皇子さまの勉強会
窓から差し込む朝日がオータムナルさまの豊かなブロンドに反射して、キラキラ…輝いている。
まるで光の中に浮かび上がる天使のように思えて、またもそのお姿に
見惚れた。
光は―――好きだ。
いつだって俺の唯一の希望。
「オータムナル………さま」
寝起きの…みっともなくかすれる声で何とか彼の名前を呼ぶと
「何だ?」
オータムナルさまが優しい笑顔を浮かべて俺の髪をそっと撫で梳いた。
「会いたかった」
「いつになく素直だな。私もだよ、クルス」
オータムナルさまはにっこりと優しい笑顔を浮かべて俺の頬をそっと撫でた。
P.81
――――
――
三日ぶりの再会だと言うのに、再会をゆっくりと味わうことなくオータムナルさまは分刻みのスケジュールで
俺はその日の夕刻、はじめてオータムナルさまの授業、と言うスケジュールが組まれていた。
授業はオータムナルさまが普段使っている執務室で行われる。
初めて入る執務室。
執務机が中央に位置していて、その背後の壁にはでかでかと絵画が飾られていた。
芸術に疎い俺でもその有名な名前は知っている。
『最後の晩餐』だ。
大きなアンティーク調の執務机に向かっていたオータムナルさまはいつものアラブの民族衣装ではなく今日はいかにも仕立ての良さそうな細身のスーツ姿だった。
その見慣れない姿に目をぱちぱち。少し長めの髪も後ろに撫でつけてあって、いかにもデキそうな外交員のようなお姿に
またも目を奪われた。
何をやっても似合っちゃう彼がかっこよくて、同時に羨ましくもある。
P.82
しばらくぼーっと見惚れていると
「私の顔に何かついているのか?」
と講義をはじめようとしない俺を、不機嫌そうに眉を寄せながらオータムナルさまが睨む。
「いえ……今日は、スーツなのですね…」
「ああ。普段の私はこのスタイルだ。最近は臣下が集う会合があったからな。臣下たちの大半がイスラム教徒だからだ」
へぇー……
「てことはオータムナルさまは…?」
「私はカトリック教だ。父上はイスラムだが、亡くなった母上は敬虔なカトリックだった。」
そ、そうだったんだ。
てかそのナリで!?とまたもツッコんじまったぜ。
「ああ、だから‟最後の晩餐”なんですね」
俺が壁の絵画を指さすと、
「ああ、この絵が好きなんだ。12弟子の中の一人が私を裏切る、とキリストが予言した時の情景だ。
この中に裏切り者のユダが存在する」
中央に描かれたイエスの隣で身を引いている一人の男を指さした。
‟裏切り者”と言う言葉に何故だか意味もなくドキリとした。
吸い込まれるようにその絵画を眺めていると
「これはお気に入りだが、欲しかったらお前にやろう。縮小版の模写だが、売れば何百万ドルと言う価値がある」
何百万ドル!!?
「い、いえ!!そんな大層なものいただけません!」
俺は慌てて手をふりふり。
「お前が望むものを何でも与えてやりたいのだよ、私は」
オータムナルさまはそれはそれはとろけるような極上の笑みを浮かべてにっこり笑う。
ああ、俺……氷じゃないけどオータムナルさまの熱で溶けてしまいそう。
まぁ皇子さまが何を信仰しているのか、なんて今は関係なくて。俺は絵画から目を反らし
「こほん」
大仰に空咳をして、オータムナルさまに向かい合った。
いくら小さいとは言え一国の皇子に勉強を教えるなんてはじめてで、俺も緊張してたってのもある。
俺は秋矢さんに借りてきた地球儀を執務机に取り出し
「今日は――――俺が行った様々な国のお話をお聞かせします」
と言って地球儀をぐるぐる回した。
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「実は俺、塾講師の前は派遣会社の社員だったんですよ。
あちこちの国に派遣されて、色々な国を旅しました」
俺が立ったまま執務机の上で地球儀をぐるぐる回していると、オータムナルさまが頬杖をつき興味深そうに目を細めた。
「ほぉ、それは初耳だ。派遣会社の社員だった年月は長かったのか?」
「七年くらいでしたかね」
地球儀を回して「どこの国のお話をお聞かせしようか」と悩んでいたので、俺の返事はぞんざいだったかもしれない。
くるくる地球儀を回していた俺の手に、オータムナルさまがそれを止めるように重ねた。
温かい手のひらの感触にドキリと胸が鳴る。
この胸の高鳴りが何なのか分からず、戸惑いながらも
慌てて離そうとしたが、オータムナルさまは俺の手を握ったまま
「私が聞きたい国の話はここだ」
オータムナルさまのきれいな指先が示した場所は、ここから遠く離れた―――日本だった。
「秋矢さんから聞かされているでしょう?今さらお聞かせするほどでも……きっと退屈ですよ」
俺は苦笑い。依然、片方の手は俺の手に重なったまま。引き抜くことは許されそうにもない。
「退屈など思わぬ。私はお前が育った故郷の話を知りたいのだ。
お前がどのように育ったかも。
お前自身を―――知りたいのだ」
「それこそ退屈ですよ」
俺は無理やり笑った。
それでも……オータムナルさまのサファイヤブルーの瞳は真剣で、俺を捉えて離さない。
知りたい―――と言われて嬉しいのと、知られたくないと言う気持ちが俺の中に相反して生まれる。
俺は諦めて吐息をつくと、失礼かと思ったがオータムナルさまの執務机に腰を降ろして彼を見下ろした。
空いた片方の手でオータムナルさまの頬をそっと包み、いつか彼がしてくれたように彼の額に俺の方からこつん…と合わせる。
オータムナルさまは目だけを上げて、俺を見つめてきた。
俺は目を伏せると
「俺はあなたが思ってるほど‟きれい”な人間じゃない。
あなたの目にはいつまでも‟きれい”な来栖 紅で映っていたいんですよ」
そっと囁いた。
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オータムナルさまの『日本』を指していた手が俺の頬にあてがわれ、彼の切れ長の目がまばたいた。
その美しい目を縁どる長い睫が俺の頬に当たるぐらい―――至近距離で
彼は囁いた。
「クルス……何故そのようなことを言う。
何故、そんなにも苦しそうなのだ」
苦しい―――………
そうかもしれない。
この胸を締め付けるような高揚も、『高鳴り』だと思っていたが、実は『苦しみ』だったのかもしれない。
「俺のことを知ったらきっとオータムナルさまはドン引きですよ」
「ドンビキとは?」
オータムナルさまが不思議そうに聞いてきて
「ああ、えっと……軽蔑って意味ですかね。英語だとDisesteem.」
「なるほど」オータムナルさまはその言葉についてちょっと考えるように首を捻り
「コウ」
ふいに下の名前を呼ばれて俺がうっすらと目を上げると、
「と、呼んでも良いか?マリアのように」
俺が肯定の意味で頷くと
「コウとは漢字で何と書くのだ。どういう意味を持っているのだ」
「紅のコウ。紅茶のコウ……の方が分かりやすいかな…」
俺が執務机に指文字でその漢字を綴ると
「紅
良い名だな。実に美しい―――
お前は‟きれい”じゃない、と言ったが私はそうは思わない。
たとえ‟きれいじゃない”部分があったとしても、それは紅のすべてだ。今のお前を作りあげたすべてだ。
私は受け止める。軽蔑などしない」
ふいに
涙が出そうになった。
俺がたった一人、愛した人も俺の汚い部分も全部受け止めて愛してくれた。
どうしてオータムナルさまの手はこんなにも温かいのだろう。
どうして彼の指先はこんなにも優しいんだろう。
俺は―――
また誰かを愛してもいいのだろうか。
「紅」
オータムナルさまに名前を呼ばれ、俺の顎に手を掛けられる。
より一層顔が近づいてきて、唇と唇が触れ合う瞬間―――
「皇子、お取込み中失礼いたします。
ドクターがお見えです」
今、まさに俺とオータムナルさまはキスをしようとしていたって言うのに、秋矢さんは顔の表情筋一つ動かさずさらりと言い執務室に顔を出した。
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あ、秋矢さん!!?
俺はびっくりしてオータムナルさまから慌てて離れた。オータムナルさまは名残惜しそうにまだ俺の頬に手を伸ばしていたが
「トオル、入るときはノックぐらいせぬか」
不機嫌そうに腕を組んで秋矢さんを睨み上げる。
「ノックはいたしましたよ。二度ほど」秋矢さんはしれっとして言う。
「それよりもドクターがお待ちです、診察室になっている寝所にお戻りください」
またも機械的に淡々と言われ、
「まだ紅と離れがたいが……診察の時間なら致し方あるまい。
次の授業を楽しみにしているぞ、紅」
オータムナルさまは小さくウィンクを寄越してきて、俺は「は、はい!」と慌てて答えるしかできなかった。
彼が執務室を出て行ってしまうと、
「それでは私も出かけるので失礼いたします」と秋矢さんまでも部屋を出て行こうとする。
え??
「あの……秋矢さんはオータムナルさまの診察に付き添わないのですか?」
俺の質問に秋矢さんはちょっと眉をしかめて腕を組む。
「いつでも皇子と私をセットと思わないでください。診察する際に彼の部屋に入れるのは皇子とドクターのみ。
たとえ私でも入室することはできません」
そーなんだ……
「お、オータムナルさま……どこかお体のお加減が悪いのですか」
心配になって聞くと
「さぁ?」
予想外に秋矢さんはそっけなく肩をすくめるだけだった。
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「さぁ……って心配じゃないんですか!オータムナルさまが何か酷い病気にかかっていらっしゃるかもしれないのに」
俺が勢い込んで秋矢さんの腕を掴むと、思った以上に俺の力が強かったのか、秋矢さんは腕を見つめて目を細めると表情を歪ませた。
「痛い。ミスター来栖。離してください」
そう言われて俺は慌てて彼の手首から手を離す。
「す、すみませんでした」
秋矢さんは掴まれた部分を撫でさすり、
「誰にも秘密ぐらいあるでしょう?皇子は‟定期健診”の内容を知られたくないと仰ってましたので、私にはそれ以上詮索することはできません」
そ……そうかもしれないけど……
「でも!やっぱり……!」
心配だ――――
この言葉は飲み込まれた。
秋矢さんはよっぽど痛かったのか、まだ腕を撫でさすりながら小さく吐息。
「皇子は病気などではありません。ですからご心配なさらないように」
きっぱり言われて俺は首を傾げた。
さっき知らないって言ったじゃん。でも、秋矢さんの口ぶりからすると何か知っていそうだ。
でも、その何かを聞き出せない俺。
黙り込んだ俺を覗き込み、秋矢さんが小さく笑った。
「ちょうど良かった。いっときとは言え皇子から解放されました。
一杯飲みに行こうと思っていたのですが、お付き合いいただいても?」
「飲みに……?」
解放って……やっぱ秋矢さんも側室って言う立場に不満を感じてるのかな。
そう言えばカイルさまがオータムナルさまが秋矢さんを束縛してるとか何とか言ってたような……
「うまい日本食が食えるところがあるんですが、いかがですか?」
彫刻のように整った顔でこれまた完璧な笑顔で聞かれると「No」とは言えない俺。
P.88<→次へ>
冬の夜
キミへの気持ちを窓に託しました
たった一言が言えない私は臆病者ですか?
でも今はこれが精一杯
雪に想いを
『次はお天気コーナーです。今日から明日にかけて低気圧が日本の南を発達しながら東北東に進み、明日には日本の東に進む見込みです。
関東甲信地方では今夜から雨が次第に雪に変わり、あす午前中にかけて山沿いを中心に、平野部でも積雪となる所がある見込みです。雪による交通障害、架線や電線、樹木等への着雪、路面の凍結に注意してください』
今朝のワイドショーのお天気キャスターの言葉を思い出したのは、勤めている会社の定時を迎え業務を終えたときだった。
「えー!やだっ!雪降ってるじゃん」と誰からともなく声が挙がり
「ホントだー、私傘持ってきてない」
「どうりで冷えると思った」
と同僚たちが次々と口にする。
またも誰かが「せっかく彼氏に買って貰ったバッグが濡れちゃう」と言い出し、それでもちっとも困った様子ではなく、どこか誇らし気だ。
そしてその周りの女子たちが盛んに羨ましがる。
「いいなー、でもあたし今度のクリスマスにダイヤの指輪ねだっちゃうんだー」と一人の女の子。
「いいなー!」黄色い声に、私は苦笑いを浮かべるしかない。ここでの男の年収と、女の品格は反比例する。いかにいい服を着るか、いかにいいバッグを持つか、いかにいい男を彼氏にするか、年中こんな会話でうんざりする。
かと言って輪に加わらないわけにはいかない。仕事とプライベートの内容こそ比例するのだ。
P.1
「仁科《にしな》さんはいつも素敵な服着てますよね」ふいに一人から話題を振られた。
「えっ、そう?」私は曖昧に笑って言葉を濁した。今日の服装は白いタイトワンピ。腰回りに太いベルトが巻き付いていて、ちょっと豪華に見えるゴールドのバックルがワンポイント。
そして同じくゴールド系のスパンコールが襟元に入ったコートを腕にかけて帰りたいアピール。
シンプルな服装だったけど、流石は目が肥えている女子たち。すぐにそれが高価なものだと見破った。女のチェック程厳しいものはない。私がオシャレをするのは対、男ではなく、彼女たちの為。
「仁科さんてぇ、結婚しないんですかぁ」間延びした話し方が赦されるのはこの年代の特権だ。
「結婚ね……相手がいないから」私は適当にごまかして再び言葉を濁した。
こう言っておけば大抵の女は引き下がる。私が長い間、人付き合いをしてきて、これが最良の方法だと知ったのはつい最近のこと。
私がこの会社に勤めはじめて五年になる。この会社での女性正社員では長いほうだ。後から派遣された若い女の子たちから見れば私なんてお局のようだった。
「そう言えばぁ仁科さん、この前見ちゃったんですぅ」一人の女の子が思わせぶりに口元へ手をやった。
短く切った髪にはパーマがあててあり、傍から見ればマシュマロのように可愛らしい女の子だ。
だが、そんな可愛らしさに惑わされてはいけない。女はいつでも顔の下にしたたかな一面を隠しているのだから。
P.2
「何を?」私は平静を装って取り澄ました。
もしかして“アイツ”と居る所を見られた?と思ってドキリとしたが
「この前の金曜日、青山のイタリアンレストランで、経理の前田さんと一緒にいるところぉ」
ああ、そっちか。とちょっとほっと安堵する。
「ええー!!」周りから黄色い声が飛ぶ。私は思わず頭を押さえたくなった。
そう、確かに経理の前田に誘われて先週の金曜に青山まで行った。
でも食事をしただけで、別に艶かしい関係ではない。だが、ここで重要なのが、経理の前田という男、この会社ではなかなかのハンサムでしかも独身、きさくな性格をしているわりには頼れる上司でもあるのだ。そうゆう男を若い女性社員が放っておくわけがない。
「いいなー、ねえお二人って付き合ってるんですか?」
食事をするイコール男女の関係と、どうして若い子たちはそう短絡的なのだろう。私はこの場から逃げ出したくなった。だけど、この場から立ち去ると認めたことになってしまう。
「別に、ただお食事に誘われただけよ」
「うそー、絶対前田さん仁科さんのこと狙ってるわよぅ。だって、あたしたちがいくら誘っても全然だったのよー。それなのに前田さんは仁科さんのこと」
嫉妬心と羨望の眼差しで見られ、私は思わず後ずさり。
何とか前田との話を切り返し、従業員出入り口から女子の群れに混ざって出てきた所だった。
遠くで派手なエンジン音が聞こえてきて、この狭い路地裏へと近づいてきた。この聞き慣れたエンジン音。私は嫌な予感がして思わず一方通行の標識を見つめた。
「よーう、仁科」黒のポルシェの窓から腕を出し、銜えタバコをしながら九条《くじょう》が手を振っている。
「やっぱり」
私は、今度こそ頭痛をこらえるように頭をしっかりと押さえた。
P.3
「仁科、今終わりか?これから飯でも食わねー?」
この状況を知らずに能天気に笑ってるその整った横っ面に今すぐ張り手を食らわせたい。
「あ、あんたいつ東京に戻ってきたわけ?」私は女の子の群れから一人離れると、九条の車に近づいた。
「あー、悪い。三日ぐらい前かな?この前言ってた日本料理屋行こうぜ」
「あんたっていつも何で急なのよ」
私が声を潜めて九条を睨んでいるときだった。
「えー、仁科さんの彼氏さんですかぁ?かっこいい!」
女の子たちの視線が九条に移った。予想していなかった最悪の事態。
上半身しか見えなかったが、今日の九条は黒いジャケットの中に白いカットソーを着ていて、真冬だって言うのに襟ぐりに濃いサングラスをかけている。いつものように髪をラフにセットしてあって、左耳には輪っかのようなピアスが三つ光っていた。
そう
どこからどーみてもこいつは
ホスト。
P.4
「仁科、今終わりか?これから飯でも食わねー?」
この状況を知らずに能天気に笑ってるその整った横っ面に今すぐ張り手を食らわせたい。
「あ、あんたいつ東京に戻ってきたわけ?」私は女の子の群れから一人離れると、九条の車に近づいた。
「あー、悪い。三日ぐらい前かな?この前言ってた日本料理屋行こうぜ」
「あんたっていつも何で急なのよ」
私が声を潜めて九条を睨んでいるときだった。
「えー、仁科さんの彼氏さんですかぁ?かっこいい!」
女の子たちの視線が九条に移った。予想していなかった最悪の事態。
上半身しか見えなかったが、今日の九条は黒いジャケットの中に白いカットソーを着ていて、真冬だって言うのに襟ぐりに濃いサングラスをかけている。いつものように髪をラフにセットしてあって、左耳には輪っかのようなピアスが三つ光っていた。
そう
どこからどーみてもこいつは
ホスト。
P.4
でも勘違いしてもらっては困る。私はこいつの客じゃない。東京を離れていたのも、大方客の一人と遠征旅行でもしていたのだろう。
「違っ!こいつとは単なる腐れ縁。彼氏とかじゃないから」
と慌てて否定するも秒の単位で噂が回るこの会社で明日の朝には『仁科さんて、ホストに貢いでるらしいよ』とあちこちで言われるに違いない。
くらり、と眩暈が起きた。
腐れ縁、と言うのは間違いない。中学からの同級生だから。
「じゃあ、本命は前田さんですかぁ?」女の子達が興味津々で目を輝かせている。
「前田??ひどいなー、仁科ぁ。俺たち何度もセック……もがっ」
最後の方が言葉にならなかったのは私の手が九条の口を塞いだから。
ふざけんな!何言い出すんだこいつぁ!!
空気読めっつうの!
と言うことを目で訴えると、流石に冗談が過ぎたと思ったのか九条は苦笑い。
「で?行くの?行かないの?」せっかちに聞かれて
「わかったわよ!行くわよ」半ば怒鳴るように九条を睨みつけると、私はそそくさと助手席に回った。
「それじゃ、私はこれで。お先に」女の子たちにはなるべく平静を装って、にこやかに手を振る。
ため息をついて車の助手席を開けると、運転席から九条が笑顔で手を差し伸べてきた。
「ただいま、仁科」
昔とちっとも変わらない笑顔。眉が下がり、目を細める、優しい笑顔。そして時々その低い声で呼ばれる、自分の名前。何だかくすぐったいが、この笑顔を向けられたら、たとえ九条の勝手に振り回されても、赦せてしまう。
「……おかえりなさい」私は俯くと、小さく返事を返した。
P.5
前述した通り私と九条とは中学からの付き合いだ。かれこれ十年以上の付き合いになる。十年、と言う歳月は長く感じられるけれど、その間に音信不通になったり、そしてどこからか連絡先を入手して電話を寄越して来たり、をだらだらと繰り返している。
でも、私たちははっきりと『付き合って』はいない。もちろん九条のブラックジョークの『体の関係』もない。
あるのは中学生から変わらないノリと
私が九条のこと「好き」
と言うことだけ。歳を重ねて、九条がホストになって……あ、今はホストじゃなくホスト店を経営してるオーナー様でもあったかしら。とにかく環境は変わったものの、不変的な何かは確実に存在している。
パワーウィンドウの外をちらほらと雪が降っていた。
「北海道行ってきたんだ~土産に蟹買ってきてやったぞ」と九条は運転しながらどこか楽しそう。
「北海道……ここより雪が多そうね」ぼんやりと呟きながら、九条に気づかれない程度にこっそりと、外気との差で曇った窓ガラスに、人差し指で
『好き』
と書く。
私の書いた文字は私の体で隠れて九条からは見えない。
「蟹すきしようぜ~、お前んちで」
「何であんたを一々上げないといけない?」
言い合いをしながら、やがて私のマンションに着く頃にはみぞれになった大粒の白いものが私の『好き』をかき消す。
「だってお前んち床暖あるじゃん?」
「そんな理由かよ」
中学生から変わってないこの関係とノリ。
今はまだ―――
この関係でいいや。
~FIN~
P.6