Side A(2nd)
私が手配したハイヤーが宮殿の敷地内に入り、目の前に宮殿が見えてきたところで、
隣で私の肩に頭を乗せ、眠りこけているミスター来栖の細い両肩を軽く揺すった。
「ミスター来栖。着きましたよ」
「んー……」
私が声を掛けても彼は起きだす気配がなく、小さくうめき声を挙げただけだった。仕方なしに私は彼の体を抱えて車外に出ようとすると
「Need some help?(お手伝いしましょうか)」と親切なアラブ系の運転手が申し出てくれたが
「No, thanks.(いや、結構)」
私はチップをその運転手に手渡し、ミスター来栖を横抱きに抱えると運転手はそれ以上何も言わず車は立ち去って行った。
何となく―――
誰にも触れさせたくないような気がした。
「Welcome back.(おかえりなさいませ)」
「I'm home.(ただいま)」
宮殿の扉の前で待機している衛兵がマシンガンを持ち直し、宮殿の扉を開けてくれる。
短い挨拶をして私が宮殿内に足を踏み入れる。国籍が日本にある限り、本来なら私が「ただいま」と言う場所は違うところに存在するのだろうが、今は―――ここが私の住処だ。
そして同じ国からやってきたこの男も。
ミスター来栖を抱きかかえ歩きながら、子供のように無邪気に眠る彼の姿を見て私は冷笑を浮かべた。
「思ったより酒が強いですね、ミスター来栖」
一見して、酒を飲みに行ったミスター来栖が酒に酔いつぶれたかのように見えるが、そうではない。
彼がトイレに立ったとき、私が彼の飲み物に薬を入れたのだ。まさか酒に薬が入っているとは知らず、ミスター来栖は疑いもなく飲み物をおいしそうに飲んで、そしてきっちりと飲み干した。
何故、ミスター来栖を眠らせる必要があったのか。
私の目的はただ一つ。
P.96
すれ違った使用人に皇子の所在を尋ねると
「He's still under the doctor's watch.(まだドクターの診察中でございます)」と言われ、私は宮殿の奥を目を細めて見やった。
「How convenient.(それは好都合)」
私の言葉に使用人は首を傾げ、「Nothing.(何でもない)」私は口に笑みを湛えた。
鍵の掛かっていない部屋は誰でも出入りできる。
鍵は存在するし、施錠しようと思えばできる。けれど宮殿内の人間が鍵を掛けない理由は―――ここがそれだけ平和な場所だ、と言うことを意味する。
長年、オータムナル様に仕えてこの国のこの宮殿に馴染んでいた私は、いつの間にか鍵を掛ける習慣が無くなっていた。
だからあんなにあっさりミスター来栖とカイル様が出入りできたのだ。
鍵を掛けなければいけないことを失念していた。
ミスター来栖を彼の部屋に運んでいき、ベッドに彼をそっと寝かせる。彼の首の後ろに手を添えて、まるで壊れ物を扱うような手つきで―――
「私はあなたが大好きなのですよ?
だから丁寧に接しているのです」
私は内鍵をしっかり閉めて
ようやく本当の意味で彼と二人きりになった。
ベッドに横になったミスター来栖を眺めると、彼はちょっと苦しそうにもがいて首元で手をふらふらさせていた。
彼はいつもと変わらずワイシャツとスーツパンツと言うこざっぱりした格好だ。そのワイシャツのボタンは一番上まできっちりしまっている。
私はその襟元に手を伸ばし、彼の胸元を楽にしようとボタンを外した。
一個……また一個と外していると、徐々にミスター来栖の体が露わになる。
部屋の明かりに照らし出された彼の体は、抱きかかえたときに感じた軽さを覆すものだった。
全体的に薄そうに見えた体つきだが、その細い骨格に均整の取れたきれいな筋肉がついている。
きゅっとしまったウェストは腹筋が割れていた。スラリとしたその肢体はまるでカモシカのようにしなやかだ。
「意外だな。鍛えていそうだ」
しなやかな肢体は、象牙のような滑らか肌が覆っていて、私は思わず彼の胸元に顔を近づけた。
心臓の辺りに唇を寄せ、彼の肌に口づけを落とす。
さらり、と心地よい感触がした。
P.97
ミスター来栖の胸元から顔を上げ、今度は彼の顔に自分の顔を近づけ、その口元にそっと指を置いた。
定期的な呼吸が私の指を掠めていき、深い眠りに入っていることが分かる。
子供のようなあどけない寝顔はオータムナル様の言う通り、確かに天使だ。無垢で穢れを知らない―――まっさらな…
私はうっすらと紅色が灯るその形の良い唇を指先でそっとなぞり、小さく微笑んだ。
「‟ここ”はまだ後にとっておきますよ、ミスター来栖。
私は旨いものを後に取っておくたちでね」
彼の唇に吸い付いて、唇を舐めてその真っ白な歯列をなぞり舌を入れて、息もできないぐらい口腔内を犯して―――
あなたは一体どんな表情を見せてくれるのか楽しみだが、
今はまだやるべきことが残っていてね。
「しばらくお預けだが、拗ねないでくださいよ」
最後に彼の頬をそっと撫であげ、私はベッドから腰を上げた。
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ぐるり、室内を見渡すと私と同じ部屋の間取りで大して変わり映えもしない光景が目に入った。
部屋にミスター来栖の私物はほとんどなく、妙にこざっぱりしている。
窓際にアンティーク風の机があり、その上にミスター来栖の私物だろう、ノートPCが開きっぱなしになって置いてあった。
私はそのPCに手を伸ばしてEnterキーを押すと、スリープ状態で保持されていたのか、画面がぱっと切り替わる。
ロックは掛かっておらず、画面にいくつものアイコンが登場した。
そのどれもが初期設定のときに入っているもので、大したソフトやアプリは入っていないように思えた。
次いでインターネットを開いて履歴を見ると、『The Last Supper』となっていて
「最後の晩餐?」
私は一人言を漏らしてその履歴をクリックすると、オータムナルさまの執務部屋に飾られている見慣れた絵画が現れた。
その前の履歴を見ても、珍しいものは出てこなかった。無料の動画サイトで猫や犬と言った小動物の動画を閲覧した履歴だけが残っている。
趣味が、小動物の鑑賞とは……また期待を裏切らない真面目っぷり。
もっとエロ動画とか見ていたら、今度ネタにしてやれるのに。
めぼしいものは見つからず、私は元あったスリープ状態に戻し、今度は彼が眠っているベッドの下を覗き込んだ。
ベタだが、ベッドの下に何か隠しているとか。
だがそこは予想通り何もなく、「まぁ高校生じゃあるまいしな」諦めて顔をひっこめようとすると、マットレスとベッドの骨組みの間に白い何かが挟まっているのを見て私は目をまばたいた。
P.99
その白い何かをひっぱり出すと、それは結構な大きさで、折りたたまれた一枚の紙だった。
紙の質から、色あせ具合。まだ真新しいものだと分かる。
それを床の上に広げて、私は目を開いた。
それは―――
宮殿の見取り図だった。
それもかなり詳細な。
私は見取り図に鼻を寄せてインクの匂いをかぐと、それもまた新しいものだった。
ミスター来栖の手書きだろう、少しだけ線が歪んでいる場所もあったが、彼の字だと思われる字であちこちに注釈がしてある。
その注釈は何かの暗号のように記号と数字が複雑に入り混じっていた。
「何故―――このようなものを」
私はベッドの上でまるで穢れなき天使のような寝顔で眠っているミスター来栖を見やった。
彼はつい昨日、宮殿で迷子になっていた。あれはフリだと言うのだろうか。
それともその後に描かれたものだろうか。
天使だと思って居たが、彼はもしかしてとんでもない
―――悪魔なのかもしれない。
だがいくら地図とミスター来栖を見ても、何も分からない。彼が何を考え、何を思っているのかなんて。
私は地図をそっと元あった場所まで戻し、今度はクローゼットの中を覗いた。
クローゼットにかかった衣服類は彼が日本から持ってきたものだろう。似たようなワイシャツが数枚とスーツパンツが数本だけの寂しいワードローブだ。
足元を見ると、さして大きいとは言えないボストンバッグが一つ。
それを取り出し、中身を見るとケータイ充電器やらポケット辞書やらが出てきた。一つ一つ取り出しながらまじまじと観察するも特に何の代わり映えもない量販店で購入したものだと分かった。
パスポートも出てきたが、真面目な表情を浮かべる彼の顔写真は紛れもない彼自身だったし、記載されている生年月日や本籍は私が事前に確認したことと相違なかった。
つまり偽装された形跡もない、と言うことだ。
「何か裏がありそうだったが、地図を除いて限りなくシロに近い男だな」
私の思い過ごしか。
小さく吐息を吐き、それらをしまおうとして、バッグの底で何かが指に触れる感触があった。
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それを取り出して見ると、それは小さな小箱だった。ワインレッド色をしたベルベッド素材の小箱は大きさからして指輪が入っていそうに見える。
それを開くと私が想像した通り、リングがはめ込まれていた。
金色に輝く細めのリング。その台座にはダイヤモンドがあしらってある。
一見して女ものだと分かるが、何故ミスター来栖はこんなものを大事に、まるで隠すようにしまい込んでいたのか。
誰かの形見なのだろうか。
―――例えば母親とか―――
考えて、私は目を伏せてその小箱をそっと閉じた。
もとあった場所に戻して、クローゼットの扉も閉じる。
結局
リスクを冒してまでミスター来栖と二人きりになったと言うのに、大した収穫もなかった。
諦めて自室に戻ろうと決めたときだった。
コンコン……
部屋をノックする音が聞こえてきて、私は顔を上げた。
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「Mr.Akiya.(秋矢様)」扉の外で声が聞こえ、それが先ほどの運転手の声だと気づいた。扉を開けると
「Forget something.(お忘れものでございます)」
と、ミスター来栖の松葉杖を手渡される。そう言えば、ミスター来栖は数週間前にホームで転落して足の骨にヒビが入った、とか言っていたような。
「Thank you for the time and effort.(ありがとう。手間をかけさせたね)」
「That's all right. (いいえ)Uh, will you excuse me?(それでは失礼いたします)Good night.(おやすみなさい)」
「Good night.」
私は運転手が帰るのをきちんと見届けて、手の中にある松葉杖に視線を落とした。
単なる松葉杖だと言うのに……意外と重いな。
松葉杖を持ち替えようと手首を動かしたとき、
ズキリ……
私の手首に鈍い痛みが走った。
「?」
上着の袖を捲って手首を見やると、先ほどミスター来栖に掴れた場所が赤く変色していた。
結構な―――力だとは思ったが、
まさか痕に残るなんて……
ちょっと驚いて目をまばたいていると、
「んー……」
ミスター来栖が小さくうわごとを漏らし、寝苦しいのか、身動きして寝返りを打とうとしている。
私の意識は自分の手首から彼の寝顔へと移った。
「ああ、苦しかったですか?寝返りを打ちたいのですね」
私は彼が寝返りを打つのを手助けする意味で彼の背を反転させた。
P.102
彼は「んー…」と小さく漏らし、またもすやすやと心地よさそうな眠りに入っていく。
開けたシャツが腹の辺りで捲り上がっていて、引きしまった腰に目がいった。
うつぶせになった彼の白いうなじに掛かる明るい茶色の襟足。
ミスター来栖は起きる気配を見せずに、その無防備な寝姿をさらけ出している。
何だかひどく色っぽくて、私はそのシャツの襟の部分をちょっと下げた。
肩までずり下げて私は再び目をまばたいた。
思い切ってシャツを背中の半分まで下げて、まばたきから見開きに変わる。
ミスター来栖の白い背中には無数の傷跡が残っていた。
それも軽いものではない。何か鋭利な刃物で傷つけられたような―――
そんな傷痕だ。
傷痕の具合から見て、五年以上は前のものだと分かった。
縫合はしてあるのだろう、きっちり傷痕は閉じていたが、縫合痕の皮膚が僅かに盛り上がって白い線がいくつもいくつも彼の背中を刻んでいる。
こんな風に傷痕が残るとは、よほど酷くて深いものだろう。
くっきりとした肩甲骨の上を中心に、放射線状のように伸びたその白い痕が―――
まるで背中に生えた羽のように見える。
私はミスター来栖の背中にスマホを向けると、
カシャッ
その姿を写真に収めた。
もちろん、ツイートするつもりなんてない。そんなもったいないことはしない。
これは
もっともっと大事なこと―――時が来たら何かに使わせてもらうよ。
「ミスター来栖。やはりあなたは私が想像した以上の男だ」
くすっ
喉の奥で笑みが漏れ、私はその傷痕にそっと口づけ。
「ミスター来栖。申し上げたでしょう?
無防備過ぎる―――と」
P.103<→次へ>
冬の夜
キミへの気持ちを窓に託しました
たった一言が言えない私は臆病者ですか?
でも今はこれが精一杯
雪に想いを
『次はお天気コーナーです。今日から明日にかけて低気圧が日本の南を発達しながら東北東に進み、明日には日本の東に進む見込みです。
関東甲信地方では今夜から雨が次第に雪に変わり、あす午前中にかけて山沿いを中心に、平野部でも積雪となる所がある見込みです。雪による交通障害、架線や電線、樹木等への着雪、路面の凍結に注意してください』
今朝のワイドショーのお天気キャスターの言葉を思い出したのは、勤めている会社の定時を迎え業務を終えたときだった。
「えー!やだっ!雪降ってるじゃん」と誰からともなく声が挙がり
「ホントだー、私傘持ってきてない」
「どうりで冷えると思った」
と同僚たちが次々と口にする。
またも誰かが「せっかく彼氏に買って貰ったバッグが濡れちゃう」と言い出し、それでもちっとも困った様子ではなく、どこか誇らし気だ。
そしてその周りの女子たちが盛んに羨ましがる。
「いいなー、でもあたし今度のクリスマスにダイヤの指輪ねだっちゃうんだー」と一人の女の子。
「いいなー!」黄色い声に、私は苦笑いを浮かべるしかない。ここでの男の年収と、女の品格は反比例する。いかにいい服を着るか、いかにいいバッグを持つか、いかにいい男を彼氏にするか、年中こんな会話でうんざりする。
かと言って輪に加わらないわけにはいかない。仕事とプライベートの内容こそ比例するのだ。
P.1
「仁科《にしな》さんはいつも素敵な服着てますよね」ふいに一人から話題を振られた。
「えっ、そう?」私は曖昧に笑って言葉を濁した。今日の服装は白いタイトワンピ。腰回りに太いベルトが巻き付いていて、ちょっと豪華に見えるゴールドのバックルがワンポイント。
そして同じくゴールド系のスパンコールが襟元に入ったコートを腕にかけて帰りたいアピール。
シンプルな服装だったけど、流石は目が肥えている女子たち。すぐにそれが高価なものだと見破った。女のチェック程厳しいものはない。私がオシャレをするのは対、男ではなく、彼女たちの為。
「仁科さんてぇ、結婚しないんですかぁ」間延びした話し方が赦されるのはこの年代の特権だ。
「結婚ね……相手がいないから」私は適当にごまかして再び言葉を濁した。
こう言っておけば大抵の女は引き下がる。私が長い間、人付き合いをしてきて、これが最良の方法だと知ったのはつい最近のこと。
私がこの会社に勤めはじめて五年になる。この会社での女性正社員では長いほうだ。後から派遣された若い女の子たちから見れば私なんてお局のようだった。
「そう言えばぁ仁科さん、この前見ちゃったんですぅ」一人の女の子が思わせぶりに口元へ手をやった。
短く切った髪にはパーマがあててあり、傍から見ればマシュマロのように可愛らしい女の子だ。
だが、そんな可愛らしさに惑わされてはいけない。女はいつでも顔の下にしたたかな一面を隠しているのだから。
P.2
「何を?」私は平静を装って取り澄ました。
もしかして“アイツ”と居る所を見られた?と思ってドキリとしたが
「この前の金曜日、青山のイタリアンレストランで、経理の前田さんと一緒にいるところぉ」
ああ、そっちか。とちょっとほっと安堵する。
「ええー!!」周りから黄色い声が飛ぶ。私は思わず頭を押さえたくなった。
そう、確かに経理の前田に誘われて先週の金曜に青山まで行った。
でも食事をしただけで、別に艶かしい関係ではない。だが、ここで重要なのが、経理の前田という男、この会社ではなかなかのハンサムでしかも独身、きさくな性格をしているわりには頼れる上司でもあるのだ。そうゆう男を若い女性社員が放っておくわけがない。
「いいなー、ねえお二人って付き合ってるんですか?」
食事をするイコール男女の関係と、どうして若い子たちはそう短絡的なのだろう。私はこの場から逃げ出したくなった。だけど、この場から立ち去ると認めたことになってしまう。
「別に、ただお食事に誘われただけよ」
「うそー、絶対前田さん仁科さんのこと狙ってるわよぅ。だって、あたしたちがいくら誘っても全然だったのよー。それなのに前田さんは仁科さんのこと」
嫉妬心と羨望の眼差しで見られ、私は思わず後ずさり。
何とか前田との話を切り返し、従業員出入り口から女子の群れに混ざって出てきた所だった。
遠くで派手なエンジン音が聞こえてきて、この狭い路地裏へと近づいてきた。この聞き慣れたエンジン音。私は嫌な予感がして思わず一方通行の標識を見つめた。
「よーう、仁科」黒のポルシェの窓から腕を出し、銜えタバコをしながら九条《くじょう》が手を振っている。
「やっぱり」
私は、今度こそ頭痛をこらえるように頭をしっかりと押さえた。
P.3
「仁科、今終わりか?これから飯でも食わねー?」
この状況を知らずに能天気に笑ってるその整った横っ面に今すぐ張り手を食らわせたい。
「あ、あんたいつ東京に戻ってきたわけ?」私は女の子の群れから一人離れると、九条の車に近づいた。
「あー、悪い。三日ぐらい前かな?この前言ってた日本料理屋行こうぜ」
「あんたっていつも何で急なのよ」
私が声を潜めて九条を睨んでいるときだった。
「えー、仁科さんの彼氏さんですかぁ?かっこいい!」
女の子たちの視線が九条に移った。予想していなかった最悪の事態。
上半身しか見えなかったが、今日の九条は黒いジャケットの中に白いカットソーを着ていて、真冬だって言うのに襟ぐりに濃いサングラスをかけている。いつものように髪をラフにセットしてあって、左耳には輪っかのようなピアスが三つ光っていた。
そう
どこからどーみてもこいつは
ホスト。
P.4
「仁科、今終わりか?これから飯でも食わねー?」
この状況を知らずに能天気に笑ってるその整った横っ面に今すぐ張り手を食らわせたい。
「あ、あんたいつ東京に戻ってきたわけ?」私は女の子の群れから一人離れると、九条の車に近づいた。
「あー、悪い。三日ぐらい前かな?この前言ってた日本料理屋行こうぜ」
「あんたっていつも何で急なのよ」
私が声を潜めて九条を睨んでいるときだった。
「えー、仁科さんの彼氏さんですかぁ?かっこいい!」
女の子たちの視線が九条に移った。予想していなかった最悪の事態。
上半身しか見えなかったが、今日の九条は黒いジャケットの中に白いカットソーを着ていて、真冬だって言うのに襟ぐりに濃いサングラスをかけている。いつものように髪をラフにセットしてあって、左耳には輪っかのようなピアスが三つ光っていた。
そう
どこからどーみてもこいつは
ホスト。
P.4
でも勘違いしてもらっては困る。私はこいつの客じゃない。東京を離れていたのも、大方客の一人と遠征旅行でもしていたのだろう。
「違っ!こいつとは単なる腐れ縁。彼氏とかじゃないから」
と慌てて否定するも秒の単位で噂が回るこの会社で明日の朝には『仁科さんて、ホストに貢いでるらしいよ』とあちこちで言われるに違いない。
くらり、と眩暈が起きた。
腐れ縁、と言うのは間違いない。中学からの同級生だから。
「じゃあ、本命は前田さんですかぁ?」女の子達が興味津々で目を輝かせている。
「前田??ひどいなー、仁科ぁ。俺たち何度もセック……もがっ」
最後の方が言葉にならなかったのは私の手が九条の口を塞いだから。
ふざけんな!何言い出すんだこいつぁ!!
空気読めっつうの!
と言うことを目で訴えると、流石に冗談が過ぎたと思ったのか九条は苦笑い。
「で?行くの?行かないの?」せっかちに聞かれて
「わかったわよ!行くわよ」半ば怒鳴るように九条を睨みつけると、私はそそくさと助手席に回った。
「それじゃ、私はこれで。お先に」女の子たちにはなるべく平静を装って、にこやかに手を振る。
ため息をついて車の助手席を開けると、運転席から九条が笑顔で手を差し伸べてきた。
「ただいま、仁科」
昔とちっとも変わらない笑顔。眉が下がり、目を細める、優しい笑顔。そして時々その低い声で呼ばれる、自分の名前。何だかくすぐったいが、この笑顔を向けられたら、たとえ九条の勝手に振り回されても、赦せてしまう。
「……おかえりなさい」私は俯くと、小さく返事を返した。
P.5
前述した通り私と九条とは中学からの付き合いだ。かれこれ十年以上の付き合いになる。十年、と言う歳月は長く感じられるけれど、その間に音信不通になったり、そしてどこからか連絡先を入手して電話を寄越して来たり、をだらだらと繰り返している。
でも、私たちははっきりと『付き合って』はいない。もちろん九条のブラックジョークの『体の関係』もない。
あるのは中学生から変わらないノリと
私が九条のこと「好き」
と言うことだけ。歳を重ねて、九条がホストになって……あ、今はホストじゃなくホスト店を経営してるオーナー様でもあったかしら。とにかく環境は変わったものの、不変的な何かは確実に存在している。
パワーウィンドウの外をちらほらと雪が降っていた。
「北海道行ってきたんだ~土産に蟹買ってきてやったぞ」と九条は運転しながらどこか楽しそう。
「北海道……ここより雪が多そうね」ぼんやりと呟きながら、九条に気づかれない程度にこっそりと、外気との差で曇った窓ガラスに、人差し指で
『好き』
と書く。
私の書いた文字は私の体で隠れて九条からは見えない。
「蟹すきしようぜ~、お前んちで」
「何であんたを一々上げないといけない?」
言い合いをしながら、やがて私のマンションに着く頃にはみぞれになった大粒の白いものが私の『好き』をかき消す。
「だってお前んち床暖あるじゃん?」
「そんな理由かよ」
中学生から変わってないこの関係とノリ。
今はまだ―――
この関係でいいや。
~FIN~
P.6