。
「で、でも……だ…大体、私何の考えもなかったからこんな服だし。慌ててきたから化粧もしてないし」
私はスキニージーンズとパーカーを指差し。服のことを言い訳に逃げたかったけれど。
「私の服貸してあげる♪好きなの着ていいよ。この連休私田舎に泊まりだからしばらく帰ってこないし」
ぇえ~!
こんな展開になるなんて誰が予想できた??
―――――
……
「これなんかどぉ?」
クローゼットから取り出したのはシックな色とやわらかなシフォンがインパクトのある黒白茶色の大胆な柄も上品に見せているワンピース。
「でもこれノースリーブだよ」
それにこんな派手なの私に着こなせるはずがない。
「じゃぁこのジャケットで抑えればバッチリ」
そう言って取り出したのはアイボリー色のかっちりジャケット。
涼子は私を着せ替え人形に見立てて楽しそうだけど、私には迷惑。
けど文句を言う前に着替えを急かされ、何だかんだで涼子に甘い私は出された服に着替えることに。
P.113<→次へ>
冬の夜
キミへの気持ちを窓に託しました
たった一言が言えない私は臆病者ですか?
でも今はこれが精一杯
雪に想いを
『次はお天気コーナーです。今日から明日にかけて低気圧が日本の南を発達しながら東北東に進み、明日には日本の東に進む見込みです。
関東甲信地方では今夜から雨が次第に雪に変わり、あす午前中にかけて山沿いを中心に、平野部でも積雪となる所がある見込みです。雪による交通障害、架線や電線、樹木等への着雪、路面の凍結に注意してください』
今朝のワイドショーのお天気キャスターの言葉を思い出したのは、勤めている会社の定時を迎え業務を終えたときだった。
「えー!やだっ!雪降ってるじゃん」と誰からともなく声が挙がり
「ホントだー、私傘持ってきてない」
「どうりで冷えると思った」
と同僚たちが次々と口にする。
またも誰かが「せっかく彼氏に買って貰ったバッグが濡れちゃう」と言い出し、それでもちっとも困った様子ではなく、どこか誇らし気だ。
そしてその周りの女子たちが盛んに羨ましがる。
「いいなー、でもあたし今度のクリスマスにダイヤの指輪ねだっちゃうんだー」と一人の女の子。
「いいなー!」黄色い声に、私は苦笑いを浮かべるしかない。ここでの男の年収と、女の品格は反比例する。いかにいい服を着るか、いかにいいバッグを持つか、いかにいい男を彼氏にするか、年中こんな会話でうんざりする。
かと言って輪に加わらないわけにはいかない。仕事とプライベートの内容こそ比例するのだ。
P.1
「仁科《にしな》さんはいつも素敵な服着てますよね」ふいに一人から話題を振られた。
「えっ、そう?」私は曖昧に笑って言葉を濁した。今日の服装は白いタイトワンピ。腰回りに太いベルトが巻き付いていて、ちょっと豪華に見えるゴールドのバックルがワンポイント。
そして同じくゴールド系のスパンコールが襟元に入ったコートを腕にかけて帰りたいアピール。
シンプルな服装だったけど、流石は目が肥えている女子たち。すぐにそれが高価なものだと見破った。女のチェック程厳しいものはない。私がオシャレをするのは対、男ではなく、彼女たちの為。
「仁科さんてぇ、結婚しないんですかぁ」間延びした話し方が赦されるのはこの年代の特権だ。
「結婚ね……相手がいないから」私は適当にごまかして再び言葉を濁した。
こう言っておけば大抵の女は引き下がる。私が長い間、人付き合いをしてきて、これが最良の方法だと知ったのはつい最近のこと。
私がこの会社に勤めはじめて五年になる。この会社での女性正社員では長いほうだ。後から派遣された若い女の子たちから見れば私なんてお局のようだった。
「そう言えばぁ仁科さん、この前見ちゃったんですぅ」一人の女の子が思わせぶりに口元へ手をやった。
短く切った髪にはパーマがあててあり、傍から見ればマシュマロのように可愛らしい女の子だ。
だが、そんな可愛らしさに惑わされてはいけない。女はいつでも顔の下にしたたかな一面を隠しているのだから。
P.2
「何を?」私は平静を装って取り澄ました。
もしかして“アイツ”と居る所を見られた?と思ってドキリとしたが
「この前の金曜日、青山のイタリアンレストランで、経理の前田さんと一緒にいるところぉ」
ああ、そっちか。とちょっとほっと安堵する。
「ええー!!」周りから黄色い声が飛ぶ。私は思わず頭を押さえたくなった。
そう、確かに経理の前田に誘われて先週の金曜に青山まで行った。
でも食事をしただけで、別に艶かしい関係ではない。だが、ここで重要なのが、経理の前田という男、この会社ではなかなかのハンサムでしかも独身、きさくな性格をしているわりには頼れる上司でもあるのだ。そうゆう男を若い女性社員が放っておくわけがない。
「いいなー、ねえお二人って付き合ってるんですか?」
食事をするイコール男女の関係と、どうして若い子たちはそう短絡的なのだろう。私はこの場から逃げ出したくなった。だけど、この場から立ち去ると認めたことになってしまう。
「別に、ただお食事に誘われただけよ」
「うそー、絶対前田さん仁科さんのこと狙ってるわよぅ。だって、あたしたちがいくら誘っても全然だったのよー。それなのに前田さんは仁科さんのこと」
嫉妬心と羨望の眼差しで見られ、私は思わず後ずさり。
何とか前田との話を切り返し、従業員出入り口から女子の群れに混ざって出てきた所だった。
遠くで派手なエンジン音が聞こえてきて、この狭い路地裏へと近づいてきた。この聞き慣れたエンジン音。私は嫌な予感がして思わず一方通行の標識を見つめた。
「よーう、仁科」黒のポルシェの窓から腕を出し、銜えタバコをしながら九条《くじょう》が手を振っている。
「やっぱり」
私は、今度こそ頭痛をこらえるように頭をしっかりと押さえた。
P.3
「仁科、今終わりか?これから飯でも食わねー?」
この状況を知らずに能天気に笑ってるその整った横っ面に今すぐ張り手を食らわせたい。
「あ、あんたいつ東京に戻ってきたわけ?」私は女の子の群れから一人離れると、九条の車に近づいた。
「あー、悪い。三日ぐらい前かな?この前言ってた日本料理屋行こうぜ」
「あんたっていつも何で急なのよ」
私が声を潜めて九条を睨んでいるときだった。
「えー、仁科さんの彼氏さんですかぁ?かっこいい!」
女の子たちの視線が九条に移った。予想していなかった最悪の事態。
上半身しか見えなかったが、今日の九条は黒いジャケットの中に白いカットソーを着ていて、真冬だって言うのに襟ぐりに濃いサングラスをかけている。いつものように髪をラフにセットしてあって、左耳には輪っかのようなピアスが三つ光っていた。
そう
どこからどーみてもこいつは
ホスト。
P.4
「仁科、今終わりか?これから飯でも食わねー?」
この状況を知らずに能天気に笑ってるその整った横っ面に今すぐ張り手を食らわせたい。
「あ、あんたいつ東京に戻ってきたわけ?」私は女の子の群れから一人離れると、九条の車に近づいた。
「あー、悪い。三日ぐらい前かな?この前言ってた日本料理屋行こうぜ」
「あんたっていつも何で急なのよ」
私が声を潜めて九条を睨んでいるときだった。
「えー、仁科さんの彼氏さんですかぁ?かっこいい!」
女の子たちの視線が九条に移った。予想していなかった最悪の事態。
上半身しか見えなかったが、今日の九条は黒いジャケットの中に白いカットソーを着ていて、真冬だって言うのに襟ぐりに濃いサングラスをかけている。いつものように髪をラフにセットしてあって、左耳には輪っかのようなピアスが三つ光っていた。
そう
どこからどーみてもこいつは
ホスト。
P.4
でも勘違いしてもらっては困る。私はこいつの客じゃない。東京を離れていたのも、大方客の一人と遠征旅行でもしていたのだろう。
「違っ!こいつとは単なる腐れ縁。彼氏とかじゃないから」
と慌てて否定するも秒の単位で噂が回るこの会社で明日の朝には『仁科さんて、ホストに貢いでるらしいよ』とあちこちで言われるに違いない。
くらり、と眩暈が起きた。
腐れ縁、と言うのは間違いない。中学からの同級生だから。
「じゃあ、本命は前田さんですかぁ?」女の子達が興味津々で目を輝かせている。
「前田??ひどいなー、仁科ぁ。俺たち何度もセック……もがっ」
最後の方が言葉にならなかったのは私の手が九条の口を塞いだから。
ふざけんな!何言い出すんだこいつぁ!!
空気読めっつうの!
と言うことを目で訴えると、流石に冗談が過ぎたと思ったのか九条は苦笑い。
「で?行くの?行かないの?」せっかちに聞かれて
「わかったわよ!行くわよ」半ば怒鳴るように九条を睨みつけると、私はそそくさと助手席に回った。
「それじゃ、私はこれで。お先に」女の子たちにはなるべく平静を装って、にこやかに手を振る。
ため息をついて車の助手席を開けると、運転席から九条が笑顔で手を差し伸べてきた。
「ただいま、仁科」
昔とちっとも変わらない笑顔。眉が下がり、目を細める、優しい笑顔。そして時々その低い声で呼ばれる、自分の名前。何だかくすぐったいが、この笑顔を向けられたら、たとえ九条の勝手に振り回されても、赦せてしまう。
「……おかえりなさい」私は俯くと、小さく返事を返した。
P.5
前述した通り私と九条とは中学からの付き合いだ。かれこれ十年以上の付き合いになる。十年、と言う歳月は長く感じられるけれど、その間に音信不通になったり、そしてどこからか連絡先を入手して電話を寄越して来たり、をだらだらと繰り返している。
でも、私たちははっきりと『付き合って』はいない。もちろん九条のブラックジョークの『体の関係』もない。
あるのは中学生から変わらないノリと
私が九条のこと「好き」
と言うことだけ。歳を重ねて、九条がホストになって……あ、今はホストじゃなくホスト店を経営してるオーナー様でもあったかしら。とにかく環境は変わったものの、不変的な何かは確実に存在している。
パワーウィンドウの外をちらほらと雪が降っていた。
「北海道行ってきたんだ~土産に蟹買ってきてやったぞ」と九条は運転しながらどこか楽しそう。
「北海道……ここより雪が多そうね」ぼんやりと呟きながら、九条に気づかれない程度にこっそりと、外気との差で曇った窓ガラスに、人差し指で
『好き』
と書く。
私の書いた文字は私の体で隠れて九条からは見えない。
「蟹すきしようぜ~、お前んちで」
「何であんたを一々上げないといけない?」
言い合いをしながら、やがて私のマンションに着く頃にはみぞれになった大粒の白いものが私の『好き』をかき消す。
「だってお前んち床暖あるじゃん?」
「そんな理由かよ」
中学生から変わってないこの関係とノリ。
今はまだ―――
この関係でいいや。
~FIN~
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