C'est la vie!
*ジンクスの屋敷で*
第二話 「幽霊ビギナーです。」
――――――
――…
頭がズキズキする…
それにすっごい重い。徹夜で勉強して試験に挑んだときみたいだ―――
「―――さん…結城さん」
遠くの方で聞いたことのある声が聞こえてきて、それでもあたしは重い瞼を開けることができなかった。
「結城さん。しっかりして」
ああ―――…この声―――少し低くて甘い…
大好きな零くんの声だぁ…
零くんがあたしを呼んでる?
でもあたしって名前教えたっけ。
ううん、そんな細かいこと今はいいや…
だって零くんに名前呼んでもらってるんだよ―――
あ、そっか。これは夢なんだ…
夢なら覚めないで…夢なら…………
――――…
「結城さん!」
零くんの声が聞こえてきて、激しく肩を揺さぶられた。
―――!!?
P.13
「―――…え…え!?」
びっくりして目をぱっと開けると、目の前に零くんのドアップが。
びっくりし過ぎて思わず飛び起きる。
「…えっと…あたし……」
状況が理解できずに、あたしは辺りをきょろきょろと見渡した。
さっき夕日に染まっていた明るい廊下は、ひっそりと暗闇が取り巻いていて、少し向こう側がどんよりと闇が渦を巻いていてはっきりと様子が見えない。
さっき見たときよりもさらに迫力を増したお屋敷の廊下。
いかにも「出そう!」って感じがして、あたしは思わず身震いをした。
「階段から落ちたんだよ」
冷静な零くんがあたしを覗き込んで、心配そうに眉を寄せる。
階段から―――…
そうだった。
落ちて、頭打って―――…だから、こんなに頭が痛いんだ…
でも零くんは平気そう。
「れ、零くん!無事だったんだね!」
思わず勢い込んで、零くんの両肩を掴むと、零くんはびっくりしたように目をぱちぱちさせた。
「…えっと―――」
だってあんなに血が出て、しかも心臓の音してなかったのに…
奇跡的に助かったんだぁ。
「良かったぁ」
あまりにも嬉しくて、あたしは思わずほぉっとため息を吐いて胸を撫で下ろした。
零くんの次の言葉を聞くまで、本気で安堵してたのに。
「いや、俺たち死んでる」
P.14
――――…は?
言ってる意味が良くわかりませんが。
は!そうだった!!この人、不思議クンだったわ。
こんなときに冗談!?心臓に悪いよ。
あたしが疑わしい目つきで零くんを睨むと、零くんは呆れたように目を細めた。
「信じたくないのは分かるけど、ホントのことだよ」
「嘘。だってあたし零くんに触れるし」
「それは幽霊同士だからじゃない?」
「またまたぁ」
あたしは苦笑を返して、それでもさっきまるで鉛が詰まったような鈍痛が不思議と頭から去っていく感覚に、眉をしかめた。
だって、さっきは気を失う程の痛みだったのに…
…………
ガバッ!
あたしは零くんの制服のブレザーの前を勢いよく開いた。
零くんがびっくりして少し身を後退させる。
それでも構わずにあたしは零くんの心臓の辺りに手を這わせた。
「……大胆だね」
零くんがびっくりしたように目を丸めた。
けど―――
あたしは違う意味で、言葉も出せないほど驚いている。
だって零くん、
心臓の音しない―――
P.15
そんな!
まさかあたしも!?
あたしは慌てて自分の胸に手を当てた。
心臓の音―――…しない……!
どこをどう探っても音はしないし、鼓動が手のひらに伝わってくることもない。
あたしは目を開いたまま零くんの顔を凝視すると、
零くんは困ったように眉を寄せて軽く肩をすくめた。
嘘―――
あたし死んじゃったの!?
あたし、幽霊!?
そして
零くんも
幽霊――――
P.16
バッ!
あたしは勢い良く立ち上がった。
「どこ行くの?」
と、零くんの冷静な声が聞こえたけど、
「家に帰るの!そしたら分かるでしょ!」
と勢い良く走り出した。
そうだよ。家に帰ったらいつも通りお母さんが
「お帰り。遅かったのね」って迎えてくれる。
そうよ。こんな遅く…ってかはっきりした時間が分からないけど、あたしがいつまでも帰らなかったらお母さんもお父さんも心配してる筈。
サヤカもアヤメも!
あたしはこんなお化け屋敷に恐怖も感じず、階段を駆け下りた。
「待ってよ!」
と、零くんも慌てた様子であたしの後を追ってくる。
そもそもこんなお屋敷に来たのが間違いだったんだ。
零くんとお近づきになれるかも…なんて不純な動機で、遊び半分に覗きにきたから。
あたしは家に帰って勉強しなきゃいけない身なのに。
今、あたしには恋愛にかまけてる余裕なんてないのに!
なんて心の中で叫びながら、あたしは扉を勢い良く両手で開いた。
鬱蒼とした森のような庭が視界に飛び込み、あたしが同じだけの勢いで外に踏み出そうとした。
――――!!
P.17
あたしの足は扉の向こう側に踏み出さなかった。
踏み出せなかった。
見えない壁に阻まれているかのように、手も足も…一歩も外に出ることが出来ない!!
何で!?
「無駄だよ。俺もさっき試したけど、この家の外に出ることはできなかった」
零くんがため息をついて、あたしの背後に立つ。
「…ど、どうして…?」
こんな至近距離で立たれると、心臓がドキドキ鳴るよ…
やっぱあたし、零くんのこと好きみたい。
っても、あたしその心臓の音しないんだけど。
「何でか理由は分からない」
と、零くんはあっさり。
何っで、そんなに冷静なのよ!
何かここから出る方法…考えて思いついた。
「そうだ!ケータイ!!ケータイで助けを求めたらどうだろう!」
だけどそれにも零くんは首を振った。
「残念だけど、ケータイなんかの荷物は全部手元にない」
「ないって、どうして!」
あたしが勢い込むと、
「さぁ、知らないけどない。だけど君の生徒手帳はあったよ?南中なんだね。妹と同じ中学だ」
なんて零くんはのんびり。
あたしの生徒手帳―――…?
P.18
「そんなの何の役にも立たないよ!」
思わず怒鳴って慌てて口を噤んだけど、零くんはまったく気にしていない様子。
「どうやら君のお友達が様子を見に来て、倒れてる俺たちを見て救急車を呼んだみたい」
「みたいって…何で分かるのよ…」
「駆けつけた救急隊員とか、君のお母さんが血相を変えて話してることを聞いてたんだ」
「聞いたって…やっぱ生きてるじゃん」
あたしはまたもちょっと零くんを睨んだ。
だけど零くんは肩をすくめて天井の方を指差した。
「残念だけど、その様子を俺はふわふわと漂いながら見てたの。幽体離脱っての?」
ゆ、幽体離脱……
「あ、ちなみに俺は即死。打ち所が悪かったらしい。痛みも感じずあっけなく」
み、認めたくないけど…
「あ、あたしは……?」
「君は失血多量によるショック死。救急隊員が駆けつけたときは、もう息がなかった」
嘘……
零くんが即死で、あたしもほとんど即死で―――…
つまりあたしたちは…
「いい加減認めたら?死んでるってこと」
零くんが冷めた目であたしを見下ろして、腕を組んだ。
そ、そんな――――!!!
P.19
―――だってあたし、まだ十五だよ?
受験勉強は大変だけど、憧れの零くんと同じ高校に入ったら、勇気を出して零くんに告白して―――
運が良ければ付き合えたりして。
ドキドキ初デートをして手を繋いだり、はじめてのキスをしたり…
全部全部叶えることなく、死んじゃったって言うの?
膝を抱えて項垂れていると、すぐ近くで同じように床に座り込んでいた零くんが、心臓の形をした香水瓶を手にしてまじまじと見つめていた。
「その心臓……無事だったんだね。ってか救急隊員の人に持っていかれなかったんだね」
よっぽど大切なものなのか、零くんがそのボトルを見つめる瞳は、こんなときも穏やかで優しい光を湛えていた。
「まぁいかにも古そうな瓶だし、ここのものだと思ったんじゃないかな。でも良かった」
愛しそうに見つめて、零くんが微笑む。
ドキリ、としてあたしは目をまばたいた。
だから、あたし心臓の音しないんだってば!
なんて自分で自分に突っ込みたくなる。
「ね、聞いていい?」
あたしが目を上げると、零くんはちょっと目を開いて、
「スリーサイズなら秘密だよ♪」なんて、自分の体を抱きしめる。
………
この人…やっぱ変。
「じゃなくて!それ大切なものなの?すっごく気にしてるみたいだけど」
苛立ちながらも何とか聞くと、零くんは少しだけ寂しそうな笑顔を漏らした。
あたしがいつも眺める―――窓辺の零くんの
あの切なそうな眼差し。
P.20
だけど零くんはすぐにその表情を無表情に変えて、
「特に意味はないよ」
零くんは軽く流して立ち上がった。そしてスタスタと屋敷の廊下を進む。
「ちょ…どうするの?」
慌てて彼の後を追うと、
「どうするって、眠いから寝ようかな、って。これぐらい広いし部屋もいっぱいあるし、ベッドぐらいどこかにあるでしょ」
と、零くんはどこまでもマイペース。
眠い??幽霊なのに!
思ってる傍から零くんはふわふわと欠伸を漏らし、突っ込みたいあたしを残してさっさと行ってしまう。
「ま、待って!」
ガシッ!
あたしは零くんの袖をしっかり掴むと、零くんはまたもびっくりしたように目を丸めて振り返った。
「あ、あたしを置いて行かないで」
「置いてくもなにも、俺たちここから出られないし、屋敷内には居るから安心して?」
と、零くんは爽やかに笑う。
その笑顔に―――安心………しそうになって、あたしは慌てて頭を振った。
「そうゆう問題じゃないの!」
「?」
零くんが首を傾げる。
「お、お化けが怖い!」
思い切って言うと、零くんは最初きょとんとしたものの、
「幽霊のくせに他の幽霊が怖いって…」
と、ぷっと笑った。
P.21
「どうとでも言ってよ。だって怖いもんは怖いんだもん。それにあたし新入りだから、他のお化けから苛められたら…」
顔を青くして、
それでも開き直って零くんの腕にしがみつくと、零くんはまたも目をまばたき、だけどすぐに柔らかい笑顔を浮かべた。
「素直なんだね」
そう言ってあたしの頭をぽんぽんと軽く叩いた。
び……っくりした……
お、男の人に頭ぽんぽん…
しかも憧れの零くんに!
幽霊になってどうしようかと思ったけど、少しはいいことあるかもしれない。
なんて思いながら、あたしは零くんの後をついて行くことに決めた。
「ねぇ、ここ真っ暗。いっくらあたしが幽霊でもさすがに怖いよ。何か明かり探さない?」
と提案すると、
「灯りって言ってもなぁ。ここ電気通ってないし。懐中電灯なんかもちろんないし」
と、零くんは考え込んだ。
それでも真剣に考えてくれたのか、数秒後に
「あ、そうだ。キッチンに行こうよ。蜀台があるからろうそくあるだろうし、マッチとかあるかもしれない」
そう言って零くんは近くにある、洋画なんかで見る、やたらとゴテゴテした飾りがついたろうそくの蜀台を手に取った。
な、何か頼れそう……?
ほっとして…でもまだ安心しきれてないあたしは、零くんに寄り添うようにぴったりと間を詰めた。
P.22
洋画なんかに出てきそうな、これまたかつては立派で広かっただろうキッチンで食器棚やシンクの下を漁ること数分。
零くんの思惑通り、ろうそくはあったけれど、マッチなんかの類いはどこにもなかった。
やっぱりそう簡単にはいかないか…
しょんぼりと項垂れていると、遠くの方でかすかな物音がした。
びくりとして、思わず零くんにしがみつくと、
「大丈夫だよ。きっと風かなんかで窓に木がぶつかったんだ」
と言ってまたもあたしの頭を軽く叩く。
零くん―――……
こんな状況じゃなかったら、あたしはこんな優しくて心強い零くんに一発ノックアウト。
かっこいいだけじゃなくて、頼りがいもあるんだね。
「でも良かったぁ。君が男じゃなくて。野郎二人でくっついてるの想像したら鳥肌が…あ、鳥肌も立たないか、幽霊だし?」
………
零くんはあたしが考える人とは違って―――やっぱ、ちょっと変。
あたしが白い目で見てるにも関わらず、零くんはふわふわと笑って、
「一緒なのがこんな可愛い女の子で良かった~」
と一言。
―――え?
可愛い!?
P.23
男の子にそんなこと言われたのはじめてだよ!
恥ずかしいのと嬉しいので、顔から火が出そう!
って、あたし体温がないからそんなこともないだろうけど…
今は幽霊で良かった~
って、何冷静に考えてるのよ!幽霊なんかじゃ意味がないよ!
あたしも零くんに染まってきてるんじゃ!?
「結城さんてさ、昔飼ってたチワワにそっくりなんだよね~。ふわふわの毛が気持ちよくてモップみたいだったから“モップ”って名付けたんだ」
モップ??
ネーミングセンス無!
しかもあたしはチワワかよ!
突っ込みどころは満載だったけれど、あたしはそれを敢えて口にはせずに零くんにしがみついたまま。
いくら変でもマイペースでも、今頼れるのは零くんだけ。
「キッチンに着火できそうなものは無さそうだから、他探そう」
零くんはあたしの手を引くと歩き出した。
ぅわ…
はじめて男の人に手を握られちゃった…
しかも…やっぱり頼れる。
多少変なところは目を瞑って、男らしいところにちょっと惹かれるよ。
あたしは手を握られたままキッチンを出ようとした。
そのとき―――
カチッと小さな金属音がして、
ボッ
急に真っ暗だった暗いキッチンに小さな火が浮かび上がった。
「これを使いたまえ」
零くんのじゃない大人の男の人の声が聞こえて―――あたしたちは思わず足を止めた。
P.24
黒いタキシードに、シルクハットを被ったすらりと背の高い人だった。
彫りが深い西洋の顔立ちの男の人。外人さんだった。
外国の人の年齢ってはっきり分からないけれど、きっとまだ若い…たぶん20歳代前半だろう…
ハリウッド俳優なみに整った顔のイケメンだ。
ってか、誰―――!!?
ちゃんと足があるってことは、人間!?
あたしは思わず後ずさった。
「レディが困っているのを見過ごすわけには行かないからね。
おっと失礼。私としたことが、ここ数十年若いレディに会ってなかったもので…」
と言い、その男の人はシルクハットを外した。
恭しく頭を下げると、
「私はクロウと申します。レディ、あなたのお名前を伺っても?」
「結城 明日未です。あなたも幽霊なのですか?」
って…何で零くんが勝手に答えてるのよ!
しかもびっくりするぐらい冷静。
「ゆうき あすみ!?な、なんと!!」
クロウと名乗ったこの男の人はびっくりしたように目を開いた。
顔が整っている分驚いた顔も随分迫力だ。
「あ、あたしの名前が何か……」
おずおずと聞くと、
「何とポジティブな名前なんだ。ゴーストにしておくにはもったいない…」
あっそうですか…
もぉ!何なのこの人!!
P.25
「これは人間が置いていったものだ。ちょうどユーみたいに若い男が、隠れてタバコを吸っていたところを見ていてね。
若いうちからタバコはいかん。
こっそりと影から覗いていたわけだが、ちょうど暇していたしちょっと脅すと慌てて逃げていったよ。
そこで手に入れた、ライターなるものだ」
クロウさんは手の中に安っぽい100円ライターをまじまじと見つめて、ふんと鼻を鳴らした。
「で、あなたはやっぱり幽霊なんですか?」
と零くんが冷静にクロウさんを見上げる。
零くんの“れい”は幽霊の“れい”でもあり、冷静の“れい”でもあるんじゃない?
「Non,Non,ゴーストと呼びたまえ」
どっちも一緒の意味じゃん……
何なのこの人たち!突っ込みどころあり過ぎ!
「あなたはゆ…ゴースト歴は長いんですか?」
「私はこの方100年以上はゆ……ゴーストだよ」
もう“幽霊”でいいじゃん。そこ言い直すとこ??
「100年も?大先輩ですね」なんて零くんが返している。
「そうなのだよ。ここのことは何でも知ってる。なんでも聞きたまえ」
とクロウさんが鼻高々に…ってか元々高いんだけどね。自慢げに言った。
ってか、零くん!あなた何で普通に会話できるのよ!
でも不思議……
クロウさんは幽霊だって言うのに、全然怖くない…
造り物みたいなきれいな顔立ちをしていて、ちょっと人間離れした美しさを纏っているのに、
何ていうか……この人…纏うオーラが…
あったかい。
零くんみたいだ。
P.26
ろうそくに火を灯して、クロウさんはあちこちを説明してくれる。
「ここは書斎。古い本がたくさんあるよ。ついでにエロ本も隠してある。見たいときはアスミに内緒で私に言いたまえ」
こそっとクロウさんが零くんに耳打ちして、零くんは苦笑い。
てか聞こえてるんですけど。
ってかそんな本、どこで手に入れたのよ!
「ここはバスルーム。と言っても幽霊には必要がないけどね。しかも湯も出なければ水も出ない。
ここは……何だっけかな…」
あちこちクロウさんが説明くれたけれど、お屋敷は広くて一回では把握しきれなさそう。
「アスミ、困ったときはいつでも私を頼ってくれたまえ。私はここのことなら何でも知ってるからね」
さっき物置みたいな変な小部屋のこと分からなかったじゃん。
大体こんな変な幽霊頼れるかっつうの!
「早速質問なのですが」
零くんが挙手した。
「何だね?」
「ここにはあなたしか住んでいないのですか?他にゆ……ゴーストは?」
もう“幽霊”でいいじゃん。零くんも律儀だなぁ。
こんな変な人に真面目に付き合わなくてもいいと思うのに。
「ここは私だけだよ。そりゃ不慮の事故なんかで幽霊になった人間は居なくはなかったけれど、
みんな成仏していってしまうんだ」
クロウさんがちょっと寂しげに顔を伏せた。
P.27
クロウさんは―――100年以上、幽霊やってるって言ってた。
100年もの間、きっと色んな幽霊と出会って、そして成仏するのを見送ってきたんだ…
“成仏”なんて言葉ピンとこないけど、せっかく仲良くなってもすぐにお別れなんだよね。
あたしも零くんも成仏しちゃったら……
憧れの高校生活も、はじめての恋も―――
あたしがほんの少しだけ抱いた零くんへの気持ちも―――
生きてる零くんに伝わることなく、何もかもなくなって
消えちゃうんだ。
そんなのやだな―――……
制服のスカートをぎゅっと握って、あたしは俯いた。
「疲れた?今日は遅いし一度休もうか」
零くんが、俯いているあたしの顔を覗き込んで心配そうに眉を寄せている。
零くん……
やっぱ優しい―――
その優しさと、急に幽霊なんかになっちゃったショックとが混じってあたしの目頭にじんわりと涙がたまった。
「泣かないでレディー。寂しかったら私が添い寝をしてあげよう」
なんてクロウさんがあたしの肩を抱き寄せる。
お呼びでない!
一瞬、悲しくなったけど、クロウさんのお陰で涙も引っ込んだわ!
P.28
その後クロウさんの案内で、あたしは一つのお部屋を貸してもらうことにした。
天蓋つきの可愛いベッドに、きれいな装飾の施されたドレッサー。
今はどれもボロボロだったけれど、かつてはさぞ可愛らしいお部屋だったに違いない。
「わぁ」
思わず息を漏らすと、
「気に入ってもらえて良かったよ」とクロウさんは満足そうに、にこにこ。
「じゃ、俺は隣の部屋を使わせてもらいます」
零くんが壁を指差して出て行こうとするのを、あたしはまたも引き止めた。
ガシッ
「?」
零くんがまたも不思議そうに首を傾げて、あたしを見下ろす。
「こ、怖い。一緒にいて!」
「Oh!大胆なレディだね。しかし怖いのなら、私が傍に居よう」
なんてクロウさんが言い出し、零くんも困ったように眉を寄せている。
う゛……
そりゃ若い(?)男女が一緒に部屋で一晩を明かすのはよくないことだけど、でもこんな得体の知れない外人幽霊より零くんの方が100倍まし。
我がまま言ってるって分かってる。
零くんに甘えてるって分かってる。
でも一緒に―――居て欲しいよ。
そんな思いで零くんの袖をきゅっと握ると、零くんは苦笑いを漏らしながらも、またも頭をぽんぽん。
「今日は一緒に居るよ」
P.29
零くんはかっこいいけど、よく分かんなくて。
不思議くんだけど、優しくて―――
頼れるし、
何か零くんと居ると―――
すごく安心できるんだ。
ベッドに横たわると、疲れのせいかいつの間にかうつらつら。
幽霊でも眠くなるんだね……
揺れる視界の中、ベッドの端に腰掛けた零くんの袖をきゅっと握った。
零くんは穏やかに微笑んで、あたしを見下ろしてくる。
反対側の手で零くんがあたしの前髪を優しく撫でた。
その手つきはとっても優しくて―――
その感触はお母さんの手に少しだけ似ていた。
お母さん……
会いたいよ…
お母さんのことが思い浮かんで、またもじんわりと目尻に涙が溜まっていく。
零くんがその涙をそっとぬぐってくれた。
「巻き込んでごめんね。
守れなくて―――
ごめんね」
P.30
夢かうつつか…零くんの声が遠くで聞こえて、切なげに揺れていた。
ううん。
零くんはあたしを守ってくれたよ。
階段から落ちるとき、あたしを庇おうとしてくれたよ?
庇おうとして、自分が死んじゃって―――
あたしの方こそ
ごめんね。
遠くの方で水音がする。
サラサラと流れるような…でも、地面を打ち付ける音で、その音が雨の音だと言うことに気付いた。
ぼんやりと灰色に滲んだ視界に、やっぱり霧のような雨が降っていた。
上品なピンク色の傘と、濃いネイビー色の傘が二つ並んでいて、それらの開いた傘にも雨粒がしとしとと落ちては、傘の表面を滑っていく。
傘の合間から二人の握られた手が見えた。
一人の腕は紺色の袖口。
見慣れたはずの―――零くんの制服だった。
もう一人は、白い長袖のカーディガン。
ほっそりと白くてきれいな手だ。
その手が、零くんに絡められた手から、そっと離れる。
まるでゆっくりと距離を取るかのように。
零くんはその白くて華奢な手を慌てて握り返す。
だけど、その白い手がやんわりと零くんの手を払った。
P.31
これは夢―――……?
だってそうだよ…
あたしは零くんのこんな場面知らない。
零くんの傘なんて知らない。
でも深い紺色をした傘から少しだけ覗く零くんの顔は―――
とっても寂しそうで……色素の薄い瞳が悲しみに翳っていた。
あの―――お屋敷の出窓から外を眺めているときの…いつもの零くんの
見慣れた表情。
「頼りなくてごめんね。
ばいばい。
美紗都―――」
ミサト………
誰?
打ち付ける雨が一層音を増して、激しくなる。視界を覆うような濃密な雨が降り注ぎ、
零くんの頬を濡らしていた。
傘―――……さしてるのに、何で零くんの頬、濡れてるんだろう……
零くん―――
零くんは、頼りなくなんかないよ。
あたしは急に幽霊になっちゃって、びっくりしたけれど、泣き叫ばなかったのは零くんが居てくれたおかげなんだから。
そのほかにも零くんはいっぱい頼りになってくれたよ。
だから
そんな悲しい顔をしないで―――………
P.32
―――
「―――っ!!」
あたしは飛び起きるように半身を起こした。
「………夢?」
慌てて辺りを見渡すと、昨日眠りについたお屋敷のお部屋の中で、ボロボロのカーテンから明るすぎるぐらいの陽光が部屋を照らし出していた。
「朝……?」
目をまばたいて、再び視線を巡らせて気付いた。
零くん!いない!?
嘘!
もしかしてあたしを残して成仏しちゃった!!
慌ててベッドから飛び上がり、部屋を飛び出すと、
ドンッ!
部屋を出た瞬間、誰かと激しく衝突してしまった。
「ぃったぁ…」
そう高くもない鼻を打って、押さえると
「すまない、アスミ。私としたことが」
と、申し訳なさそうに…そして心配そうにクロウさんがあたしを覗き込んでいた。
「クロウさん!零くん、どこですか!?もしかして成仏しちゃったんですか!」
あたしは鼻を押さえながら、痛いのを我慢しながら…(って言うか幽霊でも痛いって感覚があるんだ。新発見だよ)勢い込んだ。
「レイ?レイなら、さっきあっちで…」
とクロウさんが振り返って廊下の奥を振り返ると、
「あ、おはよ~結城さん。起きた?」
と、のんびりした声で零くんが現れた。
P.33
「零くん!」
あたしは、零くんがどこかへ行っちゃってなくて安心したのと、気が抜けたのと、で零くんに走り寄った。
一瞬―――
零くんがもう居なくなっちゃったかと思った。
あんな変な夢見るからだよ。
そりゃ幽霊にとって、やっぱり一番いいのは成仏だけど―――…
何でかな。
あたしはまだ零くんと一緒に居たい。
思わず零くんの胸の中に飛び込んで、襟を掴んでしがみつくとクロウさんが
「Oh!大胆なレディだね。でも抱きつくんならミーにしたまえ」なんて言ってくる。
うるっさい!
クロウさんみたいな、分けわかんない幽霊に抱きつけますかっての!
どうせ抱きつくんなら、ずっと好きだった人の方がいいに決まってる!
零くんは最初のうち困ったようにあたしを見下ろしていたけど、だけどすぐにあたしの頭を優しく撫でてくれた。
「大丈夫だよ。結城さんを置いて成仏しないから」
零くん……優しいんだね…
じんわりと目に涙を浮かべていると、
・
「だって俺、まだ結城さんで遊びたいから」
は…?
「天国行っちゃったらこんな面白いオモチャなんてないだろうし。心残りと言えば、唯一それだから。
だからまだ当分成仏できないよ」
P.34
オモチャ!?
あたし“で”遊びたいだとぅ―――!?
あたしは女じゃなく零くんにとっては“おもちゃ”!
――――
――
「ねぇねぇ結城さんて彼氏いるの?」
頬杖を付きながら横向きでふわふわ、あたしの背後で浮かんでいる零くんが突如聞いてきた。
ここは広いダイニングルーム。楕円形の大きなテーブルに、豪華な装飾が施された椅子がいくつも置いてある。
昨日はまったく気付かなかったけれど、明るい日差しに照らし出されたダイニングルームは思いのほか広くて、立派だった。
かつては、きっと―――映画とかに出てくるようなセットみたいに豪華できらびやかだったに違いない。
場違いな場所に、何一つ共通点のないあたしたち三人。
「彼氏なんていません。それよりここから出られる方法三人で考えませんか?」
とあたしは二人をじとっと睨むように目を上げた。
二人は顔を合わせ、同じタイミングで肩をすくめる。
何なの、あんたら。息ぴったりじゃない。
―――実は、今朝起きだしてからも一度…ううんそれこそ何十回も外に出ようと試みた。
だけど、あの大きな扉はあたしたちと外界とを遮断するかのように、ぴしゃりと跳ね除けられる。
つまりは、一歩も外に出られなかったってワケ。
「出てもどうするの?どうせ幽霊なんだし」
と、零くんが腕を組んでテーブルの上で胡坐をかいた。
「ゆ、幽霊だけど……あ、会いたい人たちとか…いないの?」
P.35
ミサトさんとか―――……
って言葉は口に出せなかった。
って言うかあれは単なる夢だし。実在する人物かどうかも怪しい。
「誰それ?」
なんて、きょとんとされるのがオチだし。
だけど、もし……
ミサトさんが実在する人で―――…あの人が零くんの大切な人だったら―――
大切な人だったら?あたしはどうするの??
それに―――これから成仏するって言うときに、それこそ心残りだよね……
―――黙っておこ……
あたしは口を噤んだ。
「会いたい人…って言うか犬はいるかなぁ。モップのことだけど。俺が今度行くところにすでに居ると思うから、むしろ外に出るより天国行きたい」
なんて零くんはサラリ。
零くんは、よほどモップが好きだったみたいデス。
「でも今は結城さんでいいや。モップに似てるし」
なんて零くんは爽やかに、にっこり。
う゛!その笑顔、卑怯だよ!!
なんてドキドキしながら顔を逸らすと、すぐ近くに居たクロウさんとばっちり目が合ってしまった。
P.36
冬の夜
キミへの気持ちを窓に託しました
たった一言が言えない私は臆病者ですか?
でも今はこれが精一杯
雪に想いを
『次はお天気コーナーです。今日から明日にかけて低気圧が日本の南を発達しながら東北東に進み、明日には日本の東に進む見込みです。
関東甲信地方では今夜から雨が次第に雪に変わり、あす午前中にかけて山沿いを中心に、平野部でも積雪となる所がある見込みです。雪による交通障害、架線や電線、樹木等への着雪、路面の凍結に注意してください』
今朝のワイドショーのお天気キャスターの言葉を思い出したのは、勤めている会社の定時を迎え業務を終えたときだった。
「えー!やだっ!雪降ってるじゃん」と誰からともなく声が挙がり
「ホントだー、私傘持ってきてない」
「どうりで冷えると思った」
と同僚たちが次々と口にする。
またも誰かが「せっかく彼氏に買って貰ったバッグが濡れちゃう」と言い出し、それでもちっとも困った様子ではなく、どこか誇らし気だ。
そしてその周りの女子たちが盛んに羨ましがる。
「いいなー、でもあたし今度のクリスマスにダイヤの指輪ねだっちゃうんだー」と一人の女の子。
「いいなー!」黄色い声に、私は苦笑いを浮かべるしかない。ここでの男の年収と、女の品格は反比例する。いかにいい服を着るか、いかにいいバッグを持つか、いかにいい男を彼氏にするか、年中こんな会話でうんざりする。
かと言って輪に加わらないわけにはいかない。仕事とプライベートの内容こそ比例するのだ。
P.1
「仁科《にしな》さんはいつも素敵な服着てますよね」ふいに一人から話題を振られた。
「えっ、そう?」私は曖昧に笑って言葉を濁した。今日の服装は白いタイトワンピ。腰回りに太いベルトが巻き付いていて、ちょっと豪華に見えるゴールドのバックルがワンポイント。
そして同じくゴールド系のスパンコールが襟元に入ったコートを腕にかけて帰りたいアピール。
シンプルな服装だったけど、流石は目が肥えている女子たち。すぐにそれが高価なものだと見破った。女のチェック程厳しいものはない。私がオシャレをするのは対、男ではなく、彼女たちの為。
「仁科さんてぇ、結婚しないんですかぁ」間延びした話し方が赦されるのはこの年代の特権だ。
「結婚ね……相手がいないから」私は適当にごまかして再び言葉を濁した。
こう言っておけば大抵の女は引き下がる。私が長い間、人付き合いをしてきて、これが最良の方法だと知ったのはつい最近のこと。
私がこの会社に勤めはじめて五年になる。この会社での女性正社員では長いほうだ。後から派遣された若い女の子たちから見れば私なんてお局のようだった。
「そう言えばぁ仁科さん、この前見ちゃったんですぅ」一人の女の子が思わせぶりに口元へ手をやった。
短く切った髪にはパーマがあててあり、傍から見ればマシュマロのように可愛らしい女の子だ。
だが、そんな可愛らしさに惑わされてはいけない。女はいつでも顔の下にしたたかな一面を隠しているのだから。
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「何を?」私は平静を装って取り澄ました。
もしかして“アイツ”と居る所を見られた?と思ってドキリとしたが
「この前の金曜日、青山のイタリアンレストランで、経理の前田さんと一緒にいるところぉ」
ああ、そっちか。とちょっとほっと安堵する。
「ええー!!」周りから黄色い声が飛ぶ。私は思わず頭を押さえたくなった。
そう、確かに経理の前田に誘われて先週の金曜に青山まで行った。
でも食事をしただけで、別に艶かしい関係ではない。だが、ここで重要なのが、経理の前田という男、この会社ではなかなかのハンサムでしかも独身、きさくな性格をしているわりには頼れる上司でもあるのだ。そうゆう男を若い女性社員が放っておくわけがない。
「いいなー、ねえお二人って付き合ってるんですか?」
食事をするイコール男女の関係と、どうして若い子たちはそう短絡的なのだろう。私はこの場から逃げ出したくなった。だけど、この場から立ち去ると認めたことになってしまう。
「別に、ただお食事に誘われただけよ」
「うそー、絶対前田さん仁科さんのこと狙ってるわよぅ。だって、あたしたちがいくら誘っても全然だったのよー。それなのに前田さんは仁科さんのこと」
嫉妬心と羨望の眼差しで見られ、私は思わず後ずさり。
何とか前田との話を切り返し、従業員出入り口から女子の群れに混ざって出てきた所だった。
遠くで派手なエンジン音が聞こえてきて、この狭い路地裏へと近づいてきた。この聞き慣れたエンジン音。私は嫌な予感がして思わず一方通行の標識を見つめた。
「よーう、仁科」黒のポルシェの窓から腕を出し、銜えタバコをしながら九条《くじょう》が手を振っている。
「やっぱり」
私は、今度こそ頭痛をこらえるように頭をしっかりと押さえた。
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「仁科、今終わりか?これから飯でも食わねー?」
この状況を知らずに能天気に笑ってるその整った横っ面に今すぐ張り手を食らわせたい。
「あ、あんたいつ東京に戻ってきたわけ?」私は女の子の群れから一人離れると、九条の車に近づいた。
「あー、悪い。三日ぐらい前かな?この前言ってた日本料理屋行こうぜ」
「あんたっていつも何で急なのよ」
私が声を潜めて九条を睨んでいるときだった。
「えー、仁科さんの彼氏さんですかぁ?かっこいい!」
女の子たちの視線が九条に移った。予想していなかった最悪の事態。
上半身しか見えなかったが、今日の九条は黒いジャケットの中に白いカットソーを着ていて、真冬だって言うのに襟ぐりに濃いサングラスをかけている。いつものように髪をラフにセットしてあって、左耳には輪っかのようなピアスが三つ光っていた。
そう
どこからどーみてもこいつは
ホスト。
P.4
「仁科、今終わりか?これから飯でも食わねー?」
この状況を知らずに能天気に笑ってるその整った横っ面に今すぐ張り手を食らわせたい。
「あ、あんたいつ東京に戻ってきたわけ?」私は女の子の群れから一人離れると、九条の車に近づいた。
「あー、悪い。三日ぐらい前かな?この前言ってた日本料理屋行こうぜ」
「あんたっていつも何で急なのよ」
私が声を潜めて九条を睨んでいるときだった。
「えー、仁科さんの彼氏さんですかぁ?かっこいい!」
女の子たちの視線が九条に移った。予想していなかった最悪の事態。
上半身しか見えなかったが、今日の九条は黒いジャケットの中に白いカットソーを着ていて、真冬だって言うのに襟ぐりに濃いサングラスをかけている。いつものように髪をラフにセットしてあって、左耳には輪っかのようなピアスが三つ光っていた。
そう
どこからどーみてもこいつは
ホスト。
P.4
でも勘違いしてもらっては困る。私はこいつの客じゃない。東京を離れていたのも、大方客の一人と遠征旅行でもしていたのだろう。
「違っ!こいつとは単なる腐れ縁。彼氏とかじゃないから」
と慌てて否定するも秒の単位で噂が回るこの会社で明日の朝には『仁科さんて、ホストに貢いでるらしいよ』とあちこちで言われるに違いない。
くらり、と眩暈が起きた。
腐れ縁、と言うのは間違いない。中学からの同級生だから。
「じゃあ、本命は前田さんですかぁ?」女の子達が興味津々で目を輝かせている。
「前田??ひどいなー、仁科ぁ。俺たち何度もセック……もがっ」
最後の方が言葉にならなかったのは私の手が九条の口を塞いだから。
ふざけんな!何言い出すんだこいつぁ!!
空気読めっつうの!
と言うことを目で訴えると、流石に冗談が過ぎたと思ったのか九条は苦笑い。
「で?行くの?行かないの?」せっかちに聞かれて
「わかったわよ!行くわよ」半ば怒鳴るように九条を睨みつけると、私はそそくさと助手席に回った。
「それじゃ、私はこれで。お先に」女の子たちにはなるべく平静を装って、にこやかに手を振る。
ため息をついて車の助手席を開けると、運転席から九条が笑顔で手を差し伸べてきた。
「ただいま、仁科」
昔とちっとも変わらない笑顔。眉が下がり、目を細める、優しい笑顔。そして時々その低い声で呼ばれる、自分の名前。何だかくすぐったいが、この笑顔を向けられたら、たとえ九条の勝手に振り回されても、赦せてしまう。
「……おかえりなさい」私は俯くと、小さく返事を返した。
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前述した通り私と九条とは中学からの付き合いだ。かれこれ十年以上の付き合いになる。十年、と言う歳月は長く感じられるけれど、その間に音信不通になったり、そしてどこからか連絡先を入手して電話を寄越して来たり、をだらだらと繰り返している。
でも、私たちははっきりと『付き合って』はいない。もちろん九条のブラックジョークの『体の関係』もない。
あるのは中学生から変わらないノリと
私が九条のこと「好き」
と言うことだけ。歳を重ねて、九条がホストになって……あ、今はホストじゃなくホスト店を経営してるオーナー様でもあったかしら。とにかく環境は変わったものの、不変的な何かは確実に存在している。
パワーウィンドウの外をちらほらと雪が降っていた。
「北海道行ってきたんだ~土産に蟹買ってきてやったぞ」と九条は運転しながらどこか楽しそう。
「北海道……ここより雪が多そうね」ぼんやりと呟きながら、九条に気づかれない程度にこっそりと、外気との差で曇った窓ガラスに、人差し指で
『好き』
と書く。
私の書いた文字は私の体で隠れて九条からは見えない。
「蟹すきしようぜ~、お前んちで」
「何であんたを一々上げないといけない?」
言い合いをしながら、やがて私のマンションに着く頃にはみぞれになった大粒の白いものが私の『好き』をかき消す。
「だってお前んち床暖あるじゃん?」
「そんな理由かよ」
中学生から変わってないこの関係とノリ。
今はまだ―――
この関係でいいや。
~FIN~
P.6