異動です。
「は?アラブ諸国の小国へ?」
来栖 紅(クルス コウ)
二十七歳。
金なし、身長なし、恋人なし。
ついでに運なし。
一週間前にホームの階段で派手に転落して、足の骨にヒビが入るというざま。
おかげでしばらくは松葉杖生活を余儀なくされてるってのに。
そんな可哀想な三無しオトコに訪れた、いきなりの辞令。
「カーティア国…なんて聞いたことないし」
俺、世界史専攻なのに、初めて聞いたし。
俺の上司はどこから取り出してきたのか、地球儀をぐるぐる回しながら老眼鏡をわずかに持ち上げ
「確かこの辺だった気が…」
と斡旋するはずの上司ですら分かってない状況。
……大丈夫かな。
「任期は一年。そこの皇子さまに日本語を教える簡単な仕事だ。まぁ家庭教師みたいなもんだな。
仕事は楽だけど破格の給料だぞ?」
「俺、世界史専攻ですけど」
と反抗するも、上司である塾長はにこにこ。「日本語が喋れれば大丈夫だ!」
マジで??ってか軽っ!
俺は、全国的にも有名な予備校のイチ講師。
親会社の本社では講師の派遣もやってるとか聞いたことがあるけど。
有名なのは名ばかりで講師の給料なんてたかが知れてる。毎日食っていくのに精一杯なのに、
提示された明細を見てびっくり。
US$100,000!?
年収200万ちょいの俺が、たった一年で約一千万円に!
何だよ、怪しい仕事とかじゃないだろうな~…
P.4
「まぁ今は色々あの辺も危険だろ?日本人が撃たれたり。
命の代金にしちゃ少ないだろうが、向こうと気があったらプラスαすると言ってきている」
プラスαって…いやいや、命が無くちゃ意味がないよ。
塾長の言葉を聞いて青くなっていると、
「な、何故私に?」
白羽の矢が俺に立ったことを訝しむと、
「向こうが何故か25歳以上30未満の男性教員と指定してきている」
何だよそれ…ずいぶんピンポイントだな。
「てか……俺以外もいますよね。田中とか、朝倉とか」
仲間を身代わりにするつもりもないが、ヤツらだって同期だし。
「あいつらはほら……結婚してるし、朝倉なんかは子供も居るだろ…?
それで」
あー…なるほど。俺には守るものがない、ってことね。
仕方ないよな、金なし背なし、学歴なし、恋人なし…ついでに運にも見放されてるし両親もいないし、三無し…あれ?六無しじゃん!
思ってて悲しくなってきた。
「カーティア国は小国だが、資源は豊富でそれはそれは美しい国だそうだ。
食事もうまいし、美人揃いだって言うぞ?」
塾長は必死になって俺の肩をぽん。
上から言われてるのだろう。斡旋する約束を取り付けたのは塾長の上司だな。
『行ってくれるよな、てか行ってくれ』
血走った目で訴えられて、俺は頷くしかなった。
P.5
その一週間後、俺は住んでいたボロアパートを引き払い、
特に持っていく荷物も少なくボストンバッグ一つで空港に向かった。
飛行機を乗り継いで、合計約18時間。
何回目かの乗り換えの機内で俺はいつの間にかうとうとしていた。
飛行機は聞いたことのない航空会社だったし、おまけに貧乏会社なのか座り心地は最悪。
少しの風で大きく揺れるし、カーティア国に入国する前に墜落して「The END」ってことになりそうだな…
なんて思いながらも寝れるんだから、俺の神経もどうかと思うよ。
――――…
『Hmm...Get up Kou.(起きてコウ)』
甘い女の声が耳元をくすぐり、さらりとさわり心地の良い髪が俺の背中を撫でる。
『んー…?』
重いまぶたをこすりながら寝返りを打つと
『Hi Darling. Good morning late riser.(ダーリン♪おはよう、お寝坊さん)』
豊かなブロンドを掻き揚げ、“彼女”は俺の唇にチュッとキスを落とす。
白い陶器のような肌にキャミスリップ一枚の姿。
細い肩紐がこれまた華奢な肩をそっと滑り落ちる。
『Hi honey…もちょっと……寝かせて…』
俺はその魅惑的な恋人の下着姿より、睡眠欲がまさっていた。
『Let's meet in the same dream…(夢で会おうね…)』
むにゃむにゃと言って枕を抱きしめると、わき腹をつねられた。
『痛っ!』
『Is that what I get from a lover who hasn't seen me for a while?(それが久しぶりに会った恋人に言う言葉?)』
『OK…!OK.I heard you.(分かった分かった、ごめん)』
眠りを諦めて彼女の細い腰を引き寄せると
『I want to sleep hugging each other.
(こうして抱き合って眠っていたいけど)
I have to go to work from now.
(これから仕事なの)』
P.6
『Work? how long.(仕事?どれぐらい?)』
俺はそっと彼女の髪を掻き揚げると、恋人は魅力的な笑顔を浮かべながら
『One week.』俺の鎖骨をそっと指でなぞり
『Hmm...two weeks?(二週間かも)』といたずらっぽく答える。
『One month?それ以上は待てないよ』
俺が聞き返すと
『Hey baby.
I promise to come home by Christmas day.
(約束するわ。クリスマスまでには帰るって)
I'll call you when I get home.
(帰ったら電話する)』
『By all means.(必ず)
I love you.Stacey
(愛してる、ステイシー)』
『“私も愛してる”あなたがはじめて教えてくれた日本語よ?』
あのとき俺は、マンハッタンの彼女のアパートでしっかりとステイシーの体を抱きしめたんだ。
だけど今でも思う。
あの手を離さなかったら。
“仕事”に行かせなければ。
――――
機体が大きく揺れてその衝撃で眠りから覚めた。
P.7
「………」
手のひらにじっとりと汗を掻いていて、もう五年も前の話なのに、
たった今の光景のように思い出すのは
はっきりとした“別れ”を彼女の口から聞いてないからだろうか。
そう
彼女は連絡をくれず、その年のクリスマスを―――俺は一人で過ごすことになった。
あれから五年…
俺は日本でもなく、彼女の故郷のマンハッタンでもなく、聞いたこともない小国へと足を下ろしていた。
カーティア国唯一の空港に足を下ろし、簡単な入国審査すら
ピー…!
金属探知機のゲートで派手な警報音が鳴り、警官らしき男たちがぞろぞろと俺の周りを取り囲んだ。
彼らは早口の英語でまくし立て、
その恐ろしいまでの顔つきに俺はびくびく。
「Come on!(ちょ、ちょっと待って…)」
俺の恋人はアメリカ人だったけど別れてから英語なんて使う職業じゃなかったから…
ポケット辞書をぺらぺらとめくっていると
「Hey wait! He is okay. My client.
(待て、彼は大丈夫、私の客だ)」
顔を青ざめさせている俺の腕を力強く引き、目の前にすらりと背の高いスーツ姿の男が立ちはだかった。
彼は証明証のようなものをかざし、
「I'm awfully sorry!(大変失礼いたしました!)」
いかつい警官たちは敬礼の姿勢で直立不動。
な、何か分かんないけど助かった……?
「松葉杖が金属探知機に反応したのでしょう。
もう大丈夫」
しかも日本語…!?
名も知らない彼は警備員から松葉杖を受け取って俺に手渡してくれた。
P.8
「あ、ありがとうございます!」
松葉杖を受け取って何気なく彼を見上げて、でも
かなりのイケメンな彼に俺は思わず引き腰。
げ、芸能人……?って感じには見えないケド。
180cmほどの高長身。高級スーツに身を包み、黒い髪もラフにセットしてある。
意志の強そうなキリリとした眉が一瞬だけピクリと動き、印象的な切れ長の目が鋭く俺を下から上までチェックするように視線を這わせ
値踏みされてる居心地の悪さにボストンバッグを拾い上げながら胸の中で抱きしめ、俯いていると
彼はその険しい視線をふっと緩め、微笑を浮かべた。
ぱっと見年齢は三十ってところかな。笑うともっと若く見えるけど。
「私はオータムナル皇子のお世話係です。十年ほど前にこの国に来ました。
国籍は日本で、秋矢 徹(アキヤトオル)と申します」
秋矢さんは爽やかな仕草で握手を求めてきて、俺もその手を握り返した。
「あ、俺。来栖 紅って言います!」
慌てて頭を下げると、秋矢さんもにっこり笑ってくれた。
その笑顔に気が抜けた。
「良かった。日本人が身近にいて。
カーティア国は英語が公用語って言ってたけど、早口の言い回しとか俺分かんないし」
恥ずかしそうに頭の後ろを掻いていると
「英語は公用語ですが宮殿内では日本語も通用します。
ですので構えずに」
秋矢さん…最初は恐いと思ったけど、優しそうな日本人が居て良かった!
しかも
「私があなたの指導もさせていただきます。早くこの国なじめるように。
Welcome to country of freedom.
(ようこそ、自由の国へ)」
秋矢さんは恭しく頭を下げ、
「こ、こちらこそよろしくお願いいたします!」
そう答えるのが精一杯。
はぁ一時はどうなるかと思ったけれど、ちょっと恐そうだけど十年仕えてる大先輩も居るし、
何とかなりそうだ。
P.9
「皇子のいらっしゃる宮殿へお連れします。どうぞ」
と促されたのは、白いピカピカのベンツ。
ベンツに乗ったのもはじめてだけど…
皇子……宮殿……
聞きなれない言葉に緊張が走る。
秋矢さんが運転する車の助手席に座り、流れ行く窓の外の景色を眺めて俺は目をまばたいた。
白い建物や街並みが美しく、色鮮やかなサリーをまとった女性たちも
全体的に白っぽい衣服を着た男性たちもどこか穏やかで、平和そうに見えた。
冬間近の11月だと言うのに、気温は寒くもなく暑くもなく薄手のコートすら要らない状態。
過ごしやすい。
「カーティアは年中この気候です。そのおかげで農作物には恵まれています」
白亜の建物の向こう側に茶畑のようなものが広がっていて、作業員がちらほら見える。
「発酵する前の紅茶畑です。あの畑はおそらくセイロン。
今は時期的にオータムナル…極上の紅茶が作れます。
この国は紅茶の産地としても有名です」
オータムナル……って。
「ご存知の通り皇子の御名前にもなっています。
意味は
“秋の恵み”
秋摘みを意味します」
そーなんだ…
普段紅茶なんて洒落たもん飲まないしな~
じっと目を凝らして見ると、紅茶畑の前に人だかりができていてカラフルな色合いの屋台を組み立てているようだった。
「一か月後に感謝祭があります。
歌って踊って飲む、ただの祭りですが
地方からのジプシーも集まってこれが結構賑わうんですよ?よろしかったら是非お出かけください」
ジプシー…って遊牧民のことかな。
てかこの国どれぐらいの規模なんだろう。
「今走っている場所はカーティアのまさに中心部。
宮殿をはじめ、臣下たちの豪邸が連なる都市です。車も通りますし、電車の駅もあります。
少し車を走らせれば海に出ることもできますが、ただし反対側は手入れのされてない砂漠が広がっています。
まだまだ発展途上なのですよ、この国は」
淡々と説明をされて俺は頷くのに精一杯。
P.10
秋矢さんの話はまだまだ続く。
「この国は英国の植民地にありました。独立したのですが、英語だけは残っていて
この国のほとんどの人々は英語を喋ります」
その説明を遮って、
「ちょ、ちょっと待ってください!メモ…メモしていいですか。
じゃないと忘れそうなので…」
慌ててボストンバッグをまさぐると
「その必要はありません。分からないことは私にお聞きくださればその都度教えます」
にっこり笑顔で言われて、逆にその整い過ぎた顔の笑みはどこか作り物っぽく見える…って初対面の人に失礼だな…
「この国はイスラム教徒が半分で、英国の名残か半分はカトリックです。
敬虔な信者が多く、彼らは強盗はもちろんスリは引ったくりなどはしません。
国自体が武力行使も禁じられていて厳しく取り締まっているので
この国は平和なのです。なのであなたの身の安全も保障いたします」
はー…なるほど。
「英国から独立して新しい王となられたのが先々代の王。
つまりオータムナル皇子の曽祖父に当たるお方でございます。
昔からこの国は、立憲君主制。
王が全ての国なので、皇子であるあのお方の機嫌を損ねないようにするのが一番でございます」
秋矢さんがこれまたマニュアルを読むように淡々と言って、
「俺、大丈夫かな…」
またも不安になってきた。
大体今まで付き合ってきた女の子のご機嫌取りすらまともにできなかったって言うのに。
宮殿の中が一番危険だったりして。
ぞっとしていると、すぐ目の前にこれまたどでかい鉄の門扉が現れ
「宮殿に到着です」
秋矢さんに言われて、俺は目をまばたいた。
P.11
黒い門扉の上には監視カメラがぐるぐる回っていて、さらにその下には白い衣服、白い布を頭に被った男たちがマシンガンを構えながら突っ立っている。
「あの…武力行使は禁止ですよね…」
いきなり物騒過ぎじゃね!
秋矢さんの嘘つきぃ~!!!
「皇子がいらっしゃる宮殿です。強盗や誘拐などを企む無粋な輩は居ないと思いたいですが
万が一のために待機させています」
なるほど…セキュリティーの一種ってわけか。
広い敷地内にはきれいに手入れされた庭が広がっていて、赤やピンク、白や黄色と言ったさっき道ですれ違った女性たちが身にまとっていたサリーのような鮮やかな色を咲き誇らせていた。
それはイギリス王室の庭園を思わせて(行ったことないけど何となくイメージでね)いて、なるほど英国の植民地にあった、ていう話に頷ける。
広い敷地内を車でゆっくりと移動して、
「あちらは庭師がこの庭を手入れするための小屋、そしてあちらが離れになっている植物園」
色々説明されたが、一気に覚え切れられない程だ。
そのどれもが美しく、まるで外国の映画に迷い込んだ錯覚に陥る。
ゆっくりと徐行運転する車の前に突如人影が現れ、秋矢さんは慌ててブレーキを踏んだ。
それほどスピードが出ていなかったのに、急ブレーキに前のめりになってダッシュボードに軽く額を打ちつけ
「いてて…」と打った場所を押さえながら顔を上げると、
まるで沖縄の海を連想させるような色鮮やかなブルーのサリーをまとった女の人が驚いたように目を開いて突っ立っていた。
褐色の肌にサリーから覗く髪はこれまた鮮やかなプラチナブロンド。
目は宝石のように澄み切ったブルーをしていた。
これまたかなりの美女だ。
「マリア様!お怪我は!」
秋矢さんが慌てて車外に出て、彼女を支える。俺は少しだけ開いた窓から顔を覗かせて二人の様子を窺った。
「トオル…ごめんなさい。こっちにエリーが逃げていったかと思って。
お兄様がエリーを閉じ込めておくのはかわいそうだから、って放し飼いにしたのよ」
マリアと呼ばれた女の人は頬を膨らませてぷんぷん。
日本語が流暢だった。
P.12
「オータムナル皇子は慈悲深いお方でございます。どうかお分かりくださいませ」
秋矢さんが宥めるも、まだマリアさんはエリーの行方が心配なのか不安そうに眉を寄せている。
「あ、あの!」
俺はそんな彼女に声を掛けていた。
マリアさんと秋矢さんが同時に振り返り、俺は引き腰になったが…
だって超絶美人たちに見られることなんてなかったから。
「そ…その逃げちゃったエリー…俺、探しますよ!」
マリアさんが大きな目をまばばいて、秋矢さんのスーツの袖を軽く引っ張る。
「Hey Toru.Who is it?
(トオル、こちらは?)」
「Maria, meet Japanise tutor is Mr.Kurusu.
(マリア様、こちらが日本語教師のミスター来栖です)」
「な…Nice to meet you.」
俺が慌てて車を出ると、マリアさんはサリーの両裾をわずかに持ち上げ、膝を折りながら小さくお辞儀。
「はじめまして、ミスタークルス。わたくしは第一皇女のマリア・アシュラフ・ウルワ・カーティア。
よろしくお願いいたします」
皇女さま!
ぅわ!いきなり大物に会っちまったよ。
P.13
俺は慌てて頭を下げ
「はじめまして。来栖 紅と申します。こ、こちらこそよろしくお願いいたします!」
ぎこちなく挨拶をした。しかも俺みっともなく松葉杖だし!
歩き方も変だし。
こんな可愛い人と出会うのなら、何が何でも治してもらうべきだった。
「コウ?とお呼びしても?わたくしのことはマリアと」
これまたマリアさまは砂糖菓子のように甘い笑顔を浮がべ、俺の心臓がドキリとなった。
「に、日本語お上手なんですね…」
「父である国王が大の親日家なのです。曽祖父は英国から独立した際に、日本には随分お世話になったと。
今でも総理大臣とは時々会食を」
総理大臣……マジかよ。
二十七年間生きてきて、俺はテレビでしかその姿を拝見したことないってのに。
「エリーを探してね、コウ」
ぎゅっと手を握られて、俺の顔が熱くなった。
「は、はい!必ず!!
ところでエリーはネコ?それとも犬??」
名前からしてうさぎって可能性もあるよな。
ふわふわ美女のマリアさまにはお似合いだ♪
勝手な想像をしていると、マリアさまと秋矢さんは顔を見合わせた。
「snakes.
(蛇よ)」
Oh no……
マリアさまの言葉に、熱くなっていた俺の顔から
さー…
血の気が失せた。
P.14
秋矢さんは蛇のエリーを探すのは一旦あとにして、先に皇子を紹介すると言う。
ま、まぁ本来の目的は皇子の日本語教師だしな。
「またね、コウ♪」
皇女さまはにこやかに手を振って、エリー探しを再開させる模様。
「必ず見つけ出します」俺も手を振り返し、立ち去る車を見つめながら彼女が楽しそうに言った一言は俺の耳に届くことはなかった。
「Maybe. We'll see. He is crabstick.
(さぁ、どうかしら。お兄様は気難しい方だから)
can't wait to see how Kou will turn out.
(楽しみだわ)」
――――
「マリア様は国王の第二后(いわゆる側室)の姫です。崩御された正室の御方さまから生まれたのがオータムナル皇子。
二人は腹違いのご兄妹です」
「一夫多妻制…?」
「もちろん。より優秀でよりふさわしい国王を世襲させるため、王だけは幾人ものお后がいらっしゃいます。
日本だってかつてはそうだったでしょう?」
そう言われて、う゛~ん…かつては…つったってもう千年ほど前の話だぞ??
「化石か!」
思わずツッこんだけど、秋矢さんは白い目で俺を見てきただけで
冗談通じないし、この人~~
来たばかりなのに俺もう帰りたい↓↓しくしく…
そんなことを思っていると
「トオル、遅いぞ。私は待ちくたびれた」
俺の足元にふっと影が伸びてきて、どこか爽やかな紅茶のような香りが
ふわり
香ってきた。
重圧感を感じる声は不思議と威圧されてる感じはしない。
むしろその重低音が俺の耳朶を甘くくすぐる。
白いふわりとした裾が翻り
秋矢さんよりも背が高くスラリとスタイルの良い男が現れた。
P.15
トーブ……白い生地で長袖の足首まであるワンピースのような民族衣装に、頭には大きな白い布……ゴトラを被っていて、イガールと呼ばれる黒い輪っかを乗せている。
それがアラブ系の民族衣装だということはわかった。
そしてこの人物が誰か、と言うことも分かった。
わざわざ紹介してもらわないでも分かる。
この堂々たる立ち居姿。黙っていてもかしずかずには居られない。
― Autumnal
意味は“秋摘み”
その意味と同じように深い紅茶の葉を思わせる褐色の肌、まるで上質な金糸のようなプラチナブロンド、
サファイアのように美しい目の色は切れ長で、
鼻筋はスっと透っていて、唇はやや薄い。
秋矢さんもかっこいいと思ったけど、それ以上にこの人は
美しい。
男に“美しい”ってのも変だけど、でもその言葉が一番しっくりくる。
…てか…
でか!!
日本語教師で雇われたわけだから、もっと子供かと思っていたが。
この人、俺と同じぐらいの年齢だし…
ま、まぁ考えてみれば妹姫さまのマリアさまが二十歳そこそこっぽかったしな…
オータムナル皇子は俺を目に入れると、切れ長の目を少しだけ険しくさせて
「まだ子供じゃないか。トオル、お前も何を考えている」
と苛立ったようにそのきれいなブロンドの髪を掻き揚げた。
子供って……
「皇子…こちらはミスター来栖です。子供と申しましても貴方の二つ上でございます。
あなたの良きお話相手になってくださるかと思います」
秋矢さんは俺を説明して
ええ…?俺の二つ下ぁ??
疑わしそうに皇子を見上げると、皇子がその切れ長の瞳を細めて俺を睨みかえして来る。
怖っ!!
秋矢さんより何十倍も怖い…
俺は会った事ない蛇のエリーに睨まれた子うさぎのようにブルブル。
P.16
「ミスター来栖、こちらはオータムナル・アシュラフ・ウルワ・ヤズィード・バシール・カーティア皇子でございます」
紹介されたけど…
「てか名前長っ!オータムナルさまでいいですか??それも言いにくいんでいっそオータム皇子で」
秋矢さんを見上げると
「ダメ!」
ビシッ!吉本もびっくりな俊敏さで秋矢さんのツッコミが入り…
てか意外にキレがいいし!
ああ良かった…この人もたまにはジョークが通じるみたいだ、と俺はほっ。
ふぅやれやれ…
額に浮かんだ汗をぬぐっていると、
「ぷっ」
オータムナル・アシュラフ・ウルフ…じゃなくてウルワか…てかそれ以上やっぱり覚えられなかった俺。
皇子は口の中で失笑して
「好きに呼ぶがいい。
私を目の前にして名を略すなど、ふとどき者だが
大物とも言えような。
はじめてだよ、お前みたいな男は。
気に入った」
あ、笑った。
オータムナル皇子は(さっそく略してるし)びっくりするほど整った顔をして、睨まれるとそれはそれは迫力のあるお顔だけど
笑うと目じりに小さな皺が寄って人懐っこいし、穏やかな微笑みは包み込むような優しささえ湛えているように思えた。
ぼんやりと皇子の微笑みに見とれていると、皇子は前触れもなく俺の顎を持ち上げた。
「Quite a little love.」
ちょっと意地悪そうに口の端を歪めて皇子はにやりと意味深に笑う。
ってか、何て言ったの??どーゆう意味??
早口過ぎて聞き取れなかったが、
「お戯れはおやめください、皇子。ミスター来栖、宮殿内をご案内いたします。
皇子とは後ほど夕食のお時間に」
お戯れ!?
てか何て言ったのーーー!!!
P.17
想像したのとちょっと違うけど、皇子さまにも面通しされたし、その後は皇子とゆっくり話す間もなく秋矢さんにぐいぐい引っ張られる。
皇子さまはつまらなさそうに俺たちの行方を見ているようで
ご機嫌窺いどころか、いきなり嫌われたような…
夕食どきにクビを切られて日本へ強制送還ってことになりませんように。
最初は危険な国への出向かと思いきや、この国は平和そうだし
それを知ったらあとは莫大な給料だけが目当てだ。
「ここがあなたのお部屋です」
案内されたのは白の木に金色の装飾が施された豪華な扉。
中を開くと、これまた目が飛び出るかと思うほどの広い部屋が広がっていた。
天蓋つきの大きなベッドに、ロココ調のやたらとゴテゴテした装飾の調度品。
「バス・トイレはこの部屋内にあります」
案内されてバスルームを覗くと、俺がちょっと前に住んでいたボロアパートより広いこれまたきれいなバスルーム。
「クローゼットの中はすべてあなたのものです。ご自由にお使いください。
他にもご入用のものがありましたら、何なりと。
全て用意させます」
ご自由にって…
俺は大きなクローゼットのバーに掛かったきらびやかな衣服や、棚に並べられた靴を見て目を回しそうになった。
マジかよ、これ全部俺のもの…?
「外出も基本は自由です。
町に買い物に出ても演劇を見に行くのも散歩もドライブも。
ただ、そのときは私に一言言ってからにしてください」
これまた淡々と説明をされて俺は頷くのに精一杯。
「以上です。宮殿内は広いので、また後日ご案内いたします。
長旅でお疲れのようですし、夕飯までお休みくださいませ」
秋矢さんは丁寧にお辞儀をして、俺も慌てて頭を下げた。
「それでは」
一言だけ言い置いて彼は出て行こうとする。
その高い背に向かって俺は声を掛けた。
「あの!」
秋矢さんが振り返り、俺はまたも蛇に睨まれたように硬直。
ただ振り返っただけなのに、無駄に迫力のある人だ。
P.18
「何か」
「いえ…あの……何で俺にここまでしてくれるんですか?
たかが日本語教師でしょう?教えることがないぐらい皇子は日本語が流暢だし」
俺の質問に秋矢さんはうっすら笑って
「教師とは言っても彼に何かを教えることはしなくて結構です。必要なことは私が彼に教えていますので。
あなたは皇子の話し相手になっていただけるだけで結構。
歳の近い若者がこの宮殿内に居らず、彼も退屈しているようなので」
そつがなく答えられて、俺は頭の後ろを掻いた。
だったらなお更、ただの話し相手にここまでする理由が分からないけど
あんまり疑い過ぎるのも良くないし。
秋矢さんは悪い人には見えないし。
そもそもこんな平凡な俺を騙しても彼らに何の得にもならないじゃないか。
そう考えて
「…じゃぁお言葉に甘えて…」
俺はぎこちなく頷くと、秋矢さんは満足したように微笑み、今度こそ部屋を出て行った。
『お休みください』
と言われても、このきらびやかな部屋で落ち着かない。
それでも少し眠った方がいいのかなぁ。何せ夕食が控えてるわけだし…
広いベッドの中央に横たわり俺は目を閉じると、数分後
カチャ…
扉が開く音が聞こえた。
P.19
誰だ―――…?
秋矢さん??言い忘れたことでもあったとか…
でも俺、ちょっと疲れちゃったんだ。秋矢さんはデキる人みたいだけど
あの機械みたいな言葉を聞いてると益々疲れちゃうよ。
夕飯までそっとしておいてください。
そう言う願いを込めて目を閉じたままでいると
スルスル…
何かを引きずるような衣擦れの音が聞こえ、あれ…?秋矢さんじゃない??
もしかして蛇のエリー!!?
一瞬体が強張ったが
近づいてくる香りは
ふわり
あの独特の優しい……紅茶のような香り――――…
オータムナル皇子!!?
ぅうわ!蛇よりタチの悪いもん来ちゃったよ!
P.20
オータムナル皇子が近づいてくる気配があったけれど、俺は目を閉じたまま。
だってついさっきはじめて会ったばかりだし、何を話せばいいのか分かんないもん。
『皇子の前でタヌキ寝入りとはフトドキ者!』
バレたらそう怒鳴られそうだけど、バレなきゃいいんだよな…
固く目を閉じていると
ギシっ
ベッドのスプリングが軋む音がすぐ近くで聞こえて、より一層紅茶の香りを近くで感じる。
え……?何…?
もしかしてやっぱ俺のこと気に入らなくて、眠ってる間に首絞めちゃおう作戦!?
タヌキ寝入りしてすみませんでした!
慌てて目を開けようとすると
そっ
「Baby faceだと思ったが、なかなか良い眼をしているな」
皇子さまが俺の頬を撫でて、紅茶の香りが…
って言うか爽やかな吐息の香りまで感じるし。
ち、近い近い!
何がしたいのか分からず
パカっ
目を開けて
「それはどーも…ありがとーございます…」
堪えきれず俺は手を僅かに上げた。
本当に目と鼻の先、少し近づいたらキスできそうな距離に
いきなりの美しすぎるドアップに俺の方がビビったが、皇子さまもビビっていらっしゃるようだ。
「起きていたのか。
皇子の前でタヌキ寝入りとは無礼な」
あ、でもやっぱ言った。
P.21
皇子さまは先ほどと同じ白い衣装に身を包んでいて、あのスルスルと衣擦れの音は彼の裾から聞こえたようだ。
俺はちょっと体を起こして、
「寝てる客人に近づくのも無礼なことですよ。
秋矢さんに教わりませんでしたか」
俺が皇子さまを指差すと、
皇子さまは薄い唇に笑みを浮かべた。
「お前は可愛い顔して、それに似合わず随分ズケズケとものを言うな」
俺だって命が惜しいよ。
皇子さまに口答えしたら反逆罪で即囚われそうだけど、
でも
何でかこの人に嫌な感情は浮かばない。
苦手には変らないけど。
「クルス」
これまたとろけるような笑顔で言われて、俺の心臓がドキっと鳴った。
だけど
「You're fired.(お前はクビだ)」
にこにこ笑顔で言われて
Oh my God!
(そんなっ)
前言撤回、この皇子やっぱイヤっ!!
P.22
「く、クビだけはどうか!
俺、アパートも引き払っちゃたし、家庭教師をクビになったら元の講師に戻れるかどうかもわかんないし!」
俺は皇子さまの腕に縋ってひたすらに平謝り。
「申し訳ございません!神様、仏さま、オータムナルさまっ!!
何でもするんでどうかクビだけは…」
ブツブツ唱えていると、
「ほぉ、何でもすると?」
皇子さまはそれはそれは美しい顔でにやりと笑い、俺の顎に手を掛けてきた。
今からさっきの言葉撤回できないかなぁ…
いやぁな、予感が…
「日本語教師はクビだが、お前には今日から新たに職をやる。
私の側室になれ」
は―――……?
まったくもって…意味が分かりませんが。
俺危ういのは英語だけじゃなかったみたいだ。日本語も理解できないなんて…
小学校から出直してきた方がいいかも。
ブツブツ考えていると
「聞こえなかったのか、今日からお前は私の側室だ」
もう一度言われて
側室=愛人…
「No!」
俺は叫び声を挙げた。
P.23
何言っちゃってんの?このクソバカ皇子はっ!
多少世間知らずで我侭なおぼっちゃんかと勝手に想像していたけど、皇子さまは俺の想像を遥かに超えていた。
頭のネジが一本イカれてる。
「側室の座が不満か?
生憎だが正室は決まっている。だが案ずるな、そこに愛はない」
このイカれた皇子にちゃんとした正室が居ると言うことにも驚いたが、俺のツッコミポイントはそこじゃない。
「愛があるとか無いとかの問題じゃないですよ!
俺は男であなたも男性ですぅ!
それに俺は家庭教師としてきたんです!あなたと側室契約するためじゃありませんっ」
「そんなこと言われなくても分かりきっている。
何が不満だ。宝石でも車でも家でも土地でもお前が望むものを望むだけ与えてやれるぞ」
随分魅力的な提案だし、この美貌でそんなこと言われたらどんな女でもKnock Outに違いない。
でも
俺は宝石も車も家も土地も興味がない。
欲しいのは
「Ex-lover.(別れた恋人)」
言ったあとになって後悔した。
「す、すみません!今のはお気になさらず!!イチ家庭教師の戯言です!
どうかお聞き流しを!」
慌てて言うと
「ふーん、その恋人のことが忘れられないと…?」
皇子さまは不服そうに頬杖をついて目を細める。
だがすぐに興味を持ったようにまたもニヤリと口に笑みを浮かべると
「その別れた恋人のことを聞かせろ」
………
またこの人はっっ!
もういい加減疲れてるんだし、これ以上傷をえぐるようなことしないでくださいよ!
「イヤです」
はっきりきっぱり言うと、
「皇子に向かって反抗か?貴様反逆罪で囚えてやる。
私の寝室に監禁だ」
寝室に監禁――――!?
いやーーーー!!!
P.24
数時間前に会ったばかりの…しかもこの国の皇子さまに何故か口説かれて押し倒されてる俺。
この状況、どうよ。
「てか何で俺なんですか!どこが気に入ったんですか!
俺、自慢じゃないけど三無しオトコですよ!」
強引な皇子さまに組み敷かれて、俺は彼の下から彼を押し戻そうと必死に抵抗。
「サンナシ??」
皇子さまが不思議そうに聞いてきて
「金なし、背なし、学力なし、しかも恋人もなし!」
「それは四無しと言うんじゃないか?」
皇子さまがツっこんできて、
グサグサっ!俺の心臓にまたも剣が刺さった。
エグられて、マイハート…↓↓↓しくしく
まぁ言ったの俺だけどぉ、それでもちょっと悲しいって言うか…ね。
抵抗するのを諦めてズーンと気落ちしていると、皇子さまは俺の手をそっと握って手の甲に唇を寄せた。
「日本の女は見る目がないな。
お前はなかなかcuteだ」
青い透き通るような…宝石のような瞳が真剣さを物語っていて、ガラにもなく
ドキリとしてしまった。
「それにお前の眼は………
まるで紅茶のようにきれいで透き通る瞳をしている」
目…?ま、まぁ確かに日本人にしちゃ茶色い方だと思うけど。
「この栗色の髪も真綿のように柔らかい」
側室契約を結ぼうとしている当のご本人さまはちっとも強引な仕草ではなく、俺の髪をふわりと優しく撫でた。
P.25
「この大理石の彫刻のような滑らかな肌も。
全部美しい。お前は無いと言ったが、この全部がお前の魅力だ」
そっと頬を撫でられ、皇子さまはうっすらと微笑した。
美しいのは皇子さまの方で……俺なんて皇子さまと並んだら月とすっぽんぐらいなのに、
でも彼の口から紡ぎだされる言葉はどれもお世辞や口説き文句には思えなかった。
スルスルと俺の心に入り込み、居心地の良さを感じながらいつの間にか心臓を鷲掴みにされるような……
そんな気がした。
皇子さまは俺の手の甲にそっとキスをして
「私は妃になる者を大切にする。
それは誓う」
男に…手にキスをされることもはじめてだったし、でも何故かイヤな気持ちはしない。
「クルスは美しい。お前はもっとその美貌に自信を持て」
『My sweetie pie.(私の可愛い子ちゃん♪)』
たった一人愛してくれた人は俺のことをそう呼んでくれていた。
皇子さまのプラチナブロンドが形の良い額にさらりと流れ落ち、その髪質がほんの少しだけステイシーのそれと似ていた。
………
だけど
それとこれとは別!!
P.26
皇子さまの熱烈な口説き文句に一瞬意識が飛びそうになったけれど
整った皇子さまの顔が近づいてきて、危うくキスされそうなところを
「ぅわ!」
寸でで避けると、皇子さまは不服そうにきれいな眉を吊り上げ
「何故拒む」と聞いてきた。
何故って、そりゃ!
「に、日本では男同士キスなんてしないんです!」
「それは日本でだろう?この国は有りだ」
さも当たり前かのように言われて、皇子さまはさらに顔を近づけると俺の首元に顔を寄せた。
鎖骨に唇を寄せられてビクリと足のつま先から脳天まで電撃のようなものが走った。
な、何――――……
抵抗する間もなく皇子さまは俺の首筋をわずかに噛み付き、強く吸い上げた。
小さな痛みが走って眉をしかめると、皇子さまはペロリとその場所を舐め上げ
「側室契約のシルシだ。
お前は今日から私のものだ」
側室契約のシルシって……
はぁぁあああああ!!!?
またも皇子さまの整った顔が近づいてくる。
ギャーーー!!
そのときだった。
P.27
「ミスター来栖、夕食の準備が整いました」
部屋に入ってきたのは
秋矢さん!!
た、助かった~~~~!!
秋矢さんHelp me!~
助けを求めるように手を伸ばしていると
油断していた俺の額に皇子さまは
チュっと口付け。
……!!!!!
秋矢さんはまったく表情を変えずに俺を皇子さまの下から助け出してくれて
「皇子、お戯れもそこそこに」
と、たった一言。
「戯れ?
案ずるな、クルスと私は側室契約を交わした。だから何も問題はあるまい」
ぅわぁ!!何言っちゃってんのこの皇子さまはーー!!
俺は言葉も出せずにあわあわと秋矢さんを見つめると
「皇子、勝手な真似はなさらないでください。ミスター来栖は日本から派遣された講師です。
カ日問題(カーティア、日本間)にも発展する恐れがありますので、丁重に接してください。
側室でしたら他で私が探します」
秋矢さん、ほんっとぉに天の助け!!My Angel!
だけど皇子さまはさらに不満そうにベッドから立ち上がり、乱暴に前髪を掻き揚げた。
苛立ったようなその仕草もどこか色っぽくて何故かドキリとしてしまう。
「今はクルス以外の側室など要らぬ。
それにトオル、お前はいつから私に口答えできる身分になった」
P.28
皇子さまの迫力ある睨みにも動じず、秋矢さんは皇子さまを宥めるように
「子供のような我侭をおっしゃいますな。
あなた様はもう立派な成人男性でございます。
大切なお客を困らせてはいけません」
皇子さまの肩を撫で、秋矢さんの言葉に皇子さまは、さっきとは違う種類のちょっと拗ねた表情をしてそっぽを向いた。
うーん…わけ分からんかと思ったけど、子供っぽくてちょっと可愛かったり。
「皇子は子供扱いされると拗ねるのですよ」
ぼそっ
秋矢さんが俺に耳打ちしてくれて、俺はちょっと笑った。
「トオル!!私の悪口を言ったら、お前を囚らえるぞ」
「はいはい、皇子の寝室に監禁ですか」
秋矢さんのあしらい方も…年季が入ってるし
最初はどうなるかと思ったけど、秋矢さんが居てくれて良かった。
何とかなりそう。
疲れる、とか思ってゴメンナサイ。
――――
―
とにかく側室契約なんて結ばれてたまるかっての!!
P.29<→次へ>
冬の夜
キミへの気持ちを窓に託しました
たった一言が言えない私は臆病者ですか?
でも今はこれが精一杯
雪に想いを
『次はお天気コーナーです。今日から明日にかけて低気圧が日本の南を発達しながら東北東に進み、明日には日本の東に進む見込みです。
関東甲信地方では今夜から雨が次第に雪に変わり、あす午前中にかけて山沿いを中心に、平野部でも積雪となる所がある見込みです。雪による交通障害、架線や電線、樹木等への着雪、路面の凍結に注意してください』
今朝のワイドショーのお天気キャスターの言葉を思い出したのは、勤めている会社の定時を迎え業務を終えたときだった。
「えー!やだっ!雪降ってるじゃん」と誰からともなく声が挙がり
「ホントだー、私傘持ってきてない」
「どうりで冷えると思った」
と同僚たちが次々と口にする。
またも誰かが「せっかく彼氏に買って貰ったバッグが濡れちゃう」と言い出し、それでもちっとも困った様子ではなく、どこか誇らし気だ。
そしてその周りの女子たちが盛んに羨ましがる。
「いいなー、でもあたし今度のクリスマスにダイヤの指輪ねだっちゃうんだー」と一人の女の子。
「いいなー!」黄色い声に、私は苦笑いを浮かべるしかない。ここでの男の年収と、女の品格は反比例する。いかにいい服を着るか、いかにいいバッグを持つか、いかにいい男を彼氏にするか、年中こんな会話でうんざりする。
かと言って輪に加わらないわけにはいかない。仕事とプライベートの内容こそ比例するのだ。
P.1
「仁科《にしな》さんはいつも素敵な服着てますよね」ふいに一人から話題を振られた。
「えっ、そう?」私は曖昧に笑って言葉を濁した。今日の服装は白いタイトワンピ。腰回りに太いベルトが巻き付いていて、ちょっと豪華に見えるゴールドのバックルがワンポイント。
そして同じくゴールド系のスパンコールが襟元に入ったコートを腕にかけて帰りたいアピール。
シンプルな服装だったけど、流石は目が肥えている女子たち。すぐにそれが高価なものだと見破った。女のチェック程厳しいものはない。私がオシャレをするのは対、男ではなく、彼女たちの為。
「仁科さんてぇ、結婚しないんですかぁ」間延びした話し方が赦されるのはこの年代の特権だ。
「結婚ね……相手がいないから」私は適当にごまかして再び言葉を濁した。
こう言っておけば大抵の女は引き下がる。私が長い間、人付き合いをしてきて、これが最良の方法だと知ったのはつい最近のこと。
私がこの会社に勤めはじめて五年になる。この会社での女性正社員では長いほうだ。後から派遣された若い女の子たちから見れば私なんてお局のようだった。
「そう言えばぁ仁科さん、この前見ちゃったんですぅ」一人の女の子が思わせぶりに口元へ手をやった。
短く切った髪にはパーマがあててあり、傍から見ればマシュマロのように可愛らしい女の子だ。
だが、そんな可愛らしさに惑わされてはいけない。女はいつでも顔の下にしたたかな一面を隠しているのだから。
P.2
「何を?」私は平静を装って取り澄ました。
もしかして“アイツ”と居る所を見られた?と思ってドキリとしたが
「この前の金曜日、青山のイタリアンレストランで、経理の前田さんと一緒にいるところぉ」
ああ、そっちか。とちょっとほっと安堵する。
「ええー!!」周りから黄色い声が飛ぶ。私は思わず頭を押さえたくなった。
そう、確かに経理の前田に誘われて先週の金曜に青山まで行った。
でも食事をしただけで、別に艶かしい関係ではない。だが、ここで重要なのが、経理の前田という男、この会社ではなかなかのハンサムでしかも独身、きさくな性格をしているわりには頼れる上司でもあるのだ。そうゆう男を若い女性社員が放っておくわけがない。
「いいなー、ねえお二人って付き合ってるんですか?」
食事をするイコール男女の関係と、どうして若い子たちはそう短絡的なのだろう。私はこの場から逃げ出したくなった。だけど、この場から立ち去ると認めたことになってしまう。
「別に、ただお食事に誘われただけよ」
「うそー、絶対前田さん仁科さんのこと狙ってるわよぅ。だって、あたしたちがいくら誘っても全然だったのよー。それなのに前田さんは仁科さんのこと」
嫉妬心と羨望の眼差しで見られ、私は思わず後ずさり。
何とか前田との話を切り返し、従業員出入り口から女子の群れに混ざって出てきた所だった。
遠くで派手なエンジン音が聞こえてきて、この狭い路地裏へと近づいてきた。この聞き慣れたエンジン音。私は嫌な予感がして思わず一方通行の標識を見つめた。
「よーう、仁科」黒のポルシェの窓から腕を出し、銜えタバコをしながら九条《くじょう》が手を振っている。
「やっぱり」
私は、今度こそ頭痛をこらえるように頭をしっかりと押さえた。
P.3
「仁科、今終わりか?これから飯でも食わねー?」
この状況を知らずに能天気に笑ってるその整った横っ面に今すぐ張り手を食らわせたい。
「あ、あんたいつ東京に戻ってきたわけ?」私は女の子の群れから一人離れると、九条の車に近づいた。
「あー、悪い。三日ぐらい前かな?この前言ってた日本料理屋行こうぜ」
「あんたっていつも何で急なのよ」
私が声を潜めて九条を睨んでいるときだった。
「えー、仁科さんの彼氏さんですかぁ?かっこいい!」
女の子たちの視線が九条に移った。予想していなかった最悪の事態。
上半身しか見えなかったが、今日の九条は黒いジャケットの中に白いカットソーを着ていて、真冬だって言うのに襟ぐりに濃いサングラスをかけている。いつものように髪をラフにセットしてあって、左耳には輪っかのようなピアスが三つ光っていた。
そう
どこからどーみてもこいつは
ホスト。
P.4
「仁科、今終わりか?これから飯でも食わねー?」
この状況を知らずに能天気に笑ってるその整った横っ面に今すぐ張り手を食らわせたい。
「あ、あんたいつ東京に戻ってきたわけ?」私は女の子の群れから一人離れると、九条の車に近づいた。
「あー、悪い。三日ぐらい前かな?この前言ってた日本料理屋行こうぜ」
「あんたっていつも何で急なのよ」
私が声を潜めて九条を睨んでいるときだった。
「えー、仁科さんの彼氏さんですかぁ?かっこいい!」
女の子たちの視線が九条に移った。予想していなかった最悪の事態。
上半身しか見えなかったが、今日の九条は黒いジャケットの中に白いカットソーを着ていて、真冬だって言うのに襟ぐりに濃いサングラスをかけている。いつものように髪をラフにセットしてあって、左耳には輪っかのようなピアスが三つ光っていた。
そう
どこからどーみてもこいつは
ホスト。
P.4
でも勘違いしてもらっては困る。私はこいつの客じゃない。東京を離れていたのも、大方客の一人と遠征旅行でもしていたのだろう。
「違っ!こいつとは単なる腐れ縁。彼氏とかじゃないから」
と慌てて否定するも秒の単位で噂が回るこの会社で明日の朝には『仁科さんて、ホストに貢いでるらしいよ』とあちこちで言われるに違いない。
くらり、と眩暈が起きた。
腐れ縁、と言うのは間違いない。中学からの同級生だから。
「じゃあ、本命は前田さんですかぁ?」女の子達が興味津々で目を輝かせている。
「前田??ひどいなー、仁科ぁ。俺たち何度もセック……もがっ」
最後の方が言葉にならなかったのは私の手が九条の口を塞いだから。
ふざけんな!何言い出すんだこいつぁ!!
空気読めっつうの!
と言うことを目で訴えると、流石に冗談が過ぎたと思ったのか九条は苦笑い。
「で?行くの?行かないの?」せっかちに聞かれて
「わかったわよ!行くわよ」半ば怒鳴るように九条を睨みつけると、私はそそくさと助手席に回った。
「それじゃ、私はこれで。お先に」女の子たちにはなるべく平静を装って、にこやかに手を振る。
ため息をついて車の助手席を開けると、運転席から九条が笑顔で手を差し伸べてきた。
「ただいま、仁科」
昔とちっとも変わらない笑顔。眉が下がり、目を細める、優しい笑顔。そして時々その低い声で呼ばれる、自分の名前。何だかくすぐったいが、この笑顔を向けられたら、たとえ九条の勝手に振り回されても、赦せてしまう。
「……おかえりなさい」私は俯くと、小さく返事を返した。
P.5
前述した通り私と九条とは中学からの付き合いだ。かれこれ十年以上の付き合いになる。十年、と言う歳月は長く感じられるけれど、その間に音信不通になったり、そしてどこからか連絡先を入手して電話を寄越して来たり、をだらだらと繰り返している。
でも、私たちははっきりと『付き合って』はいない。もちろん九条のブラックジョークの『体の関係』もない。
あるのは中学生から変わらないノリと
私が九条のこと「好き」
と言うことだけ。歳を重ねて、九条がホストになって……あ、今はホストじゃなくホスト店を経営してるオーナー様でもあったかしら。とにかく環境は変わったものの、不変的な何かは確実に存在している。
パワーウィンドウの外をちらほらと雪が降っていた。
「北海道行ってきたんだ~土産に蟹買ってきてやったぞ」と九条は運転しながらどこか楽しそう。
「北海道……ここより雪が多そうね」ぼんやりと呟きながら、九条に気づかれない程度にこっそりと、外気との差で曇った窓ガラスに、人差し指で
『好き』
と書く。
私の書いた文字は私の体で隠れて九条からは見えない。
「蟹すきしようぜ~、お前んちで」
「何であんたを一々上げないといけない?」
言い合いをしながら、やがて私のマンションに着く頃にはみぞれになった大粒の白いものが私の『好き』をかき消す。
「だってお前んち床暖あるじゃん?」
「そんな理由かよ」
中学生から変わってないこの関係とノリ。
今はまだ―――
この関係でいいや。
~FIN~
P.6