Holly
night
オータムナルさまのお姿を探して広間に出向くと、そこには沙夜さんしか居らず
彼女は暖炉の前に飾られた大きなクリスマスツリーの前でオーナメントを取りつけていた。
ツリーの下にはすでに大小様々な大きさをしていてカラフルな包み紙のプレゼントがたくさん置かれている。
明日は―――クリスマスイブだ。
そう言えば……俺、オータムナルさまにプレゼントを用意してなかった。
ぼんやりと沙夜さんの後ろ姿を見つめていると、ふいに彼女が振り向き俺に気づくと天使の人形のオーナメントを取り落とした。
「コウ――――さん……」
沙夜さんとまともに話すのはソフィアさんが送ってきた人形のことを聞いた以来だ。
『思ったより、厄介な男』
あの発言ですっかり委縮してしまっていたが、
さすがにこの場で回れ右で避けるのはどうかと思われた。
お互いいい大人なんだし。
あのことは気にしてない素振りで
俺は沙夜さんの元まで歩み寄って、彼女の足元に落ちた天使のオーナメントを拾い上げた。
「どうぞ」
「ありがとう……ございます」
彼女はおずおずと小さな手を差し出し、俺から天使のオーナメントを受け取った。
それは庭の噴水に飾られているリアルな大天使さまじゃなく、顔も体も羽根もどこか幼稚で簡素な造りだ。
それでもどこか愛らしい。
どちらからともなく声を発したのは、沙夜さんだった。
「サマンサ博士のことは、残念でしたね。お悔やみ申し上げます」
そう言われて
沙夜さんは一体どこまで事情を知っているのだろう、と思った。
P.429
「お聞きしました。サマンサ博士――――、いいえステイシーさんはあなたの元恋人だったと」
誰に―――……
と、聞くまでもない。
どうせ秋矢さんからでも聞いたのだろう。
「大切な人が……」
沙夜さんは天使のオーナメントの羽の部分を撫で目を伏せた。
長く黒い睫が白い頬に影を落とす。
「貴方の大切な人が―――
どうか安らかに眠れますように
願いを込めて」
囁くような小さな声。沙夜さんは俺の手に天使のオーナメントを握らせ
ゆっくりと目を閉じた。
その目から一筋の涙が零れ落ち、驚いた。
「さ、沙夜さん……?」
「……ごめ……なさ……わたくしとしたことが……」
沙夜さんは慌てて目じりを指の腹で拭うと顏を上げた。
女性は―――感情的な生き物だ。
俺の悲しみをまるで自分のように思ってくれている沙夜さんは―――やっぱり優しいんだと思う。
間接的とは言え、泣かせてしまったことに罪悪感を感じ
「クリスマスプレゼント………沙夜さんはどなたかにあげるんですか?」
俺はわざと話題を逸らした。
沙夜さんもそれ以上深く悲しんだりはせず、だが無理やりといった感じで笑顔を浮かべる。
「わたくしは―――マリア様に」
秋矢さんには―――……?
なんて当然聞けず、俺は「やっぱり仲がおよろしいんですね」と当たり障りのない返事を返すのが精一杯。
「ええ、マリア様は……恐れ多いことですが、まるでわたくしの妹みたいな存在ですの。
実際に妹はいないのですがね」
マリアさまも沙夜さんのことお姉さんみたいに思ってるから、お二人はとてもいい関係なのだろう。
血が繋がってないお二人が、まるで本当の姉妹のように仲良しなのに
血が繋がってるかもしれない―――オータムナルさまと、君蝶さんの子供……オータムナルさまから言えばお兄様……は
王位継承の座を狙って骨肉の争いをしている。
それはとても
―――悲しいことだ。
P.430
――――
――
オータムナルさまが「愛を知らない」と言い切った背景には、実のお兄様の存在が関係しているのかもしれない―――
俺は目の前にそびえ立つ大きなクリスマスツリーの下に、小さなプレゼントを置こうとしていた。
こんな立派なクリスマスツリーの下で俺のプレゼントなんてちっぽけで霞んで見えてしまうかもしれない。
―今日はクリスマスイブだ。
メッセージカードに名前は載せず
「MerryXmas Autumnal.I love you」
とだけ書いて――――
箱の中身はオータムナルさまが無くされたピアス―――実際にはソフィアさんの遺体が握っていたが
それは彼にとても良く似合っておいでだったから
それに似たような石がくっついた羽の形をしたピアスが入っている。
昨日、一人で街のショッピングモールで探しまくったものだ。
彼が付けていたホンモノの宝石やゴールドには到底及ばないが、似たようなデザインで彼に似合いそうなものを購入した。
ようやく……
ようやく外出できるぐらいに回復した……いや、回復しきれてはいないのだが、オータムナルさまに何かを贈りたいと言う一心で、
俺は重い脚を運んだのだ。
でも―――プレゼントを渡したくてもオータムナルさまは寝室にも執務室にもいらっしゃらなかった。
ちょっと残念に思って、けれどいらっしゃらないのに渡すこともできず―――結局ツリーの元に置くことしか考えられなかった。
クリスマスツリーの元に屈みこんでいると
広間の扉が開く気配がして、振り返ると
黒いトレンチコートに身を包んだ秋矢さんがスーツケースを引きずりながら姿を現した。
P.431
どこかへ出かけるところだったのだろうか、革の手袋までしていたが、それを外して秋矢さんは手を差し伸べてきた。
「MerryXmas.ミスター来栖」
「メリー……クリスマス」
秋矢さん……
彼と二人きりで話すのも随分久しぶりだった。
おずおずとその手を握ると、ひんやりと冷たい感触がした。
思いのほか冷たい指先に、俺は何となく手を離したくなった。
それは“あの夜”……砂漠でステイシーの白骨遺体を発見したときの冷たい砂と同じ温度だったから。
この手を握っていると―――
意味もなく悲しくなりそうだ。
自然に、自然に……それだけを心掛けてゆっくりと手を離そうとすると
秋矢さんは俺の手を離すまいとしてぎゅっと握ってきた。
「少し―――お付き合いただいても?」
秋矢さんの申し出に、断ることもできず……と言うか何か口実を付けて断るのも億劫だった。
結局、オータムナルさまに渡すはずのプレゼントを持ったまま、俺は秋矢さんの後ろをついていった。
連れてこられたのは、以前秋矢さんがピアノを弾いていた部屋―――
相変わらず大きなグランドピアノが中央に置かれていて、変化のない部屋だった。
秋矢さんは鍵盤の蓋を開けると、白黒連なる鍵盤を指でなぞった。
一通り音が鳴り、秋矢さんは鍵盤から目を上げると俺を見つめてきた。
「今日はホワイトクリスマスですね」
「ええ。とても……珍しいことだ、と……マリアさまから…お聞きしました」
「私も―――この国に来てはじめて見ましたよ。
雪を―――」
ゆらゆら…切れ長の瞳を揺らして、秋矢さんはどこか悲しそうに笑った。
P.432
秋矢さんは微笑したままの表情を残し、鍵盤を見下ろすとメロディーを紡いだ。
それは誰もが知っている“O holy night”
意外だった。秋矢さんでもクリスマスソングを弾くんだな。
何て言うか…ポピュラー(?)な曲を好んで弾く人には思えなくて。
「~♪O holy night.
The stars are brightly shining」
秋矢さんははっきりと良く透る声で“O holy night.”を口ずさんだ。
「♪It is the night of the dear Savior's birth
(御子イエス生まれ給う)」
~♬
そこまで口ずさんで、秋矢さんは突如その手を止めた。
「雪を見るとね―――思い出すんですよ……
カーティアは年中同じ気候で雪など降らない、と私も聞いていたので忘れられる気がしたんです……」
秋矢さんは口の端を下げて温度のない声で呟いた。
「何を……?」
「私は雪の日に、唯一の肉親である母を亡くしました」
え―――………
P.433
「で、でも……秋矢さんのお母さんはご健在じゃ……電話だって掛かってきてたし」
「ああ、あれは育ての母ですよ。私が幼いころ養父を亡くしましてね、私たちは寄り添って生きてきた」
へぇ……
何か複雑なんだな…
「産みの母は……いわゆる未婚の母って言うやつで
私は私生児でした。母一人、子一人でねぇ……
仲が良かった分、病気で日に日に弱っていく母を見るのは辛かった。
幼心に、そのとき母が入院していた病院の病室を訪ねるのが億劫だった。
私は―――臆病者だったのですよ。
心底―――ね」
あれ……
どこかで聞いた台詞……
確か…あ!オータムナルさまも同じようなことを仰ってた。彼の場合は対国王さまだけど。
状況的にはよく似ている。
「ある日雪が降ったのです。私は母に雪だるまをこさえてやろうと病院の庭に積もった雪をかき集めていました。
母が雪を見たいと言ったものですから。
手袋もせず、しもやけも恐れずただ必死に、母のことを想いながら―――
その途中で看護師に呼ばれたのです。
母の容体が急変したのだと―――」
ダーン……!
突如秋矢さんは荒々しく鍵盤を両手で叩き、その大きな音に俺の肩はびくりと揺れた。
「私が駆けつけたとき、すでに母に命はなくただただ握ったままの雪が、私の手の中でじわりと溶けだしました。
あのときの自分の無能さを――――今でも悔いています」
秋矢さんは相変わらず淡々としている。
オータムナルさまのお隣にいて、執務のお手伝いをしているときのように―――業務的に、感情をどこかへ置いてきて、
ピアノの音が無ければ―――俺は完全に彼の気持ちを見失っていただろう。
「何故あのとき雪だるまなんかを作りに私は外に出たのだろう。
何故、最期の最後―――母の手を握っててあげられなかったのだろう」
何故――――……
秋矢さんは最後に小さく呟き、窓から視線を逸らした。
それは―――
きっと
お母さんがそう望んだから。
最後の最期を見られたくなくて、秋矢さんを遠ざけたんだろう。
「けれど―――私が病室に戻っていくと、母は私が見たこともない美しい顏でまるで眠るように―――亡くなっていた」
P.434
秋矢さんは俺に向き合うと、申し訳なさそうに眉を寄せた。
「すみません……私の話ばかりで」
「い…いえ!!あの……俺…秋矢さんのそーゆうこと全然知らなかったし……謎に包まれてるって言うか…
知れて良かったです」
慌てて言うと、秋矢さんは小さく微笑を浮かべ、またも鍵盤に向き合うと
「でもね……どんなことにも終わりと、新しいはじまりはあるものなんです。
私も―――母を亡くした悲しみから乗り越えられたのは随分と時間が掛かりました。
つい最近まで、もしかして本当の意味で乗り越えられてなかったのかもしれない。
悲しみを無理やり心の奥底に仕舞いこみ、蓋をして、鍵を掛けた。
でもあなたに出逢ったから―――本当の意味での愛を知った。
想い出よりも大切なものができた。
あなたもきっと―――……」
乗り越えられる。
最後にそう締めくくって秋矢さんは再びメロディーを紡ぎ出す。
P.435
「~♪A thrill of hope the weary world rejoices
For yonder breaks a new and glorious morn
(新しき朝は来たり。さかえある日は昇る)
~♪Oh here the angel voices
Oh nighit dibine
(いざ聞け。御使い歌う
妙なる天つ御歌を―――)」
そこまで歌って秋矢さんは鍵盤から手を離した。
「砂漠には―――雪が積もらない。
けれどこの国はあの迷いの森を通らないと砂漠にたどり着けないのです。
雪が降ると森は―――完全に封鎖されます。
慣れている人間でも、積雪の予想される森に足を踏み入れることはできません。
あなたの大切な人は……こうなることを知っていて、あなたをあの場所に導いたのかもしれませんね」
ステイシーが……?
俺を呼んだ――――
『I promise to come home by Christmas day.
(約束するわ。クリスマスまでには帰るって)』
ステイシーは約束を
守ってくれたのだ。
俺は首にぶら下がったステイシーへ贈ったリングの場所に手を置き、そっと目を閉じた。
―――おかえり
おかえり
そして永遠に
さよなら
A thrill of hope the weary world rejoices
For yonder breaks a new and glorious morn
(新しき朝は来たり。さかえある日は昇る)
P.436
――――
――
「私は一週間のクリスマス休暇を日本で過ごします。
何か不都合がございましたら、ケータイでお報せください。早急に対応させていただきますので、ご安心を」
さっきまでの優しい秋矢さんからすっかり戻っていつものお仕事モードで秋矢さんは淡々として言う。
「あ、Twitterでもいいですよ。ツイートお待ちしてます」
いつも……通りだなぁ!おいっ!!
てかいい加減呟くのやめようよー。
若干呆れて俺は秋矢さんのお見送り。
女性陣は当然―――誰もお見送りせず……まぁ当然っちゃ当然だよな。
「いってらっしゃい。留守はしっかり俺が守ります。
お母さんによろしくお伝えください」
「頼もしい限りです。
あ、ミスター来栖」
秋矢さんはコートのポケットをごそごそ。
取り出したのは小さな小箱。品の良いこげ茶の包装紙が巻かれていて、同系色のリボンもくくりつけてある。
「良いクリスマスを」
「え!俺っ!!秋矢さんに何にも用意してないですよ!!」
慌ててポケットをまさぐったが、飴一つ出てこない。
「期待してません。
それよりも私はあなたが笑顔でいてくれること、その方がよっぽど嬉しいです」
秋矢さんの言葉に俺は顔を逸らしてこめかみをぽりぽり。
どうも……この人のこうゆう台詞を聞くのは苦手だ。
気持ちを―――返せない、と分かっているからこそ
だからこのプレゼントも受け取っちゃいけない。
無言で押し戻そうとすると、
秋矢さんは微苦笑を浮かべて、俺の手からプレゼントの箱を取りあげた。
「別に、私はあなたからの見返りを求めていませんよ。これは私の勝手な気持ちです」
蓋を取り中身を見せるように箱を傾け、その中を覗くと
シルバー製のロザリオが入っていた。
P.437
シンプルなデザインの十字架。
中央に……え!!?ダイヤ!!
キラキラ光るその眩い光に俺は目がちかちか。
益々受け取るわけにはいかない。
「い、いただけません!!こんな高価なもの!」
慌てて返そうとしたが、秋矢さんはその手を押し戻した。
それどころか、そのロザリオを手に取ると、俺の背後に回り込みそのロザリオを俺の首にそっと掛けた。
首の後ろで金具を留めてくれるらしい。
首元にぶら下がった小さなロザリオ。
留め金を留めた秋矢さんはそのまま離れるかと思いきや、俺の首の後ろにそっと口づけ。
冷たい―――口づけだった。
「ひゃっ!」
突然のことで変な声が出た。
秋矢さんは俺の耳元でくすぐるような低音でそっと
「私の留守中、私に変わってあなたを守ってくださいますようにと願いを込めて」と囁いた。
「あ、秋矢さん!?」
あたふたしている俺を楽しむように見て、秋矢さんは涼しい笑み。
「言ったでしょう?
見返りは求めていない―――と」
低く言われて頷くこともできない俺の耳元で秋矢さんは最後にこう締めくくった。
今はね。
P.438
何だか意味深な言葉だけを残し、秋矢さんは旅立っていった。
俺はその後、オータムナルさまへのプレゼントを持ったまま広間に引き返したが、そこではマリアさまと沙夜さんが楽しそうにプレゼント交換をしていて……
何だか入っていけない様子。
直接―――オータムナルさまに手渡すのが一番だけど、きっとたくさんの人から高価なプレゼントを貰っているに違いない。
金額の問題じゃないと思うが、見劣りしそうでやっぱり―――何だか気恥ずかしい。
と―――思ったが、足は自然に彼の自室へ向かっていた。
一目でもいいから
会いたい
―――会いたい
会 い た い
俺は何故、こうまでして彼を求めるのだろう。
どうして、彼が欲しいのだろう。
――――愛しているから
心の中で何度もその質問を繰り返し、何度も「愛しているから」と答えた。
そう
もう何をどう言い訳したって、何をどう難しく考えたって
俺は彼を愛している―――
その事実に変わりはないのだ。
P.439
アーチ状の天井が連なる廊下には人一人居なかった。
しん…と静まり返っている。
縦長の窓から外の様子を窺うと、外はしんしんと白い粉雪が舞っていた。
雪は―――嫌いだ。
音も無く降るから。
空だけではなく、足元から這い上がってくる冷気に心まで凍ってしまいそうになるから。
コンっ……
前触れもなく―――俺のポケットに仕舞い入れたオータムナルさまへのプレゼントが床に落ちた。
だだっ広い廊下に空虚な音だけがこだまする。
「わわっ…!オータムナルさまへのプレゼントなのに……ただでさえ見劣りしちゃうのにこれ以上みすぼらしいかっこになっちゃったら……」
慌てて拾って、埃を払うとふぅふぅと息を吹きかけていたそのときだった。
ひやり……
廊下を冷気が通り抜けて行って足元から寒さが這い登ってきた。
身震いしてきゅっとプレゼントを胸の中に抱くと、冷たい感触がする。
気のせいかもしれないけれど
嫌な予感―――
ってのを感じたんだ。
ここは―――
俺がサマンサ博士……いや……ステイシーの幽霊を見た場所だ。
ごくり
思わず生唾を飲み込むと
「ミスター来栖!」
お手伝いさんの一人に呼び止められた。
P.440
白いアラブ衣装を身にまとったその彼は、俺にも見覚えのある―――オータムナルさま付きの専属運転手さんの一人だった。
「どうされました?」
「ミスター秋矢がご不在なのに……こんなこと……とにかく来てください。
あなたの説得なら皇子も聞く耳持つかもしれない」
早口に説明されて、けれど大した説明もなく「早く早く」とせかされて俺は彼に腕を引っ張られるまま、廊下を歩いた。
宮殿の正面玄関に黒いリムジンが横付けされていて、その前にスーツ姿のオータムナルさま、そして白いアラブ衣装を身にまとった運転手さんの一人が口論……?をしていた。
オータムナルさま……
良かった。ようやくお会いできた。
と、しんみりする暇なんてなくて
「なりません!幾ら何でも危険でございます」
運転手さんはほとんど懇願するように、床に膝まづきオータムナルさまの膝に縋っている。
何事……!?
「良いから出せ!と言うのが聞けんのか。皇子の命令だ」
オータムナルさまはいつになく強い命令口調で宮殿の外を指さし。
「どうしたって言うんですか」
俺を引っ張ってきた運転手さんに事情を聞くと
「それが……この雪と寒さで道路は凍結、スリップしていつ事故に繋がるか分からない状態ですのに、皇子が車を出せ、と」
彼は顏を青くしてかくかくしかじか。
確かに―――この雪の中で、不慣れなこの国の人が車を運転するのは危険だ。
「オータムナルさま」
俺が彼に近づくと
「紅―――」
オータムナルさまは険しかった表情をさらに険しくさせて、眉間に皺を刻んだ。
…………え……
酷く不機嫌そうな彼の表情を見て、まるで凍った地面のように俺の表情も固まった。
やっぱり―――
昨夜のことを怒っておいでなのか……
俺は彼を―――ステイシーと間違えた。
いや、重ねたのだ―――
P.441
それでも気を取り直して
「どちらへお越しですか?今日は危険ですよ。お出かけは後日にした方がよろしいかと」
引き腰になるのを何とか諌めて極力自然に聞こえるよう振舞った。
けれど
「お前には関係ない。口出しするな」
まるで雪よりも冷たいその一言に、俺の体どころか心まで凍る思いがした。
やはり―――俺と彼の間には雪よりも冷たい何かが壁を作ってしまったのだ。
こんなとき―――
秋矢さんならどうするんだろう。
こんなとき……秋矢さんがいかに有能だったかを思い知らされる。
「あ…あの」
めげずに俺が声を掛けると、
ふいっ
オータムナルさまは俺から顏を逸らした。
ショックと悲しみでどうにかなってしまいそうだったが、彼が踵を返した瞬間
ふわり
彼のスーツから白い紙切れが一枚雪の絨毯の上に落ちた。
………何だろう…
「オータムナルさま……落ちました…」と声を掛けようとしたが、彼は尚も熱心に運転手に掛けあっている最中で俺なんかまるで眼中にないようだ。
その白いメモ用紙のような紙切れは四つ折りにされていて、いけないと思いつつも俺はそれをそっと開いた。
そこにはタイプライターで打たれた文字でこう綴ってあった。
“I'll tell you Prof. Samantha's secret.
(サマンサ博士の秘密を教えよう)
Please come to the designated place by yourself.
(指定した場所に一人で来るように)
That's my request.
(それがたった一つのこちらからの要望だ)
When having spoken to someone and having come with someone, I cover up a secret eternally.
(もし誰かに話したり、一人以上で来た場合、秘密は永遠に闇に葬る)”
―Central bank
(セントラル銀行)
場所の指定に銀行名と恐らく貸金庫だろう番号が記載されていた。
P.442<→次へ>
冬の夜
キミへの気持ちを窓に託しました
たった一言が言えない私は臆病者ですか?
でも今はこれが精一杯
雪に想いを
『次はお天気コーナーです。今日から明日にかけて低気圧が日本の南を発達しながら東北東に進み、明日には日本の東に進む見込みです。
関東甲信地方では今夜から雨が次第に雪に変わり、あす午前中にかけて山沿いを中心に、平野部でも積雪となる所がある見込みです。雪による交通障害、架線や電線、樹木等への着雪、路面の凍結に注意してください』
今朝のワイドショーのお天気キャスターの言葉を思い出したのは、勤めている会社の定時を迎え業務を終えたときだった。
「えー!やだっ!雪降ってるじゃん」と誰からともなく声が挙がり
「ホントだー、私傘持ってきてない」
「どうりで冷えると思った」
と同僚たちが次々と口にする。
またも誰かが「せっかく彼氏に買って貰ったバッグが濡れちゃう」と言い出し、それでもちっとも困った様子ではなく、どこか誇らし気だ。
そしてその周りの女子たちが盛んに羨ましがる。
「いいなー、でもあたし今度のクリスマスにダイヤの指輪ねだっちゃうんだー」と一人の女の子。
「いいなー!」黄色い声に、私は苦笑いを浮かべるしかない。ここでの男の年収と、女の品格は反比例する。いかにいい服を着るか、いかにいいバッグを持つか、いかにいい男を彼氏にするか、年中こんな会話でうんざりする。
かと言って輪に加わらないわけにはいかない。仕事とプライベートの内容こそ比例するのだ。
P.1
「仁科《にしな》さんはいつも素敵な服着てますよね」ふいに一人から話題を振られた。
「えっ、そう?」私は曖昧に笑って言葉を濁した。今日の服装は白いタイトワンピ。腰回りに太いベルトが巻き付いていて、ちょっと豪華に見えるゴールドのバックルがワンポイント。
そして同じくゴールド系のスパンコールが襟元に入ったコートを腕にかけて帰りたいアピール。
シンプルな服装だったけど、流石は目が肥えている女子たち。すぐにそれが高価なものだと見破った。女のチェック程厳しいものはない。私がオシャレをするのは対、男ではなく、彼女たちの為。
「仁科さんてぇ、結婚しないんですかぁ」間延びした話し方が赦されるのはこの年代の特権だ。
「結婚ね……相手がいないから」私は適当にごまかして再び言葉を濁した。
こう言っておけば大抵の女は引き下がる。私が長い間、人付き合いをしてきて、これが最良の方法だと知ったのはつい最近のこと。
私がこの会社に勤めはじめて五年になる。この会社での女性正社員では長いほうだ。後から派遣された若い女の子たちから見れば私なんてお局のようだった。
「そう言えばぁ仁科さん、この前見ちゃったんですぅ」一人の女の子が思わせぶりに口元へ手をやった。
短く切った髪にはパーマがあててあり、傍から見ればマシュマロのように可愛らしい女の子だ。
だが、そんな可愛らしさに惑わされてはいけない。女はいつでも顔の下にしたたかな一面を隠しているのだから。
P.2
「何を?」私は平静を装って取り澄ました。
もしかして“アイツ”と居る所を見られた?と思ってドキリとしたが
「この前の金曜日、青山のイタリアンレストランで、経理の前田さんと一緒にいるところぉ」
ああ、そっちか。とちょっとほっと安堵する。
「ええー!!」周りから黄色い声が飛ぶ。私は思わず頭を押さえたくなった。
そう、確かに経理の前田に誘われて先週の金曜に青山まで行った。
でも食事をしただけで、別に艶かしい関係ではない。だが、ここで重要なのが、経理の前田という男、この会社ではなかなかのハンサムでしかも独身、きさくな性格をしているわりには頼れる上司でもあるのだ。そうゆう男を若い女性社員が放っておくわけがない。
「いいなー、ねえお二人って付き合ってるんですか?」
食事をするイコール男女の関係と、どうして若い子たちはそう短絡的なのだろう。私はこの場から逃げ出したくなった。だけど、この場から立ち去ると認めたことになってしまう。
「別に、ただお食事に誘われただけよ」
「うそー、絶対前田さん仁科さんのこと狙ってるわよぅ。だって、あたしたちがいくら誘っても全然だったのよー。それなのに前田さんは仁科さんのこと」
嫉妬心と羨望の眼差しで見られ、私は思わず後ずさり。
何とか前田との話を切り返し、従業員出入り口から女子の群れに混ざって出てきた所だった。
遠くで派手なエンジン音が聞こえてきて、この狭い路地裏へと近づいてきた。この聞き慣れたエンジン音。私は嫌な予感がして思わず一方通行の標識を見つめた。
「よーう、仁科」黒のポルシェの窓から腕を出し、銜えタバコをしながら九条《くじょう》が手を振っている。
「やっぱり」
私は、今度こそ頭痛をこらえるように頭をしっかりと押さえた。
P.3
「仁科、今終わりか?これから飯でも食わねー?」
この状況を知らずに能天気に笑ってるその整った横っ面に今すぐ張り手を食らわせたい。
「あ、あんたいつ東京に戻ってきたわけ?」私は女の子の群れから一人離れると、九条の車に近づいた。
「あー、悪い。三日ぐらい前かな?この前言ってた日本料理屋行こうぜ」
「あんたっていつも何で急なのよ」
私が声を潜めて九条を睨んでいるときだった。
「えー、仁科さんの彼氏さんですかぁ?かっこいい!」
女の子たちの視線が九条に移った。予想していなかった最悪の事態。
上半身しか見えなかったが、今日の九条は黒いジャケットの中に白いカットソーを着ていて、真冬だって言うのに襟ぐりに濃いサングラスをかけている。いつものように髪をラフにセットしてあって、左耳には輪っかのようなピアスが三つ光っていた。
そう
どこからどーみてもこいつは
ホスト。
P.4
「仁科、今終わりか?これから飯でも食わねー?」
この状況を知らずに能天気に笑ってるその整った横っ面に今すぐ張り手を食らわせたい。
「あ、あんたいつ東京に戻ってきたわけ?」私は女の子の群れから一人離れると、九条の車に近づいた。
「あー、悪い。三日ぐらい前かな?この前言ってた日本料理屋行こうぜ」
「あんたっていつも何で急なのよ」
私が声を潜めて九条を睨んでいるときだった。
「えー、仁科さんの彼氏さんですかぁ?かっこいい!」
女の子たちの視線が九条に移った。予想していなかった最悪の事態。
上半身しか見えなかったが、今日の九条は黒いジャケットの中に白いカットソーを着ていて、真冬だって言うのに襟ぐりに濃いサングラスをかけている。いつものように髪をラフにセットしてあって、左耳には輪っかのようなピアスが三つ光っていた。
そう
どこからどーみてもこいつは
ホスト。
P.4
でも勘違いしてもらっては困る。私はこいつの客じゃない。東京を離れていたのも、大方客の一人と遠征旅行でもしていたのだろう。
「違っ!こいつとは単なる腐れ縁。彼氏とかじゃないから」
と慌てて否定するも秒の単位で噂が回るこの会社で明日の朝には『仁科さんて、ホストに貢いでるらしいよ』とあちこちで言われるに違いない。
くらり、と眩暈が起きた。
腐れ縁、と言うのは間違いない。中学からの同級生だから。
「じゃあ、本命は前田さんですかぁ?」女の子達が興味津々で目を輝かせている。
「前田??ひどいなー、仁科ぁ。俺たち何度もセック……もがっ」
最後の方が言葉にならなかったのは私の手が九条の口を塞いだから。
ふざけんな!何言い出すんだこいつぁ!!
空気読めっつうの!
と言うことを目で訴えると、流石に冗談が過ぎたと思ったのか九条は苦笑い。
「で?行くの?行かないの?」せっかちに聞かれて
「わかったわよ!行くわよ」半ば怒鳴るように九条を睨みつけると、私はそそくさと助手席に回った。
「それじゃ、私はこれで。お先に」女の子たちにはなるべく平静を装って、にこやかに手を振る。
ため息をついて車の助手席を開けると、運転席から九条が笑顔で手を差し伸べてきた。
「ただいま、仁科」
昔とちっとも変わらない笑顔。眉が下がり、目を細める、優しい笑顔。そして時々その低い声で呼ばれる、自分の名前。何だかくすぐったいが、この笑顔を向けられたら、たとえ九条の勝手に振り回されても、赦せてしまう。
「……おかえりなさい」私は俯くと、小さく返事を返した。
P.5
前述した通り私と九条とは中学からの付き合いだ。かれこれ十年以上の付き合いになる。十年、と言う歳月は長く感じられるけれど、その間に音信不通になったり、そしてどこからか連絡先を入手して電話を寄越して来たり、をだらだらと繰り返している。
でも、私たちははっきりと『付き合って』はいない。もちろん九条のブラックジョークの『体の関係』もない。
あるのは中学生から変わらないノリと
私が九条のこと「好き」
と言うことだけ。歳を重ねて、九条がホストになって……あ、今はホストじゃなくホスト店を経営してるオーナー様でもあったかしら。とにかく環境は変わったものの、不変的な何かは確実に存在している。
パワーウィンドウの外をちらほらと雪が降っていた。
「北海道行ってきたんだ~土産に蟹買ってきてやったぞ」と九条は運転しながらどこか楽しそう。
「北海道……ここより雪が多そうね」ぼんやりと呟きながら、九条に気づかれない程度にこっそりと、外気との差で曇った窓ガラスに、人差し指で
『好き』
と書く。
私の書いた文字は私の体で隠れて九条からは見えない。
「蟹すきしようぜ~、お前んちで」
「何であんたを一々上げないといけない?」
言い合いをしながら、やがて私のマンションに着く頃にはみぞれになった大粒の白いものが私の『好き』をかき消す。
「だってお前んち床暖あるじゃん?」
「そんな理由かよ」
中学生から変わってないこの関係とノリ。
今はまだ―――
この関係でいいや。
~FIN~
P.6