C'est la vie!
*ジンクスの屋敷で*
第一話 「受験生は辛いよ。」
あたしの住む小さな街では
これまた密かなジンクスがある。
それは
街のはずれにある古~いお屋敷…西洋風の立派な建物にお願いに行くと、
願いを叶えてくれる。
そのお屋敷は通称「お化け屋敷」ここ何十年も人の気配がなく、手入れをするものも居ないからお屋敷は荒れていく一方。
それはそれはひどい荒み具合だとか。
………って。
今時、神社だってそんなこと聞いてくれるなんてことないのに、
ジンクスとか…
でも、もし願いが叶うのなら。
あの人に―――
たった一言、
「好き」
を伝えたい。
P.1
あたし
―――結城 明日未(Asumi Yuki)は、現在中学三年の受験生。
来る日も来る日も、勉強、勉強、勉強!!
もういやっ!!
なんて参考書を放り投げだしたくなるけれど、
――――“死にたい”なんて思ったことなんて一度も無い!
「勉強しなきゃ」
無意識につぶやくと、
「もう死んでるのに?」
と隣から、からかうような男の子の声が聞こえてくる。
「それだったらさ~成仏できる方法を考えた方がいいんじゃない??」
そうだった―――……
あたし今、幽霊なんだよね……
ついでに言うと、天井まで伸びた立派な本棚の前で座っているあたしの後ろを、ふわふわと漂っているこの男も、
幽霊。
ついでに言うと、ずっと好きだった人……
は~っとため息を吐くと、
「俺の心臓……どこへ行った?」
彼があたりをきょろきょろし始めた。
はぁ~~~…
あたしはまたも盛大にため息をついた。
あたし―――好きになる人間…いや、幽霊か……間違えたかも(泣)
P.2
――――そもそもあたしは何で死ぬことになったのか、何故好きな人も幽霊なのか、そこから説明します。
街のはずれにある、古い西洋風のお屋敷。
通称、「お化け屋敷」
彼は来る日も、来る日も―――そのお屋敷の三階部分の出窓から外を眺めていた。
春、淡い色をした薄紅色の…桜の花びらが舞い散る中に浮かび上がる切なそうな横顔。
夏、蝉時雨に耳を傾けながらも、どこか寂しそうにしているところとか。
秋はチョコレート色に染まった枯葉を手に掬いながら、どこか物憂げな様子…
そして冬―――
気温がぐんと下がった寒い夕暮れでも、彼は例の出窓に頬杖をついて遠くを眺めている。
ネイビー色の洒落たネクタイに、白いワイシャツ。
あたしの行きたい高校の―――制服だった。
淡い栗色の髪はさらさらしていそうで、肌も白い方。体の線が細くて、柔和な顔立ちをした優しそうな…
かっこいいけど、
何ていうのかな……全体的に色素が薄い…いやいや…
"儚げ”
そう!その言葉がしっくりくる。
何でいつもその場所に居るの?
何を見ているの?
何でそんなに――――哀しそうなの………?
とにかく、元が超怖がりのあたしは遠回りをしてまでこの道を通るようになったのも、
いつしか彼のことが気になって、彼のことを知りたくなったのも
半年ほど前から。
これを好きって言うんだろうな。
P.3
彼が何故そのお屋敷に居るのか分からなかった。
お屋敷は柵の一部が壊れていて、敷地内に入ることはできるらしいけど、いかにも重そうなお屋敷の扉には鍵が掛かっていて、中に入ることができないらしい。
肝試しに行ったって言うクラスの子がそう言っていた。
じゃあ彼はどうしてあの場所に居るのだろう。
まさかと思うけど………お化け??
う゛~~ん…そんな風には思えないんだけどな。
いかにも儚げで浮世離れしている感はあるけど、だって物憂げな表情とか―――なんかリアルな気がする。
それに、あたしにはまったくと言っていいほど霊感はないし、幽霊とかゾンビとかの話は聞くだけで耳を塞ぎたくなる程怖がりだ。
だけど彼を見てもちっとも怖くなんかない。
―――入試をあと一ヶ月に控えた冬のある日。
「ねぇねぇ!街のお化け屋敷行こうよ!願いが叶うんでしょ?願掛けに」
と、幼馴染で親友のサヤカが言い出した。
「行く!」
あたしはサヤカの手を握って勢い込むと、その隣からアヤメが疑り深い目でじとっとあたしを見てきた。
砂糖みたいにふわふわして可愛いサヤカとは対照的に、スパイシーな美人タイプのアヤメ。
あたしたち三人は幼稚園からの幼馴染で親友。
「明日未って超が付くほど怖がりじゃない。どうゆう風の吹き回し?」
「えっと……」
好きな人と喋れるチャンスかも!なんて言えない…
あたしは受験生だし。
入試を目前に控えているのに、恋愛にかまけてなんかいられない。
だけどもう少し近くで見られたら、受験もがんばれるもん!
P.4
西洋風のお屋敷の、敷地の周りはアイアンで象ったお洒落な柵がぐるりと囲んでいた。
でも黒い鉄のほとんどが雨で錆び付いてる。
手入れをしていない庭木の草や蔦が柵に絡まって、見るからに「出そう」な雰囲気。
遠目からお屋敷を見ると、壁は土色のレンガで造りで、可愛いらしい出窓がいくつも飛び出ている。
でも窓のほとんどがヒビが入ったり、蜘蛛の巣が張ってたり、割れていたりする。
「おもしろそう♪いかにも出そうって感じじゃない?」と最初は渋っていたアヤメがわくわくと顔を輝かせる。
あたしは…と言うと…
ほ、ホントにこんなところにあの彼が居るのかなぁ
その考え自体疑わしくなっちゃって、足ががくがくと震えた。
アヤメが言った通り、あたしは超!が付くほど怖がりだから。
二人はあたしの恐怖をよそに、柵の一部が壊れているところを見つけてするりと入り込んだ。
「ちょ、ちょっと待って」
こんなところで一人置いていかないでよ~(泣)
庭は、思った通り草が生え放題。西洋風の椅子やテーブルも長い間雨風にさらされ朽ちていたし、ついでに言うと時期も悪い。
山へ行けばそれはきれいな赤や黄色で身を飾る木々も、ただの薄汚れた茶色にしか見えなくて、
それが一層この屋敷を陰気に…恐ろしく見せていた。
震える足を何とか奮い立たせ、二人の後を着いて行くと、
カタン…
頭上で小さな音がした。
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二人は気付いていないのか、足を止める事なくきょろきょろと視線を巡らせてあちこちを見渡している。
ギィ…
軋んだ木の音がして、あたしは顔を青くしたまま……それでも音の正体を知りたくて、恐る恐る顔を上げた。
塔のような高い建物の三角屋根の下に出窓があって、そこから
男の子が顔を出している。
びっくり―――した……
だっていきなり会えるとは思ってなかったから。
声も出せずにじっとその様子を凝視すると、男の子は出窓を開け放ち、窓の手すりに腕を乗せて、遠くを見ていた。
目を細めて眩しそうに空を眺め、頬杖をついて吐息をつく姿は妙に物憂げで、
やっぱり、どこか寂しそうだった。
あたしがその様子をじっと眺めていると、不意打ちに彼があたしの方を見下ろしてきた。
びっくりしたように目を開いて、あたしたちに気づくとぱっと窓の内側に引っ込む。
ま、待って!
ぎぃ…
「あ、開いたよ!明日未!」
あの彼に気付いていないのか、サヤカとアヤメが扉を外側に開く。
嘘……
だって開かない筈じゃ―――………
何で―――…
扉が乾いた音を立て、屋敷内に響き渡ったように思えて―――あたしの背中にゾクリと悪寒が走った。
P.6
屋敷の中は当然ながら電気が通っていなくて真っ暗で、埃とカビの臭いが立ち込めていた。
外国のホラー映画に出てきそうな内装に思わず足がすくむ。
あの人が本当にこの中に……?
「ぅわ。中も凄いね~」とサヤカが恐る恐る言ってあたしにぎゅっと寄り添ってきた。
「って言うかお願いごとってどこですればいいわけ?」一方のアヤメはあっけらかんとしている。
「えっと……確か、一番高い階の一番中央の窓から外を見ながら願掛けするんだって」
とサヤカが言って、あたしは思わず止まった。
一番高い階の、中央の窓―――………
そこは彼がいつも居る場所―――
「お、おじゃましまーす…」
仮にも他人の土地だし、礼儀だよね…
誰に言うわけでもなくあたしたちはそろりと屋敷のボロボロの階段を、恐る恐る昇った。
踊り場までたどり着くと、
「Welcome♪」
ぽっかりと暗い渦を巻いた階段の、さらに上の方から声が聞こえて、
「幽霊!?やだ!!無理っ」
サヤカが叫んで走り出す。階段を下り、あたしはびっくりしたのと恐怖で足がすくんで一歩もその場から動けなかった。
「ちょっとサヤカ!」アヤメがサヤカの後を追って、
バタン!!
二人が外に飛び出たのを見計らったように扉が勢い良く閉じた。
――――!!!
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一人こんな場所に置いていかれたことと、扉が勝手に閉まったことにあたしはパニック状態!
「キ…キャーーーー!!」
思わず叫ぶと、
「お、落ち着いて!」と男の子の声が。
シャッとカーテンか何かを開ける音がして、暗闇に染まっていたあたしの視界をまばゆい光が飛び込んでくる。
眩しい光は外の陽光で、広い踊り場にはめられた大きな窓から光が差し込み、
その光の中に見慣れた彼の姿がぼんやりと浮かび上がった。
キラキラ…
夕日に映し出された彼の色素の薄い茶色い髪や瞳が輝いていて―――とってもきれいで
思わず見惚れてしまって口を噤んだ。
そして数秒遅れてあたしは、はっと我に返り、
びっくりしながらも、その彼のつま先から頭のてっぺんまで視線を巡らせた。
ちゃんと足ある……(しかも長い!)
「大丈夫?」
低くて、優しさを漂わせた―――甘い声。
ドキドキして心臓の辺りを押さえると、
ボトッ
何かが足元に落ちた。
音がした方を見て、あたしは今度こそ後ずさった。
それは茶色い色をした心臓だったから。
「――――!!!」
声にならない悲鳴を挙げて、今度こそ尻餅をつくと、
「これがどうかした?」
と彼が“それ”を拾い上げる。
え!ぇえ!!?
「し、心臓!」
だってそれ心臓だよ!!何で普通に持てるのよ!!
はっ!もしかして!!彼は幽霊なんかじゃなく殺人鬼!?
イギリスで有名だった切り裂きジャック!?
確かあの殺人鬼は女の人の内臓とかを死体から取り出してホルマリン漬けにしてたとか…
彼もここに興味本位でやってくる人たちを殺して、ひそかにあのお屋敷の中にコレクションしてるんだ!
あ、あたし殺される―――!!?
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怖くて怖くて怖くて……立ち上がれない。
腰が抜けた!
びっくりして口をぱくぱくさせているあたしに、彼は心臓を持ったままきょとんとして、
「ああ、これ?心臓……に見えなくはないけど…香水瓶だよ。セラヴィって書いてある」
香水の…瓶…………
彼はちょっと苦笑を漏らして、オレンジ色の蓋を外した。
中からふわりとまったりと甘い…それでいて上品な香りが香ってきた。
心臓―――…じゃなかった!
確かに良く考えたら色だって琥珀色だし、第一固そうだ。薄暗い中であんなものを目にしたから心臓と間違えちゃったんだな~
恥ずかしい!!
思わず顔を赤くして立ち上がろうとすると、彼が手を差し伸べて助け起こしてくれた。
わ…わぁ!!
ただでさえかっこわるいとこ見せちゃったって言うのに…
でもこれはラブアクシデント??
「ところで君はどうしてここに居るの?」
彼の質問にあたしは顔を真っ赤にして、
「願掛けにきました!あ、あなたはほとんど毎日ここに居ますよね。どうしてですか?」
思わぬ出来事があったけれど、ここで話さないと一生お近づきになれないかもしれない!
あたしは勇気を振り絞って聞いてみた。
P.9
「俺?俺は……」
言いかけて彼はう~ん…と首を捻った。
だけどすぐに、ドキッとするぐらい素敵な笑顔を浮かべて、
「さあ、何でだろうね…ここから離れられないんだ」
とさらりと言った。
あまりの爽やかスマイルに一瞬何もかもがどうでもいいように思えたけど…
は!?
「ここから離れられないって…どうして…」
「うん。どうしてだろう」
彼は再び考え込む。
えーっと…これって…
「……こ、ここに住んでるってことですか?」
「いや。住んではいないよ。ここ電気もガスも通ってないし」
「で、でも離れられないって…」
だめだ。堂々巡りじゃん。
この人不思議クン??会話が成り立たないじゃん!
でもだめよ、明日未!たとえあたしの好きになった人が不思議クンでも、ずっと想い続けてきたじゃない。
「あ、あの名前教えてください!」
思い切って聞いてみた。
「俺?」
ここにはあなたしかいません。
かっこいいけど―――やっぱ不思議クンだ…
「俺、レイ」
P.10
「(幽)霊―――!!!」
やっぱり!
半分そうじゃないかって疑ってたけど…足あるけど…光の中で姿が見えるけど!!
やっぱりお化け!?
ズサッ!
思わず後ずさると、彼はちょっと半目になって
「漢数字のゼロで、零だよ。ちなみに人間デス」
と呆れたように腕を組んだ。
人間―――……
それでも疑わしい目つきで彼をちらりと見ると、彼はあたしの手をぐいと取って自分の心臓の辺りに這わせた。
あったかい……
制服の上から通しても分かるほどの温もり。
初めて触れる男の子の体は、女の子とはやっぱり違ってしっかりとした筋肉がついていて、
その細い体からは想像できないほどしっかりした造りだ。
…幽霊じゃない…??
いやいや違うだろ!って言うかこれってセクハラ!?
はじめて男の子の体に触れたのと、急なことに驚いて
あたしは叫び声を上げて、一歩下がった。当然踊り場の床が続いているものだと思っていたけれど、だけどあたしの足は床を踏み鳴らすことなく宙に浮いた。
「危な……!」
彼の大きな声が聞こえて、視界が回転する。
彼の背後の大きな窓や、高い天井からぶらさがった古びたシャンデリア。陽の光りですっかり色あせた絨毯とかがスローモーションに流れて…
落ちる―――……
そう実感すると同時に彼の―――ううん…零くんの顔が視界いっぱいに映った。
――――……
P.11
何が――――
起こったのか―――分からない。
ただ頭が……
痛いと言うより、猛烈に熱い。
頭打ったのかな……やだ…覚えたばっかりの英単語とか数式とか……
あたしの目の裏から零れて、高い天井に高く高く―――消えていく。
せっかく覚えたのに…全部消えちゃわないで…
でも―――もうその感覚すら、薄れていくよ―――
あたしは開いたままの目でゆっくりと横を向いた。
あたしの体を庇うように――――零くんの腕があたしの体をぎゅっと抱きしめている。
零くんの額から鮮やかな色をした血が―――流れている。
やっぱり零くん…お化けじゃなかったんだね。
だってこんなにもあなたの血は赤くてきれい……
それにあったかいよ。
でも零くん―――
何であなたの心臓の音―――…聞こえないの……
反対側を見ると、セラヴィの瓶がヒビ一つ入っていない無事な姿なまま転がっていた。
どうして
だめだ……意識が遠のく……
――――
P.12
冬の夜
キミへの気持ちを窓に託しました
たった一言が言えない私は臆病者ですか?
でも今はこれが精一杯
雪に想いを
『次はお天気コーナーです。今日から明日にかけて低気圧が日本の南を発達しながら東北東に進み、明日には日本の東に進む見込みです。
関東甲信地方では今夜から雨が次第に雪に変わり、あす午前中にかけて山沿いを中心に、平野部でも積雪となる所がある見込みです。雪による交通障害、架線や電線、樹木等への着雪、路面の凍結に注意してください』
今朝のワイドショーのお天気キャスターの言葉を思い出したのは、勤めている会社の定時を迎え業務を終えたときだった。
「えー!やだっ!雪降ってるじゃん」と誰からともなく声が挙がり
「ホントだー、私傘持ってきてない」
「どうりで冷えると思った」
と同僚たちが次々と口にする。
またも誰かが「せっかく彼氏に買って貰ったバッグが濡れちゃう」と言い出し、それでもちっとも困った様子ではなく、どこか誇らし気だ。
そしてその周りの女子たちが盛んに羨ましがる。
「いいなー、でもあたし今度のクリスマスにダイヤの指輪ねだっちゃうんだー」と一人の女の子。
「いいなー!」黄色い声に、私は苦笑いを浮かべるしかない。ここでの男の年収と、女の品格は反比例する。いかにいい服を着るか、いかにいいバッグを持つか、いかにいい男を彼氏にするか、年中こんな会話でうんざりする。
かと言って輪に加わらないわけにはいかない。仕事とプライベートの内容こそ比例するのだ。
P.1
「仁科《にしな》さんはいつも素敵な服着てますよね」ふいに一人から話題を振られた。
「えっ、そう?」私は曖昧に笑って言葉を濁した。今日の服装は白いタイトワンピ。腰回りに太いベルトが巻き付いていて、ちょっと豪華に見えるゴールドのバックルがワンポイント。
そして同じくゴールド系のスパンコールが襟元に入ったコートを腕にかけて帰りたいアピール。
シンプルな服装だったけど、流石は目が肥えている女子たち。すぐにそれが高価なものだと見破った。女のチェック程厳しいものはない。私がオシャレをするのは対、男ではなく、彼女たちの為。
「仁科さんてぇ、結婚しないんですかぁ」間延びした話し方が赦されるのはこの年代の特権だ。
「結婚ね……相手がいないから」私は適当にごまかして再び言葉を濁した。
こう言っておけば大抵の女は引き下がる。私が長い間、人付き合いをしてきて、これが最良の方法だと知ったのはつい最近のこと。
私がこの会社に勤めはじめて五年になる。この会社での女性正社員では長いほうだ。後から派遣された若い女の子たちから見れば私なんてお局のようだった。
「そう言えばぁ仁科さん、この前見ちゃったんですぅ」一人の女の子が思わせぶりに口元へ手をやった。
短く切った髪にはパーマがあててあり、傍から見ればマシュマロのように可愛らしい女の子だ。
だが、そんな可愛らしさに惑わされてはいけない。女はいつでも顔の下にしたたかな一面を隠しているのだから。
P.2
「何を?」私は平静を装って取り澄ました。
もしかして“アイツ”と居る所を見られた?と思ってドキリとしたが
「この前の金曜日、青山のイタリアンレストランで、経理の前田さんと一緒にいるところぉ」
ああ、そっちか。とちょっとほっと安堵する。
「ええー!!」周りから黄色い声が飛ぶ。私は思わず頭を押さえたくなった。
そう、確かに経理の前田に誘われて先週の金曜に青山まで行った。
でも食事をしただけで、別に艶かしい関係ではない。だが、ここで重要なのが、経理の前田という男、この会社ではなかなかのハンサムでしかも独身、きさくな性格をしているわりには頼れる上司でもあるのだ。そうゆう男を若い女性社員が放っておくわけがない。
「いいなー、ねえお二人って付き合ってるんですか?」
食事をするイコール男女の関係と、どうして若い子たちはそう短絡的なのだろう。私はこの場から逃げ出したくなった。だけど、この場から立ち去ると認めたことになってしまう。
「別に、ただお食事に誘われただけよ」
「うそー、絶対前田さん仁科さんのこと狙ってるわよぅ。だって、あたしたちがいくら誘っても全然だったのよー。それなのに前田さんは仁科さんのこと」
嫉妬心と羨望の眼差しで見られ、私は思わず後ずさり。
何とか前田との話を切り返し、従業員出入り口から女子の群れに混ざって出てきた所だった。
遠くで派手なエンジン音が聞こえてきて、この狭い路地裏へと近づいてきた。この聞き慣れたエンジン音。私は嫌な予感がして思わず一方通行の標識を見つめた。
「よーう、仁科」黒のポルシェの窓から腕を出し、銜えタバコをしながら九条《くじょう》が手を振っている。
「やっぱり」
私は、今度こそ頭痛をこらえるように頭をしっかりと押さえた。
P.3
「仁科、今終わりか?これから飯でも食わねー?」
この状況を知らずに能天気に笑ってるその整った横っ面に今すぐ張り手を食らわせたい。
「あ、あんたいつ東京に戻ってきたわけ?」私は女の子の群れから一人離れると、九条の車に近づいた。
「あー、悪い。三日ぐらい前かな?この前言ってた日本料理屋行こうぜ」
「あんたっていつも何で急なのよ」
私が声を潜めて九条を睨んでいるときだった。
「えー、仁科さんの彼氏さんですかぁ?かっこいい!」
女の子たちの視線が九条に移った。予想していなかった最悪の事態。
上半身しか見えなかったが、今日の九条は黒いジャケットの中に白いカットソーを着ていて、真冬だって言うのに襟ぐりに濃いサングラスをかけている。いつものように髪をラフにセットしてあって、左耳には輪っかのようなピアスが三つ光っていた。
そう
どこからどーみてもこいつは
ホスト。
P.4
「仁科、今終わりか?これから飯でも食わねー?」
この状況を知らずに能天気に笑ってるその整った横っ面に今すぐ張り手を食らわせたい。
「あ、あんたいつ東京に戻ってきたわけ?」私は女の子の群れから一人離れると、九条の車に近づいた。
「あー、悪い。三日ぐらい前かな?この前言ってた日本料理屋行こうぜ」
「あんたっていつも何で急なのよ」
私が声を潜めて九条を睨んでいるときだった。
「えー、仁科さんの彼氏さんですかぁ?かっこいい!」
女の子たちの視線が九条に移った。予想していなかった最悪の事態。
上半身しか見えなかったが、今日の九条は黒いジャケットの中に白いカットソーを着ていて、真冬だって言うのに襟ぐりに濃いサングラスをかけている。いつものように髪をラフにセットしてあって、左耳には輪っかのようなピアスが三つ光っていた。
そう
どこからどーみてもこいつは
ホスト。
P.4
でも勘違いしてもらっては困る。私はこいつの客じゃない。東京を離れていたのも、大方客の一人と遠征旅行でもしていたのだろう。
「違っ!こいつとは単なる腐れ縁。彼氏とかじゃないから」
と慌てて否定するも秒の単位で噂が回るこの会社で明日の朝には『仁科さんて、ホストに貢いでるらしいよ』とあちこちで言われるに違いない。
くらり、と眩暈が起きた。
腐れ縁、と言うのは間違いない。中学からの同級生だから。
「じゃあ、本命は前田さんですかぁ?」女の子達が興味津々で目を輝かせている。
「前田??ひどいなー、仁科ぁ。俺たち何度もセック……もがっ」
最後の方が言葉にならなかったのは私の手が九条の口を塞いだから。
ふざけんな!何言い出すんだこいつぁ!!
空気読めっつうの!
と言うことを目で訴えると、流石に冗談が過ぎたと思ったのか九条は苦笑い。
「で?行くの?行かないの?」せっかちに聞かれて
「わかったわよ!行くわよ」半ば怒鳴るように九条を睨みつけると、私はそそくさと助手席に回った。
「それじゃ、私はこれで。お先に」女の子たちにはなるべく平静を装って、にこやかに手を振る。
ため息をついて車の助手席を開けると、運転席から九条が笑顔で手を差し伸べてきた。
「ただいま、仁科」
昔とちっとも変わらない笑顔。眉が下がり、目を細める、優しい笑顔。そして時々その低い声で呼ばれる、自分の名前。何だかくすぐったいが、この笑顔を向けられたら、たとえ九条の勝手に振り回されても、赦せてしまう。
「……おかえりなさい」私は俯くと、小さく返事を返した。
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前述した通り私と九条とは中学からの付き合いだ。かれこれ十年以上の付き合いになる。十年、と言う歳月は長く感じられるけれど、その間に音信不通になったり、そしてどこからか連絡先を入手して電話を寄越して来たり、をだらだらと繰り返している。
でも、私たちははっきりと『付き合って』はいない。もちろん九条のブラックジョークの『体の関係』もない。
あるのは中学生から変わらないノリと
私が九条のこと「好き」
と言うことだけ。歳を重ねて、九条がホストになって……あ、今はホストじゃなくホスト店を経営してるオーナー様でもあったかしら。とにかく環境は変わったものの、不変的な何かは確実に存在している。
パワーウィンドウの外をちらほらと雪が降っていた。
「北海道行ってきたんだ~土産に蟹買ってきてやったぞ」と九条は運転しながらどこか楽しそう。
「北海道……ここより雪が多そうね」ぼんやりと呟きながら、九条に気づかれない程度にこっそりと、外気との差で曇った窓ガラスに、人差し指で
『好き』
と書く。
私の書いた文字は私の体で隠れて九条からは見えない。
「蟹すきしようぜ~、お前んちで」
「何であんたを一々上げないといけない?」
言い合いをしながら、やがて私のマンションに着く頃にはみぞれになった大粒の白いものが私の『好き』をかき消す。
「だってお前んち床暖あるじゃん?」
「そんな理由かよ」
中学生から変わってないこの関係とノリ。
今はまだ―――
この関係でいいや。
~FIN~
P.6