謎過ぎる王族!
小説のハードカバーが床に落ちていて、俺はそれを拾い上げた。
俺は―――いつの間にか眠っていたのか。
パチパチパチ……と、薪が燃える音だけが聞こえる。
その音に混じって
『Kou……』
女の人の声が聞こえた。
夢の余韻だ。そうに違いない……
そう思ったが、
『Kou……』
名前を呼ばれて耳を澄ますと
『Kou―――』
もう一度呼ばれて、それが愛しい人……ステイシーの声であることに気づいた。
五年経っても忘れられない声は唄うような軽やかなリズムで俺をいつも楽しそうに呼ぶ。
Kou
何度目かの呼びかけで、
「Stacey?」
愛しい人の名前を呼び、
居る筈がないのに―――その姿を求めて、ふらり……チェアから立ち上がった。
窓の外は、夜の帳が膜を引いていて眠る前に見た同じ光景が広がっている。
一体何時なんだ……俺は何時間眠ってたんだ。
色んな疑問を浮かべながら、まるで誘われるようにふらふらと部屋の外へ出向く。
白いアーチ状の天井はどこまでも連なっていて、広い廊下はしんと静まり返っていた。
コツン、コツン……
俺の松葉杖を突く音だけが妙に響く。
その廊下の奥で白い人影が動いたように見えて
「Stacey?」
その白い影を追いかけようとして、松葉杖を方向転換させようとしていると
突然、誰かに肩を掴まれた。
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突然のことで驚きの声すら出ない。
喉の奥で小さな悲鳴が鳴っただけだった。
俺を襲ったカイルさまはもうこの宮殿には居ないって言うのに、数日前の恐怖が一瞬にして蘇る。
だけど
俺の腕を力強く掴んでいたのは―――秋矢さんだった。
「ミスター来栖。ここで何を?」
「秋矢さん………驚かさないでくださいよ…」
ほぅっとため息をつくと
「驚かしたつもりはございません」と秋矢さんはしれっとして言う。
「もう一度聞きます。ここで何をなさっていたのですか?」
またも聞かれて、俺は詰まった。
「あの……女の人が……」
「女?マリア様か沙夜姫様どちらかをご覧になられたんですか?」
「い、いえ!マリアさまと沙夜さん以外に女の人って居ますか?こう白っぽいドレスを着た……」
俺が手振り身振りで説明すると秋矢さんは訝しそうに眉を寄せた。
「いいえ。女中はたくさん居ますがここの女の使用人の服は黒で統一されています。男なら白を着ますが」
秋矢さんは益々怪訝そうに眉間に皺を寄せ、俺は思わず俯いた。
「すみません。見間違いだったようです。あの……ところで秋矢さんがここに居るってことはオータムナルさまもお戻りなのですか?」
戻ったらすぐに来てくれるって言ったのに―――
また嘘かよ。
内心で拗ねていると、
「皇子はまだ公務中でございます。今日は臣下の宿舎でお休みです。
私は皇子に言われて、あなたの様子を見に参ったわけです」
またも淡々と言われて、俺は目をまばたいた。
オータムナルさまが……俺の心配を?
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「皇子はあなたのことを大層気に掛けていらっしゃいました」
温度の感じられない淡々とした声音はいつも通りの秋矢さんだった。
そこに何の表情も読み取れない。
考えたら、秋矢さんてオータムナルさまの側室だって言うし、俺の面倒まで見させられてさぞ俺の存在なんて疎ましいだろう。
でも、俺は秋矢さんに嫌われたくない。
本来なら一番苦手なタイプだし、できれば関わりたくないのが本音だが、何と言ってもこの国に貴重(?)な日本人だし、何より大先輩だ。
「こんな時間にふらふらして、眠れないのですか?」
秋矢さんに聞かれて、俺は頷いた。
「あ、でも薬とかはいいです」
先回りして断りを入れると、秋矢さんは気を悪くした様でもなくうっすら笑い、俺に顔を近づけると、その細くてきれいな指で顎をなぞった。
「薬が要らないと言うのなら、私が添い寝してさしあげましょうか。
私を皇子の代わりと思えばいい」
へ―――………!
何を言われているのか分からず……いや、理解はできるんだけどね……だって秋矢さんはオータムナルさまの側室だし……と言う考えを浮かべて目をぱちぱちさせていると、
秋矢さんは俺に一歩近づいた。思わず俺が一歩後退すると、背後には壁が……俺の行き場はなくなった。
秋矢さんは壁に手を突き、その胸の中に俺を閉じ込めると、おもむろに俺の腰に手を回し
その手がだんだんと下に降りてきた…と思ったらいきなり尻を掴まれた。
「ミスター来栖。
あなたは男と寝たことがありますか?」
唐突に聞かれて俺はまたも目を開いた。
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寝る―――の意味は、当然セックスって言うことで、わざわざ確かめる程でもない。
俺はすぐ傍に迫っている秋矢さんの整った顔を見上げた。
秋矢さんは切れ長の目で流し目の視線を寄越してきて、ごくり…息を飲む。
オータムナルさまとは違った大人の色気と言うのだろうか。
秋矢さんは何をしても、どんな表情でも何かしら色気があって、妖艶とも言える。
「経験がない―――とおっしゃるのなら、私が手ほどきいたしましょう。
いずれ皇子の寝所にはべることになるとき、役に立つ」
秋矢さんは俺の耳元に顔を寄せると、低く囁くように言った。
その言葉を目を開いて聞いていた俺。
……な……何か言わなきゃ……
け…
「結構です!冗談はやめてください」
俺が秋矢さんの胸を押し戻すと、秋矢さんは「ははは!」と明るく笑った。
切れ長の目尻に皺が寄り、優しい目つきになった。
「失礼。あなたが私を見る目はまるで子猫のようだったので、ついおかしくて」
や……やっぱ冗談だったんだーーー!!
てか酷いよ!
「何故冗談だと?」秋矢さんに聞かれ
「そんなの本気かどうかの違いぐらい分かりますって。だてに27年も生きてないので」
俺は口を尖らせた。
秋矢さんの俺を見る目は―――いつだって性的な何かを感じなかった。
俺が秋矢さんを睨み上げると
「全然怖くないですね。まるで子うさぎが虎に歯向かっているような感じだ」
またも秋矢さんは「ははっ」と喉の奥で笑い、
俺は今度こそムっとなった。
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「部屋にお戻りください、ミスター来栖」と言われて、否応なく腕を引っ張られる。
俺はその手を強引に払い
「秋矢さんて俺のこと嫌いでしょう?」
と聞くと、
「好き、嫌いと問われれば答えられません。それほどあなたのことを良く知りませんから」
あっさりきっぱり言われて、確かに……俺も秋矢さんのこと「好き」か「嫌い」か問われれば即答できない。
「でも、嫌いじゃありませんよ」
次の瞬間、にっこり微笑まれる。その整い過ぎた作り笑いを見て、ホントかよ…と内心毒づく。
「質問は以上ですか、ミスター来栖。さぁお部屋にお戻りください。皇子の命令です」
戻る…も何も……正直俺は自分が今居る場所が良く分からない。恥ずかしいことに宮殿内を闇雲に歩き回っていたから方向感覚を失ってしまったのだ。
俺は秋矢さんのスーツの裾を軽く引っ張った。秋矢さんが頭に「?」マークを浮かべて首をかしげる。
「あの……すみません、俺迷子みたいで…」
恥ずかしさで死にそうだが、俺が顔を赤くして言うと「ぷっ」秋矢さんは吹き出して次の瞬間、またも
「ははは!」と豪快に笑った。
この人ってこんなに笑う人だっけ??
「ああ、おかしい。ミスター来栖。私はあなたのような人間、大好きですよ?」
何故だろう。‟大好き”と言われてるのにこんなにも嬉しくないのは。
「ご案内しますよ、ミスター来栖」
秋矢さんはまるで俺をお姫さま扱い。仰々しく手を差し出して俺を促した。
むーーー!!
と、なりながらも結局は秋矢さんの案内なしでは帰れない俺、トホホ。
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部屋まで戻されると、秋矢さんはすぐ帰ると思いきや
「皇子から言われているのです。あなたが寝付くのを見届けろ、と」
ぇえーー!
思わず口から不満が漏れそうになった。
「でも俺……まだ眠くないです。今日は起きてるつもりです。だから秋矢さんもお部屋に帰っていいですよ」
「そう言うわけにはまいりません」
またもピシャリと言われてしまった。頑固と言うのかオータムナルさまに忠実と言うのか……
それでも俺がぐずっていると、秋矢さんは小さくため息。
「とりあえずベッドにお入りになってください」言われてやや強引な仕草で寝かされる俺。「はい、ねんね、ねんね~」と言って俺に布団をかぶせると、布団の上からぽんぽん。
ねんね、って!ガキじゃねぇんだよ!
「俺は…!」
何か反論しようとすると
「はい、目を閉じて」と教師のような口調で言われ、条件反射で目を閉じる。
次の瞬間、
カシャッ!
小さな音が聞こえて目を開けると、秋矢さんはスマホを俺に向けて写メを撮っていた。
………??
「皇子があなたの寝顔をご所望でしたので。画像を送れとの命令だったので」
なんっっ!!
てか俺寝てねーし!!
「それって完全に捏造じゃないですか!」
俺が喚くと秋矢さんはマイペースにスマホをいじり
「あ、しまった。誤ってツイートしてしまった……」とぽつり。
はぁ!?
Twitter!?
秋矢さんTwitterやってんの!!?
てかその顔で呟いちゃってるの!?
てかこの人謎過ぎる!!
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ピコン♪
「早速リツイートが来ました。マリア様から
‟Wow,It's cute♪”
そして沙夜姫様からは
‟お休みなさいませ”と」
ええ!!?
てかリツイート早っ!!
てかあの二人寝るために部屋に帰ったんじゃ??まだ起きてたの?
てか秋矢さんのツイートをフォローしてる二人……どうなってるの、この宮殿!
「皇子からもありました。‟He's like an angel when he's sleeping.”
意味を訳しましょうか?」
「いえ、結構です」
俺は丁重にお断りをした。単語を拾って意味を解釈すると……『寝ているときは天使みたいだ』
……謎過ぎる。カーティア王国。
みんな仲が良いんだか悪いんだか。
でも、秋矢さんの変過ぎるテンションのおかげで今日は色んなことを忘れて眠れそうだ。
だけど―――
本当は秋矢さんじゃなく、オータムナルさまに来てほしかった。
公務だったら仕方ないけど、でも
何となく
寂しい。
会いたい――――
何でこんなこと思うんだろう。
俺………変だ。
と、思いつつもオータムナルさま……
彼の紅茶のような褐色の肌や、サファイヤのような澄み切ったブルーの瞳、まるで上質な金糸のようなプラチナブロンド。
彼の体の一部一部を思い浮かべ、俺は目を閉じた。
――――
――
三日三晩、ほとんど眠らなかったせいかその日はぐっすり眠れた。
そして目覚めると、目の前に
俺が会いたかった人
オータムナルさまが笑顔を浮かべて俺を覗き込んでいた。
俺がこの国に来た最初の夕刻と同じような姿勢で。
「ただいま、クルス。戻ったぞ」
オータムナルさまにそっと頬を撫でられ、その温かく優しい感触に俺は自然に笑みがこぼれた。
「おかえりなさい――――ませ」
P.80<→次へ>
冬の夜
キミへの気持ちを窓に託しました
たった一言が言えない私は臆病者ですか?
でも今はこれが精一杯
雪に想いを
『次はお天気コーナーです。今日から明日にかけて低気圧が日本の南を発達しながら東北東に進み、明日には日本の東に進む見込みです。
関東甲信地方では今夜から雨が次第に雪に変わり、あす午前中にかけて山沿いを中心に、平野部でも積雪となる所がある見込みです。雪による交通障害、架線や電線、樹木等への着雪、路面の凍結に注意してください』
今朝のワイドショーのお天気キャスターの言葉を思い出したのは、勤めている会社の定時を迎え業務を終えたときだった。
「えー!やだっ!雪降ってるじゃん」と誰からともなく声が挙がり
「ホントだー、私傘持ってきてない」
「どうりで冷えると思った」
と同僚たちが次々と口にする。
またも誰かが「せっかく彼氏に買って貰ったバッグが濡れちゃう」と言い出し、それでもちっとも困った様子ではなく、どこか誇らし気だ。
そしてその周りの女子たちが盛んに羨ましがる。
「いいなー、でもあたし今度のクリスマスにダイヤの指輪ねだっちゃうんだー」と一人の女の子。
「いいなー!」黄色い声に、私は苦笑いを浮かべるしかない。ここでの男の年収と、女の品格は反比例する。いかにいい服を着るか、いかにいいバッグを持つか、いかにいい男を彼氏にするか、年中こんな会話でうんざりする。
かと言って輪に加わらないわけにはいかない。仕事とプライベートの内容こそ比例するのだ。
P.1
「仁科《にしな》さんはいつも素敵な服着てますよね」ふいに一人から話題を振られた。
「えっ、そう?」私は曖昧に笑って言葉を濁した。今日の服装は白いタイトワンピ。腰回りに太いベルトが巻き付いていて、ちょっと豪華に見えるゴールドのバックルがワンポイント。
そして同じくゴールド系のスパンコールが襟元に入ったコートを腕にかけて帰りたいアピール。
シンプルな服装だったけど、流石は目が肥えている女子たち。すぐにそれが高価なものだと見破った。女のチェック程厳しいものはない。私がオシャレをするのは対、男ではなく、彼女たちの為。
「仁科さんてぇ、結婚しないんですかぁ」間延びした話し方が赦されるのはこの年代の特権だ。
「結婚ね……相手がいないから」私は適当にごまかして再び言葉を濁した。
こう言っておけば大抵の女は引き下がる。私が長い間、人付き合いをしてきて、これが最良の方法だと知ったのはつい最近のこと。
私がこの会社に勤めはじめて五年になる。この会社での女性正社員では長いほうだ。後から派遣された若い女の子たちから見れば私なんてお局のようだった。
「そう言えばぁ仁科さん、この前見ちゃったんですぅ」一人の女の子が思わせぶりに口元へ手をやった。
短く切った髪にはパーマがあててあり、傍から見ればマシュマロのように可愛らしい女の子だ。
だが、そんな可愛らしさに惑わされてはいけない。女はいつでも顔の下にしたたかな一面を隠しているのだから。
P.2
「何を?」私は平静を装って取り澄ました。
もしかして“アイツ”と居る所を見られた?と思ってドキリとしたが
「この前の金曜日、青山のイタリアンレストランで、経理の前田さんと一緒にいるところぉ」
ああ、そっちか。とちょっとほっと安堵する。
「ええー!!」周りから黄色い声が飛ぶ。私は思わず頭を押さえたくなった。
そう、確かに経理の前田に誘われて先週の金曜に青山まで行った。
でも食事をしただけで、別に艶かしい関係ではない。だが、ここで重要なのが、経理の前田という男、この会社ではなかなかのハンサムでしかも独身、きさくな性格をしているわりには頼れる上司でもあるのだ。そうゆう男を若い女性社員が放っておくわけがない。
「いいなー、ねえお二人って付き合ってるんですか?」
食事をするイコール男女の関係と、どうして若い子たちはそう短絡的なのだろう。私はこの場から逃げ出したくなった。だけど、この場から立ち去ると認めたことになってしまう。
「別に、ただお食事に誘われただけよ」
「うそー、絶対前田さん仁科さんのこと狙ってるわよぅ。だって、あたしたちがいくら誘っても全然だったのよー。それなのに前田さんは仁科さんのこと」
嫉妬心と羨望の眼差しで見られ、私は思わず後ずさり。
何とか前田との話を切り返し、従業員出入り口から女子の群れに混ざって出てきた所だった。
遠くで派手なエンジン音が聞こえてきて、この狭い路地裏へと近づいてきた。この聞き慣れたエンジン音。私は嫌な予感がして思わず一方通行の標識を見つめた。
「よーう、仁科」黒のポルシェの窓から腕を出し、銜えタバコをしながら九条《くじょう》が手を振っている。
「やっぱり」
私は、今度こそ頭痛をこらえるように頭をしっかりと押さえた。
P.3
「仁科、今終わりか?これから飯でも食わねー?」
この状況を知らずに能天気に笑ってるその整った横っ面に今すぐ張り手を食らわせたい。
「あ、あんたいつ東京に戻ってきたわけ?」私は女の子の群れから一人離れると、九条の車に近づいた。
「あー、悪い。三日ぐらい前かな?この前言ってた日本料理屋行こうぜ」
「あんたっていつも何で急なのよ」
私が声を潜めて九条を睨んでいるときだった。
「えー、仁科さんの彼氏さんですかぁ?かっこいい!」
女の子たちの視線が九条に移った。予想していなかった最悪の事態。
上半身しか見えなかったが、今日の九条は黒いジャケットの中に白いカットソーを着ていて、真冬だって言うのに襟ぐりに濃いサングラスをかけている。いつものように髪をラフにセットしてあって、左耳には輪っかのようなピアスが三つ光っていた。
そう
どこからどーみてもこいつは
ホスト。
P.4
「仁科、今終わりか?これから飯でも食わねー?」
この状況を知らずに能天気に笑ってるその整った横っ面に今すぐ張り手を食らわせたい。
「あ、あんたいつ東京に戻ってきたわけ?」私は女の子の群れから一人離れると、九条の車に近づいた。
「あー、悪い。三日ぐらい前かな?この前言ってた日本料理屋行こうぜ」
「あんたっていつも何で急なのよ」
私が声を潜めて九条を睨んでいるときだった。
「えー、仁科さんの彼氏さんですかぁ?かっこいい!」
女の子たちの視線が九条に移った。予想していなかった最悪の事態。
上半身しか見えなかったが、今日の九条は黒いジャケットの中に白いカットソーを着ていて、真冬だって言うのに襟ぐりに濃いサングラスをかけている。いつものように髪をラフにセットしてあって、左耳には輪っかのようなピアスが三つ光っていた。
そう
どこからどーみてもこいつは
ホスト。
P.4
でも勘違いしてもらっては困る。私はこいつの客じゃない。東京を離れていたのも、大方客の一人と遠征旅行でもしていたのだろう。
「違っ!こいつとは単なる腐れ縁。彼氏とかじゃないから」
と慌てて否定するも秒の単位で噂が回るこの会社で明日の朝には『仁科さんて、ホストに貢いでるらしいよ』とあちこちで言われるに違いない。
くらり、と眩暈が起きた。
腐れ縁、と言うのは間違いない。中学からの同級生だから。
「じゃあ、本命は前田さんですかぁ?」女の子達が興味津々で目を輝かせている。
「前田??ひどいなー、仁科ぁ。俺たち何度もセック……もがっ」
最後の方が言葉にならなかったのは私の手が九条の口を塞いだから。
ふざけんな!何言い出すんだこいつぁ!!
空気読めっつうの!
と言うことを目で訴えると、流石に冗談が過ぎたと思ったのか九条は苦笑い。
「で?行くの?行かないの?」せっかちに聞かれて
「わかったわよ!行くわよ」半ば怒鳴るように九条を睨みつけると、私はそそくさと助手席に回った。
「それじゃ、私はこれで。お先に」女の子たちにはなるべく平静を装って、にこやかに手を振る。
ため息をついて車の助手席を開けると、運転席から九条が笑顔で手を差し伸べてきた。
「ただいま、仁科」
昔とちっとも変わらない笑顔。眉が下がり、目を細める、優しい笑顔。そして時々その低い声で呼ばれる、自分の名前。何だかくすぐったいが、この笑顔を向けられたら、たとえ九条の勝手に振り回されても、赦せてしまう。
「……おかえりなさい」私は俯くと、小さく返事を返した。
P.5
前述した通り私と九条とは中学からの付き合いだ。かれこれ十年以上の付き合いになる。十年、と言う歳月は長く感じられるけれど、その間に音信不通になったり、そしてどこからか連絡先を入手して電話を寄越して来たり、をだらだらと繰り返している。
でも、私たちははっきりと『付き合って』はいない。もちろん九条のブラックジョークの『体の関係』もない。
あるのは中学生から変わらないノリと
私が九条のこと「好き」
と言うことだけ。歳を重ねて、九条がホストになって……あ、今はホストじゃなくホスト店を経営してるオーナー様でもあったかしら。とにかく環境は変わったものの、不変的な何かは確実に存在している。
パワーウィンドウの外をちらほらと雪が降っていた。
「北海道行ってきたんだ~土産に蟹買ってきてやったぞ」と九条は運転しながらどこか楽しそう。
「北海道……ここより雪が多そうね」ぼんやりと呟きながら、九条に気づかれない程度にこっそりと、外気との差で曇った窓ガラスに、人差し指で
『好き』
と書く。
私の書いた文字は私の体で隠れて九条からは見えない。
「蟹すきしようぜ~、お前んちで」
「何であんたを一々上げないといけない?」
言い合いをしながら、やがて私のマンションに着く頃にはみぞれになった大粒の白いものが私の『好き』をかき消す。
「だってお前んち床暖あるじゃん?」
「そんな理由かよ」
中学生から変わってないこの関係とノリ。
今はまだ―――
この関係でいいや。
~FIN~
P.6