逃走?闘争?
「何故、無理をする!」
こんなときにまで怒られてる俺……どうなの??
オータムナルさまは見るからに高級そうなマフラーを躊躇なく引き裂くと俺の脚首に巻いた。
「痛かったろうに……私や大勢の人質を守るためお前はたった一人…」
オータムナルさまが目を伏せる。
こんなときにまで……オータムナルさまの美しさは輝いていて、黄金色の髪の毛とか紅茶色の肌とか、まるで宝石のように美しい。
こんな―――汚い路地裏を逃げ回っているお姿なんて、似合わない。
彼はもっと煌びやかで美しいものに囲まれて、堂々と居るのが―――お似合いなんだ。
俺とは―――住む世界が違うお人
最初から分かっていたのに、彼の優しさに触れて彼の純粋な部分に気づいて、彼のぬくもりに包まれて
俺はひととき夢を見ていたに違いない。
P.462
だが、今は夢を見ている暇ではないのだ。
とにかくここから脱出しなければ。
警察に見つかったら厄介なことになる。
俺は再びスマホに向き合うと、表示されていた細かい地図の画面がゆらりと揺れた。
「!」
俺が目を開いて凝視していると、画面は大きく揺れ灰色の砂嵐へと変わった。
「くっそ、GPSがいかれちまった」
だが
『Proceed!(こっちだ!)』盗聴した無線は生きている。
くそっ!このままでは時間の問題だ。
俺はオータムナルさまの手を握ると、前を目配せ。
「オータムナルさま、
俺が囮になります。あなたは逃げて。
もし捕まっても、あなたはこの国の皇子だ。強盗に巻き込まれてその犯人の一味に拉致られそうになった、と言えばいい」
「何を………言う…」
オータムナルさまは目を開いた。「それは…お前が捕まってもいいと言うのか!お前を見殺しにしろ!と」
「見殺しなんて大げさな」俺は場違いなほど明るく笑った。「追ってきているのは警察だ。彼らは俺を逮捕しても、大人しく投降すればすぐに殺されることなんてありません」
はっきりきっぱり言い切ったが
「ならぬ」
例のごとく、またもはっきりきっぱり言い返されちゃった。
俺は下を向いた。強引に口の端を吊り上げて笑った。
「その台詞、聞き飽きました。もう……俺―――我儘皇子の子守とか嫌なんです。
正直、貴方から解放されたいんですよ」
嘘だ―――
これっぽっちの本心じゃない。
一緒に居たい。ずっとずっと―――永遠に―――
だから逃げて―――
どうかご無事で―――
貴方を想う気持ちは永遠に
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俺がオータムナルさまの手からそっと手を離そうとすると、オータムナルさまの手が慌てて俺の手を握り返してきた。
寒い冬の夜に、凍えた俺の心を温めてくれそうな―――あったかい手だった。
このぬくもりを離したくない。
このぬくもりにずっと包まれていたい。
でも――――……
「―――それはお前の本心か」
―いいえ
「……そうです」
「私を鬱陶しく思っていた、と」
―そんなわけない
「…はい」
本音と嘘が俺の中をぐちゃぐちゃに満たす。もう、何をどう言っているのか分からなくなってきた頃
「たとえそうだとしても、私はお前をここに置いていくことはない」
ぎゅっ
力を入れて手を握られて俺の手からスマホが滑り落ちそうになったときだった。
Pi――――……ザザッ!
不快なノイズ音に混じって
『Hello T.This is SY. In answer.
(T。こちらSY。応答せよ)』
女の声が聞こえてきた。
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俺とオータムナルさまが目を開いてその声のなるスマホに視線を落としていると
『Would you like to know why I can talk with you?
(何故話せるかって?)
It's because a cycle was taken over.
(周波を乗っ取ったからよ。)
――――T
Are you chased?
(追われているのでしょう?)
I can help you.
(私ならあなたたちを助けてあげられる)
Approval cord.
(承認コードを)』
「この女は何者だ?お前の知り合いか?Tとは」
オータムナルさまが口早に質問してくる。
「知り合いってことは……」
でもこの声――――………
レディブラックスワン―――
『Not have time to dwell on?
(迷ってる暇なんてないんじゃないの)』
「紅」
『T』
俺はオータムナルさまとスマホの間で視線をいったりきたり。
くそっ!どうすればいい――――!!!
『T
Not have time to dwell on.
(迷ってる暇はない))
Approval cord…
(承認コード……)』
最後まで聞かないうちに俺は
「E!
……Z1-492PE62-LG3A-***」
与えられた承認コードを叫んでいた。
P.465
このSYと言う女……レディブラックスワンを信用できるのか、それは分からなかった。
感謝祭の夜、一度は助けられたが、その後狩りの場でオータムナルさま一行を襲ってきたのだ。
大きな賭けだったが、今はこの申し出に縋る他、道はない。
『OK。T
ではその道を北へ100m。その先にバーの看板があるわ、そこを右に、そして……』
SYは、俺を仲間だと認識したのか急に打ち解けた日本語に変わって道を説明してくれた。
俺はスマホを耳に当てたまま、再びオータムナルさまの手を取り走り出した。
――――
SYなる人物のナビゲーションは的確だった。
警察の追手に掴ることなく、町のメインストリートに出ることができた。
だがSYの指示はまだ続く。
『私の正体が知りたいでしょう?だったら、言う通りにして。
メインストリートを2キロ南下して。脇道があるから左折すると向かって右手に今は封鎖されているショットバーがある。
そこが私のアジトよ。二十分後、そこで待つ』
俺は腕時計を見下ろした。
まずはこのまま宮殿に引き返すことが最優先だ。だが、スピーカー機能にしていたスマホから相手の会話を聞いていたオータムナルさまが
「タクシーを」
と運よく……いや、悪く…か……タクシーを呼び寄せた。
有無を言わさず腕を引っ張られてタクシーに押し込められる俺。そしてオータムナルさまはレディブラックスワンのアジトである場所を運転手に告げた。
「ちょ、ちょっと待ってください!危険です!!俺一人で行きます」
「ここまで来てお前を一人で行かせられるか。行くなら一緒だ、紅」
至極真剣ななまなざしでそう言われて俺は――――その視線を跳ね除けることができなかった。
P.466
――――
――
レディブラックスワンが指定したショットバーはすぐに見つかった。
今は閉店している、と言った言葉は本当で、錆びれた看板だけが蝶番をきぃきぃ鳴らしてかろうじてぶら下がっている状態だ。
建物自体は大きくなく、白い土壁……いや、今は若干くすんだ茶色をしている…だけが、無機質にそびえ立ってる。
のっぽの三角屋根が特徴的で、パッと見は教会っぽくも見えなくはない。
ガラス製のドアの奥は真っ暗で、所々蜘蛛の巣が張っている。
その曇りを晴らすように手のひらでガラス窓を撫でると、やはり何ら変わりない暗闇が部屋を満たしていた。
俺がオータムナルさまを見上げると、彼は無言で一つ頷いた。
くすんだブロンズ製のドアノブを回すと、ぎぃぃとこれまたおあつらえ向きな音を立ててゆっくりと内側に開く。
銃を両手で構えて俺は室内に素早く視線を回した。
その後にオータムナルさまが続く。
室内は薄暗かった。壊れた照明器具……シャンデリアのようなものが天井からぶら下がっていて蜘蛛が自身の住処にしている。
バーと言ったが、テーブルや椅子は見当たらなく、代わりに白い大小さまざまな形で布が被っていた。
慎重に…手近にあった一つの布をバサリと取り外すと、それは古びたロッキングチェアだった。
俺が布をはがしたせいで、ぎぃぎぃと奇妙な音を立てて木製の椅子が軋む。
「気味が悪いな」
「ええ……」
さすがの俺もこの異様とも呼べる光景を目の前に、慎重にならざるを得なかった。
コツっ
何かがつま先に当たり、下を見るとそれはくすんだ色をした銀製のナイフだった。
だいぶ錆びれてはいるが、まだ使えそうだ。
俺はそのナイフを取り上げると、切っ先の埃を息でふきかけそれをズボンのベルトにそっと挟み込んだ。
一歩進むと、今度は
ザリッ……
渇いた音がまたも足元から聞こえてきて、自分の靴が割れたガラスの破片を踏んだ音だと気づいた。
「オータムナルさま……この場所にガラスが落ちてます。気を付けて…」
言いかけたときだった。
また同じ……かすかな音が奥の部屋から聞こえてきて、俺は銃をそちらに向けた。
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その扉は木製で、長方形の枠が彫られているだけのシンプルなものだった。
俺は銃を向けながらそっとその扉を外側に開き、薄暗い室内にスマホのライトを向けた。
僅かな埃が宙を舞っている空間の向こう側、女の後ろ姿がぼんやりと浮かび上がる。
見事なブロンド…
華奢な体型で背はそれほど高くはない。暗くてその色が何色なのか判別できなかったが明るい色のワンピースを着ている。
「Put your hands up! (手を挙げろ)」
俺が銃口の先をその女の背中に向けて怒鳴ると、女はびくりと肩を揺らしてそろりと両手を挙げ
「Look back here slowly!(ゆっくりとこっちを向け)」
またも俺の命令に、女は―――大人しく従うつもりなのかまるでスローモーションのようにゆっくり、ゆっくりとこちらを振り向く。
その姿は――――
「コウ………――――お兄様………」
今にも泣きだしそうな表情を浮かべた
「マリアさま!?」
「マリア!!」
だった。
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何故――――
マリアさまが―――……!
マリアさまはひたすら困惑したように眉を寄せている。ゆらゆら揺れるサファイヤブルーの瞳は、まるで荒れた海の色を連想させられた。
オータムナルさまが俺の後ろから銃のスライド部分を押さえる。
「紅!銃を降ろせ!あれは私の妹だ。
敵などではない!」
「しかし……」
俺はオータムナルさまに銃を押さえられていても、それを降ろす気はなかった。
体は小さいが力には自信がある。現にオータムナルさまが銃身を抑え込んでも、俺の銃口は一ミリたりともブレない。
俺の意思もそれほど強固なものだ。
マリアさまがSYだとは思わないが、何らかの罠だったら――――……
「紅!」
オータムナルさまが怒鳴り、その声は暗い室内に大きく響いた。俺とマリアさま二人が揃ってビクリと肩を揺らす。
「…違うの!お兄様!!わたくしは……」
マリアさまが何か言いかけたときだった。
「銃を降ろしなさい、T」
闇の中から女の声が聞こえて、ぴたりと冷たい銃口を額の横に感じる。
――――いつの間に……
ぞくり
俺の額に冷や汗が浮かび、横目でその女を捉えると、女は―――以前俺が目撃した姿……黒い革のジャケットに革のパンツ姿で目に黒いサングラスの姿で銃を右手で構えていた。
「はじめまして、と言うべきかしらT」
「SY………?」
分かり切っていたことなのに、今一度確証を得るため、彼女の名を……いや、コードネームを呟く。
女は……レディブラックスワンは、軽く肩をすくめてみせただけだった。
「紅……いかがする……」
オータムナルさまの不安げな声が背後から聞こえてきて、俺はちらりとマリアさまの方を窺った。
彼女は可哀想なぐらい怯えきっていて、暗がりの中でも分かるほど顔を青ざめさせていた。
ガチャッ!
俺は無言で手にしていた銃を放り投げ、渇いた空間に似つかわしくない金属の鈍い音が床から響いた。
P.469
「懸命な判断ね」
SYは喉の奥で低く笑った。
随分―――余裕があるようだ。マリアさまは人質だったわけだ。
これで手も足もでない。
5秒……いや3秒でも時間が…隙があれば、SYから銃を奪うことができる。
「……落ち着けよ。俺たち仲間だろ……」
何でもいいから一瞬の隙を突きたかった俺は、わざとおどけて肩をすくめて見せた。
SYがうっすら笑った気配がして、俺は彼女を睨んだ。
「仲間?そうね―――
私たちはずっと――――仲間だったわ。
私は常にあなたの傍に居たから」
傍に――――……?
やはり宮殿内の人間だったか。
SYが銃を構えながら反対の手でサングラスをゆっくり外した。
ごくり
俺の喉が鳴った。ゆっくりとサングラスが外され、天窓から白い月の光が入ってきて、女の顏を露わにする。
その顏は
『傍に居た』
と言う言葉の本当の意味――――
え―――――…………
俺は目を開いた。同時にオータムナルさまも目を開く気配がした。
何 で ――――
P.470
沙夜――――……
……さん
P.471
沙夜さんがSY………!?
どういうこと!?
だってあの虫も殺せないような、ふわふわか弱い深層の御令嬢が……
今はいかにも手慣れた手つきで拳銃を構えている。
今まで何かとつけて助け合ってきた、相談にも乗ってくれたし、恋バナもした仲だっていうのに、その銃口の先を、まるで氷のような……見たことのない冷たい無表情で俺に向けていた。
声も―――俺の知っているヒバリのような軽やかなものじゃない。
1オクターブ低い。
ソフィアさんのテントで黒馬に乗って助けてくれたのも、狩りに行ったとき俺たちを襲ったのも
沙夜さん―――
P.472
にわかに信じられない光景に、俺の戦闘意識も低下していく。驚きにみっともなく口を開いていると
「沙夜!そなた何をしているのか分かっておるのか。
あろうことか我が妹姫を楯に取り、皇子である私に銃を向けるなど!」
オータムナルさまが怒鳴り声を挙げ、その声にびくり!俺は呪縛が解けたように目の前の沙夜さんを……いや、SYを改めて見据えた。
そうだ、これは現実だ。
俺は……いや、俺たちは沙夜さんに銃を向けられている。
「マリアさまは人質ですか……沙夜さん。
あなたがこんな卑怯な真似をするとは、思いも寄らなかった」
俺が睨むと、沙夜さんは……いやSYはうっすら笑っただけで何も答えてくれなかった。
「違うの!お兄様!!コウっ!」
代わりに答えてくれたのはマリアさまだった。
「沙夜姫はわたくしを助け……」
言いかけた言葉を、「しー」沙夜さんは唇に指を当てマリアさまに黙るようにそっと指示。
まるで秘密を共有した子供のように、内緒話をするように……その目は悪戯っこのような無邪気なものだった。
マリアさまは言い掛けた言葉を飲み込んだ。
「どうゆうことだ、マリア。沙夜がお前を助けた……と?」
オータムナルさまがマリアさまをちらりと窺い、マリアさまは沙夜さんを気にするようにちらりと彼女を見つめ、やがて下を向いた。
「私がマリアさまを助けたか、或は人質にとったかどうか、なんて今はそんなこと知る必要はない。
それよりも皇子」
沙夜さんは、また…初めて見せるぞっとするような妖艶な笑みを赤い唇に浮かべオータムナルさまに微笑みかけた。
そして俺の知っているふわふわな沙夜さんの軽やかな声で―――
「コウさんの正体をご存じで?」
と
言ったのだ。
P.473
沙夜さんの質問に、オータムナルさまが俺の方をゆっくりと見る。
「隠し事はいけないことですわ、コウさん」
沙夜さんがうっすら笑う。
「紅――――……」
オータムナルさまが戸惑ったように俺を呼んだ。
「知らないのなら教えてさしあげましょう。
彼の正体を」
沙夜さんは軽やかに笑って、どこからか白へびのぬいぐるみを取り出した。
「あれは私が紅にやった……」
そう、それはオータムナルさまからもらったぬいぐるみで、蛇のレイラに尻尾の一部を噛みちぎられている―――見慣れたぬいぐるみだ。
俺は目を開いて唇を噛んだ。
――――いつの間に……と言う質問自体バカげている。
だって俺の部屋は鍵を掛けていない。
けれど貴重品を盗まれることも、俺の身分証を探られる心配もなかった。
徹底して隠してあったから―――
でもSYなら―――
俺たちは良い意味でも悪い意味でも同志だ。
顏を見たことはないが、かつては同じ訓練を受けてきた友には違いない。
それが仇となったのか
俺が隠した“それ”を沙夜さんはあっさり見つけた―――
「あなたの口から言えないのなら、わたくしから言いましょうか?コウさん」
喉の奥で低く笑いながら沙夜さんは白へびを掲げる。
「やめろ……」
沙夜さんの1オクターブ低い声に負けず劣らず、俺の声が低まった。
沙夜さんが白へびをオータムナルさまに手渡そうとしている。「ただのぬいぐるみじゃないか」オータムナルさまは困惑した様子で白へびを受け取ろうとしていた。
「やめてくれ……」
沙夜さんの手から白へびがオータムナルさまの手に渡るその瞬間―――
俺は後ろに回した手で、さっき拾ったナイフを素早く取り出した。
「やめろぉおおおおおお ――――――!!!!」
俺の怒声が響き渡り、それと同時に俺は沙夜さんめがけてナイフを振りかざした。
P.474<→次へ>
冬の夜
キミへの気持ちを窓に託しました
たった一言が言えない私は臆病者ですか?
でも今はこれが精一杯
雪に想いを
『次はお天気コーナーです。今日から明日にかけて低気圧が日本の南を発達しながら東北東に進み、明日には日本の東に進む見込みです。
関東甲信地方では今夜から雨が次第に雪に変わり、あす午前中にかけて山沿いを中心に、平野部でも積雪となる所がある見込みです。雪による交通障害、架線や電線、樹木等への着雪、路面の凍結に注意してください』
今朝のワイドショーのお天気キャスターの言葉を思い出したのは、勤めている会社の定時を迎え業務を終えたときだった。
「えー!やだっ!雪降ってるじゃん」と誰からともなく声が挙がり
「ホントだー、私傘持ってきてない」
「どうりで冷えると思った」
と同僚たちが次々と口にする。
またも誰かが「せっかく彼氏に買って貰ったバッグが濡れちゃう」と言い出し、それでもちっとも困った様子ではなく、どこか誇らし気だ。
そしてその周りの女子たちが盛んに羨ましがる。
「いいなー、でもあたし今度のクリスマスにダイヤの指輪ねだっちゃうんだー」と一人の女の子。
「いいなー!」黄色い声に、私は苦笑いを浮かべるしかない。ここでの男の年収と、女の品格は反比例する。いかにいい服を着るか、いかにいいバッグを持つか、いかにいい男を彼氏にするか、年中こんな会話でうんざりする。
かと言って輪に加わらないわけにはいかない。仕事とプライベートの内容こそ比例するのだ。
P.1
「仁科《にしな》さんはいつも素敵な服着てますよね」ふいに一人から話題を振られた。
「えっ、そう?」私は曖昧に笑って言葉を濁した。今日の服装は白いタイトワンピ。腰回りに太いベルトが巻き付いていて、ちょっと豪華に見えるゴールドのバックルがワンポイント。
そして同じくゴールド系のスパンコールが襟元に入ったコートを腕にかけて帰りたいアピール。
シンプルな服装だったけど、流石は目が肥えている女子たち。すぐにそれが高価なものだと見破った。女のチェック程厳しいものはない。私がオシャレをするのは対、男ではなく、彼女たちの為。
「仁科さんてぇ、結婚しないんですかぁ」間延びした話し方が赦されるのはこの年代の特権だ。
「結婚ね……相手がいないから」私は適当にごまかして再び言葉を濁した。
こう言っておけば大抵の女は引き下がる。私が長い間、人付き合いをしてきて、これが最良の方法だと知ったのはつい最近のこと。
私がこの会社に勤めはじめて五年になる。この会社での女性正社員では長いほうだ。後から派遣された若い女の子たちから見れば私なんてお局のようだった。
「そう言えばぁ仁科さん、この前見ちゃったんですぅ」一人の女の子が思わせぶりに口元へ手をやった。
短く切った髪にはパーマがあててあり、傍から見ればマシュマロのように可愛らしい女の子だ。
だが、そんな可愛らしさに惑わされてはいけない。女はいつでも顔の下にしたたかな一面を隠しているのだから。
P.2
「何を?」私は平静を装って取り澄ました。
もしかして“アイツ”と居る所を見られた?と思ってドキリとしたが
「この前の金曜日、青山のイタリアンレストランで、経理の前田さんと一緒にいるところぉ」
ああ、そっちか。とちょっとほっと安堵する。
「ええー!!」周りから黄色い声が飛ぶ。私は思わず頭を押さえたくなった。
そう、確かに経理の前田に誘われて先週の金曜に青山まで行った。
でも食事をしただけで、別に艶かしい関係ではない。だが、ここで重要なのが、経理の前田という男、この会社ではなかなかのハンサムでしかも独身、きさくな性格をしているわりには頼れる上司でもあるのだ。そうゆう男を若い女性社員が放っておくわけがない。
「いいなー、ねえお二人って付き合ってるんですか?」
食事をするイコール男女の関係と、どうして若い子たちはそう短絡的なのだろう。私はこの場から逃げ出したくなった。だけど、この場から立ち去ると認めたことになってしまう。
「別に、ただお食事に誘われただけよ」
「うそー、絶対前田さん仁科さんのこと狙ってるわよぅ。だって、あたしたちがいくら誘っても全然だったのよー。それなのに前田さんは仁科さんのこと」
嫉妬心と羨望の眼差しで見られ、私は思わず後ずさり。
何とか前田との話を切り返し、従業員出入り口から女子の群れに混ざって出てきた所だった。
遠くで派手なエンジン音が聞こえてきて、この狭い路地裏へと近づいてきた。この聞き慣れたエンジン音。私は嫌な予感がして思わず一方通行の標識を見つめた。
「よーう、仁科」黒のポルシェの窓から腕を出し、銜えタバコをしながら九条《くじょう》が手を振っている。
「やっぱり」
私は、今度こそ頭痛をこらえるように頭をしっかりと押さえた。
P.3
「仁科、今終わりか?これから飯でも食わねー?」
この状況を知らずに能天気に笑ってるその整った横っ面に今すぐ張り手を食らわせたい。
「あ、あんたいつ東京に戻ってきたわけ?」私は女の子の群れから一人離れると、九条の車に近づいた。
「あー、悪い。三日ぐらい前かな?この前言ってた日本料理屋行こうぜ」
「あんたっていつも何で急なのよ」
私が声を潜めて九条を睨んでいるときだった。
「えー、仁科さんの彼氏さんですかぁ?かっこいい!」
女の子たちの視線が九条に移った。予想していなかった最悪の事態。
上半身しか見えなかったが、今日の九条は黒いジャケットの中に白いカットソーを着ていて、真冬だって言うのに襟ぐりに濃いサングラスをかけている。いつものように髪をラフにセットしてあって、左耳には輪っかのようなピアスが三つ光っていた。
そう
どこからどーみてもこいつは
ホスト。
P.4
「仁科、今終わりか?これから飯でも食わねー?」
この状況を知らずに能天気に笑ってるその整った横っ面に今すぐ張り手を食らわせたい。
「あ、あんたいつ東京に戻ってきたわけ?」私は女の子の群れから一人離れると、九条の車に近づいた。
「あー、悪い。三日ぐらい前かな?この前言ってた日本料理屋行こうぜ」
「あんたっていつも何で急なのよ」
私が声を潜めて九条を睨んでいるときだった。
「えー、仁科さんの彼氏さんですかぁ?かっこいい!」
女の子たちの視線が九条に移った。予想していなかった最悪の事態。
上半身しか見えなかったが、今日の九条は黒いジャケットの中に白いカットソーを着ていて、真冬だって言うのに襟ぐりに濃いサングラスをかけている。いつものように髪をラフにセットしてあって、左耳には輪っかのようなピアスが三つ光っていた。
そう
どこからどーみてもこいつは
ホスト。
P.4
でも勘違いしてもらっては困る。私はこいつの客じゃない。東京を離れていたのも、大方客の一人と遠征旅行でもしていたのだろう。
「違っ!こいつとは単なる腐れ縁。彼氏とかじゃないから」
と慌てて否定するも秒の単位で噂が回るこの会社で明日の朝には『仁科さんて、ホストに貢いでるらしいよ』とあちこちで言われるに違いない。
くらり、と眩暈が起きた。
腐れ縁、と言うのは間違いない。中学からの同級生だから。
「じゃあ、本命は前田さんですかぁ?」女の子達が興味津々で目を輝かせている。
「前田??ひどいなー、仁科ぁ。俺たち何度もセック……もがっ」
最後の方が言葉にならなかったのは私の手が九条の口を塞いだから。
ふざけんな!何言い出すんだこいつぁ!!
空気読めっつうの!
と言うことを目で訴えると、流石に冗談が過ぎたと思ったのか九条は苦笑い。
「で?行くの?行かないの?」せっかちに聞かれて
「わかったわよ!行くわよ」半ば怒鳴るように九条を睨みつけると、私はそそくさと助手席に回った。
「それじゃ、私はこれで。お先に」女の子たちにはなるべく平静を装って、にこやかに手を振る。
ため息をついて車の助手席を開けると、運転席から九条が笑顔で手を差し伸べてきた。
「ただいま、仁科」
昔とちっとも変わらない笑顔。眉が下がり、目を細める、優しい笑顔。そして時々その低い声で呼ばれる、自分の名前。何だかくすぐったいが、この笑顔を向けられたら、たとえ九条の勝手に振り回されても、赦せてしまう。
「……おかえりなさい」私は俯くと、小さく返事を返した。
P.5
前述した通り私と九条とは中学からの付き合いだ。かれこれ十年以上の付き合いになる。十年、と言う歳月は長く感じられるけれど、その間に音信不通になったり、そしてどこからか連絡先を入手して電話を寄越して来たり、をだらだらと繰り返している。
でも、私たちははっきりと『付き合って』はいない。もちろん九条のブラックジョークの『体の関係』もない。
あるのは中学生から変わらないノリと
私が九条のこと「好き」
と言うことだけ。歳を重ねて、九条がホストになって……あ、今はホストじゃなくホスト店を経営してるオーナー様でもあったかしら。とにかく環境は変わったものの、不変的な何かは確実に存在している。
パワーウィンドウの外をちらほらと雪が降っていた。
「北海道行ってきたんだ~土産に蟹買ってきてやったぞ」と九条は運転しながらどこか楽しそう。
「北海道……ここより雪が多そうね」ぼんやりと呟きながら、九条に気づかれない程度にこっそりと、外気との差で曇った窓ガラスに、人差し指で
『好き』
と書く。
私の書いた文字は私の体で隠れて九条からは見えない。
「蟹すきしようぜ~、お前んちで」
「何であんたを一々上げないといけない?」
言い合いをしながら、やがて私のマンションに着く頃にはみぞれになった大粒の白いものが私の『好き』をかき消す。
「だってお前んち床暖あるじゃん?」
「そんな理由かよ」
中学生から変わってないこの関係とノリ。
今はまだ―――
この関係でいいや。
~FIN~
P.6