-GOLD- 二人のArthur物語
闘争
男は竹刀を手にすると、ゆっくりと立ち上がった。
ヒュッ
「ぃ゛ゃあぁぁあああ!」
迫力のある一喝で竹刀を一振り。
さっきまで引きずっていた右足も、怪我をしていると思わせないほどの軽快さと、それ以上の迫力で踏み込む。
「でゃぁああああ!」
相手なんて居ないのに、そこには彼一人しかいないのに、
強豪な相手と闘っている。そんなリアルな情景が目に浮かんだ。
彼の掛け声一つ一つが脳に響き渡り、
飛び散る汗がきらきらと輝いていて視線が釘付けになる。
しなやかに、力強く―――そして美しい腕の振りと脚の動き。
目が離せない。
それは俺が夢で描いていた―――
アーサー王。
「めぇぇええええん!!」
彼が竹刀を力強く一振りし、
ドクン
まるで何かに射抜かれたように、俺は目を開いてその場で固まった。
ひらひら
目の前をスローモーションで黄金色の葉が舞い落ちる。
P.9
トンっ
突如彼の手から竹刀が滑り落ちると、彼は力が抜けたように畳に膝をつき、苦しそうに小さくうめいて足元を押さえている。
「だ、大丈夫ですか!?」
俺は慌てて靴を脱いで彼に走り寄ると、彼はびっくりしたように目を開いて俺を見上げてきた。
切れ長の黒い瞳。きりりと精悍な眉。
俺より先輩だろうか。
俺と同じ男だって言うのに、こっちは随分と凛々しい精悍な顔つきだった。
こうゆうのを何て言うんだろう……イケメン??…違うな。二枚目…いや、もっと違う。
あ、そうだ“ハンサム”!なんてことを考えていると、
「ぅお!何だよ、お前。いつの間に…」
男が驚いて目をぱちぱち。
「いつの間にって…さっきからいたんですけど」
若干呆れて男を見下ろすと、
「もしかして気付いてなかったんですか??」
「全然」
とすぐに男は首を横に振る。
何だ、無視されてるわけじゃなかったのか。
「俺、集中すると周りの音が聞こえなくなるから」とぶっきらぼうに言って慌てて立ち上がろうとする。だけど、
「ってー…」
すぐに顔を歪めて床に逆戻り。
「ちょっと、本当に大丈夫ですか?医務室に行って手当て…」
と、俺が助け起こそうとすると彼は俺の手をやんわりと払い、
「大丈夫だ」と言って竹刀を杖代わりに、よろよろと立ち上がる。
本当に大丈夫なのかな……
P.10
さっきの……苦しそうな顔。怪我が痛むのだろうか。
当の本人はまるで気にしてないように―――……見せかけてるだけか。
「ってー…」とまたもしゃがみこみ、足首を押さえている。
「診せてみて」
俺が再び屈み込むと、白い包帯にはじわりと血がにじみ出ていた。
「血!?ってかマジでどうしたんですか!」
「あー…ちょぉっとライバル大学の闇討ちにあっちまったってだけ。来週でっけぇ大会試合控えてるからな」
ちょっと…??
ライバル大学の闇討ち!?
いや、それ大ごとじゃん。
「ってかその足で試合なんてできるの?」
「できる。ってかやる」
俺の心配をよそに彼はまっすぐに宙を睨み、またも起き上がった。
「やらなきゃなんねんだ」
低くそう言って、男は僅かに乱れた上衣の前身ごろを合わせなおし、竹刀を持ち直した。
だけど考え直したのか、こっちを振り返って眉間に深い皺を刻むと、きりりとした眉をさらに吊り上げて俺を睨んできた。
射抜かれるように見られて、思わず居竦む。思わず一歩後ずさりしておずおずと男を見上げると、
「言うなよ」
男はそっけなく一言。
「は?」
「俺が怪我してること、誰にもぜってぇ言うなよ。
バラしたら最後。
今度は俺がお前をバラしてやるからな」
竹刀の先を向けられて、真剣に言われ―――……
その姿はまるで剣の先を敵に向ける、アーサー王に見えた。
P.11
バラすってことは、殺すってことだよね……きっと。
犯してやるとは言われたことがあるけど、殺すってのははじめてだ。
いやいや……それは…ねぇ、さすがにねぇ。
「だ、誰にも言わないよ!ってか言ったって俺にメリットなんてないし」
慌てて言うと、
「確かにそうだな」と男はすぐに納得。
それでも
「俺は勝ち続けなきゃいけない。
負けるわけにはいかないんだ。
ここで負けたら―――剣道部がなくなる―――」
え……そうなの……
「部員もギリギリ。貧乏大学の貧乏弱小部なんて存続させる意味なんてねぇんだろ。
一回でも敗退したら即廃部」
「でも…あなた強そうじゃないですか?」
さっき見た。
素人目でも分かる。この男がかなりの腕の持ち主だと言うことを。怪我さえしていなければさっきの架空の試合も…もっとキレがあっただろうし。
「強いのは俺だけだ」
と男はあっさりきっぱり言い放ち、ふんと顔を背ける。
あ、そうですか…
「言うなよ」
男はまたも念押ししてきて、顎を引いて「言わないよ」俺はまたも答えると、
出し抜けに男の手がすっと伸びてきて、俺の髪に触れた。
目の前に俺とは全然違う大きくて骨ばった手のひらが見えて、でもそれは口調とは全然違う優しい仕草だった。
「葉っぱついてんぞ?」
男は俺の髪から銀杏の葉を取り、ついでに俺の髪を柔らかく撫でていく。
優しい―――
手付きだった。
P.12
「あ、ありがと」
何だか急に恥ずかしくなって俯くと、男は興味深そうに目を細めてうっすらと笑った。
「お前、いい毛並みしてんな。
なんかうまそう」
は―――……?
うまそうって……こいつ、やっぱり魔法使いマーリンの手先!?
殺す前に犯してから…!?
慌てて逃げようとしたけれど、何故だか足が床に吸い付いて一歩も動けない。
ふるふる怯えている俺の横で男はマイペースに指を折っている。
「栗だろ~?ぎんなんだろ?あとイモみたいな色」
全部食べ物じゃん。“うまそう”って文字通りだな。ってかイモって…
「あと、ハチミツ」
男は屈託なく笑って俺の髪をぐしゃぐしゃと撫でてくる。
あ、
笑った―――
その思いがけず無邪気な笑顔に、ドキリと胸が鳴って心臓の辺りを押さえると、
「お前の方こそ大丈夫か?顔赤いけど」
と男がずいと顔を寄せてくる。秋の風で運ばれた清々しい汗の香りが鼻の下をくぐり、
ドキっ
またも心臓が鳴って、
ぅわ!それ以上近づかないで!俺は心の中で叫んだ。
「大丈夫かぁ」
男は苦笑して遠ざかっていく。
あ
離れていかないで。
近づくな、って思ったばかりなのに、離れていくと寂しくなる。
俺、変だ―――
P.13
「具合悪そうだし、今日は早く帰って食って寝ろ」
男は竹刀を片手に出口へ向かう。
またも、迷いのない足取りで。
「あ、あのっ!」
俺はその広い背中に向かって声を掛けていた。
関わりたくないと思う反面、彼のこと知りたいって思う。
俺は本当に
変だ。
彼が振り返る。
「な、名前教えて…」
何でこんなこと聞いたのか分からないけど、口からすんなり出てきた。
ここですんなりお別れってのもいやだった。
だけど男は僅かに振り返り眉間に皺を寄せて、目を細めただけだった。
こ、怖っ…
「教えて……ください」
もう一度上目遣いで聞くと、男はふいに視線を柔らかくして、
「浅田 洸希。心身科学部、スポーツ心理学の二回生」
二回生ってことは俺と同じ学年―――……には見えないケド。
まぁ広い大学だし、学部も違えば知らない人間なんてたくさんいるし浪人生だっているし。
「浪人生じゃねぇぞ。こう見えても二十歳だ。
俺はあんたのことよぉく知ってる。目立つし。
木崎 アーサー 実。
俺もアーサーって呼ばれてるんだ。浅田だから。
おそろいだな」
男は口の端を色っぽく吊り上げて笑った。
アーサー……
あ…さっきの、名も知らない魔法使いマーリンの手下の変態男が指していたのは、
この彼だったんだ。
P.14
同じアーサーでもあっちは名前通りだ。
強くてかっこよくて、男らしくて
“部”と言う国を守る―――勇敢な王。
引き換え俺は……
―――あれから三日
俺は講義の休憩の合間、広い講義室の机で机に突っ伏していた。
浅田はあのあとも怪我を隠して、練習に励んでいるのだろうか。
来週の試合に向けて。
その意思は、あの歩調と似ていてまっすぐで淀みがない。
怪我、酷くなってないといいけど……
考えて、俺は何を考えてるんだ!と慌てて顔を振る。
関係ないじゃん、あいつのことなんか。
でも
この三日間、浅田のことばかり考えちゃって。
もう一人のアーサー。
前は完全名前負けしてるこの名前がイヤだったけど、今は彼と同じ名前なのがちょっと嬉しいんだ。
変なの。
「よっ」
ふいに頭上から声が降ってきて、頭をぽこっと丸めた参考書ではたかれる。
聞いた覚えのある低い声は―――浅田だった。
「え!?何で……」
慌てて顔を起こすと、
「何でって、次、臨床心理学。俺がとってる講義。お前こそ何でここにいるの?英文学部には必要ねぇ課目だろ?」
と浅田がさも当たり前のように隣に腰掛ける。
今日はこないだの道着とは違って、黒い七分丈のカットソーにジーンズと言う格好だった。
きれいな筋肉のラインが細身のデザインのカットソーにぴったりとマッチしている。
黒縁のメガネも掛けているから一瞬別人だと思ったケド、
低い声と、覚えのある爽やかな汗の香りは―――確かに浅田のものだった。
P.15
「知らなかった。目悪いの?」
ってかメガネ……似合うじゃん。
「メガネは授業中だけだ。ちなみに顔も頭も悪い。お前と違ってな」
浅田は全然嫌味じゃない口調で言って冗談めかして軽く笑う。
頭はどうか知らないけど、顔は悪くないじゃん。浅田は凛々しいハンサムだよ。
と思ってしまう俺。
「英文学部ってなんかインテリ~って感じだよな。お前やっぱ英語喋れんの?」
と浅田が聞いてくる。
「インテリなんかじゃないよ。クォーターだけど英語は全然喋れマセン」
肩をすくめてみせると、
「ま、そんなもんだ?うち、実家の道場は空手道場だけど、俺空手好きじゃない」
と、またも悪意のない笑顔を向けてくる。
正直『意外だな、喋れて当たり前かと思ってた』とか答えが返ってくるかと思ってたから、ちょっとびっくり。
『それは偏見だ』と答えも用意してたのに、用意してた言葉は空振りに終わった。
「空手道場なのに、何で剣道?」
「理由なんてない。
好きだから」
“好きだから”
この一言にまたもドキリとする。
何だって言うの。俺、こいつの前でドキドキしっぱなし。
わけも分からない感情に困惑しながら、それを考えないように蓋をするように
俺は浅田に近づいてこそっと聞いてみた。
「怪我、大丈夫?」
P.16
急に顔を近づけた俺に、浅田はメガネの奥の目を細めると僅かに顔を逸らした。
「まぁね。次の試合はなんとかいけるだろ」
と、そっけなく答える。
「ってかこんなところで聞くなよ」
しかしすぐに思い直したのか浅田は声を潜めて、顔を近づけてきた。
不機嫌そうに釣りあがった切れ長の目に視線がいった。
「三白眼になってますよ、おにーさん」
浅田の額を軽くぺしっとはたくと、浅田は眉間を手で押さえながら遠のいていく。
そのとき気付いた。
浅田の左手薬指に、くっきりと一本の線で白い痕が残っているのが。
浅田のほどよく陽に焼けた肌に、不自然なほど白い痕跡。
ズキリ
今度は心臓がイヤな音を立てる。
さっきまでの心地良い痛みじゃなくて、それは鈍くて重くて―――凄くイヤだった。
「……彼女、いるの?」
思わず聞いていた。何でか気になった。
浅田は―――
それに対して
答えてはくれなかった。
P.17
一日の講義が終わったあと、俺は恒例のように図書館に向かった。もう俺の特等席になっている窓際の席に座り、アーサー王伝説を開く。
浅田のことを考えたくないのに、知りたくて
でも浅田はこの物語の主人公じゃないって気付いても、
やっぱり俺にはこのアーサー王がぴったりな気がして、
矛盾と言う名の感情を抱きながらもページをめくる。
アーサー王にはグウィネヴィアと言う妃がいた。
気高く高潔な貴婦人グウィネヴィア。アーサー王伝説自体いくつもの著者によって書かれているが、グウィネヴィアについては初期に戻れば戻るほど、不吉な女性として扱われているようだ。
有名なのは同士でもある“円卓の騎士”のランスロットと不倫の仲になっちゃうってことだよね。
裏切られたってわけだ。
国を救うヒーロー物語かと思いきや、ちょっとドロドロしてるし。
あいつも……浅田も裏切られて―――
悲しい想いをしなければいいけど。
これ以上傷を負うなんて
―――あいつが可哀想だよ。
考えてはっとなった。
俺は何を考えているんだ。
パタンと本を閉じたときだった。
コンコン
窓を叩く音が聞こえて、振り返ると、図書館の窓の外に道着姿の浅田が突っ立っていた。
慌てて窓際に向かって内側から窓を開けると、浅田が白い歯を見せてにかっと笑った。
「相変わらず熱心だなー。本、好きなんだな」
「相変わらずっていつもここに居ること知ってるの?」
「知ってる。ここはランニングのコースだから」と言って浅田が図書館の裏庭を目配せする。
「いつも通ってる。
いつもお前のそのハチミツ色の髪が―――
目についてたから」
浅田はぶっきらぼうに言って腕を組む。
いつも―――…見ていてくれたんだ。
P.18
「家に帰らないのか?」
浅田が暗くなりかけた空を見上げ、
「ああ、うん。ここの方が集中できるから」
と曖昧に返した。
「そ。早く帰って寝ろよ。襲われっぞ」
魔法使いマーリンの手下に?
「あ、浅田が帰るの待っててもいい?
マーリンの手下に襲われそうになったら、助けてくれるんでしょ?アーサー王」
何だか言ってくることめちゃくちゃだが、浅田は冗談だと受け取ったのか軽く笑って
「何だそれ。お前もアーサーだろ?」
と面白そうに肩を揺らした。
「……そうだけど」
一緒に居たいって言うか……
またわけわからない感情に支配され、俺の頭の中はぐちゃぐちゃだった。
このあと何て言えばいいのか分からなくて、俯いていると、
浅田はおもむろに竹刀を取り出して俺に見せた。
「男なら闘え。
剣を取れ。アーサー王よ」
真剣な顔で言われ、きりりと釣りあがった眉にまたも目がいく。
だけどその眉をふいに緩めると、
「まだ練習終わってないけど、見学してくか?その後、自主練に入るから遅くなると思うけど、それでもよければ」
と笑った。
「う、うん!」
思えばこれがはじめてだったんだ。
俺を“男”として扱ってくれるヤツ。
俺に“闘え”って言ってくれたヤツ。
P.19
ほとんど何も考えず答えちゃったけれど、
「脇が甘ぁい!もっと腰を落とせ、腰を!!」
お、鬼主将……
浅田は見たまんまスパルタだった。浅田の良く透る怒号が響いて、地面から地鳴りが伝わってくる気がする。
俺は小さくて古い道場の入り口の影に隠れてその練習の様子を窺っていた。
怖いよ、アーサー王。
びくびくしながらその様子を見守ること1時間。
「「「「ありがとうございましたぁ!!!」」」
部員が大きな声で挨拶をして散り散りに散っていく。
やっと終わった??かと思いきや、浅田はまた一人で素振りをはじめる。
ストイックだなぁ
なんてぼんやり見ていると、ふいに浅田が振り返った。
ドキリとまた心臓が鳴り、
「お前もやってみる?」
なんて聞かれた。
「え?いいの?」
なんて興味本位で答えちゃったけど…
はじめて握った竹刀は意外と重いし、しかも俺が見よう見真似で振っても
ひゅっ
と間抜けな音しか聞こえなかった。
浅田が振ると、本当に風を切るようなキレのある音が鳴るのに、やっぱ素人だからだろうか。
浅田がその様子を目を細めて見守っている。
『剣道舐めんじゃねぇ!!』と今にも怒鳴れそうで俺はびくびく。
だけど意外にも浅田は俺の背後に回ると、
「もっと手首のスナップを利かせて、肩から腕全体で振り下ろせ」
背後から手を回し、俺の手に自分の手を重ねた。
P.20
心地よい、清々しい汗の香り。
密着した体から熱い体温をすぐ背中で感じて、俺の心臓が変な風によじれる。
「構えはこう」
骨ばった大きな手が俺の手首を握り、
「ほら、腰もっと落とせ。それじゃ高すぎる」
と言っては俺の腰を両手でがしっと掴む。俺とは造りも体温も違う骨ばった男らしい手。
ぞくっ
うなじに鳥肌みたいなものが浮かんで、でもそれはちっとも嫌悪感を抱かなかった。
何で……
手付きがいやらしくないからか?
「踏み出すときは利き足に全神経を集中させろ。体重を掛けて一気に
踏み込んで、
振り降ろせ」
剣を振り下ろせアーサー王
迷いを捨てろ
後ろを向くな
前だけを―――見ろ
浅田にそう言われた気がした。
神経を研ぎ澄ませて、一歩を踏み込む。
両手で握った竹刀を力いっぱい振ると、
ヒュッ
とあの風を切る音が聞こえた。
迷いを捨てろ
後ろを振り返るな
振りきった瞬間、浅田の声が聞こえた気がして―――
そのとき気付いた。
俺、分かった。
俺、浅田が好きなんだ
P.21
「やった……やったよ!浅田!」
振り切ったままの姿勢で思わず浅田を見上げると、
「凄いじゃん。お前飲み込み早いな。剣道向いてるかも」
そう言って浅田が笑う。俺の髪をぐしゃぐしゃに撫でながら。少年のように屈託なく。
俺、浅田の笑顔が好きなんだ。
浅田に撫でられるとどうしようもなく心地がいいんだ。
この目立つハチミツ色の髪も、
だから浅田の目についてくれたわけだし、うまそうとまで言ってくれた。
きっと今までどこか認めたくない自分がいたんだ。
だからあのわけの分からないドキドキにも目を逸らしていた。
俺のはじめての恋
だって相手男だし―――
でも浅田の一挙一動に浮かれたり沈んだり
思いがけず浅田を見つけると嬉しくなったり
もうどうしようもなく
好きなんだ
恋愛小説では教えてくれなかったのに、
竹刀のこの一振りで
俺は自分の感情に
向き合えた。
P.22
―――俺はいつから浅田のこと好きだったんだろう。
あの、最初に見た素振り(架空の試合)のときかな?
あの力強い一振りで、俺の凝り固まったコンプレックスを見事に粉砕してくれたからなのか。
いや、違う。
あいつの―――
力強い歩みを、あの広い背中を見た瞬間に惹かれていた。
逃げることしか知らなかった俺に、あいつは前進することを教えてくれたんだ。
剣道はあんなに強くて男らしいのに、ハチミツとか無邪気に言っちゃうところとか。
ヤバイ、何か凄く可愛いとか思っちゃう俺……
ヤバイよ
だって浅田は男で―――彼女だって居る。
でも
逃げることはしたくない。
だって浅田が教えてくれたんだ。
突き進むことを。
信念を貫き通すことを―――
P.23
それからも俺は、毎日のように夜の部室に顔を出した。
浅田が見たいから。
―――浅田の怪我が心配だったから。
一応病院には行ったみたいだけど、
安静にしていなきゃいけないのに、無理して練習してるから怪我は良くならない。
足首に巻かれた包帯から血を滲ませながらも、時折苦しそうに呻きながらも
「大丈夫だ。これぐらい」
と歯を食いしばりながら、竹刀を構える。
そんな浅田に―――俺は何もしてやれない。
浅田の強い想いを知ってるから、「もうやめろよ」なんて言えない。
ただ見守ることしか―――できない
そんな自分自身がはがゆい。
俺ができることと言えば、
時々あいつがうまそうっていったハチミツ…って言うかレモンのハチミツ漬けを持って行くことぐらい。
「がんばれよ」
と励ますぐらい。
そう言うと、浅田は子供のように笑顔になってうまそうにそれを食べてた。
竹刀を振るときは男の中の男、と言った感じで怖いくらいの気迫を漂わせているのに、ハチミツ漬けを目の前にするととたんに頬を緩める浅田。
大会前日―――黄金色をした銀杏の葉を纏っていた木々は
最初に足を運んだときの半分ほどになっていた。
P.24
冬の夜
キミへの気持ちを窓に託しました
たった一言が言えない私は臆病者ですか?
でも今はこれが精一杯
雪に想いを
『次はお天気コーナーです。今日から明日にかけて低気圧が日本の南を発達しながら東北東に進み、明日には日本の東に進む見込みです。
関東甲信地方では今夜から雨が次第に雪に変わり、あす午前中にかけて山沿いを中心に、平野部でも積雪となる所がある見込みです。雪による交通障害、架線や電線、樹木等への着雪、路面の凍結に注意してください』
今朝のワイドショーのお天気キャスターの言葉を思い出したのは、勤めている会社の定時を迎え業務を終えたときだった。
「えー!やだっ!雪降ってるじゃん」と誰からともなく声が挙がり
「ホントだー、私傘持ってきてない」
「どうりで冷えると思った」
と同僚たちが次々と口にする。
またも誰かが「せっかく彼氏に買って貰ったバッグが濡れちゃう」と言い出し、それでもちっとも困った様子ではなく、どこか誇らし気だ。
そしてその周りの女子たちが盛んに羨ましがる。
「いいなー、でもあたし今度のクリスマスにダイヤの指輪ねだっちゃうんだー」と一人の女の子。
「いいなー!」黄色い声に、私は苦笑いを浮かべるしかない。ここでの男の年収と、女の品格は反比例する。いかにいい服を着るか、いかにいいバッグを持つか、いかにいい男を彼氏にするか、年中こんな会話でうんざりする。
かと言って輪に加わらないわけにはいかない。仕事とプライベートの内容こそ比例するのだ。
P.1
「仁科《にしな》さんはいつも素敵な服着てますよね」ふいに一人から話題を振られた。
「えっ、そう?」私は曖昧に笑って言葉を濁した。今日の服装は白いタイトワンピ。腰回りに太いベルトが巻き付いていて、ちょっと豪華に見えるゴールドのバックルがワンポイント。
そして同じくゴールド系のスパンコールが襟元に入ったコートを腕にかけて帰りたいアピール。
シンプルな服装だったけど、流石は目が肥えている女子たち。すぐにそれが高価なものだと見破った。女のチェック程厳しいものはない。私がオシャレをするのは対、男ではなく、彼女たちの為。
「仁科さんてぇ、結婚しないんですかぁ」間延びした話し方が赦されるのはこの年代の特権だ。
「結婚ね……相手がいないから」私は適当にごまかして再び言葉を濁した。
こう言っておけば大抵の女は引き下がる。私が長い間、人付き合いをしてきて、これが最良の方法だと知ったのはつい最近のこと。
私がこの会社に勤めはじめて五年になる。この会社での女性正社員では長いほうだ。後から派遣された若い女の子たちから見れば私なんてお局のようだった。
「そう言えばぁ仁科さん、この前見ちゃったんですぅ」一人の女の子が思わせぶりに口元へ手をやった。
短く切った髪にはパーマがあててあり、傍から見ればマシュマロのように可愛らしい女の子だ。
だが、そんな可愛らしさに惑わされてはいけない。女はいつでも顔の下にしたたかな一面を隠しているのだから。
P.2
「何を?」私は平静を装って取り澄ました。
もしかして“アイツ”と居る所を見られた?と思ってドキリとしたが
「この前の金曜日、青山のイタリアンレストランで、経理の前田さんと一緒にいるところぉ」
ああ、そっちか。とちょっとほっと安堵する。
「ええー!!」周りから黄色い声が飛ぶ。私は思わず頭を押さえたくなった。
そう、確かに経理の前田に誘われて先週の金曜に青山まで行った。
でも食事をしただけで、別に艶かしい関係ではない。だが、ここで重要なのが、経理の前田という男、この会社ではなかなかのハンサムでしかも独身、きさくな性格をしているわりには頼れる上司でもあるのだ。そうゆう男を若い女性社員が放っておくわけがない。
「いいなー、ねえお二人って付き合ってるんですか?」
食事をするイコール男女の関係と、どうして若い子たちはそう短絡的なのだろう。私はこの場から逃げ出したくなった。だけど、この場から立ち去ると認めたことになってしまう。
「別に、ただお食事に誘われただけよ」
「うそー、絶対前田さん仁科さんのこと狙ってるわよぅ。だって、あたしたちがいくら誘っても全然だったのよー。それなのに前田さんは仁科さんのこと」
嫉妬心と羨望の眼差しで見られ、私は思わず後ずさり。
何とか前田との話を切り返し、従業員出入り口から女子の群れに混ざって出てきた所だった。
遠くで派手なエンジン音が聞こえてきて、この狭い路地裏へと近づいてきた。この聞き慣れたエンジン音。私は嫌な予感がして思わず一方通行の標識を見つめた。
「よーう、仁科」黒のポルシェの窓から腕を出し、銜えタバコをしながら九条《くじょう》が手を振っている。
「やっぱり」
私は、今度こそ頭痛をこらえるように頭をしっかりと押さえた。
P.3
「仁科、今終わりか?これから飯でも食わねー?」
この状況を知らずに能天気に笑ってるその整った横っ面に今すぐ張り手を食らわせたい。
「あ、あんたいつ東京に戻ってきたわけ?」私は女の子の群れから一人離れると、九条の車に近づいた。
「あー、悪い。三日ぐらい前かな?この前言ってた日本料理屋行こうぜ」
「あんたっていつも何で急なのよ」
私が声を潜めて九条を睨んでいるときだった。
「えー、仁科さんの彼氏さんですかぁ?かっこいい!」
女の子たちの視線が九条に移った。予想していなかった最悪の事態。
上半身しか見えなかったが、今日の九条は黒いジャケットの中に白いカットソーを着ていて、真冬だって言うのに襟ぐりに濃いサングラスをかけている。いつものように髪をラフにセットしてあって、左耳には輪っかのようなピアスが三つ光っていた。
そう
どこからどーみてもこいつは
ホスト。
P.4
「仁科、今終わりか?これから飯でも食わねー?」
この状況を知らずに能天気に笑ってるその整った横っ面に今すぐ張り手を食らわせたい。
「あ、あんたいつ東京に戻ってきたわけ?」私は女の子の群れから一人離れると、九条の車に近づいた。
「あー、悪い。三日ぐらい前かな?この前言ってた日本料理屋行こうぜ」
「あんたっていつも何で急なのよ」
私が声を潜めて九条を睨んでいるときだった。
「えー、仁科さんの彼氏さんですかぁ?かっこいい!」
女の子たちの視線が九条に移った。予想していなかった最悪の事態。
上半身しか見えなかったが、今日の九条は黒いジャケットの中に白いカットソーを着ていて、真冬だって言うのに襟ぐりに濃いサングラスをかけている。いつものように髪をラフにセットしてあって、左耳には輪っかのようなピアスが三つ光っていた。
そう
どこからどーみてもこいつは
ホスト。
P.4
でも勘違いしてもらっては困る。私はこいつの客じゃない。東京を離れていたのも、大方客の一人と遠征旅行でもしていたのだろう。
「違っ!こいつとは単なる腐れ縁。彼氏とかじゃないから」
と慌てて否定するも秒の単位で噂が回るこの会社で明日の朝には『仁科さんて、ホストに貢いでるらしいよ』とあちこちで言われるに違いない。
くらり、と眩暈が起きた。
腐れ縁、と言うのは間違いない。中学からの同級生だから。
「じゃあ、本命は前田さんですかぁ?」女の子達が興味津々で目を輝かせている。
「前田??ひどいなー、仁科ぁ。俺たち何度もセック……もがっ」
最後の方が言葉にならなかったのは私の手が九条の口を塞いだから。
ふざけんな!何言い出すんだこいつぁ!!
空気読めっつうの!
と言うことを目で訴えると、流石に冗談が過ぎたと思ったのか九条は苦笑い。
「で?行くの?行かないの?」せっかちに聞かれて
「わかったわよ!行くわよ」半ば怒鳴るように九条を睨みつけると、私はそそくさと助手席に回った。
「それじゃ、私はこれで。お先に」女の子たちにはなるべく平静を装って、にこやかに手を振る。
ため息をついて車の助手席を開けると、運転席から九条が笑顔で手を差し伸べてきた。
「ただいま、仁科」
昔とちっとも変わらない笑顔。眉が下がり、目を細める、優しい笑顔。そして時々その低い声で呼ばれる、自分の名前。何だかくすぐったいが、この笑顔を向けられたら、たとえ九条の勝手に振り回されても、赦せてしまう。
「……おかえりなさい」私は俯くと、小さく返事を返した。
P.5
前述した通り私と九条とは中学からの付き合いだ。かれこれ十年以上の付き合いになる。十年、と言う歳月は長く感じられるけれど、その間に音信不通になったり、そしてどこからか連絡先を入手して電話を寄越して来たり、をだらだらと繰り返している。
でも、私たちははっきりと『付き合って』はいない。もちろん九条のブラックジョークの『体の関係』もない。
あるのは中学生から変わらないノリと
私が九条のこと「好き」
と言うことだけ。歳を重ねて、九条がホストになって……あ、今はホストじゃなくホスト店を経営してるオーナー様でもあったかしら。とにかく環境は変わったものの、不変的な何かは確実に存在している。
パワーウィンドウの外をちらほらと雪が降っていた。
「北海道行ってきたんだ~土産に蟹買ってきてやったぞ」と九条は運転しながらどこか楽しそう。
「北海道……ここより雪が多そうね」ぼんやりと呟きながら、九条に気づかれない程度にこっそりと、外気との差で曇った窓ガラスに、人差し指で
『好き』
と書く。
私の書いた文字は私の体で隠れて九条からは見えない。
「蟹すきしようぜ~、お前んちで」
「何であんたを一々上げないといけない?」
言い合いをしながら、やがて私のマンションに着く頃にはみぞれになった大粒の白いものが私の『好き』をかき消す。
「だってお前んち床暖あるじゃん?」
「そんな理由かよ」
中学生から変わってないこの関係とノリ。
今はまだ―――
この関係でいいや。
~FIN~
P.6