黒い瞳
長い髪は黒く、大きなガラス玉の目は一方が黒で一方が灰色をしている。赤い帽子をかぶって黒いワンピースに白いエプロン。
これは―――
ソフィアさんのテントで見た人形だ。
恐る恐るその人形を手に取ると、人形の背中から紐のようなものが出ていることに気づいた。
またも俺は震える手で何とか紐を引っ張ると
どうゆうカラクリになっているのか人形の口がカタカタ動き出し、ぎこちない動きで何かを口ずさんだ。
無邪気な少女の声が口から漏れる。
~♬Dark eyes, ardent eyes
Flaming and beautiful eyes
I love you so, I fear you so
For sure I've seen you at a sinister hour
(黒い瞳 情熱的な瞳よ
燃えるような 美しき瞳よ
貴方を愛している 怖いくらいに
貴方を一目見てから 私の人生は狂い始めた)
~♬Without meeting you, I wouldn't be suffering so
I would have lived my life smiling
You have ruined me, dark eyes
You have taken my happiness forever away
(貴方に会わなければ こんなに苦しむこともなかった
笑顔で人生を送っていただろう
僕の人生を狂わせた その黒い瞳
僕の幸せを永遠に奪い去っていった)
一通り聞いて、そのどこか物悲し気な曲にうすら寒い何かを感じた。
一言で片づけるなら「気味が悪い」
これはソフィアさんのテントに吊るされていた人形だ。何故俺のところに送られてきたのか。
人形の白い頬にも僅かに血がついた指で撫でた痕がうっすらと残っていて、俺は無意識にその人形を手放そうとした。
そのときだった。
人形の白いエプロンの下から、ふわり
一匹の蝶が舞い上がった。
P.333
黒地に黄色の文様のある揚羽蝶だ。
俺は人形をベッドの下に隠すと、慌ててその蝶の行方を追った。
ひらり
蝶は俺をまるで誘導するようにゆっくりと舞い進んでいく。
俺はその後をひたすらに追った。
~♪
どこからかいつか耳にしたメロディが聞こえてきて、うっすら開いた扉の隙間へ蝶はその場にすぅっと入って行った。
「待って……」
その蝶の後を追いかけるようにその部屋に入ると、
~♪……
いつか見た大きなグランドピアノの前に
秋矢さんが座っていて――――
蝶は秋矢さんの手にふわりと舞い降り、止まった。
秋矢さんは俺の存在に気づいていないのか、蝶に気づくとピアノを弾く手を休めゆっくりと手を挙げた。
蝶は秋矢さんの手の甲に大人しく止まっていて、ゆっくりとした動作で羽をばたつかせている。
秋矢さんは物憂げな表情でその蝶を眺めていて、その横顔がどこか寂しさを滲ませていた。
何て言うか―――黙ってれば(いや、黙ってなくても)超絶イケメンなわけで…どこか影を宿したその横顔が美しく、不覚にも見惚れてしまった。
ぼんやりと秋矢さんの横顔を眺めていると、蝶は俺の存在を報せるように羽をばたつかせ、俺の方へと向かってきて、やがて通り過ぎて行った。
そこでようやく秋矢さんは俺の存在に気づいたのか―――
「ミスター来栖」
目を開いて、固まった。
P.334
「す、すみません……お邪魔しちゃったみたいで…
あの…蝶を追いかけてきたんです」
言い訳みたいな言葉を必死に並べると
「蝶?あなたは猫みたいですね」
秋矢さんは何がおかしいのかふっと涼しい笑み。
「すみません、お邪魔しました。帰ります」
蝶もいなくなったし、ここで長居するのもまた秋矢さんのおもちゃにされそうだったから…
くるりと踵を返そうとしてちょっと躊躇った。
「あの…秋矢さん……この歌ご存じですか?」
俺はさっき人形が口ずさんでいた歌を鼻歌で聞かせた。
「ああ、『黒い瞳』ですね。ロシア民謡の」
秋矢さんはあっさり言って、鍵盤の上に再び手を乗せると、メロディーを紡ぎ出した。
~♬
「そう…それ……」
確かに同じメロディだったけれど秋矢さんが作り出す音はどこか物悲しく、さっき人形の口から聞いたメロディより何倍も暗く感じた。
曲が終わっても、俺はしばらくの間ぼんやりと秋矢さんの姿を眺めていた。
「……す……ミスター来栖」
秋矢さんの問いかけでようやく我に返ってはっとなった次第だ。
「どうされました?私のピアノお気に召されませんでしたか?」
怪訝そうに聞かれて俺は慌てて手を振った。
「いいえ!何でもありません!ただ、ちょっとびっくりしただけで。
その…思った以上に上手で…」
慌てて言い訳を並べると、
「人にお聞かせする程でもありませんが」
「いいえ!そんなこと」
お世辞じゃなく秋矢さんのピアノは素人目から見てもうまいものだった。
ピアノのことは詳しく分からないけれど、プロでも通用しそうな。
そんなことを考えていると、秋矢さんは椅子から腰を上げ俺の元に歩いてきた。
一歩、また一歩と近づかれるたびに、距離が縮んでいく。
その縮めた距離に、逃げ出したいのに何故か逃げ出せない。
何て言うか……
今、俺が逃げ出したら―――
この人を―――秋矢さんを本当の意味で見失いそうになりそうだったから―――
P.335
秋矢さんがすぐ傍まで来て俺の目の前に立ち、やがてその高い影が俺を覆い尽くすことになっても俺は秋矢さんをまっすぐに見据え返していた。
「逃げないのですか」
そう聞かれて俺は目だけを上げた。
「俺がいつも逃げてる―――と?」
「違うのですか。あなたは私を毛嫌いしている節がありますので」
はっきりきっぱり言われて戸惑った。
秋矢さんに向き合おうとしても、やっぱりこの人は俺の一歩も二歩も先を行く人で―――
ううん、違う。
向き合おうとして、ちゃんと向き合わなかったのは
俺の方だ―――
「ミスター来栖……」
秋矢さんの手が俺の前髪にそっと伸びてきて、無意識のうちにぎゅっと目を閉じると、
「前髪、伸びましたね―――」
と、小さく囁いた。
「え――――……ああ……切りに行く暇とかなくて……」
言いかけた言葉を
秋矢さんの唇で――――吸い取られた。
予想もつかなかった時間差攻撃に、避けるどころかまともに…真正面から受ける形になった俺の唇。
「っ……!……ちょっ…!」
抗議しようにも、一々その言葉を吸い取られる。
やがて無遠慮な舌が俺の歯列をなぞり強引に口腔内に侵入してきて―――
「………ん!やめっ……!」
俺は本気になって秋矢さんを突き飛ばそうとしたが、その手をやんわりと阻まれた。
唇が一瞬だけ離れる。
目の前に―――いつになく真剣な顔の
秋矢さん
その顔が再び近づいてきて
「だ……ダメ!」
叫んだときだった。
「紅――――……?ここに居たのか。珍しいところに…」
なんて間の悪い―――
オータムナルさまが現れて、俺はその場で固まった。
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オータムナルさまは俺たちを視界に入れると、こちらも呆けたように口を僅かに開いて俺たちを凝視。
「トオル……?お前……紅に何をしておるのだ」
「何って見てお分かりになりませんか、皇子。
ミスター来栖にキスをしていたのですよ」
ぁあ!!
何てこと言っちゃうんだよ、秋矢さん!!
俺は一人でパニック状態。
つい先日、秋矢さんと“仲良く”してた場面を見られてオータムナルさまに嫌われそうになったって言うのに。
今度の今度でもう―――だめだ。
俺の顔から血の気が失せて行くのが分かった。
顔面蒼白
って言うんだよな、こんなことを―――
もう終わりだ、とぎゅっと目を閉じようとすると
ぐいっ!
いつの間に近くに来ていたのかオータムナルさまが俺の腕を力強く引っ張り、手を開いた。
その開いた手を秋矢さんに向けると勢いよく降ろされる。
「オータムナルさま!!」
俺が彼を止めるより早く手は振り下ろされ、咄嗟のことで秋矢さんは目を閉じて、顔を背けた。
けれどオータムナルさまの手のひらは秋矢さんの頬をぶつことなく、震えた手のひらをゆっくりと下におろす。
「何故―――殴らないのですか」
気配を察した秋矢さんがそろりと目を開け、俺の背後に居るオータムナルさまを見やる。
「お前こそ、何故避けられるものを避けなかった、トオル」
オータムナルさまが低く聞いて、秋矢さんは切れ長の目を少しだけ細めてオータムナルさまを見据えた。
「皇子の寵妃を恋いうることは罪に値すると―――存じ上げておりますゆえ」
秋矢さんは淡々とした口調で語る。
言葉とは反対に少しも悪びれてないようだ。
てか!!そんなストレートに!!
と、俺だけがあたふた。
「随分はっきりと申したな、トオル。
お前は―――紅をからかって楽しんでいただけだと思っていたが、
まさか本気だったとはな……」
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それは俺も同じ想いだ。
まさかはっきりと宣言するとは俺も思ってもみなかったことで―――
しかも忘れかけてたけど秋矢さんてオータムナルさまの側室の一人じゃなかったっけ??
「恋愛面でこそこそするのは性に合いませんので。欲しいものは欲しい、
それがたとえあなたのものでも、私は手に入れたい―――と。
皇子
今まで私はあなたのどんな我儘にもお付き合い申し上げてきました。
時にはこの体を差し出したこともございました。自を犠牲にしたことも数知れず。
もうそろそろ私はあなたの愛玩具から解放されたい。
あなたの側室の場から暇(いとま)を取らせていただきたく、存じ上げます」
秋矢さんは恭しく頭を下げ、床に片膝を着く。
まるで紳士がレディーに対して敬愛を示しているかのようなその仕草は妙にキマッていた。
それは主君に対する反逆の謝罪でもあり
俺に対する深い敬愛の意でもあるようだった。
「私の―――側室の座を離れる―――と言うのか」
オータムナルさまはまさかこんなこと言われると思ってなかったのだろう、震える声を出して秋矢さんを見下ろす。
「側室は一人で十分。私が退(しりぞ)けば、その席をミスター来栖に譲ることができますゆえ。
我が君
もう―――十分ではないですか。
私は十分あなたに尽くしました。今度は―――自分から誰かを愛したい。
どうか―――この手をお放しくださいませ」
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秋矢さんの言うことはもっともで、今までオータムナルさまの寵を受けていたその座を俺に譲る―――ということが何を意味するのか
どんな覚悟があるのか
俺には痛い程分かった。
同時にそれほどまでに愛されていることに――――気づいた。
秋矢さんはゆっくりと手を伸ばして俺の手を取るとまるで王子様がお姫様にキスをするような動作で俺の手の甲にそっと口づけ。
緊迫した空気が冷たくピリピリと漂っているのに、それとは反対に思いのほか温かいその唇に、心臓が変な音を立てる。
けれど―――
「ならぬ」
オータムナルさまが冷たく……低くたった一言言い、秋矢さんと俺の間に入り込みその手を引きはがした。
秋矢さんの指と俺の指が離れて行って、秋矢さんは名残惜しそうに手を宙ぶらりんにさせている。
今度はオータムナルさまに強引に肩を抱かれて、
「トオル、確かにお前には色々と我儘を言ったかもしれぬ。
私がお前を殴らなかったのは―――お前を、私の側室の一人として見ていたからだ。つまり少なからずともお前に愛情はある。
お前には―――できる限りのことをしてやりたい、と言うのが本音だ。
側室の座を退く、と言うのなら私は止めないし、今まで通り…いや、今まで以上にお前に対しての待遇を優遇すると約束しよう。
だが紅だけはだめだ」
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『だめだ』――――
オータムナルさまの言葉が心地よく胸に響く。
こんな風に―――求められたのは、随分久しぶりだ。
そこにたとえ愛情が無いにしろ、彼が俺を手放さないのは単なる所有物の一つと考えているからかもしれないけれど
それでも良いから傍に居たいと思う―――俺、相当
イカれてる。
「トオル、お前は言った通り今まで私に何かを求めてきたこともなかった。
何一つ欲しいとは言わなかった。私はそれが物足りなかったが、
はじめて願ったものが紅だったとは―――」
「ええ、はじめてですよ。はじめて心の底から欲しいと願ったものは。
皇子、あなたにこの気持ちがお分かりで?」
秋矢さんのストレートな言葉にドキンと心臓が跳ねる。
それは……俺を好きかどうか―――聞いてるようなもんじゃないか……
「私は――――……」
いやだ。
聞きたくない。
オータムナルさまが言いかけたとき、俺はその言葉を遮った。
「ま……待ってください!」
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俺を挟んで言い合いをしていた二人が顔を見合わせ、そして同じタイミングで俺を見下ろす。
美し過ぎる二人の男に見られて、しかも何故か俺を取り合って居る図に
わぁ!!そんないっぺんに見ないでください!!
カっと頬が熱くなった。
だが、今俺が頬を染めている場合じゃない。
「二人とも……その気持ちはありがたいのですが、俺の意見は無視ですか?
俺の意思は―――?側室になる、とかならないとか
勝手に決めないでください。
俺にだって意思はあるし、こうなりたいああしたいって希望もある」
俺が両手を挙げると、二人はまたぞろ顔を見合わせた。
「それはそうだが―――……いや……すまない、お前の気持ちを聞く前に勝手に言い合ってしまって。我ながら大人げないことをしたものよ」
最初に口を開いたのはオータムナルさまの方だった。
「大人げない……こと…ないです。
大人げないのは俺の方で……まだその……受け入れる準備ができていないだけで…」
もごもごと言うと
「それは皇子を受け入れる、とおっしゃっているのですか」
と今度は秋矢さんがツッコんでくる。
だぁかぁらぁ!!
何であなたはそう吉本並にツッコミを入れるのが早いんですか!
いや、吉本は今関係ない。
あー言えばこー言う。
秋矢さんに口で勝とう、なんて所詮無理な話で……
俺に残された最後の手段は――――
「俺にだって分かりません!失礼します」
逃
俺は脱兎のごとく走り出し、この部屋から飛び出た。
P.341
ああ、逃げ出しちゃったよ……
二人は俺を取り合ってぶつかり合ってくれたのに―――
悲劇のヒロインよろしく俺は一人暗い影を背負って、ズーンと部屋で項垂れていた。
秋矢さんは真剣にぶつかってくれた。
ホントは俺が向き合おうとしていたのに、やっぱり一歩早く秋矢さんに先を越された。
そして、みっともないけれど不意打ちを食らってどうしていいのか分からなくなった。
オータムナルさまは俺のこと――――何と言いたかったのだろう。
その答えを聞くのが怖くて――――
やっぱり俺は彼からも逃げ出したんだ。
どこまで意気地なしだよ、俺……
オータムナルさまの答えを受け入れることも、秋矢さんにしっかりお断りすることもできないなんて―――
自己嫌悪の塊を背負って俺はそれから三日間、病人でもないのにベッドで蹲っていた。
食欲なんて全くなくて、かろうじて水を飲むぐらいはできたけれど
睡眠の方はもっとひどくて、ちょっとうとうとするだけで二人の顔が夢に現れると言う始末。
おかげで完全な睡眠不足だ。
それともう一つ―――
俺には考えないといけないことがあった。
ベッドの下に隠したあの不気味なフランス人形を取り出し、何度も何度もその人形を眺める。
それこそスカートの中を覗いたり……
変態っぽいが……読者の皆様!断じて変な気持ちになったわけじゃないですよ!!
俺は真剣にこの人形の手が掛かりを探してましてね~……
けど
見れば見る程、これが歌を歌う以外のカラクリが隠されているとは思えなかった。
P.342
~♬
もう何度目かになる歌を俺はベッドで聞いていた。
人形を枕の横に座らせて、寝そべりながら頬杖をつき俺はそのフランス人形を眺める。
不思議なことに、最初は不気味だと思っていた人形にいつのまにか愛着を感じることになった。
「名前がないのは可哀想だよな……お前何て名前がいい?」
独り言を漏らして人形に問いかける姿―――傍から見たらかなりイタイが、部屋に籠って誰とも会話せずにいると自然こうなる―――……
って……そんなことを考える自分がイヤっ!!
俺はひきこもりの中学生か!
何度目かの歌のときに気づいた。
この曲を秋矢さんは「黒い瞳」と言った。
でも―――この人形の瞳は片方がくすんだ灰色をしている。とても黒とは言い難い。
「何でかたっぽだけ違うんだろう……人形師が作り忘れたのかな……
だとしたらソフィアさんは何故、こんな出来損ないの人形を大事にしてたんだろう…」
“出来損ない”と言われてムっとしたのか、人形が歌うのを止めた。
え゛!!
思わず人形の背に触れると、接触不良だったのか人形はまた歌い出した。
不思議だ―――まるで意思を持っているような―――そんな気がした。
腹が立つことを言われて気分を害し、背中を撫でられることで気持ち良いと言われている気がした。
「お前のご主人様は一体どうしてお前を大事にしていたんだろうな……」
人形の髪を撫でると、人形の大きな二つの目が俺をじっと捉えていた。
ソフィアさん―――……
今頃どうしているのだろう。
これを俺に送ってきたのはソフィアさんなのだろうか。
この血の痕を見て―――無事なのだろうかと不安になる。
それに何の意図があってこれを送ってきたのだろう。
またも考えがスタートに戻り、俺は人形を抱き上げた。
「なぁ、教えてくれよ。お前に何の秘密がある?」
一人ごちると、カーテンを開け放った窓から午後の陽が差し込み、人形の目をキラキラと輝かせた。
まるでビー玉をはめこんだような―――
黒とライトグレー………その双眼を見つめて
「あれ……?」
小さな違和感を覚えた。
P.343
俺は腹筋で起き上がり、人形をさらに高く宙にかざした。
どっからどう見ても、それは変わり映えのないフランス人形で―――
違和感は、この人形じゃなく―――ううん…もっとずっと前に―――感じたことだ。
でもその“何か”が分からない。
思い出せ。
必死に記憶をまさぐるも、このフランス人形が教えてくれる“何か”が思い出せない。
「黒い―――瞳」
俺は曲名を呟いて、はっとなった。
違和感はそう、ずっとうんと前に感じていた筈だ。なのに―――何故今まで気づかなかった。
蛇のエリーを追って間違えて入っちゃった秋矢さんの部屋で見た―――“あれ”
“あれ”があると言うことは当然、なきゃならないものがもう一つある―――
筈なのに、“それ”が見当たらなかった。
そう言えば俺は秋矢さんが“それ”をしているのを見たこともない。
俺は人形を見つめたまま硬直した―――
何故
秋矢さんは―――“あれ”をする必要があるのだろうか―――
P.344<→次へ>
冬の夜
キミへの気持ちを窓に託しました
たった一言が言えない私は臆病者ですか?
でも今はこれが精一杯
雪に想いを
『次はお天気コーナーです。今日から明日にかけて低気圧が日本の南を発達しながら東北東に進み、明日には日本の東に進む見込みです。
関東甲信地方では今夜から雨が次第に雪に変わり、あす午前中にかけて山沿いを中心に、平野部でも積雪となる所がある見込みです。雪による交通障害、架線や電線、樹木等への着雪、路面の凍結に注意してください』
今朝のワイドショーのお天気キャスターの言葉を思い出したのは、勤めている会社の定時を迎え業務を終えたときだった。
「えー!やだっ!雪降ってるじゃん」と誰からともなく声が挙がり
「ホントだー、私傘持ってきてない」
「どうりで冷えると思った」
と同僚たちが次々と口にする。
またも誰かが「せっかく彼氏に買って貰ったバッグが濡れちゃう」と言い出し、それでもちっとも困った様子ではなく、どこか誇らし気だ。
そしてその周りの女子たちが盛んに羨ましがる。
「いいなー、でもあたし今度のクリスマスにダイヤの指輪ねだっちゃうんだー」と一人の女の子。
「いいなー!」黄色い声に、私は苦笑いを浮かべるしかない。ここでの男の年収と、女の品格は反比例する。いかにいい服を着るか、いかにいいバッグを持つか、いかにいい男を彼氏にするか、年中こんな会話でうんざりする。
かと言って輪に加わらないわけにはいかない。仕事とプライベートの内容こそ比例するのだ。
P.1
「仁科《にしな》さんはいつも素敵な服着てますよね」ふいに一人から話題を振られた。
「えっ、そう?」私は曖昧に笑って言葉を濁した。今日の服装は白いタイトワンピ。腰回りに太いベルトが巻き付いていて、ちょっと豪華に見えるゴールドのバックルがワンポイント。
そして同じくゴールド系のスパンコールが襟元に入ったコートを腕にかけて帰りたいアピール。
シンプルな服装だったけど、流石は目が肥えている女子たち。すぐにそれが高価なものだと見破った。女のチェック程厳しいものはない。私がオシャレをするのは対、男ではなく、彼女たちの為。
「仁科さんてぇ、結婚しないんですかぁ」間延びした話し方が赦されるのはこの年代の特権だ。
「結婚ね……相手がいないから」私は適当にごまかして再び言葉を濁した。
こう言っておけば大抵の女は引き下がる。私が長い間、人付き合いをしてきて、これが最良の方法だと知ったのはつい最近のこと。
私がこの会社に勤めはじめて五年になる。この会社での女性正社員では長いほうだ。後から派遣された若い女の子たちから見れば私なんてお局のようだった。
「そう言えばぁ仁科さん、この前見ちゃったんですぅ」一人の女の子が思わせぶりに口元へ手をやった。
短く切った髪にはパーマがあててあり、傍から見ればマシュマロのように可愛らしい女の子だ。
だが、そんな可愛らしさに惑わされてはいけない。女はいつでも顔の下にしたたかな一面を隠しているのだから。
P.2
「何を?」私は平静を装って取り澄ました。
もしかして“アイツ”と居る所を見られた?と思ってドキリとしたが
「この前の金曜日、青山のイタリアンレストランで、経理の前田さんと一緒にいるところぉ」
ああ、そっちか。とちょっとほっと安堵する。
「ええー!!」周りから黄色い声が飛ぶ。私は思わず頭を押さえたくなった。
そう、確かに経理の前田に誘われて先週の金曜に青山まで行った。
でも食事をしただけで、別に艶かしい関係ではない。だが、ここで重要なのが、経理の前田という男、この会社ではなかなかのハンサムでしかも独身、きさくな性格をしているわりには頼れる上司でもあるのだ。そうゆう男を若い女性社員が放っておくわけがない。
「いいなー、ねえお二人って付き合ってるんですか?」
食事をするイコール男女の関係と、どうして若い子たちはそう短絡的なのだろう。私はこの場から逃げ出したくなった。だけど、この場から立ち去ると認めたことになってしまう。
「別に、ただお食事に誘われただけよ」
「うそー、絶対前田さん仁科さんのこと狙ってるわよぅ。だって、あたしたちがいくら誘っても全然だったのよー。それなのに前田さんは仁科さんのこと」
嫉妬心と羨望の眼差しで見られ、私は思わず後ずさり。
何とか前田との話を切り返し、従業員出入り口から女子の群れに混ざって出てきた所だった。
遠くで派手なエンジン音が聞こえてきて、この狭い路地裏へと近づいてきた。この聞き慣れたエンジン音。私は嫌な予感がして思わず一方通行の標識を見つめた。
「よーう、仁科」黒のポルシェの窓から腕を出し、銜えタバコをしながら九条《くじょう》が手を振っている。
「やっぱり」
私は、今度こそ頭痛をこらえるように頭をしっかりと押さえた。
P.3
「仁科、今終わりか?これから飯でも食わねー?」
この状況を知らずに能天気に笑ってるその整った横っ面に今すぐ張り手を食らわせたい。
「あ、あんたいつ東京に戻ってきたわけ?」私は女の子の群れから一人離れると、九条の車に近づいた。
「あー、悪い。三日ぐらい前かな?この前言ってた日本料理屋行こうぜ」
「あんたっていつも何で急なのよ」
私が声を潜めて九条を睨んでいるときだった。
「えー、仁科さんの彼氏さんですかぁ?かっこいい!」
女の子たちの視線が九条に移った。予想していなかった最悪の事態。
上半身しか見えなかったが、今日の九条は黒いジャケットの中に白いカットソーを着ていて、真冬だって言うのに襟ぐりに濃いサングラスをかけている。いつものように髪をラフにセットしてあって、左耳には輪っかのようなピアスが三つ光っていた。
そう
どこからどーみてもこいつは
ホスト。
P.4
「仁科、今終わりか?これから飯でも食わねー?」
この状況を知らずに能天気に笑ってるその整った横っ面に今すぐ張り手を食らわせたい。
「あ、あんたいつ東京に戻ってきたわけ?」私は女の子の群れから一人離れると、九条の車に近づいた。
「あー、悪い。三日ぐらい前かな?この前言ってた日本料理屋行こうぜ」
「あんたっていつも何で急なのよ」
私が声を潜めて九条を睨んでいるときだった。
「えー、仁科さんの彼氏さんですかぁ?かっこいい!」
女の子たちの視線が九条に移った。予想していなかった最悪の事態。
上半身しか見えなかったが、今日の九条は黒いジャケットの中に白いカットソーを着ていて、真冬だって言うのに襟ぐりに濃いサングラスをかけている。いつものように髪をラフにセットしてあって、左耳には輪っかのようなピアスが三つ光っていた。
そう
どこからどーみてもこいつは
ホスト。
P.4
でも勘違いしてもらっては困る。私はこいつの客じゃない。東京を離れていたのも、大方客の一人と遠征旅行でもしていたのだろう。
「違っ!こいつとは単なる腐れ縁。彼氏とかじゃないから」
と慌てて否定するも秒の単位で噂が回るこの会社で明日の朝には『仁科さんて、ホストに貢いでるらしいよ』とあちこちで言われるに違いない。
くらり、と眩暈が起きた。
腐れ縁、と言うのは間違いない。中学からの同級生だから。
「じゃあ、本命は前田さんですかぁ?」女の子達が興味津々で目を輝かせている。
「前田??ひどいなー、仁科ぁ。俺たち何度もセック……もがっ」
最後の方が言葉にならなかったのは私の手が九条の口を塞いだから。
ふざけんな!何言い出すんだこいつぁ!!
空気読めっつうの!
と言うことを目で訴えると、流石に冗談が過ぎたと思ったのか九条は苦笑い。
「で?行くの?行かないの?」せっかちに聞かれて
「わかったわよ!行くわよ」半ば怒鳴るように九条を睨みつけると、私はそそくさと助手席に回った。
「それじゃ、私はこれで。お先に」女の子たちにはなるべく平静を装って、にこやかに手を振る。
ため息をついて車の助手席を開けると、運転席から九条が笑顔で手を差し伸べてきた。
「ただいま、仁科」
昔とちっとも変わらない笑顔。眉が下がり、目を細める、優しい笑顔。そして時々その低い声で呼ばれる、自分の名前。何だかくすぐったいが、この笑顔を向けられたら、たとえ九条の勝手に振り回されても、赦せてしまう。
「……おかえりなさい」私は俯くと、小さく返事を返した。
P.5
前述した通り私と九条とは中学からの付き合いだ。かれこれ十年以上の付き合いになる。十年、と言う歳月は長く感じられるけれど、その間に音信不通になったり、そしてどこからか連絡先を入手して電話を寄越して来たり、をだらだらと繰り返している。
でも、私たちははっきりと『付き合って』はいない。もちろん九条のブラックジョークの『体の関係』もない。
あるのは中学生から変わらないノリと
私が九条のこと「好き」
と言うことだけ。歳を重ねて、九条がホストになって……あ、今はホストじゃなくホスト店を経営してるオーナー様でもあったかしら。とにかく環境は変わったものの、不変的な何かは確実に存在している。
パワーウィンドウの外をちらほらと雪が降っていた。
「北海道行ってきたんだ~土産に蟹買ってきてやったぞ」と九条は運転しながらどこか楽しそう。
「北海道……ここより雪が多そうね」ぼんやりと呟きながら、九条に気づかれない程度にこっそりと、外気との差で曇った窓ガラスに、人差し指で
『好き』
と書く。
私の書いた文字は私の体で隠れて九条からは見えない。
「蟹すきしようぜ~、お前んちで」
「何であんたを一々上げないといけない?」
言い合いをしながら、やがて私のマンションに着く頃にはみぞれになった大粒の白いものが私の『好き』をかき消す。
「だってお前んち床暖あるじゃん?」
「そんな理由かよ」
中学生から変わってないこの関係とノリ。
今はまだ―――
この関係でいいや。
~FIN~
P.6