意外なオトシアナ!
あれから……というのも、俺がオータムナルさまのお部屋で一泊してから二日経った。
二日間勉強の時間はあったが、俺は相変わらず自分のことを話し聞かせるだけの‟勉強”とは程遠い内容だった。
その間、彼の口からカイルさまのお名前を一度も聞かなかった。
早くしないとカイルさま帰っちゃうよ~
と若干じれったい気持ちにはなっていたが、勝手に領事館に行ってオータムナルさまと秋矢さんに怒られて以来、その名前を口にするのも何だか怖かった。
俺はどこかそわそわしながらもオータムナルさまに話を聞かせ、それでも俺の過去について語るときはオータムナルさまはどこか楽しそうで、俺も少しだけ満足した。
中学に入る前に、俺は子供の居ない老夫婦に引き取られた。
俺からするとお父さんお母さんと言う年齢ではなく、お祖父ちゃんお祖母ちゃんと言う年齢だったが、二人は俺を本当の子供のように接してくれた。
決して金持ちと言うわけでもないけれど、平和に平凡に俺が中学生活を送ることができたのは彼らのおかげに他ならない。
そこで話は途切れ、今日またその話の続きを……今日は天気が良かったから屋外授業ってことで俺はオータムナルさまに広い庭園を案内されながら話を聞かせた。
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庭園は英国の庭をイメージしてあるのだろう。
きちんとカットされた生垣にこれまた優雅な花々が咲き誇っていた。
オータムナルさまの紅茶の香りに混じって花の香りがかすかに漂ってくる。
生垣が途切れると、立派な円形の噴水が目の前に現れ、その噴水には天使のような彫刻が何体も噴水を囲んでいた。
可愛らしい天使ではなくミカエルとかガブリエルとかそっち系。つまり大天使さまってこと。
リアルだぜ。
オータムナルさまがカトリックだから造らせたに違いない。
その周りをゆっくりと歩きながら俺は話を再開させた。
中学生活も特にこれと言った出来事もなく平々凡々に過ぎて行った。成績は中の下。運動も右にならい、それこそこれといった特技もなく
でもそのときはじめて好きな子は出来た。
同じクラスのあまり目立たない子だった。
「ほぅ、美人だったか?」とオータムナルさまに聞かれたとき、俺はちょっと笑った。
「美人って歳でもないですよ。まぁ俺から見れば可愛かったんですけどね」
「その女が羨ましいな」とオータムナルさまは面白くなさそう。「その女に想いを告げたのか?」そう聞かれて
「想いを告げ……告白ってこと…?それは……してません。見てるだけで精一杯で」
「そうか、それは良かった。その女と愛を育んでいたら私はお前と出会えなかったからな」
「あ……あはは~」
俺は苦笑い。
この手の話題に、俺はどうやってかわしていいのか
―――最近分からないんだ。
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俺はオータムナルさまのことを考えると、自然に顔が熱くなって彼のことを思い浮かべると心があったかくなって
彼を見ると、彼に触れられると―――心臓がうるさいほど騒ぐ。
オータムナルさまのブロンドが、太陽の光を浴び風に揺れる。
キラキラ……輝いているその髪を眺めているとまたも心臓がドキ……と音を立てた。
俺はその音から意識を反らそうと顔を背けた。
そのときだった。
右足が地面に沈み、重心が傾くと俺の体はふわりと宙に浮いた。
松葉杖が俺の手から離れる。
慌てて左足で支えようとするも、その足も地面に吸い込まれ、
てか何で!?
「紅!!」
オータムナルさまが手を伸ばしてきたが、
「オータムナルさま!」
彼の手を掴むことなく、俺は背後の噴水に―――
バシャン!!
派手に落ちたのは言うまでもない。
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何が起こったのか分からない。
俺はシャワーのように降り注ぐ噴水の水を浴びながら尻餅をついて唖然。
俺が足を取られた場所を見るとそこに小さな穴が開いていた。
落とし穴??
てか誰がこんなところに!?
俺が目をまばたいていると
「紅!!大丈夫か!」
バシャバシャっ
水を跳ねてオータムナルさまが噴水に入ってこられた。
すぐに俺を助け起こすと、
「いえ……大丈夫です」俺はオータムナルさまの腕に縋り、意外にも彼の力強い腕の中またも心臓がドキリと強く鳴り俺は慌てて手を離した。
バシャンっ!
手を離して俺はまたも噴水の床にみっともなく逆戻り。
「おい、大丈夫か!」
またも強く腕を引かれ、近くに居たのだろう秋矢さんが「いかがされました」と走ってきた。
「紅が落とし穴に足を取られて噴水に落ちた。
この落とし穴を作ったのはマリアだろう!
あいつを今すぐ呼べ!!」
オータムナルさまは目を吊り上げてそれはそれは怖いお顔で怒鳴り、秋矢さんに命令。
「皇子、落ち着いてください。
マリアさまはただいまお勉強中にございます。
ミスター来栖、大丈夫ですか?」
秋矢さんは冷静に返して、それでも噴水の中に入ってこようと石段をまたごうとしていたが、俺はそれを制した。
「だ、大丈夫です……」
何とか答えて今度は自分の力で起き上がる。
改めて見ると、酷い有様だった。
頭のてっぺんから足のつまさきまで水浸し。
白いワイシャツに至っては、水で濡れた肌が透けるほどだ。
「ミスター来栖。水も滴る……」
秋矢さんが目を細めて口元に淡い笑み。
「その後に続く言葉は言わないでください。と言うかオータムナルさまにその意味教えないでくださいよ」
俺がちょっと不機嫌そうに口を尖らせると
「教えるわけないじゃないですか。もったいない」とまたも意味不明な発言。
そんなやり取りの中、
オータムナルさまはすぐにご自分の羽織っておられたスーツの上着を脱ぎ、俺の肩にかぶせてくれる。
心配してくれてるのは分かるけど、ちょっと過保護過ぎだよ……
俺は男だし水に濡れたぐらいで何ともない。
何とも……
「へぐしゅっ!」
俺の口から間抜けなくしゃみが飛び出て、俺は慌てて口を覆った。
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「くしゃみをしておるではないか。風邪をこじらせては大変だ。
早くシャワーを浴びよ」
「だ、大丈夫ですよ!これぐらい!!」
「だめだ。早く温まってこい」
オータムナルさまはちょっと強引な仕草で俺の手を引き、足元でバシャバシャと水音を立て、俺を歩かせると噴水から出た。
「あの……オータムナルさま…?」
これからどこに連れて行かれるのか分からなかった俺は不安そうにオータムナルさまを見上げた。
「ここからならお前の部屋の方が近い。今すぐ熱い湯に入れ」
いや……そう言われましても……あの…俺の手を離してくれる様子はありませんよね。
これってどーゆう意味??
「マリアへの説教は後だ。まずは紅を温めるのが先だ」
手を引っ張られて廊下を濡れた靴のまま歩かされる。
ちょっと後ろを振り向くと白いきれいな廊下の床に水の後が転々と並んでいた。
「あの…!オータムナルさま」
「何だ」
またも迫力あるお顔で睨まれて俺はそれだけで引腰。
「ま、マリアさまをしからないであげてください……ま、まだマリアさまの仕業だと判明したわけじゃありません」
「あんなところに落とし穴を作るのはマリア以外考えられぬ。トオルも何度我が妹が作った落とし穴に陥れられたか」
秋矢さんも!?
「で、でも!マリアさまもきっと悪気があったわけじゃないです。
可愛い悪戯じゃないですか。
だから怒らないであげてください…」
俺が何とか言うと、オータムナルさまは呆れたように吐息をつき額に手を置いた。
「お前はどうして……そこまでお人よしなのだ。私には分からぬ。
今は噴水の中に落ちて濡れたぐらいで済んだろうが、転んで打ちどころが悪ければ死に至ることだってあろうに。
まぁマリアの措置は後で考えるとして、今はとりあえず温まれ」
そう言われて促されたのは俺の部屋のバスルームだった。
レディーファーストのように扉を開けられ、やや強引な力でバスルームに押し込められると、オータムナルさまは俺の肩から上着を脱がして、床に放り投げた。
あぁ……オーダーメイドだろうに、たっかそうな上着をあんな風に乱雑に…
と考えていると、今度はオータムナルさまは俺のワイシャツのボタンに手を掛けた。
い、いやいやいや……ちょっと待て!!
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「あ、あの俺一人で入れます!」
慌ててオータムナルさまの手を掴んでその行動を阻むと
「何を恥ずかしがっておる。緊急事態ではないか」
いや、緊急事態って大げさな。
てか恥ずかしがってるんじゃなーーーい!!
マズいんだって!!俺の体にはあちこち見られたくないものが!!
「No!No no no no!Please wait!(待ってください!)」
思わず怒鳴って両手を広げると、広いバスルームに俺の声がこだました。
オータムナルさまが俺の声にびっくりしたのか一瞬だけ手の力を緩める。
「こうしましょう、俺はちゃんと風呂に入りますから、そ、外で待っててください!」
「そうは言ってもこの国の習わしで、伴侶となる者およびなった者の湯あみを手伝うのは夫婦の務めでもある」
え!!そーなの!?
てか湯あみって!!古いし!
てか夫婦じゃないし!!
あれこれツッコミたかったけれど、ツッコむ隙もないぐらいオータムナルさまは素早く俺のボタンを外していく。
「ちょっ!待っ……!」
俺が暴れたせいでシャワーのノズルを引っ掻いちゃったんだな。
サー……
シャワーヘッドから雨のような湯が降ってきて、
「ぅわ!」
「Oh my god!(何と!)」
俺とオータムナルさまを再び頭のてっぺんから濡らした。
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俺たち二人は降りしきるシャワーで、まさに濡れネズミ。
「す、すみませ…!」
慌ててシャワーノズルを止めようとするも、オータムナルさまがそれを阻んだ。
湯で濡れた金髪が額に張り付いていて、それを煩わしそうにオータムナルさまは髪を掻き揚げた。
形の良い額が露わになり、後ろに撫でつけた髪がワイルドで、濡れた白いシャツの下でうっすら紅茶色の肌が透けていて意外にもきれいな筋肉がついた肢体が色っぽくて……
オータムナルさまの一つ一つの仕草やお姿に心臓がドキリと波打つ。
ドキドキ……
してるけど
「私もこのまま部屋に帰るわけにはいかぬ。
紅―――
一緒に入ろう」
な!何でそーなる!!
それとこれとは別!!
「あの…俺!」
何とか言い訳してオータムナルさまの手から逃れようとするも、その言い訳をも阻むようにオータムナルさまの突然の
口づけ。
「……ん!」
こないだの触れるだけの優しいキスではなく、もっともっと―――深いやつ。
合わさった唇からオータムナルさまの熱い舌が入り込んで、俺の口腔内をわが物顔で暴れまわる。
絡ませた舌を吸われて、時折じらすように舌先でつつかれて……
「………ん…ふ……」
俺の口から甘い吐息が漏れた。腰に電流のようなじん、と甘い痺れが走る。足の指先がのけぞった。
初めて覚える言いようのない快感に背中がびくりと震えた。
「紅――――」
唇を離してオータムナルさまは俺の名をそっと囁いた。
どちらの唾液か分からない銀糸が俺たちの唇を繋ぎ、それをペロリと色っぽく舐めとるオータムナルさま。
「紅―――」
もう一度名前を呼ばれて、
「………はい」
俺は彼を見上げた。
オータムナルさまは深いブルー色の瞳をゆらゆら揺らして―――それはさっき俺が落ちた噴水の底の色を思わせた。
「紅―――私が怖いか?」
そう聞かれて、俺は言葉に詰まった。
怖くなんてない。
―――ここでようやく気付いた。
ああ
落ちた
俺が落ちたのは噴水ではなく、この瞳だったんだ―――
この優しい瞳にどこまでも惹かれたんだ。
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オータムナルさまの指先が俺の顎のラインをそっとなぞる。
「もう一度聞く…私が―――」言いかけた言葉を俺は遮った。
「怖くありません」
はっきりと言い切れたのは、本当にそう思ったからだ。俺の本当の気持ちだ。
やっと気づいた―――
俺は
オータムナルさまが好きなんだ。
でも
好きだからこそ、知られたくないこともある。
でも
知ってほしいとも思う。
二つの相反する気持ちがぐちゃぐちゃになって俺の心臓や脳をドロドロに溶かす感じ……
でも―――好きだからこそ、
―――「Open heartedly
(心を開いて)」
ふいにステイシーの言葉が頭の中で響いた。
オータムナルさまの金色に輝く髪や、サファイヤのように輝く瞳を見つめる。
最初はこの髪や瞳がステイシーと似ているから好きになった。
けど今は―――
俺はそっとオータムナルさまを押しのけ、彼に背中を向けた。
「……紅」
オータムナルさまのどこか悲しげな声が俺の背中を追いかけてくる。
俺は―――背を向けたまま、自らボタンを外しワイシャツを肩から滑らせた。
壁に備え付けられた大きな鏡越しにオータムナルさまのお顔が見える。
そのサファイヤブルーの瞳が驚愕の色を浮かべていた。
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この傷を自ら見せたのはステイシー以来、オータムナルさまが初めてだ。
オータムナルさまの反応が怖くて、思わずぎゅっと目を閉じる。
でも
いつまでも隠し通すことなんて無理だ。
「紅……これは―――」
オータムナルさまの指先がそっと俺の背中に触れたとき、俺はゆっくりと目を開けた。
「―――幻滅……しました?俺……」
「良い。何も言うな」
オータムナルさまはそれ以上は聞かずに俺の背中にそっと手を這わせ、その傷痕を丁寧に丁寧に撫でる。
まるで壊れ物を扱うような慎重な手つきで、その指先が僅かに震えていた。
やがてオータムナルさまは俺の腹に手を回し、後ろからぎゅっと俺を抱きしめてきた。
シャワーの湯もあるが、このぬくもりはオータムナルさまのぬくもりに他ならない。
「理由は聞かぬ。だが―――辛い思いを―――したのだな」
オータムナルさまは俺を抱きしめたまま、その傷痕にそっと口づけ。
またも電流のような……今度は強烈な快感が頭のてっぺんから足のつま先を走った。
血液が―――、一点に集中する。俺の中心ははじめて命を吹きこまれたように硬く、形をなしていくのを感じた。
「紅―――私はお前が欲しい。
私はお前の辛い部分も暗い部分も全部受け止める。
その上で
お前を―――」
甘く耳元で囁かれて、俺の背中はまたも震えた。
「こんな俺で良ければ……」かすれる声で何とか答える。降り注ぐシャワーの音にかき消されないか、それだけが心配だったが、オータムナルさまにはしっかり聞こえたようだ。
「‟こんな”と言う言葉はあまり好きじゃない。お前はお前だ。それ以外もそれ以下もない。
私はお前の全てが愛おしい―――」
オータムナルさま……
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―――キスをする。
肌に触れる―――
ワイシャツが腕から抜かれ、スーツパンツのベルトが外され、下着ごと下ろされる。
一連の動作に、心臓がまるで壊れたオルゴールのように狂った音を奏でる。
いや狂ってるのは俺だ―――
でもその歪みさえシャワーが流していって、今はただ熱い心臓がやたらと早く波打っているだけだ。
その不規則なリズムと音がオータムナルさまに聞こえやしないかそれが心配だったが、シャワーの音がそれをかき消してくれる。
前を向かされ、俺をバスタブの淵に座らせると彼は俺の片足を持ち上げた。
俺のものはすでに欲望を放つ準備ができあがっていてそそり立っていた。ギリギリのところでそれは自我を保っている。
それを見られるのが恥ずかしくて、俺の頬は熱を持ったように熱くなったが、オータムナルさまは優しく微笑んで
「いつになく素直だな」と俺の脚をさらに持ち上げる。
と、そのときまたもオータムナルさまは目を開いた。
「これは――――……」
そっと触れられたところ。それは俺の右腿の内側。
そこは――――太陽を象ったトライバル模様のタトゥーが彫られている場所だった。
P.197<→次へ>
冬の夜
キミへの気持ちを窓に託しました
たった一言が言えない私は臆病者ですか?
でも今はこれが精一杯
雪に想いを
『次はお天気コーナーです。今日から明日にかけて低気圧が日本の南を発達しながら東北東に進み、明日には日本の東に進む見込みです。
関東甲信地方では今夜から雨が次第に雪に変わり、あす午前中にかけて山沿いを中心に、平野部でも積雪となる所がある見込みです。雪による交通障害、架線や電線、樹木等への着雪、路面の凍結に注意してください』
今朝のワイドショーのお天気キャスターの言葉を思い出したのは、勤めている会社の定時を迎え業務を終えたときだった。
「えー!やだっ!雪降ってるじゃん」と誰からともなく声が挙がり
「ホントだー、私傘持ってきてない」
「どうりで冷えると思った」
と同僚たちが次々と口にする。
またも誰かが「せっかく彼氏に買って貰ったバッグが濡れちゃう」と言い出し、それでもちっとも困った様子ではなく、どこか誇らし気だ。
そしてその周りの女子たちが盛んに羨ましがる。
「いいなー、でもあたし今度のクリスマスにダイヤの指輪ねだっちゃうんだー」と一人の女の子。
「いいなー!」黄色い声に、私は苦笑いを浮かべるしかない。ここでの男の年収と、女の品格は反比例する。いかにいい服を着るか、いかにいいバッグを持つか、いかにいい男を彼氏にするか、年中こんな会話でうんざりする。
かと言って輪に加わらないわけにはいかない。仕事とプライベートの内容こそ比例するのだ。
P.1
「仁科《にしな》さんはいつも素敵な服着てますよね」ふいに一人から話題を振られた。
「えっ、そう?」私は曖昧に笑って言葉を濁した。今日の服装は白いタイトワンピ。腰回りに太いベルトが巻き付いていて、ちょっと豪華に見えるゴールドのバックルがワンポイント。
そして同じくゴールド系のスパンコールが襟元に入ったコートを腕にかけて帰りたいアピール。
シンプルな服装だったけど、流石は目が肥えている女子たち。すぐにそれが高価なものだと見破った。女のチェック程厳しいものはない。私がオシャレをするのは対、男ではなく、彼女たちの為。
「仁科さんてぇ、結婚しないんですかぁ」間延びした話し方が赦されるのはこの年代の特権だ。
「結婚ね……相手がいないから」私は適当にごまかして再び言葉を濁した。
こう言っておけば大抵の女は引き下がる。私が長い間、人付き合いをしてきて、これが最良の方法だと知ったのはつい最近のこと。
私がこの会社に勤めはじめて五年になる。この会社での女性正社員では長いほうだ。後から派遣された若い女の子たちから見れば私なんてお局のようだった。
「そう言えばぁ仁科さん、この前見ちゃったんですぅ」一人の女の子が思わせぶりに口元へ手をやった。
短く切った髪にはパーマがあててあり、傍から見ればマシュマロのように可愛らしい女の子だ。
だが、そんな可愛らしさに惑わされてはいけない。女はいつでも顔の下にしたたかな一面を隠しているのだから。
P.2
「何を?」私は平静を装って取り澄ました。
もしかして“アイツ”と居る所を見られた?と思ってドキリとしたが
「この前の金曜日、青山のイタリアンレストランで、経理の前田さんと一緒にいるところぉ」
ああ、そっちか。とちょっとほっと安堵する。
「ええー!!」周りから黄色い声が飛ぶ。私は思わず頭を押さえたくなった。
そう、確かに経理の前田に誘われて先週の金曜に青山まで行った。
でも食事をしただけで、別に艶かしい関係ではない。だが、ここで重要なのが、経理の前田という男、この会社ではなかなかのハンサムでしかも独身、きさくな性格をしているわりには頼れる上司でもあるのだ。そうゆう男を若い女性社員が放っておくわけがない。
「いいなー、ねえお二人って付き合ってるんですか?」
食事をするイコール男女の関係と、どうして若い子たちはそう短絡的なのだろう。私はこの場から逃げ出したくなった。だけど、この場から立ち去ると認めたことになってしまう。
「別に、ただお食事に誘われただけよ」
「うそー、絶対前田さん仁科さんのこと狙ってるわよぅ。だって、あたしたちがいくら誘っても全然だったのよー。それなのに前田さんは仁科さんのこと」
嫉妬心と羨望の眼差しで見られ、私は思わず後ずさり。
何とか前田との話を切り返し、従業員出入り口から女子の群れに混ざって出てきた所だった。
遠くで派手なエンジン音が聞こえてきて、この狭い路地裏へと近づいてきた。この聞き慣れたエンジン音。私は嫌な予感がして思わず一方通行の標識を見つめた。
「よーう、仁科」黒のポルシェの窓から腕を出し、銜えタバコをしながら九条《くじょう》が手を振っている。
「やっぱり」
私は、今度こそ頭痛をこらえるように頭をしっかりと押さえた。
P.3
「仁科、今終わりか?これから飯でも食わねー?」
この状況を知らずに能天気に笑ってるその整った横っ面に今すぐ張り手を食らわせたい。
「あ、あんたいつ東京に戻ってきたわけ?」私は女の子の群れから一人離れると、九条の車に近づいた。
「あー、悪い。三日ぐらい前かな?この前言ってた日本料理屋行こうぜ」
「あんたっていつも何で急なのよ」
私が声を潜めて九条を睨んでいるときだった。
「えー、仁科さんの彼氏さんですかぁ?かっこいい!」
女の子たちの視線が九条に移った。予想していなかった最悪の事態。
上半身しか見えなかったが、今日の九条は黒いジャケットの中に白いカットソーを着ていて、真冬だって言うのに襟ぐりに濃いサングラスをかけている。いつものように髪をラフにセットしてあって、左耳には輪っかのようなピアスが三つ光っていた。
そう
どこからどーみてもこいつは
ホスト。
P.4
「仁科、今終わりか?これから飯でも食わねー?」
この状況を知らずに能天気に笑ってるその整った横っ面に今すぐ張り手を食らわせたい。
「あ、あんたいつ東京に戻ってきたわけ?」私は女の子の群れから一人離れると、九条の車に近づいた。
「あー、悪い。三日ぐらい前かな?この前言ってた日本料理屋行こうぜ」
「あんたっていつも何で急なのよ」
私が声を潜めて九条を睨んでいるときだった。
「えー、仁科さんの彼氏さんですかぁ?かっこいい!」
女の子たちの視線が九条に移った。予想していなかった最悪の事態。
上半身しか見えなかったが、今日の九条は黒いジャケットの中に白いカットソーを着ていて、真冬だって言うのに襟ぐりに濃いサングラスをかけている。いつものように髪をラフにセットしてあって、左耳には輪っかのようなピアスが三つ光っていた。
そう
どこからどーみてもこいつは
ホスト。
P.4
でも勘違いしてもらっては困る。私はこいつの客じゃない。東京を離れていたのも、大方客の一人と遠征旅行でもしていたのだろう。
「違っ!こいつとは単なる腐れ縁。彼氏とかじゃないから」
と慌てて否定するも秒の単位で噂が回るこの会社で明日の朝には『仁科さんて、ホストに貢いでるらしいよ』とあちこちで言われるに違いない。
くらり、と眩暈が起きた。
腐れ縁、と言うのは間違いない。中学からの同級生だから。
「じゃあ、本命は前田さんですかぁ?」女の子達が興味津々で目を輝かせている。
「前田??ひどいなー、仁科ぁ。俺たち何度もセック……もがっ」
最後の方が言葉にならなかったのは私の手が九条の口を塞いだから。
ふざけんな!何言い出すんだこいつぁ!!
空気読めっつうの!
と言うことを目で訴えると、流石に冗談が過ぎたと思ったのか九条は苦笑い。
「で?行くの?行かないの?」せっかちに聞かれて
「わかったわよ!行くわよ」半ば怒鳴るように九条を睨みつけると、私はそそくさと助手席に回った。
「それじゃ、私はこれで。お先に」女の子たちにはなるべく平静を装って、にこやかに手を振る。
ため息をついて車の助手席を開けると、運転席から九条が笑顔で手を差し伸べてきた。
「ただいま、仁科」
昔とちっとも変わらない笑顔。眉が下がり、目を細める、優しい笑顔。そして時々その低い声で呼ばれる、自分の名前。何だかくすぐったいが、この笑顔を向けられたら、たとえ九条の勝手に振り回されても、赦せてしまう。
「……おかえりなさい」私は俯くと、小さく返事を返した。
P.5
前述した通り私と九条とは中学からの付き合いだ。かれこれ十年以上の付き合いになる。十年、と言う歳月は長く感じられるけれど、その間に音信不通になったり、そしてどこからか連絡先を入手して電話を寄越して来たり、をだらだらと繰り返している。
でも、私たちははっきりと『付き合って』はいない。もちろん九条のブラックジョークの『体の関係』もない。
あるのは中学生から変わらないノリと
私が九条のこと「好き」
と言うことだけ。歳を重ねて、九条がホストになって……あ、今はホストじゃなくホスト店を経営してるオーナー様でもあったかしら。とにかく環境は変わったものの、不変的な何かは確実に存在している。
パワーウィンドウの外をちらほらと雪が降っていた。
「北海道行ってきたんだ~土産に蟹買ってきてやったぞ」と九条は運転しながらどこか楽しそう。
「北海道……ここより雪が多そうね」ぼんやりと呟きながら、九条に気づかれない程度にこっそりと、外気との差で曇った窓ガラスに、人差し指で
『好き』
と書く。
私の書いた文字は私の体で隠れて九条からは見えない。
「蟹すきしようぜ~、お前んちで」
「何であんたを一々上げないといけない?」
言い合いをしながら、やがて私のマンションに着く頃にはみぞれになった大粒の白いものが私の『好き』をかき消す。
「だってお前んち床暖あるじゃん?」
「そんな理由かよ」
中学生から変わってないこの関係とノリ。
今はまだ―――
この関係でいいや。
~FIN~
P.6