迷いの森へようこそ
とは言ったものの、二人きりで出かける二回目のデートに俺は浮き足立っていた。
ちゃっかり
森を通ると言うことで狩りも楽しもう、と言うことになって―――
狩りをしながら森を通過し、砂漠に出て夜空を二人きりで眺める。
日本じゃなかなか体験できないプランだが、
なんて素敵なデートプラン!!!
だ・と・思・っ・て・た・が
「皇子とミスター来栖、二人で狩りへ?なりません」
と、ピシャリと反対してきたのは、やっぱり秋矢さん。
どーでもいいんだけど、何でこんなデートまでわざわざ報告しなきゃなんないの。
……まぁ俺が?出かけるときに報告しろって言われたしね、一番最初に。
「大体狩りなんて危険なものにお付きの者を一人も付けずに行かせられるわけないでしょうが」
と、今日に限って秋矢さんは若干怒りモード。
……つ、冷たい。
ま、まぁ??考えたらそうなるけどな。
俺は狩りは初めてだからどんな危険が付きまとうのか皆目見当もつかない。
それにオータムナルさまだってど素人の俺と二人だったら、不安かもしれない。
守る―――と誓ったはずなのに
早速不安になる俺―――こんなんじゃオータムナルさまに受け入れられないよ…
「紅、確かにトオルが言うように森は様々な危険がある。
“Maze of the forest(迷いの森)”と言う異名があるぐらいだ。
地形に詳しい人間でも迷ったら最後、森から抜けられない。
二人では危険だ」
オータムナルさまの説明でぞっとなった。
そう言えばここにきたばかりのとき、マリアさまもちらっとそんなことを言っていたような…
「私がお供いたしましょう。あとは数人こちらからお付きの者を用意いたしますので」
秋矢さんに言われて、俺たちは顔を見合わせた。
オータムナルさまは、『仕方ないか…』と言う表情で頷き、俺は
何だ、二人っきりじゃないんだ……
と、がくりと肩を落とした。
P.357
―――――
――
それから秋矢さんの準備は早かった。
俺は宮殿の隅に位置している馬小屋……と言うか厩舎(きゅうしゃ)だな、こりゃ。に連れてこられて、
「はぁああ!凄い!!」
と大きな口でみっともなく驚いた。
仕切りで区切られているこれまた競馬でのサラブレッドと思える立派なお馬さんたちが連なっていて、
運動場では今も調教師さんと馬がトレーニングを行っている。
まさかと思うが……
「紅、お前はどの馬が良い。気に入ったら一頭お前にやるぞ。
乗り心地を確かめてみてもよいぞ」
なんてさらにびっくり発言をかましてくれたわけで……
「お、俺!!馬なんて乗れませんから!!乗ったことないし!」
慌てて手をぶんぶん横に振ると
オータムナルさまと秋矢さんが顔を見合わせて目をぱちぱち。
「それはまことか」
「本気ですか?」
二人に詰め寄られて、俺は頷いた。
「はぁ……馬も乗れずに良く狩りに行くなんて言えましたね」
秋矢さんは呆れたように額に手を置き、
俺はムっとなって秋矢さんを睨んだ。
「だって馬に乗っていくなんて聞いてませんもん!車なら多少自信があるのに…」
この様子じゃ、俺以外みんな馬に慣れているようだ……
唇を尖らせていると、
「私の説明不足だ。すまなかったな。
森は獣道が続いている。狭いし、荒々しいし、どんな立派なオフロードカーでも無理だ」
そうなんだぁ。
てか、それを最初に言ってよねぇーーーー!!
てか、俺どうすればいいの!?
P.358
一人で不安に青くなっていると、
オータムナルさまは俺の頭をなでなで。
「とりあえず、お前が気に入った馬を選ぶがいい」
「……え、でも……」
「選ぶだけだ。乗れとは言わない」
オータムナルさまに促され、俺はおずおずと厩舎の中に一歩脚を踏み入れた。
選ぶ……たってなぁ……
厩舎の中の馬はどれも躾がきちんとされているのか、見知らぬ人間が来ても慌てることなく上品に鼻の先を衝立からのぞかせている。
黒馬に、茶色いの……それから白馬ってのもいるな。
どれも俺に似合わなさそうで……てか馬が似合う男ってどんなのよ、と思いながら
一頭だけ―――、一番奥の仕切りに居る馬にぴんとくるものがあった。
茶色の毛並はツヤツヤで、こげ茶と言うより高級な紅茶色を思わせた。さらに鬣が陽に透けて
金色だぁ……
凛々しい目とそれを縁どる長い睫、ピンと伸びた背筋や首などの上品な佇まいが
オータムナルさまのそれと似ていた。
「これ!この子にします!俺!!」
一目ぼれっての??
馬をオータムナルさまに見立てたら失礼かもしれないけれど、だって気に入ったんだもん。
俺がその名前も知らない馬を指さすと、またぞろオータムナルさまと秋矢さんは顔を見合わせた。
な、何だろう……乗れないくせに立派な馬選びやがって的な??
俺は二人の視線にびくびく。
けれど
「それが気に入ったか」
「さすがはお目が高い」
二人はそれぞれに言って、
「Hey.(出してくれ)」とオータムナルさまがお供の一人に合図すると、手綱に繋がれた馬が出てきた。
「これは私が二十のときに父上から誕生日プレゼントとしてもらい受けた馬だ。
名は“ヤズィード”私のミドルネームの一部を使用している」
へ――――……
そ、そんないい馬を選んじゃったの俺!!
P.359
「ヤズィードは、瞬発力、持続力など運動神経がとて優れている上、非常に頭も良い利口な馬です。
この美しい茶色の毛並はあなたに良く似ていませんか?」
サラッ……
ふいに秋矢さんに髪に触れられて、
「あ…あはは?そーですかぁ」
と、俺は苦笑いで逃げ腰。
そんな秋矢さんから俺を奪うようにサっと前に立ちはだかるオータムナルさま。
バチバチッ!
見えない火花が空中で音を立てているように思えて
何か……狩りの前に………ひと波乱起きそうな気がする。
そんなことを一人で考えていると
ふわり
俺の脇の下に手を入れて、俺の体を持ち上げるオータムナルさま。
「ぇ!ぇえ!!」
そのまま軽々持ち上げられ、ストン……馬に乗せられた。
「ぅわわ!」
いきなり乗せられて、視線が一気に高くなった。あの長身ペア、オータムナルさまと秋矢さんを優に見渡すことができる。
こんな光景はじめて!!
ヤズィードは俺が乗ったことで突然暴れ出す雰囲気でもなく、
鐙(あぶみ)をステップにしてオータムナルさまが俺の後ろに跨っても、少しも動じるわけでもなく大人しくしていた。
オータムナルさまは俺の腰に手を回すと、手綱を握った。
「紅は私と乗れば何の問題もあるまい。二人で行こう」
オータムナルさまと二人で―――……?
それは嬉しいことだけど、この恰好は、恥ずかしいんだけど……
俺、これじゃお姫様じゃん!?
P.360
―――――
―――
お姫様……だと思ってたが、お姫様もなかなか大変だ。と気づいたのは森に入って数分してから。
鬱蒼と茂る木々の間で蹄の音だけがこだましている。
濃いモスグリーンが俺たちを遮っているように思えるが、そこはなんの。
オータムナルさまはさっきから人一人ようやく通れるような細い獣道を迷いなく右へ左へと馬を走らせる。
土や泥を撥ね飛ばし、まるで地面ごと揺すられている慣れない感覚に、俺はヤズィードから落っこちないようにひたすら馬に縋るしかできない。
手綱を握っているのはもちろんオータムナルさまで……
優雅にパカパカ……ってのを想像してたけれど、本格的過ぎだろ!!
オータムナルさまも秋矢さんも、さらにそれに続いてお供の人たちも、(馬を)飛ばす飛ばす!!
早馬か!とツッコミたくなったけれど、ツッコむ余裕すらない。
「森は広い!のろのろしていたら狩りのスポットまでたどり着けない!」
耳の横で轟々と唸る風の音を聞きながら、オータムナルさまが負けじと怒鳴り声を挙げた。
「もう少しです!ミスター来栖!馬酔いは!?」
同じく秋矢さんも声を張り上げ、俺の心配をしてくれている。
大声を出さないと蹄と風の音でかき消されるのだ。
「大丈夫です!」と答えるのが精一杯。
てか二人とも!何でこんな早く馬を走らせながら会話できんだよ!!
P.361
狩りスポットと言う場所にはそこから二十分ほどで到着できた。
そこだけ木々がすっぽりと無く、ただ倒れた太い幹にはコケがこびりついているのを見ると
自然にこの場所が出来たのだ、と納得できる。
空を見上げるとまるで絵具を垂らしたような鮮やかなマラカイト(孔雀石)色が広がっている。
空は葉で覆いつくされ、太陽の光が届かないこの場所は市街地のカラリとした空気とはうって違ってじめじめと湿気が多い。
馬も足場の悪さに何度も足踏みをしているから、こっちとしては居心地が最悪。
だけど―――
コンパスも何も見ずにすんなり到着できたんだから、やっぱりオータムナルさまと秋矢さんはこの森に土地勘があるのだ、と言うことに改めて気づいた。
……長かった…
「ぜぇ…はぁ…」
俺だけがまるで未知のマシーンに乗ったかのように、呼吸困難で荒い息。
「づ……づがれ゛だ…(注:疲れた…)」
一方のオータムナルさまと秋矢さんは呼吸一つ乱しておらず、涼しい顔。
「はじめての乗馬だと言うからスピードを押さえたつもりだったが、すまなかった」
オータムナルさまは俺の頭をなでなで。
あれでスピードを押さえていた!?
「ミスター来栖も、もうあと三回程乗ったら慣れますよ」
あと三回も!?一回で十分!!
P.362
これってデートだよな……
何でうきうきワクワクデートがこんなにデンジャラスなの!!?
秋矢さんは馬からひらりと降りると、
「狩りの道具をここに」とお供の人に命じている。
狩りの道具―――なのかな……長い猟銃やアーチェリーのような弓を取り出し、これまた手慣れた手つきでセットしていく。
俺はぼんやりとその光景を眺め、時折聞こえてくる不可解な鳴き声(…だよな?鳥っぽい)に一々ビクっ!
オータムナルさまが鳴き声に耳を澄まし空を仰ぐと
「ハイタカ(鷹の一種)だ。よし、獲物が近い。
トオル、猟銃をここに」
目が一層険しくなった。
いつか屋台の射撃場で見た――――……
その凛々しい横顔を見つめ、自分の心臓がドキドキと高鳴るのを感じる。
オータムナルさまが秋矢さんから猟銃を受け取り、構えの姿勢に入ったときだった。
草木を裂く、或は風を斬る音が聞こえ、鬱蒼と茂る森の奥から
何かが飛んできた。
P.363
な に ――――
目視で確認できない程、“それ”は素早く、秋矢さんの乗っていた黒毛の馬に命中した。
馬が聞いたことのない悲鳴を挙げて、前脚を蹴り上げる。
よく見たら馬の尻に矢が刺さっていた。
「アーレフ!」
秋矢さんが馬の名前を叫んで、手綱を握ろうとしたが、
「秋矢さん!!」
「トオル!」
俺たちが叫ぶより早く馬は秋矢さんを蹴り飛ばし、その強烈な脚力に秋矢さんの体が後方へ吹き飛ぶ。
馬から降りていたお付きの人も“アーレフ”と呼ばれた馬を宥めようと必死だが、いかんせん暴れ馬のごとく暴れまわる大きな馬を目の前に、みんな文字通り手も足もでない。
アーレフの異変を察したのか、ヤズィードをはじめとする他の馬たちもそわそわと落ち着かない。
何とかしなきゃ!
そうこう思っているうちに二本目の矢が飛んできた。
草木を掻き分ける独特の音が耳に入り、
「オータムナルさま!」
俺は彼から手綱を奪い、ヤズィードの手綱を思いっきり引いた。
守らなきゃ!
オータムナルさまも、オータムナルさまが大事にしている馬も―――
手綱を引かれたヤズィードが突然のことに悲鳴を挙げる。
ヤズィードは前足を宙に掲げると背を逸らした。
「What!?」オータムナルさまが落っこちないように彼の片手を握り、
その隙に俺はヤズィードの上から身を乗り出した。
矢の秒速は56m程。目視で140km/h位はある。
いける――――!
そう確信があった。
俺は空いた方の片手で
飛んできた矢を
何とかキャッチ。
P.364
じん……と手のひらに痺れが湧いたのは矢のスピードと重みが重なったからだろう。
「!」
オータムナルさまが声にならない声を挙げ、俺はキャッチした矢を握りながら、まだ暴れているアーレフの背に飛び乗った。
「紅!!」
「ミスター来栖!?」
オータムナルさま、秋矢さんの声がそれぞれ聞こえたけれど
俺はアーレフの手綱をしっかりと握ると、彼の首に手刀を一発お見舞い。
やがてアーレフは嘘のように大人しくなった。
俺はアーレフの鬣をそっと撫で、
「よし、よし…アーレフ…お前は文字通り“賢い”子だ。
あと少し、俺の“脚”になってくれよ?」
と語りかけた。
馬と意思疎通なんて、無理な話だけどこのときばかりはアーレフと会話できた気がする。
俺は手綱を握り返し
「Hi!」
大声を挙げて、アーレフの尻を蹴った。アーレフは甲高い悲鳴を挙げ、回れ右。
「紅!!どうすると言うのだ!」
オータムナルさまの怒鳴り声を聞いたが、俺はそれに何も答えることができなかった。
アーレフの手綱を握り、さらに森の奥深く……
この矢を撃った人物を追うために―――
茂みの中に飛び込んだ。
狙撃手はまさか俺が追ってくるとは思ってなかったのだろう。
あっさりと見つけることができた。
鬱蒼と茂る草木を掻き分け、やがてまたぽっかりと空いた空虚な空間に出て俺は目を瞠った。
茂みの奥に隠れていたのは、黒く大きな馬に跨った、
女
だったからだ。
P.365
黒い長い髪がゆらゆらと揺れた。大きなサングラスの向こう側で目が見開かれた―――ように思える。
唇は熟れたリンゴのように真っ赤な口紅を引いていた。
あの感謝祭で見た―――
レディブラックスワン―――
今回はふわふわのドレスではなくて、黒い革のジャケットに同じ素材のパンツ。
手にはアーチェリーではなく、弓道サイズ程の弓矢を手にしている。
ライダーの恰好をしているが、乗っているのはバイクではなく大きな黒い馬……どこか薄汚れた灰色の印象的な脚。
「アレクサンドラ……?」
何故そう思ったのかは謎だった。
ただ―――
その馬はあの占い師、ソフィアさんのテントに繋がれていた馬と酷似していた。
距離にして五メートル程。その長くも短くもない距離を挟んで俺たちはしばらくの間対峙していた。
どれだけ経ったろう。数秒…??或は数十分かもしれない。
どちらからともなく言葉を発したのは―――
「Hello.Nice to see you again.(また会ったわね)」
レディーブラックスワンだった。
「何で!何で秋矢さんの馬を狙った!」
俺が怒鳴ると、女は心外そうに唇を尖らせる。
「He's dissight.
(目障りだったからよ)」
「どういう意味だよ!秋矢さんがあんたに何かしたのかよ!!」
「For nothing.
(別になにも)」
「じゃぁ何で!目的は何なんだよ!」
俺がさらに勢い込むと、女は赤い唇に人差し指を置き
「Purpose――――?
(目的――――…?)
Lure someone out into the open.
(あなたをおびき出すためよ)」
狙いはオータムナルさまじゃなく……俺―――……
「I thought you were running after me.Sure?
(あなたなら絶対追ってくると思った。そうでしょ?)
Mr.Kurusu.
(ミスター来栖)
“How's the weather in LA now?”
(“LAの気候はどう?”)」
その質問に俺は目を開いた。
P.366
あの口紅のメッセージの
今、目の前に居るレディブラックスワンが引いている口紅は
Diorの№999――――なのだろうか。
な、何か答えなきゃ―――……
「あ……」
唇を動かすと同時だった。
「紅――――!!!
大丈夫か!!怪我は!?」
オータムナルさまの声が聞こえてきて、ヤズィードに乗ったオータムナルさまが茂みを掻き分けてお姿を現した。それに一瞬気を取られた。
ザッ!
その一瞬の隙をついて葉の擦れる音が聞こえてきた、と思ったら
レディブラックスワンは森のさらに奥へと馬を走らせていた。
「紅、これ以上追うな!
迷ったら二度とこの森から出られないぞ」
オータムナルさまに止められ、けれど止められなくたって………
俺は彼女が去った後をじっと見つめたが―――
追うことは
できなかった。
P.368<→次へ>
冬の夜
キミへの気持ちを窓に託しました
たった一言が言えない私は臆病者ですか?
でも今はこれが精一杯
雪に想いを
『次はお天気コーナーです。今日から明日にかけて低気圧が日本の南を発達しながら東北東に進み、明日には日本の東に進む見込みです。
関東甲信地方では今夜から雨が次第に雪に変わり、あす午前中にかけて山沿いを中心に、平野部でも積雪となる所がある見込みです。雪による交通障害、架線や電線、樹木等への着雪、路面の凍結に注意してください』
今朝のワイドショーのお天気キャスターの言葉を思い出したのは、勤めている会社の定時を迎え業務を終えたときだった。
「えー!やだっ!雪降ってるじゃん」と誰からともなく声が挙がり
「ホントだー、私傘持ってきてない」
「どうりで冷えると思った」
と同僚たちが次々と口にする。
またも誰かが「せっかく彼氏に買って貰ったバッグが濡れちゃう」と言い出し、それでもちっとも困った様子ではなく、どこか誇らし気だ。
そしてその周りの女子たちが盛んに羨ましがる。
「いいなー、でもあたし今度のクリスマスにダイヤの指輪ねだっちゃうんだー」と一人の女の子。
「いいなー!」黄色い声に、私は苦笑いを浮かべるしかない。ここでの男の年収と、女の品格は反比例する。いかにいい服を着るか、いかにいいバッグを持つか、いかにいい男を彼氏にするか、年中こんな会話でうんざりする。
かと言って輪に加わらないわけにはいかない。仕事とプライベートの内容こそ比例するのだ。
P.1
「仁科《にしな》さんはいつも素敵な服着てますよね」ふいに一人から話題を振られた。
「えっ、そう?」私は曖昧に笑って言葉を濁した。今日の服装は白いタイトワンピ。腰回りに太いベルトが巻き付いていて、ちょっと豪華に見えるゴールドのバックルがワンポイント。
そして同じくゴールド系のスパンコールが襟元に入ったコートを腕にかけて帰りたいアピール。
シンプルな服装だったけど、流石は目が肥えている女子たち。すぐにそれが高価なものだと見破った。女のチェック程厳しいものはない。私がオシャレをするのは対、男ではなく、彼女たちの為。
「仁科さんてぇ、結婚しないんですかぁ」間延びした話し方が赦されるのはこの年代の特権だ。
「結婚ね……相手がいないから」私は適当にごまかして再び言葉を濁した。
こう言っておけば大抵の女は引き下がる。私が長い間、人付き合いをしてきて、これが最良の方法だと知ったのはつい最近のこと。
私がこの会社に勤めはじめて五年になる。この会社での女性正社員では長いほうだ。後から派遣された若い女の子たちから見れば私なんてお局のようだった。
「そう言えばぁ仁科さん、この前見ちゃったんですぅ」一人の女の子が思わせぶりに口元へ手をやった。
短く切った髪にはパーマがあててあり、傍から見ればマシュマロのように可愛らしい女の子だ。
だが、そんな可愛らしさに惑わされてはいけない。女はいつでも顔の下にしたたかな一面を隠しているのだから。
P.2
「何を?」私は平静を装って取り澄ました。
もしかして“アイツ”と居る所を見られた?と思ってドキリとしたが
「この前の金曜日、青山のイタリアンレストランで、経理の前田さんと一緒にいるところぉ」
ああ、そっちか。とちょっとほっと安堵する。
「ええー!!」周りから黄色い声が飛ぶ。私は思わず頭を押さえたくなった。
そう、確かに経理の前田に誘われて先週の金曜に青山まで行った。
でも食事をしただけで、別に艶かしい関係ではない。だが、ここで重要なのが、経理の前田という男、この会社ではなかなかのハンサムでしかも独身、きさくな性格をしているわりには頼れる上司でもあるのだ。そうゆう男を若い女性社員が放っておくわけがない。
「いいなー、ねえお二人って付き合ってるんですか?」
食事をするイコール男女の関係と、どうして若い子たちはそう短絡的なのだろう。私はこの場から逃げ出したくなった。だけど、この場から立ち去ると認めたことになってしまう。
「別に、ただお食事に誘われただけよ」
「うそー、絶対前田さん仁科さんのこと狙ってるわよぅ。だって、あたしたちがいくら誘っても全然だったのよー。それなのに前田さんは仁科さんのこと」
嫉妬心と羨望の眼差しで見られ、私は思わず後ずさり。
何とか前田との話を切り返し、従業員出入り口から女子の群れに混ざって出てきた所だった。
遠くで派手なエンジン音が聞こえてきて、この狭い路地裏へと近づいてきた。この聞き慣れたエンジン音。私は嫌な予感がして思わず一方通行の標識を見つめた。
「よーう、仁科」黒のポルシェの窓から腕を出し、銜えタバコをしながら九条《くじょう》が手を振っている。
「やっぱり」
私は、今度こそ頭痛をこらえるように頭をしっかりと押さえた。
P.3
「仁科、今終わりか?これから飯でも食わねー?」
この状況を知らずに能天気に笑ってるその整った横っ面に今すぐ張り手を食らわせたい。
「あ、あんたいつ東京に戻ってきたわけ?」私は女の子の群れから一人離れると、九条の車に近づいた。
「あー、悪い。三日ぐらい前かな?この前言ってた日本料理屋行こうぜ」
「あんたっていつも何で急なのよ」
私が声を潜めて九条を睨んでいるときだった。
「えー、仁科さんの彼氏さんですかぁ?かっこいい!」
女の子たちの視線が九条に移った。予想していなかった最悪の事態。
上半身しか見えなかったが、今日の九条は黒いジャケットの中に白いカットソーを着ていて、真冬だって言うのに襟ぐりに濃いサングラスをかけている。いつものように髪をラフにセットしてあって、左耳には輪っかのようなピアスが三つ光っていた。
そう
どこからどーみてもこいつは
ホスト。
P.4
「仁科、今終わりか?これから飯でも食わねー?」
この状況を知らずに能天気に笑ってるその整った横っ面に今すぐ張り手を食らわせたい。
「あ、あんたいつ東京に戻ってきたわけ?」私は女の子の群れから一人離れると、九条の車に近づいた。
「あー、悪い。三日ぐらい前かな?この前言ってた日本料理屋行こうぜ」
「あんたっていつも何で急なのよ」
私が声を潜めて九条を睨んでいるときだった。
「えー、仁科さんの彼氏さんですかぁ?かっこいい!」
女の子たちの視線が九条に移った。予想していなかった最悪の事態。
上半身しか見えなかったが、今日の九条は黒いジャケットの中に白いカットソーを着ていて、真冬だって言うのに襟ぐりに濃いサングラスをかけている。いつものように髪をラフにセットしてあって、左耳には輪っかのようなピアスが三つ光っていた。
そう
どこからどーみてもこいつは
ホスト。
P.4
でも勘違いしてもらっては困る。私はこいつの客じゃない。東京を離れていたのも、大方客の一人と遠征旅行でもしていたのだろう。
「違っ!こいつとは単なる腐れ縁。彼氏とかじゃないから」
と慌てて否定するも秒の単位で噂が回るこの会社で明日の朝には『仁科さんて、ホストに貢いでるらしいよ』とあちこちで言われるに違いない。
くらり、と眩暈が起きた。
腐れ縁、と言うのは間違いない。中学からの同級生だから。
「じゃあ、本命は前田さんですかぁ?」女の子達が興味津々で目を輝かせている。
「前田??ひどいなー、仁科ぁ。俺たち何度もセック……もがっ」
最後の方が言葉にならなかったのは私の手が九条の口を塞いだから。
ふざけんな!何言い出すんだこいつぁ!!
空気読めっつうの!
と言うことを目で訴えると、流石に冗談が過ぎたと思ったのか九条は苦笑い。
「で?行くの?行かないの?」せっかちに聞かれて
「わかったわよ!行くわよ」半ば怒鳴るように九条を睨みつけると、私はそそくさと助手席に回った。
「それじゃ、私はこれで。お先に」女の子たちにはなるべく平静を装って、にこやかに手を振る。
ため息をついて車の助手席を開けると、運転席から九条が笑顔で手を差し伸べてきた。
「ただいま、仁科」
昔とちっとも変わらない笑顔。眉が下がり、目を細める、優しい笑顔。そして時々その低い声で呼ばれる、自分の名前。何だかくすぐったいが、この笑顔を向けられたら、たとえ九条の勝手に振り回されても、赦せてしまう。
「……おかえりなさい」私は俯くと、小さく返事を返した。
P.5
前述した通り私と九条とは中学からの付き合いだ。かれこれ十年以上の付き合いになる。十年、と言う歳月は長く感じられるけれど、その間に音信不通になったり、そしてどこからか連絡先を入手して電話を寄越して来たり、をだらだらと繰り返している。
でも、私たちははっきりと『付き合って』はいない。もちろん九条のブラックジョークの『体の関係』もない。
あるのは中学生から変わらないノリと
私が九条のこと「好き」
と言うことだけ。歳を重ねて、九条がホストになって……あ、今はホストじゃなくホスト店を経営してるオーナー様でもあったかしら。とにかく環境は変わったものの、不変的な何かは確実に存在している。
パワーウィンドウの外をちらほらと雪が降っていた。
「北海道行ってきたんだ~土産に蟹買ってきてやったぞ」と九条は運転しながらどこか楽しそう。
「北海道……ここより雪が多そうね」ぼんやりと呟きながら、九条に気づかれない程度にこっそりと、外気との差で曇った窓ガラスに、人差し指で
『好き』
と書く。
私の書いた文字は私の体で隠れて九条からは見えない。
「蟹すきしようぜ~、お前んちで」
「何であんたを一々上げないといけない?」
言い合いをしながら、やがて私のマンションに着く頃にはみぞれになった大粒の白いものが私の『好き』をかき消す。
「だってお前んち床暖あるじゃん?」
「そんな理由かよ」
中学生から変わってないこの関係とノリ。
今はまだ―――
この関係でいいや。
~FIN~
P.6