消えた博士と幽霊
オータムナルさまに引き連れられるまま、俺は自然に彼の寝室に足を踏み入れた。
幽霊騒ぎでまだ俺の精神が正常じゃなかった、と言っていい。
マリアさまには「俺が守ります」みたいなこと言っておいて、いざホンモノを見ると腰が抜けた。
かっこわる……
でも
ホンモノ……はじめて見ちゃったよ~~!!
あ、ちなみに。俺には霊感なんて全くないです。
オータムナルさまの寝所は俺の部屋と違って、それはそれは豪華絢爛なしつらえだった。
俺の与えられたお部屋だっていい加減豪華な造りなのに……
映画のセットの中に迷い込んだようなそのきらびやかな部屋の中、
俺だけが落ち着かず不自然にキョロキョロ。
「皇子の部屋だからと言って何も構える必要などない。
ゆるりといたせ」
オータムナルさまはマイペースに言って紅茶のような液体をグラスに注ぎ入れ、俺に勧めてくる。
ゆるりといたせ……って言われてもね…
こんな豪華なお部屋でくつろげないよ。
俺はそのグラスを受け取りながら目だけを上げた。
「飲みなさい。少しは寝付きが良くなる」
そのグラスに入れられたものが何なのか気になって鼻を近づけてみると、
それは紅茶ではなくほんのり樽の香りがした。
ウィスキーのようだ。
いきなりアルコールを出されて戸惑った。まぁ時間帯が時間帯だし、今からカフェインって気分にもなれないか。
オータムナルさまは俺に何かをしてくる、と言う気配はなく白いビロードが敷かれたこれまた立派なカウチに腰を降ろし、俺はそれとセットになっている一人掛け用のソファにおずおずと座った。
オータムナルさまは俺が腰掛けると満足そうに微笑み、ウィスキーのグラスに口を付ける。
幽霊騒ぎで怖がっている俺を助けてくれた皇子。
たった一人だけ‟信じる”と言ってくれたお方。
「あの……ワトソン博士って言うのは……」
俺は思い切って聞いてみた。
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俺の問いかけに今度はオータムナルさまが目を上げた。
サファイヤのような瞳に、一光……黒く渦巻く闇のようなものを見た―――気がした……
それは俺がここに来た時一番最初に睨まれた視線だった。
ヤバ……聞いちゃマズかったかな……
オータムナルさまはグラスを手にカウチを立ち上がると、特に目的もないのか広い部屋の中を大きな歩幅で行ったり来たり。俺の前をうろうろ。
「ワトソン博士の名は
Samantha Watson」
サマンサ ワトソン―――……
それがワトソン博士―――……?
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「若くして博士号を取り、英国の大学で地学科学の教鞭を取る教授でもあったようだ。
ワトソン博士は研究の為、我が国にやってきた」
博士号、教授―――……
聞き慣れない言葉に俺は目をぱちぱち。
渡来したのは一緒でも、たかだか一介の塾講師とは地位も置かれた立場も違う。まるで別世界の人だ。自分と比べてトホホと項垂れる。
しかも相手は女性だし。
益々自分の立場を情けなく思う。
オータムナルさまは俺の前で歩みを止め、どこか遠くを眺めるように目を細めて物憂げに睫を伏せた。
「大変美しく、聡明な女であった。
是非にも私の側室に、と願ったが―――
その翌日部屋に私物を置いたまま忽然と姿を消した」
なるほど…秋矢さんにオータムナルさまはバイであられるって聞いたけど、あれは本当のことだったんだ。
男しかダメってわけじゃなさそうだな。
「それって断られたってことですか……?オータムナルさまでもフられることってあるんですね」
俺の言葉にさすがにムっときたのかオータムナルさまは眉間に皺を寄せ俺を睨み下ろしてくる。
今度こそ失言をしたのだと思い俺は俯いたが
「紅は私を何だと思っておる。私とてフられることぐらいある」
と、口を尖らせてぞんざいに言うとカウチにどさりと身を沈める。
まるで小学生のような拗ね様に、怒っている…と言う感じは微塵も感じられなかった。ちょっと可愛いし。
「彼女はどうして……オータムナルさまの求愛をお断りして消えちゃったんでしょう…」
そんなことオータムナルさまだって分かる筈ないのに、何故だか気になった。
この何でも揃っている美貌の皇子の前に、断る理由なんてあるのだろうか、と。
「彼女は言っていたよ。
愛する男が居る―――と。
研究の為とは言え、愛するその男を故郷に残してきてしまったことを悔いていた。
研究を終えて帰ったら
必ず電話をする、と
約束したそうだ。
だから私はその愛する男の元へ戻ったのだ、と思っている」
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オータムナルさまはどこか寂し気に言い切って、俺にゆっくりと視線を戻す。
「断られたのはさすがにショックだったが、愛する者がいるのであれば、無理やり側室にするのは気が引ける。
気持ちだけは――――
権力や金でどうにでもなるものではない。
お前もそのような女が居るのであれば、断ることも可能だ」
俺は目をまばたいた。
「但し、私の納得の行く答えだったら……の話だがな」
オータムナルさまは恥ずかしそうに言ってぷいと顔を背ける。或いは拗ねているのかもしれない。
「私とてせっかく見つけたこんなにいい男を手放すと言うのは惜しい」
オータムナルさまがまるで駄々をこねる子供のように思えて俺は思わず微笑を浮かべた。
さっきは誰よりも頼もしく見えた皇子様も二人きりになると、急に子供っぽくなるんだから。
俺が笑っていると、オータムナルさまは
「何を笑っている」と口を尖らせて俺の元へ歩いてきた。
「いえ……オータムナルさま…一つ聞いてよろしいですか?」
オータムナルさまは俺が掛けているソファの手すりに腰を降ろし、グラスを傾けると一口口を付け
「何だ?」
と短く聞いてきた。
「何故、あのとき……さっきの幽霊話……信じてくれたんですか」
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俺の質問にオータムナルさまは目をぱちぱち。
「当たり前じゃないか。お前は私の家庭教師だ」
兼、側室だがな、とオータムナルさまは小声で付け加えたがそれは敢えて無視。
「家庭教師だから……って理由になってませんよ」
「十分理由になるだろうが。家庭教師と言うものは、教える人物と信頼関係を築いてこそ成り立つものだ。
お前は私に嘘をつかない。
私も側室と決めた人間は信頼に値する者だと思って居る。
人と人との繋がりに一番大事なものは信頼関係だ。
だから私はお前を信じた」
そんな簡単な理由で―――
今度は俺の方が呆れて目を丸めていると、かがんで腰を折ったオータムナルさまの顔がすぐ至近距離にあった。
その整い過ぎた美しい顔が、口が、
「どうした……?お前の望む答えではなかったか?」と問う。
「あ……えっと……」
なんて答えようと言い淀んでいると、オータムナルさまの顔がより一層近づいてきて、抵抗する間もなく
唇と唇が触れ合った。
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ふいうちの
キス
と呼ぶにはあまりにも甘くて優しい。
触れ合うだけのキス。
オータムナルさまの唇はすぐに離れていった。
数秒遅れで何をされたのか理解できて、俺は慌てて口元を押さえた。
き、キス!!?
男同士でキス―――しちゃったよ!
でも
全然イヤじゃなかった。
オータムナルさまの唇はさらりと感触が良く、吐息は紅茶のような芳しい香りだった。
それにオータムナルさまが俺が思うよりずっと紳士的で優しかったからかな。
それ以上を求める、と言うわけでもなく彼の顔はすぐに離れて行った。
オータムナルさまは俺に微笑を投げかけると、そっと頭を撫で
「遅いからお前ももう休め。私がすぐ傍にいてやるから安心しろ。
もう幽霊なんて見ない筈だ」
そう言われてベッドを促された。
促されるままそこを見ると、はじめて目にする……日本の家具屋にも売ってないような大きさの豪華なベッドがあって俺は目をまばたいた。
男二人並んでも…いや四人横に並んでも優に寝れる広さだ。
ベッド!!
「いえ…!あの……!!」
俺は慌ててベッドから視線をそらし、
だって……確かにオータムナルさまに惹かれてる部分はあるけれど、キスはいやじゃなかったけど、いきなりそんな!
「俺……お気持ちはありがたいのですが……」
何て言って断ろうか必死に考えていると、
「今の状態のお前に何かすることはない。アッラーの神に誓って言う」
「アッラーって…オータムナルさまカトリック教じゃないですか!誓うのはキリストですぅ」
「良く覚えていたな」
そりゃ覚えてますとも。てか絶対!こんな人の隣で寝れない!!
オータムナルさまは呆れたように肩を竦め、
「まぁそれでもお前が不安なのであれば私はこのカウチで寝るが。お前はそのベッドを使うがいい」
そう言われてオータムナルさまはカウチにごろりと寝そべる。
「いや!それはさすがに!!皇子さまをカウチに寝かせるわけにはいきません。
それなら俺……俺は部屋に戻ります!だからベッド使ってください!」
慌てて言うと
「ならぬ」
とピシャリ、と言われてしまった。
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俺、皇子さまに「ならぬ」って一体何回言われただろう。
「この国では夫となる者はたとえ側室とは言え妻の身の安全を案ずるのが通例だ。
外が安全と確認できてない今、この部屋を退出することは私が許さぬ」
至極真剣な顔で言われて俺はどうしていいものか頭を掻いた。
紳士だな……てかまぁそれは日本でも一緒か……
「じゃ……じゃぁ一緒に…」
寝ます?と聞く前にオータムナルさまはさっと歩いてきて、俺の横に腰掛けた。
俺の両肩に手を置くと、引っ張るように力を加え俺の体をベッドに優しく横たえる。
そのすぐ隣にオータムナルさまが横になり、布団を掛けると俺の首の下に腕を突っ込んできた。
「あの……」
どうしていいのか戸惑っていると、
「何だ」短く聞かれ
何だ、じゃないよ。
「あの……腕枕……?」
「不服か?私は誰かと眠るとき必ずこうしている」
なるほど。腕枕は皇子さまの習慣か……って納得できね~~~!!
「あの…!腕枕はいいです……あの……その……慣れないので…」
もそもそ言って何とか皇子の腕から逃れようとするも、ぎゅっと抱き寄せられてさらに引き寄せられる。
「慣れぬ、と言うのなら慣れろ。皇子の命令だ」
そんな~~~!
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思えば……誰かと―――
―――誰かと共に眠るのは随分久しぶりのことだった。
何年か前、ステイシーと仕事で訪れた極寒の地ロシアでは、二人して安いウォッカを一気飲みして笑い合いながら抱き合って眠ったんだっけ……
あのときのステイシーの体は温かった。
ステイシーの声や肌は柔らかく、俺の体や脳を甘く痺れさせた。
オータムナルさまはあのときと同じぬくもり……
「いやいや、違うって!」
俺は一人ガバっと起きだした。
ステイシーは俺と同じぐらいの身長だったし、大体どこもかしこも柔らかい女性だった。
オータムナルさまは、俺より二十センチぐらい身長が高い。
あったかいけどあの時のステイシーより体温が高くて、しかも触れたどの場所も男らしいしっかりした骨格や筋肉をしている。
「どうしたと言うのだ。何が違うと言うのだ」
オータムナルさまが寝ころんだまま不服そうに俺を見上げてくる。
「いえ……!あの、やっぱ俺……もう少し飲んでから寝ます。い、いただいても…?」
と、さっきのウィスキーが入ったグラスを目配せすると、オータムナルさまは無言で目を細めた。
怖っ!
また「ならぬ」って言われるだろうか……とちょっと身構えて
「に、逃げようとかそんなこと考えてませんから。これを飲んだらホントにベッドに入りますから」
俺があせあせと言うとオータムナルさまは少しだけ不服そうに鼻を鳴らし、それでもそれ以上俺に何かを言ってくるわけでもなく
「分かった。お前の好きにするが良い」
と言って目を閉じる。
ほ、
とりあえずは……腕枕から逃れられた。
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俺がカウチに座りウィスキーのグラスを傾けていると、その様子をオータムナルさまはベッドに横たわりながらじっと見つめてくる。
俺が逃げるとか考えているのだろうか、その視線は揺るがない。サファイヤのように澄み切った青色の二つの目が俺を捉えて離さない。
逆に俺の方がその視線に委縮してしまって
し、視線のやり場が……
俺の視線は無駄にきょろきょろと泳いだ。
ウィスキーを一口二口飲んだところで、オータムナルさまがふとその視線を和らげた。
「お前はBabyfaceのくせに酒は強いようだな。トオルとも飲みに行ったようだし。
何故私を誘ってくれなかった」
ベビーフェイスだけ余分だ。
俺はムっとなってウィスキーをぐいと煽った。
「オータムナルさまは検診のお時間だったじゃないですか。秋矢さんは暇してた俺を誘ってくれたんですよ」
「分かった、分かったから無理をするな。すぐに体を壊すぞ」
そう言われて、ほぅっと息をつくとグラスを手の中で包んだ。熱い息が口から漏れ出る。
「あの幽霊……ホントにもう出ないんですかね」
「さぁ、私には分からぬ」
「……そうですよね。すみません、変なことを言って」
「本当におかしなことを聞くな、お前は。まるでその幽霊とやらにもう一度会いたいと言う顔をしておるぞ」
そう言われて、俺ははっと顔を上げた。
「いえ……あの…」
あの幽霊が何故ステイシーに見えたのか謎だけど、
もし幽霊がステイシーだったとしたら彼女はもうこの世のどこにもいないことになるけれど
でも
会いたいよ、ステイシー
P.174
その後俺たちは世間話を交わして……と言っても俺とオータムナルさまの環境は全然違うからなんか食い違っちゃたりもしたけれど
会話を楽しんで、三十分もするとオータムナルさまは欠伸をかみ殺し瞳を揺らし始めた。
「悪いが私は先に休むぞ」
そう断りを入れて枕に顔を埋めるオータムナルさま。
「おやすみなさい」
俺は短く挨拶をして彼の肩に布団を掛けた。
ウィスキーを片手に、カウチから眺めるオータムナルさまの安らかな寝顔は
とてもきれいだった。
まるでギリシャ彫刻のように完成された美を目にして、ほんのちょっと俺も頬を綻ばせる。
おやすみなさい
俺はもう一度心の中で呟き、彼の整った寝顔を眺めながら
カラン
グラスを揺らした。
P.175
次の日の目覚めは何故だかすごく心地よく爽やかだった。
爽やかで芳しい紅茶のような香りとふわふわの布団に包まれて、うっすらと目を開けると
大きな窓に背を向けた人物が両手でカーテンを開いているところだった。
キラキラ…
朝日が鮮やかな金髪に反射してきれいだった。
俺の好きな光―――
そして俺は居るはずもない愛しい人の名前を今日も呼ぶ。
「Stacey……?」
その人物がゆっくりと振り向く。ミルク色のガウンを羽織った背の高い……
「お……オータムナルさま…!」
ガバッ!!
俺は慌てて身を起こした。
オータムナルさまはその整った顔にうっすらと笑みを浮かべていた。
オータムナルさまのキラキラ笑顔は目覚めに刺激が強すぎる。
「おはよう。昨夜は良く眠れたか?」
「あ……はい!」
「お前はベッドで眠ると言ったくせにカウチで寝ていたぞ」
オータムナルさまはきらきら笑顔から一転面白くなさそうに腕を組み、口を尖らせる。
お、怒った顔も美しい~ケド怖いよぉ。
「あ、あはは~…え…でもここベッドですね…」
P.176
俺は自分が寝かされていた場所が昨夜オータムナルさまが眠っていらしたベッドであることに気づき慌てた。
な、何で!?
俺寝ぼけてベッドに入っちゃったの??
「私が起きたとき、お前を抱きかかえて運んだ」
だ、抱きかかえて!?
ぅうわ、俺何されてるんだよ!
「お前は羽のように軽いな。ちゃんと食べているのか」
ギシっ
ベッドのスプリングを軋ませて、オータムナルさまが俺を覗き込んでくる。
顔を近づけられて、その淡い色が浮かんだ薄い唇につい視線がいってしまう。
昨日俺はオータムナルさまと……!
き、キスをしてしまったわけで!!
ぅわぁ!!思い出しただけでも顔から火が出そうだ。
落ち着け、紅!!
相手は男………
………
ってそこが一番問題じゃないか!!
一人百面相をしていると、その表情をじっと見つめていたオータムナルさまは突如笑いだした。
「お前は面白いな」
笑いながら俺の頭をぽんぽん。
オータムナルさまの大きな温かい手が俺の頭を優しく叩くたびに、心臓がドキリと鳴り
俺はまた顔が熱くなるのが分かった。
どうしたって言うんだよ
俺。
P.177<→次へ>
冬の夜
キミへの気持ちを窓に託しました
たった一言が言えない私は臆病者ですか?
でも今はこれが精一杯
雪に想いを
『次はお天気コーナーです。今日から明日にかけて低気圧が日本の南を発達しながら東北東に進み、明日には日本の東に進む見込みです。
関東甲信地方では今夜から雨が次第に雪に変わり、あす午前中にかけて山沿いを中心に、平野部でも積雪となる所がある見込みです。雪による交通障害、架線や電線、樹木等への着雪、路面の凍結に注意してください』
今朝のワイドショーのお天気キャスターの言葉を思い出したのは、勤めている会社の定時を迎え業務を終えたときだった。
「えー!やだっ!雪降ってるじゃん」と誰からともなく声が挙がり
「ホントだー、私傘持ってきてない」
「どうりで冷えると思った」
と同僚たちが次々と口にする。
またも誰かが「せっかく彼氏に買って貰ったバッグが濡れちゃう」と言い出し、それでもちっとも困った様子ではなく、どこか誇らし気だ。
そしてその周りの女子たちが盛んに羨ましがる。
「いいなー、でもあたし今度のクリスマスにダイヤの指輪ねだっちゃうんだー」と一人の女の子。
「いいなー!」黄色い声に、私は苦笑いを浮かべるしかない。ここでの男の年収と、女の品格は反比例する。いかにいい服を着るか、いかにいいバッグを持つか、いかにいい男を彼氏にするか、年中こんな会話でうんざりする。
かと言って輪に加わらないわけにはいかない。仕事とプライベートの内容こそ比例するのだ。
P.1
「仁科《にしな》さんはいつも素敵な服着てますよね」ふいに一人から話題を振られた。
「えっ、そう?」私は曖昧に笑って言葉を濁した。今日の服装は白いタイトワンピ。腰回りに太いベルトが巻き付いていて、ちょっと豪華に見えるゴールドのバックルがワンポイント。
そして同じくゴールド系のスパンコールが襟元に入ったコートを腕にかけて帰りたいアピール。
シンプルな服装だったけど、流石は目が肥えている女子たち。すぐにそれが高価なものだと見破った。女のチェック程厳しいものはない。私がオシャレをするのは対、男ではなく、彼女たちの為。
「仁科さんてぇ、結婚しないんですかぁ」間延びした話し方が赦されるのはこの年代の特権だ。
「結婚ね……相手がいないから」私は適当にごまかして再び言葉を濁した。
こう言っておけば大抵の女は引き下がる。私が長い間、人付き合いをしてきて、これが最良の方法だと知ったのはつい最近のこと。
私がこの会社に勤めはじめて五年になる。この会社での女性正社員では長いほうだ。後から派遣された若い女の子たちから見れば私なんてお局のようだった。
「そう言えばぁ仁科さん、この前見ちゃったんですぅ」一人の女の子が思わせぶりに口元へ手をやった。
短く切った髪にはパーマがあててあり、傍から見ればマシュマロのように可愛らしい女の子だ。
だが、そんな可愛らしさに惑わされてはいけない。女はいつでも顔の下にしたたかな一面を隠しているのだから。
P.2
「何を?」私は平静を装って取り澄ました。
もしかして“アイツ”と居る所を見られた?と思ってドキリとしたが
「この前の金曜日、青山のイタリアンレストランで、経理の前田さんと一緒にいるところぉ」
ああ、そっちか。とちょっとほっと安堵する。
「ええー!!」周りから黄色い声が飛ぶ。私は思わず頭を押さえたくなった。
そう、確かに経理の前田に誘われて先週の金曜に青山まで行った。
でも食事をしただけで、別に艶かしい関係ではない。だが、ここで重要なのが、経理の前田という男、この会社ではなかなかのハンサムでしかも独身、きさくな性格をしているわりには頼れる上司でもあるのだ。そうゆう男を若い女性社員が放っておくわけがない。
「いいなー、ねえお二人って付き合ってるんですか?」
食事をするイコール男女の関係と、どうして若い子たちはそう短絡的なのだろう。私はこの場から逃げ出したくなった。だけど、この場から立ち去ると認めたことになってしまう。
「別に、ただお食事に誘われただけよ」
「うそー、絶対前田さん仁科さんのこと狙ってるわよぅ。だって、あたしたちがいくら誘っても全然だったのよー。それなのに前田さんは仁科さんのこと」
嫉妬心と羨望の眼差しで見られ、私は思わず後ずさり。
何とか前田との話を切り返し、従業員出入り口から女子の群れに混ざって出てきた所だった。
遠くで派手なエンジン音が聞こえてきて、この狭い路地裏へと近づいてきた。この聞き慣れたエンジン音。私は嫌な予感がして思わず一方通行の標識を見つめた。
「よーう、仁科」黒のポルシェの窓から腕を出し、銜えタバコをしながら九条《くじょう》が手を振っている。
「やっぱり」
私は、今度こそ頭痛をこらえるように頭をしっかりと押さえた。
P.3
「仁科、今終わりか?これから飯でも食わねー?」
この状況を知らずに能天気に笑ってるその整った横っ面に今すぐ張り手を食らわせたい。
「あ、あんたいつ東京に戻ってきたわけ?」私は女の子の群れから一人離れると、九条の車に近づいた。
「あー、悪い。三日ぐらい前かな?この前言ってた日本料理屋行こうぜ」
「あんたっていつも何で急なのよ」
私が声を潜めて九条を睨んでいるときだった。
「えー、仁科さんの彼氏さんですかぁ?かっこいい!」
女の子たちの視線が九条に移った。予想していなかった最悪の事態。
上半身しか見えなかったが、今日の九条は黒いジャケットの中に白いカットソーを着ていて、真冬だって言うのに襟ぐりに濃いサングラスをかけている。いつものように髪をラフにセットしてあって、左耳には輪っかのようなピアスが三つ光っていた。
そう
どこからどーみてもこいつは
ホスト。
P.4
「仁科、今終わりか?これから飯でも食わねー?」
この状況を知らずに能天気に笑ってるその整った横っ面に今すぐ張り手を食らわせたい。
「あ、あんたいつ東京に戻ってきたわけ?」私は女の子の群れから一人離れると、九条の車に近づいた。
「あー、悪い。三日ぐらい前かな?この前言ってた日本料理屋行こうぜ」
「あんたっていつも何で急なのよ」
私が声を潜めて九条を睨んでいるときだった。
「えー、仁科さんの彼氏さんですかぁ?かっこいい!」
女の子たちの視線が九条に移った。予想していなかった最悪の事態。
上半身しか見えなかったが、今日の九条は黒いジャケットの中に白いカットソーを着ていて、真冬だって言うのに襟ぐりに濃いサングラスをかけている。いつものように髪をラフにセットしてあって、左耳には輪っかのようなピアスが三つ光っていた。
そう
どこからどーみてもこいつは
ホスト。
P.4
でも勘違いしてもらっては困る。私はこいつの客じゃない。東京を離れていたのも、大方客の一人と遠征旅行でもしていたのだろう。
「違っ!こいつとは単なる腐れ縁。彼氏とかじゃないから」
と慌てて否定するも秒の単位で噂が回るこの会社で明日の朝には『仁科さんて、ホストに貢いでるらしいよ』とあちこちで言われるに違いない。
くらり、と眩暈が起きた。
腐れ縁、と言うのは間違いない。中学からの同級生だから。
「じゃあ、本命は前田さんですかぁ?」女の子達が興味津々で目を輝かせている。
「前田??ひどいなー、仁科ぁ。俺たち何度もセック……もがっ」
最後の方が言葉にならなかったのは私の手が九条の口を塞いだから。
ふざけんな!何言い出すんだこいつぁ!!
空気読めっつうの!
と言うことを目で訴えると、流石に冗談が過ぎたと思ったのか九条は苦笑い。
「で?行くの?行かないの?」せっかちに聞かれて
「わかったわよ!行くわよ」半ば怒鳴るように九条を睨みつけると、私はそそくさと助手席に回った。
「それじゃ、私はこれで。お先に」女の子たちにはなるべく平静を装って、にこやかに手を振る。
ため息をついて車の助手席を開けると、運転席から九条が笑顔で手を差し伸べてきた。
「ただいま、仁科」
昔とちっとも変わらない笑顔。眉が下がり、目を細める、優しい笑顔。そして時々その低い声で呼ばれる、自分の名前。何だかくすぐったいが、この笑顔を向けられたら、たとえ九条の勝手に振り回されても、赦せてしまう。
「……おかえりなさい」私は俯くと、小さく返事を返した。
P.5
前述した通り私と九条とは中学からの付き合いだ。かれこれ十年以上の付き合いになる。十年、と言う歳月は長く感じられるけれど、その間に音信不通になったり、そしてどこからか連絡先を入手して電話を寄越して来たり、をだらだらと繰り返している。
でも、私たちははっきりと『付き合って』はいない。もちろん九条のブラックジョークの『体の関係』もない。
あるのは中学生から変わらないノリと
私が九条のこと「好き」
と言うことだけ。歳を重ねて、九条がホストになって……あ、今はホストじゃなくホスト店を経営してるオーナー様でもあったかしら。とにかく環境は変わったものの、不変的な何かは確実に存在している。
パワーウィンドウの外をちらほらと雪が降っていた。
「北海道行ってきたんだ~土産に蟹買ってきてやったぞ」と九条は運転しながらどこか楽しそう。
「北海道……ここより雪が多そうね」ぼんやりと呟きながら、九条に気づかれない程度にこっそりと、外気との差で曇った窓ガラスに、人差し指で
『好き』
と書く。
私の書いた文字は私の体で隠れて九条からは見えない。
「蟹すきしようぜ~、お前んちで」
「何であんたを一々上げないといけない?」
言い合いをしながら、やがて私のマンションに着く頃にはみぞれになった大粒の白いものが私の『好き』をかき消す。
「だってお前んち床暖あるじゃん?」
「そんな理由かよ」
中学生から変わってないこの関係とノリ。
今はまだ―――
この関係でいいや。
~FIN~
P.6