Tの正体
「紅!!やめろ!」
「コウ、やめてぇええええええ!」
オータムナルさまの怒声とマリアさまの悲鳴が重なり、オータムナルさまが俺の腕を阻止しようと手を差し出し、マリアさまは両手で顏を覆っていた。
切っ先が自分に向いているのにも関わらず、沙夜さんはまばたき一つせず表情を崩さなかった。
ザッ!
渇いた音が響いて―――――
ひら……ひらひら…………
沙夜さんと俺の間に、ふわふわした羽毛が舞い散った。
オータムナルさまとマリアさまが目を開いて……だが次の瞬間ほっとしたように胸を撫で下ろす。
「T………あなたはまるで天使のようよ」
SYが、沙夜さんの表情に戻ってやんわりと俺の手によって裂けた白へびのぬいぐるみを、俺の手にそっと乗せてくる。
天使――――か……
かつてはそんな名前を付けられたな。
―Darkness Angel
“闇に浮かぶ天使”か―――俺はそんなきれいなものじゃない。
俺は……白へびのずんぐりとした腹の中から、黒い小さな手帳のようなものを自ら取り出した。
黒い手帳の中央にはゴールドの円形バッジがついてあって、その上部に鷹を象った装飾が施されていた。さらにそのゴールドの円形の中央にも鷹があり……
俺は黒い手帳に乗った羽毛を軽く払い、それをそっとオータムナルさまの手に乗せた。
オータムナルさまは戸惑ったようにその手帳を手に取り、まじまじと見つめていたが、
やがてその目を大きく開き、
バッ!!!
手帳を慌ただしく開いた。
「Central Intelligence Agency――――
Code#EZ1-492PE62-LG3A-***
Kou Kurusu
紅………お前は
CIA
の…………諜報員だったのか」
P.475
俺はオータムナルさまの問いかけに肯定する意味で唇を噛み、下を向いた。
と言うか、否定する言葉が出ない。
オータムナルさまが俺の両肩を掴み、激しく揺する。
「お前は……!スパイだったのか!!沙夜!お前もCIAなのか!?」
沙夜さんは冷ややかな目でオータムナルさまを見つめると、ゆっくりとした動作で腕を組み
「Yes」と短く答えた。
「お前たちは――――家庭教師や婚約者と偽り……私やマリアに近づき、その実カーティアの……情報を他国に売ろうとしていたのか」
「違う!」
それだけは否定できる。
俺はオータムナルさまの腕を跳ね除け、彼の瞳をまっすぐに見つめて言い放った。
「なら、何が目的だ!何故私に近づいた!」
オータムナルさまの震える質問に、俺は何も答えられなかった。
まだ本当のことを――――
言えない。
唇を噛んで言葉を飲み込んでいると、オータムナルさまは再び俺の両肩に手を置き、首を垂れた。
「答えろ!
……―――――答えてくれ……」
頼む
最後の言葉は懇願に近い物言いだった。
オータムナルさまは
答えを欲しがっている。
それが偽りだったとしても『CIAの諜報員なんて嘘ですよ。俺は一介の家庭教師です』と言う言葉を待っている。
どんなに汚い嘘でも、彼は俺の言葉を信じようとしている。
せっかく心を開いてくれたのに―――
俺はまた自らその扉を閉じてしまおうとしてるんだ。
でも
「騙していて
すみませんでした」
今はたった一言、こう答える他
術はない。
P.476
「――――っつ……」
オータムナルさまが唇を噛み、震える両手を宥めようと指先に力が入った。俺の肩にその指先がわずかに食い込む。
「お前は――――
クビだ。
今すぐ荷物をまとめてこの国を出て行け。金輪際、国境を越えて我が土地へ足を踏み入れることは許さん」
オータムナルさまのお言葉がまるで聞き慣れない呪文のように俺の脳裏をかすめていく。
「待っ………!」
俺が手を伸ばすと
「顏も見たくない。
今すぐ消えろ」
聞いたことのない冷たい声で、はじめて聞く拒絶の言葉を吐き出す唇が、
このときばかりは憎くてしかたなかった。
でも
そう仕向けたのは――――俺――――
「マリア!行くぞ!」
オータムナルさまはマリアさまの手を引き、来た道を引き返そうとする。
「待って!お兄様っ!」
マリアさまは尚も何か言いたげに俺の方を気にしている。
マリアさまは―――すべての事情を知っていらっしゃるに違いない。
けれど―――
俺はマリアさまに向かって小さく首を横に振った。
『いけません。
今はまだ―――本当のことを言うべきじゃない』
と言う意味を込めて。
俺が本当のことを言えない理由―――
それは
どんなに柔らかく説明しても、どんなに言葉を選んでも
彼が深く、深く―――
傷つくのが分かっていたから
俺は
オータムナルさまの笑顔を
奪いたくはない。
P.477
―――――
――
翌日。
今日は―――
12月25日
クリスマスだ。
俺はカーティアの…唯一の空路の入口である空港に来ていた。
雪で空路が足止めされていると思いきや、前日降った雪は今日の太陽でほとんどが溶けていた。目的の地までどうやら定刻通り出立できそうだった。
それが今は―――ちょっとばかり寂しいんだ。
来たときと同じ―――ボストンバッグ一つと、今は必要のなくなった松葉杖を持って。
チェックインの際、今度は松葉杖の説明を事前に行い、俺は無事ゲートをくぐることができた。
もう―――英語が不慣れな必要など
どこにもないのだ。
愚鈍で、馬鹿な来栖 紅と言う男は
どこにもいない。
P.478
出発時間までまだ時間がある。
待合室の椅子に腰を降ろし、その隣には沙夜さんが同じように座った。
沙夜さんの恰好は―――いつも見慣れた着物ではなくSYとしての洋服……スキニージーンズにライトグレーのざっくり編みのニットと言う姿だった。
見慣れない恰好に戸惑いを隠せないが、これが本来の姿だと思うと…しっくりくる気もする。
“俺”がずっと連絡を取り合っていた…顔も見たことのないSYの―――漠然としたイメージにぴったりとはまるから不思議なものだ。
「まさかT、あなたが直接乗り込んでくるとはね」
沙夜さんは『信じられない』と言いたげに口を開き、俺はそれに苦笑いを返すしかなかった。
「Tってのはやめてください。俺のことは今まで通りコウ、って」
「じゃぁあなたも敬語はやめてよ。私たち知らない仲でもないでしょう?」
いたずらっぽく笑われて俺はまたも苦笑。
本当だ……
俺と……Tと―――SY……沙夜さん、そしてST……ステイシーは
もう十年来の仲だ。
SYとは互いに顏を認識したのはこれがはじめてだが、PCでは常に連絡を取り合って居た。
今まで……沙夜さんと居るとどこか懐かしい気がしていた。ただの同郷だから、とか理由以外に今までのやりとりがあるからだろう。
俺は、ステイシーに贈ったリングをぎゅっと握った。
ステイシーが最後の最期まで身に着けていた唯一の遺品。
その裏には俺の
コードネームでもある
“T”
の文字が彫られている。
P.479
「Teaと“T”うまく考えたものね。
あなたの名前は紅茶のコウだものね。
もっと早く気づくべきだったわ」
沙夜さんが両手を椅子に付き、そのすんなりした両脚を投げ出した。
俺も同じように両ポケットに手を突っ込み、背を深くもたれると両脚を投げ出す。
「俺がTだと、何故分かった?」
ちょっとした疑問だった。今まで、何も知らない愚鈍な青年を演じていた。誰にも気づかれない自信はあったのに―――
「変…ね。と思ったのは、幽霊騒ぎがあったときよ。
確かに宮殿内ではワトソン博士の幽霊を見た、と言う噂が飛び交っていたけれど
それが男だか女だかは、ワトソン博士を知っている人間しかいないわ。
普通、博士って言うと―――大抵男だと思うでしょう?」
「なるほどね」
俺は苦笑いを漏らしてちょっと鼻の頭を掻いた。
「かまをかけたんだ。
この宮殿内で誰がステイシーを手に掛けたのか……知りたくてね」
ステイシーが……サマンサ・ワトソンと名乗っていたことは、英国領事館に侵入したとき分かった。
身分も職業も国籍さえも全て偽りだった。
だが、彼女の遺体を見つけるまで確信が持てなかった……いや、持ちたくなかったのかもしれない。
「だから嘘の発言をしたのね。本当は幽霊なんて見てなかったのでしょう?」
沙夜さんが無理やり…と言った感じで苦笑を浮かべる。
「当たり。俺に霊感なんてこれっぽっちもない。幽霊なんて当然見てない。
わざと騒ぎ立てて、みんなの反応を見たかった」
P.480
「けれど、そこで犯人はボロを出さなかった……」
「まぁ組織内でも凄腕のステイシーを殺したぐらいだ……
そう簡単に尻尾は掴まれないとは思ったけど、ね―――
沙夜さん……あなたに幽霊の髪の色を指摘されたときは、さすがにひやってした」
「ふふっ。厄介な女呼ばわりありがとう」
沙夜さんは面白そうに赤い唇に笑みを浮かべる。
その嫌味に、俺はまたも鼻の頭を掻いた。沙夜さんは、根に持つタイプだな…
「それにしても……
10か国語を操り、身体能力も狙撃の腕もずば抜けて優れている、組織が生み出した凄腕の天才――――
100年に一人と言われた逸材の
T
が、まさかこんなちんちくりん、だったとはね。
なんか…ぬいぐるみみたいだし」
ち、ちんちくりん!!?それにぬいぐるみだとぅ!!
まぁ確かにごっついマッチョマンってわけでもないし、背も低いけど!!
沙夜さんに早速反撃を食らってる俺。
いくら語学能力に長けていても、いくら狙撃の腕が良くても
女性の扱いだけは―――うまくなれそうにない俺。
「ところで沙夜さん、今度は俺の方から質問しても?」
俺はひくつく顏で、沙夜さんに問いかけると彼女はうっすら笑った。
「どうぞ」
―――出国時間まで、数十分……
種明かしの会話になりそうだ。
P.481
「昨日のこと……マリアさまは沙夜さん…あなたに助けられた、って言ってたけど…
何故、あの場にマリアさまが?」
沙夜さんはマリアさまを人質に取ったわけではなさそうだった。マリアさまは偶然、巻き込まれただけなのだ。
だがその理由が知りたい。
俺の質問に沙夜さんは軽く肩をすくめた。
「言葉通りよ」
だけどすぐに表情を引き締めると、至極真剣な顔で俺を覗き込んできた。
「マリアさま……
妊娠してらしたのね」
沙夜さんの質問に、俺は額を押さえて小さく吐息。
「何故―――そのことを……?彼女から相談を受けた?」
あれほど口止めしたのに……
今、外部に……それが誰であろうと知られるわけにはいかないのだ。
世継ぎの為に。
「いいえ。本当に偶然だったわ。
広間でクリスマスのプレゼント交換をしていたら、彼女急に苦しみだして―――
子宮から出血していたわ」
出血――――……!
「それで、御子のお命は!?」
俺が勢い込むと、沙夜さんは驚いたように目を開き両手を軽く挙げた。
「無事よ。すぐに医師に診せたわ」
ほっ……
沙夜さんの言葉に大きなため息が漏れた。
マリアさまは―――王位継承者だ。その御子は彼女の次期後継者になることは間違いないだろう。
少し変わってはいるが、彼女が国母となり、さらには宰相の地位にオータムナルさまを据え置けば―――この国は安泰だ。
けれど、物事はそう簡単にはいかない―――
「父親は、秋矢 徹だそうね―――」
P.482
王位継承者になれるのはマリアさまだけじゃない。国王さまの寵が深かった君蝶さんのお子が―――いらっしゃるのだ。
それが誰だか分からない今、
そして、王位継承者であるマリアさまが身ごもった御子の父親が秋矢さんだと知られると―――恐らく秋矢さんが実権を握ることになる。
今マリアさまが御子を身ごもっていることを―――外部には知られたくない。
「沙夜さん…!あのっ!そのことは誰にも!」
俺が慌てると
「もちろん言ってないわ。
でも、だいぶ無理をしていたみたいよ。マリアさまはあなたの言いつけ通り誰にも何も言えず、
痛みを我慢していたみたい」
マリアさま――――………
俺が口止めしたばかりに……せめて沙夜さんにでも相談するべきだったか。
俺が額を押さえていると、沙夜さんは小さく吐息。
「まぁ皇子があの調子じゃ、世継ぎは見込めないし、そうなったら頼みの綱はマリアさまよね。
さらに父親があの秋矢 徹ともなれば―――カーティアをあの男に乗っ取られる可能性も出てくる。
あなたが心配するのも分かるけれど……」
「違うんだ!」
沙夜さんが言いかけた言葉を、俺はやや強引に遮った。
P.483
オータムナルさまの秘密を、こんなところで不本意に漏らしてしまうこと……気が引けたが
今は四の五の言ってる場合じゃない。
俺は日本に強制送還だが、幸いにも沙夜さんはマリアさまのお世話係でこの国に留まることが許された。
ただし、外部との連絡は一切取れない……いわば囚われの身ではあるが。
それでも誰かがマリアさまをお守りしてくれる状況を―――今は少しでも喜ぶべきだ。
俺はオータムナルさまが御子が作れない体であることを沙夜さんに話聞かせた。
「まぁ……」
沙夜さんはSYではなく、俺の知ってる沙夜さんの声を挙げ口元に手を当てた。
本来の―――沙夜さんは本当はこちらなんじゃないか、と思うほど自然の行動に、何故だかほっとできた。
「あの…このことはもちろん他言無用で…」
「ええ、もちろんよ。ああ……でも……だからなのね…
彼が好き放題しているのは」
沙夜さんは意味深に横目で俺を見てきて
「あ………あはは~…それに関しては……ちょぉおおおおおっとばかり変わった性癖をお持ちと言うか…」
俺は苦笑いしか返せん。
「でも
好きなんでしょう?彼のことが」
沙夜さんはうっすらと微笑みを浮かべ、俺はその質問に―――
「――――うん」
素直に答えた。
P.484
俺はボストンバッグの中をごそごそとまさぐり、中からオータムナルさまへのクリスマスプレゼントに用意したピアスの小箱を取り出した。
それをぎゅっと握ると、軋んだ音が聞こえた。
これを直接―――お渡ししたかった……
できればこの先も彼の笑顔を見て、自分も笑顔になれて、彼の優しさに包まれて、自分も優しくなれて、彼の―――……
苦しいことも辛いこともいっぱい色んなことを共有して、隣でずっと一緒に泣いたり笑っていたかった。
「今日はクリスマス―――かぁ……」
誰に言うわけでもなくぽつりと漏らした言葉に沙夜さんが頷いた。
「沙夜さん―――……もし、全てが終わったら……オータムナルさまを狙う誰かが捕まったり死んだりしたら、真実をあなたの口から伝えてほしいんだけど…」
「――――………ええ」
沙夜さんはたっぷり間を置いてから一つ頷いた。
沙夜さんともこれでお別れだ。沙夜さんも外部との接触を図ることはできないから、これで本当に―――最後かもしれない。
でも俺は信じている。
彼女が全てを終わらせてくれること。
P.485
できれば、ステイシーを殺した犯人をこの手で――――
と、思っていたが、それは無理そうだ……
出立の時刻が刻一刻と迫っている。
「ところで沙夜さん……秋矢さんとは…その……どうなったの?」
俺は気になっていたことを聞いた。マリアさまが目撃した話を聞いて……終わったのだな、と言うことは分かっていたけど。
でも沙夜さんは傷心中のようには思えなかった。妙にカラっとしている。
「ああ。彼ね」
沙夜さんはちょっと苦笑を浮かべると、赤い唇に色っぽい笑みを浮かべた。
「私が彼に近づいたのは、単なる情報が欲しかっただけだから。本当に存在する伊集院 沙夜の戸籍を拝借して皇子の正室にまでなったと言うのに
彼は何も話さなかった。と言うより彼が私を信頼してなかったからそう簡単には口を割らなかったわ。
だから代わりに秋矢 徹に近づいたの。
まぁ、秋矢 徹は顏と体“だけ”は良かったから、私も美味しい思いができたけどね」
顏と体、“だけ”!!!?
沙夜さんっ!!!
てか秋矢さんも随分な言われようだな~……あはは…て、もう笑うしかない。
沙夜さんの演技に見事に騙された俺たち。
やっぱ男ってのは単純だなぁ。
P.486
「で?秋矢さんから何か情報は引き出せたの?」
「いいえ、何も」
沙夜さんはきっぱりと言って、額に手を置いた。
「体はあっさり許してくれたけど、彼の内心はガードが固いわ。
別れ際、涙だって見せたのに、最後の最後まで情報をもたらせてはくれなかった」
涙!?
「嘘泣き!?」
「当たり前じゃない。本当の涙は本当に好きな人の前じゃないと流さないわ。私の涙は安くなくてよ」
沙夜さんはしれっとして言う。顔に笑みさえ浮かんでいた。
“あの”秋矢さんを手玉に取るとか!!
すっげぇな、沙夜さん……てか女は怖い……!
まぁ……かく言う俺もオータムナルさまも揃って騙されてたわけだから……??
不甲斐ないな、俺たち……トホホ
でも――――……
「でもさ……沙夜さん、俺の前で一回泣いたよね。
クリスマスツリーの飾りつけしてるとき……ステイシーのこと……『どうか安らかに眠れますように、願いを込めて』って……
あれも……」
「あれは嘘じゃないわ」
P.487
沙夜さんは僅かに目を伏せた。
「彼女とは数回一緒に仕事をしたこともある。知らない仲じゃない。
そんな彼女と音信不通になって、何となく……悪い想像はしていた。
けれど、実際彼女の“死”を目の当たりにして―――どうしても堪えきれなかった」
沙夜さんの目尻にまたもうっすら……クリスマスツリーの前で泣いていたときと同じ涙が浮かんでいた。
良かった……
良かったね、ステイシー
君を想って泣いてくれる人が―――俺だけじゃなかった。
そのことに少し微笑みを浮かべていると、沙夜さんは無理やりと言った感じで目尻を乱暴に手で拭い、わざと話題を変えるようにまたも声を潜めた。
「まぁ?私の使命は皇子をはじめとする皇族を守り、彼らを狙う何者かを見つけ出し始末するってことだけだったけど」
その後の話で感謝祭の夜に助けてくれたのも、オータムナルさまが狙われていると言うメモを残したのも、さらには鏡に書かれた口紅の文字も、
全て沙夜さんのしたことだと判明した。
さらには俺たちの狩場を狙ったのも、もちろん彼女の仕業で、あのとき沙夜さんは俺が“T”であるかを確かめたかったようだ。
種明かしをすれば実に簡単なことだったけれど―――真実は
「それほど単純なものではなかったわね…」
そう―――なのだ……
まだまだ解けない謎は残っている。
P.488
「順番に整理しよう。まず最初に殺されたのがオータムナルさまの従兄弟のカイルだ。
公には自殺と言われてるけどね、間違いなく殺しだ」
俺が人差し指を一本立てると、沙夜さんは小さく「同感」と頷き次に彼女は俺の中指をもう一本…と立たせた。
「さらにカイルに使った毒と、皇子の部屋に放たれた蛇のレイラに塗られてた毒が一致。
次に殺されたのがソフィア・ヤヴリンスキー」
「ソフィアさん……彼女とまともに話したのはたったの十数分だけだった。
それもほとんどが雲のようにふわふわととりとめのない内容で、大して実がある話ではなかった。
でも―――
彼女は、俺が英国領事館の男たちに襲われそうになったとき沙夜さんが助けてくれることを予言した」
「予言?」
「月と太陽が重なるとき、奇跡は起こるってサ。あれ、俺の太陽のタトゥーと沙夜さんの月のタトゥーのこと言ってたんだよ、きっと」
「ああ……」
沙夜さんは気のない返事で頷き、背中の…タトゥーが彫られているであろう場所を手で撫でさすった。
「偶然か、それとも最初から全て知っていたのか……
それとも彼女の占いはホンモノだったってわけか―――
いや、俺はCIAの諜報員だぞ。占いなんて非現実的なものを信じるなんてバカバカしい。
それに……何でソフィアさんが俺のウォッカに薬を盛ったのかも分からない」
俺は口元に手を当て考え込んだ。
ほとんど独り言だった。自分の考えを整理したかっただけだが、
「あら……薬を盛ったのは私よ。ソフィア・ヤヴリンスキーを丸めこんだの」
さらっと言われて
「はぁ!?」
俺は目を丸めた。その表情を読んでか、沙夜さんが流石に申し訳ないと思ったのか
「ごめんなさい……私あなたがTであると確信を得たかったからあのとき薬を盛ったの。薬はマイスリー。
即行性のある眠剤よ。体に悪影響はないわ」
沙夜さんはしれっとして言う。
マイスリー……成分はゾルピデム酒石酸塩。広く睡眠薬として使用されているベンゾジアゼピン系に近い薬だ。
確かに体に悪影響はないし、あの後の血液検査でも異常は見られなかった。
P.489
だ・け・ど!
「俺の正体を暴くためとは言え酷くない!?俺、襲われかけたんだけど!!」
俺が喚くと沙夜さんは苦笑い。
「…その節はごめんなさぁい。私が見込んだTならそれぐらいかわすかと思ったのだけど…ちょっと試したと言うか……ね」
無味無臭でどうやってかわせるって言うんだよ!(怒)
「あのときオータムナルさまが助けに来られなかったら……俺、輪姦されてたんだぞ!!」
「だからごめんなさいって!ことの成り行きを見守っていたけど、まさかあの場を襲撃されるなんて誰が想像できた?」
ま、まぁ…確かに。あの襲撃が沙夜さんの仕業でないことは分かっていたけど……
沙夜さんがどうやってソフィアさんを丸めこんだのか分からないが、あの薬は沙夜さんが盛ったものだったんだ……
「でも月のタトゥーが彫ってあることなんて公表してないわよ?秋矢 徹も」
秋矢さんも??
……
考えて、「ああ……まぁ……??…そゆうことだよネ…当然………」
部屋暗くしたら分からないしな......
言いにくそうに口元にやった手に力が入った。
「その可愛い反応♪イケナイこと想像した?」
ふふふ、と沙夜さんは悪戯っぽく笑って俺の腕を小突いてくる。
「そ、そりゃぁ!!」
俺の声はみっともなくひっくり返った。
今になって理解できる。秋矢さんが沙夜さんをセフレだと言った本当の理由を―――
この人とは本気で恋愛できないぜ!
それでも……美男美女のお二人のあれやこれ…ベッドでの絡みを想像すると、鼻血が出そうになる。
手を慌てて鼻に移動させ、俺は話題を変えた。
「でもサ、俺に太陽のタトゥーが入ってるって知ってるのはオータムナルさまだけだよ?」
「あら、何で皇子はあなたのタトゥーなんて見れたんでしょう?♪」
またも沙夜さんの意味深な質問に
!
しまった!!俺は顔から火が出る思い。
タトゥーを見られたのは偶然(やや強引だったが)別にやましいことなんて……
嘘です、ちょっとはしました。
って、そんなことはどーでもいいっつの!
「まぁタトゥーなんてイマドキ、ファッションとして入れる人も多いぐらいだし、太陽と月なんてモチーフは割とポピュラーだしね。
適当に“予言”すれば、誰か何かは当たるでしょ」
P.490
沙夜さんは占いはただの偶然だ、と片付け
「あら……でも……タトゥーと言えば、マリアさまにもあったわよ?」沙夜さんは思い出したように唇に手を当て宙を眺めた。
マリアさまが―――……
「首の後ろ……ここに―――」
沙夜さんは自身の黒い髪を掻き揚げ、その白くて細いうなじを見せてくれた。
マリアさまにタトゥー……いかにも深層の姫君然とした彼女に(まぁ多少は変わっているが)それは酷く不釣合いな気がした。
「彼女とリアルお人形さんごっこをしたときに見たの」
「リアルお人形さんごっこ??何ソレ」
「きれいなドレスを選びっこしたり、髪を結い合ったりして遊ぶの。マリアさまって年齢の割にはそうゆう幼い遊びがお好きみたいで。
そこが可愛いところでもあるのだけど」
そう言えば俺も誘われたっけ。俺の時は医療ドラマにはまってるとかで解剖ごっこに付き合わされそうだったケド。
あのときは、危なかった~…彼女が人形に飽きたら俺が切り刻まれるところだったからな。
ふぅ~とため息を吐いていると
「トライバル模様の揚羽蝶のタトゥーよ。大きさはこれぐらい」
沙夜さんは親指と人差し指で五センチほどの幅を作った。
蝶―――……
国王様のお部屋にも蝶の金細工が施されていた。
俺は再び口元に手をやって目を細める。
ソフィアさんが送ってきたあの不気味な人形……あの人形に一匹の蝶が紛れ込んでいた。
その蝶はまっすぐに秋矢さんのところに向かった。
秋矢さんと―――
蝶
P.491
どうして…一連の出来事は最終的に秋矢さんに結びつくのだろう。
秋矢さんにはカイルやソフィアさんを殺す動機がないじゃないか。彼らが秋矢さんにとって何か不利な情報を得ていた、と考えれば辻褄が合うが
カイルとソフィアさんに共通点はない。
一人で考え込んでいると、
「――――……がその後…感謝祭の日の後、どこへ行方をくらましたのか、
さらには誰に殺されたのか、ってことよね」
沙夜さんの言葉ではっと我に返った。
「ああ、ソフィアさんのことか。
ソフィアさんが何故俺にあの変な人形を送ってきたのか、って言うことも謎だよね……
あ、そうそう!あの人形歌うんだ♪
可愛い声で♪」
俺がにこにこ言うと、沙夜さんは白けた目で俺を見る。
「や!違くて!!俺にそっちの趣味はないっ!
て言うかね!あの人形が歌ってる歌『黒い瞳』って言うらしいんだ」
そこで俺はかくかくしかじか…左右の目の色が違うフランス人形から得たヒント……秋矢さんに関して『あれ』の違和感を覚えたことを沙夜さんに話し聞かせた。
話していて
また――――
秋矢さんだ。
俺は黙り込んだ。
そんな俺の考えを知らずに沙夜さんは考えるように首を捻り、唇に指を置いた。
やがて
「確かに彼の部屋に
“コンタクトケース”はあったわ」
と、断言した。
「でも
“メガネ”はなかったし、したところを見たこともない。
そう考えれば違和感ね」
やっぱり――――……
P.492
冬の夜
キミへの気持ちを窓に託しました
たった一言が言えない私は臆病者ですか?
でも今はこれが精一杯
雪に想いを
『次はお天気コーナーです。今日から明日にかけて低気圧が日本の南を発達しながら東北東に進み、明日には日本の東に進む見込みです。
関東甲信地方では今夜から雨が次第に雪に変わり、あす午前中にかけて山沿いを中心に、平野部でも積雪となる所がある見込みです。雪による交通障害、架線や電線、樹木等への着雪、路面の凍結に注意してください』
今朝のワイドショーのお天気キャスターの言葉を思い出したのは、勤めている会社の定時を迎え業務を終えたときだった。
「えー!やだっ!雪降ってるじゃん」と誰からともなく声が挙がり
「ホントだー、私傘持ってきてない」
「どうりで冷えると思った」
と同僚たちが次々と口にする。
またも誰かが「せっかく彼氏に買って貰ったバッグが濡れちゃう」と言い出し、それでもちっとも困った様子ではなく、どこか誇らし気だ。
そしてその周りの女子たちが盛んに羨ましがる。
「いいなー、でもあたし今度のクリスマスにダイヤの指輪ねだっちゃうんだー」と一人の女の子。
「いいなー!」黄色い声に、私は苦笑いを浮かべるしかない。ここでの男の年収と、女の品格は反比例する。いかにいい服を着るか、いかにいいバッグを持つか、いかにいい男を彼氏にするか、年中こんな会話でうんざりする。
かと言って輪に加わらないわけにはいかない。仕事とプライベートの内容こそ比例するのだ。
P.1
「仁科《にしな》さんはいつも素敵な服着てますよね」ふいに一人から話題を振られた。
「えっ、そう?」私は曖昧に笑って言葉を濁した。今日の服装は白いタイトワンピ。腰回りに太いベルトが巻き付いていて、ちょっと豪華に見えるゴールドのバックルがワンポイント。
そして同じくゴールド系のスパンコールが襟元に入ったコートを腕にかけて帰りたいアピール。
シンプルな服装だったけど、流石は目が肥えている女子たち。すぐにそれが高価なものだと見破った。女のチェック程厳しいものはない。私がオシャレをするのは対、男ではなく、彼女たちの為。
「仁科さんてぇ、結婚しないんですかぁ」間延びした話し方が赦されるのはこの年代の特権だ。
「結婚ね……相手がいないから」私は適当にごまかして再び言葉を濁した。
こう言っておけば大抵の女は引き下がる。私が長い間、人付き合いをしてきて、これが最良の方法だと知ったのはつい最近のこと。
私がこの会社に勤めはじめて五年になる。この会社での女性正社員では長いほうだ。後から派遣された若い女の子たちから見れば私なんてお局のようだった。
「そう言えばぁ仁科さん、この前見ちゃったんですぅ」一人の女の子が思わせぶりに口元へ手をやった。
短く切った髪にはパーマがあててあり、傍から見ればマシュマロのように可愛らしい女の子だ。
だが、そんな可愛らしさに惑わされてはいけない。女はいつでも顔の下にしたたかな一面を隠しているのだから。
P.2
「何を?」私は平静を装って取り澄ました。
もしかして“アイツ”と居る所を見られた?と思ってドキリとしたが
「この前の金曜日、青山のイタリアンレストランで、経理の前田さんと一緒にいるところぉ」
ああ、そっちか。とちょっとほっと安堵する。
「ええー!!」周りから黄色い声が飛ぶ。私は思わず頭を押さえたくなった。
そう、確かに経理の前田に誘われて先週の金曜に青山まで行った。
でも食事をしただけで、別に艶かしい関係ではない。だが、ここで重要なのが、経理の前田という男、この会社ではなかなかのハンサムでしかも独身、きさくな性格をしているわりには頼れる上司でもあるのだ。そうゆう男を若い女性社員が放っておくわけがない。
「いいなー、ねえお二人って付き合ってるんですか?」
食事をするイコール男女の関係と、どうして若い子たちはそう短絡的なのだろう。私はこの場から逃げ出したくなった。だけど、この場から立ち去ると認めたことになってしまう。
「別に、ただお食事に誘われただけよ」
「うそー、絶対前田さん仁科さんのこと狙ってるわよぅ。だって、あたしたちがいくら誘っても全然だったのよー。それなのに前田さんは仁科さんのこと」
嫉妬心と羨望の眼差しで見られ、私は思わず後ずさり。
何とか前田との話を切り返し、従業員出入り口から女子の群れに混ざって出てきた所だった。
遠くで派手なエンジン音が聞こえてきて、この狭い路地裏へと近づいてきた。この聞き慣れたエンジン音。私は嫌な予感がして思わず一方通行の標識を見つめた。
「よーう、仁科」黒のポルシェの窓から腕を出し、銜えタバコをしながら九条《くじょう》が手を振っている。
「やっぱり」
私は、今度こそ頭痛をこらえるように頭をしっかりと押さえた。
P.3
「仁科、今終わりか?これから飯でも食わねー?」
この状況を知らずに能天気に笑ってるその整った横っ面に今すぐ張り手を食らわせたい。
「あ、あんたいつ東京に戻ってきたわけ?」私は女の子の群れから一人離れると、九条の車に近づいた。
「あー、悪い。三日ぐらい前かな?この前言ってた日本料理屋行こうぜ」
「あんたっていつも何で急なのよ」
私が声を潜めて九条を睨んでいるときだった。
「えー、仁科さんの彼氏さんですかぁ?かっこいい!」
女の子たちの視線が九条に移った。予想していなかった最悪の事態。
上半身しか見えなかったが、今日の九条は黒いジャケットの中に白いカットソーを着ていて、真冬だって言うのに襟ぐりに濃いサングラスをかけている。いつものように髪をラフにセットしてあって、左耳には輪っかのようなピアスが三つ光っていた。
そう
どこからどーみてもこいつは
ホスト。
P.4
「仁科、今終わりか?これから飯でも食わねー?」
この状況を知らずに能天気に笑ってるその整った横っ面に今すぐ張り手を食らわせたい。
「あ、あんたいつ東京に戻ってきたわけ?」私は女の子の群れから一人離れると、九条の車に近づいた。
「あー、悪い。三日ぐらい前かな?この前言ってた日本料理屋行こうぜ」
「あんたっていつも何で急なのよ」
私が声を潜めて九条を睨んでいるときだった。
「えー、仁科さんの彼氏さんですかぁ?かっこいい!」
女の子たちの視線が九条に移った。予想していなかった最悪の事態。
上半身しか見えなかったが、今日の九条は黒いジャケットの中に白いカットソーを着ていて、真冬だって言うのに襟ぐりに濃いサングラスをかけている。いつものように髪をラフにセットしてあって、左耳には輪っかのようなピアスが三つ光っていた。
そう
どこからどーみてもこいつは
ホスト。
P.4
でも勘違いしてもらっては困る。私はこいつの客じゃない。東京を離れていたのも、大方客の一人と遠征旅行でもしていたのだろう。
「違っ!こいつとは単なる腐れ縁。彼氏とかじゃないから」
と慌てて否定するも秒の単位で噂が回るこの会社で明日の朝には『仁科さんて、ホストに貢いでるらしいよ』とあちこちで言われるに違いない。
くらり、と眩暈が起きた。
腐れ縁、と言うのは間違いない。中学からの同級生だから。
「じゃあ、本命は前田さんですかぁ?」女の子達が興味津々で目を輝かせている。
「前田??ひどいなー、仁科ぁ。俺たち何度もセック……もがっ」
最後の方が言葉にならなかったのは私の手が九条の口を塞いだから。
ふざけんな!何言い出すんだこいつぁ!!
空気読めっつうの!
と言うことを目で訴えると、流石に冗談が過ぎたと思ったのか九条は苦笑い。
「で?行くの?行かないの?」せっかちに聞かれて
「わかったわよ!行くわよ」半ば怒鳴るように九条を睨みつけると、私はそそくさと助手席に回った。
「それじゃ、私はこれで。お先に」女の子たちにはなるべく平静を装って、にこやかに手を振る。
ため息をついて車の助手席を開けると、運転席から九条が笑顔で手を差し伸べてきた。
「ただいま、仁科」
昔とちっとも変わらない笑顔。眉が下がり、目を細める、優しい笑顔。そして時々その低い声で呼ばれる、自分の名前。何だかくすぐったいが、この笑顔を向けられたら、たとえ九条の勝手に振り回されても、赦せてしまう。
「……おかえりなさい」私は俯くと、小さく返事を返した。
P.5
前述した通り私と九条とは中学からの付き合いだ。かれこれ十年以上の付き合いになる。十年、と言う歳月は長く感じられるけれど、その間に音信不通になったり、そしてどこからか連絡先を入手して電話を寄越して来たり、をだらだらと繰り返している。
でも、私たちははっきりと『付き合って』はいない。もちろん九条のブラックジョークの『体の関係』もない。
あるのは中学生から変わらないノリと
私が九条のこと「好き」
と言うことだけ。歳を重ねて、九条がホストになって……あ、今はホストじゃなくホスト店を経営してるオーナー様でもあったかしら。とにかく環境は変わったものの、不変的な何かは確実に存在している。
パワーウィンドウの外をちらほらと雪が降っていた。
「北海道行ってきたんだ~土産に蟹買ってきてやったぞ」と九条は運転しながらどこか楽しそう。
「北海道……ここより雪が多そうね」ぼんやりと呟きながら、九条に気づかれない程度にこっそりと、外気との差で曇った窓ガラスに、人差し指で
『好き』
と書く。
私の書いた文字は私の体で隠れて九条からは見えない。
「蟹すきしようぜ~、お前んちで」
「何であんたを一々上げないといけない?」
言い合いをしながら、やがて私のマンションに着く頃にはみぞれになった大粒の白いものが私の『好き』をかき消す。
「だってお前んち床暖あるじゃん?」
「そんな理由かよ」
中学生から変わってないこの関係とノリ。
今はまだ―――
この関係でいいや。
~FIN~
P.6