Fahrenheit -華氏- Ⅱ
運命に惑わされ、陰謀に溺れて
■Risk(リスク)■
*Risk*
In order to accomplish things
(物事を成し遂げるために)
Risks are inclusions.
(リスクはつきもの)
However
(でも)
If you are scared you can not move forward.
(怖がっていたら、前には進めないわ)
If you are not prepared to take risks,
(リスクを負う覚悟がなければ)
Stop it.
(やめなさい)
But the term risk is more than just a bad thing.
(でもリスクは決して悪いことがらだけをさすものではない)
There is also a meaning of possibility.
(『可能性』と言う意味合いもあって)
Before taking action,
(行動を起こす前に)
Just think for a moment.
(考えてみて)
For example, even if you believe in the possibilities, even if you stop footing with fear of failure,
(可能性を信じて進むのも、失敗を恐れて足を止めるのも)
It's all up to you.
(あなた次第)
P.528
女は糸の切れたマリオネットのように、ペタリとその場に腰を落とした。
色が失せた空虚な視線はどこを彷徨っているのか、誰にも分からない。
「……あたしはただ……裕二が好きなだけで……」
と、口の中でまだ呟いていたが、先ほどまでの勢いは欠片も失っている。
裕二はもちろん、半分被害者なみたいなもんの綾子も、俺も
誰もが彼女に掛けるべき言葉を見つけられなかった。はっきりと言うが同情、とは違う。ストーカーをする心理が分からないから、下手に刺激できない、と言ったところか。
いきなりナイフを取り出してブスリと言うことも有り得る。だがソファに置かれた女のバッグから彼女の手元まで距離がある。いざ行動を起こそうとするものなら、身体を張ってまで阻止するつもりだが(愛しの瑠華ちゃんだけは守るぜ!)
そんな中
「それは本当に
“好き”なのですか―――」
瑠華だけが静かに口を開いた。まるでその言葉自体が凶器のように尖っている。
「先ほど啓が言いました。あなたのしているのは“恋愛”ではなく“依存”だと。
でも私には恐ろしいまでの“執着”に見えます」
瑠華はまるで報告書を読み上げるかのごとく淡々と言ってのけた。
る……瑠華……
下手に刺激しちゃマズいだろ…と言う意味で、そろりと瑠華の元へ歩み寄ろうとしたが、瑠華はそれを手で制した。
それは『大丈夫です』と言う意味合いだ。
瑠華は危険も顧みず自ら女の元にしゃがみ込むと
「でも、その執着心もまた
一つの愛なのです。
あなたは形は違えど、大切な何かを手に入れることができました。
それは人間にとって不可欠なもの」
瑠華が女の両肩にやんわりと手を置く。女は瑠華に乱暴なことをするつもりもないのか、ただただ目の前の瑠華を凝視していた。
「不可欠なもの……?」
女が小さな声でおずおずと問いかけて
「そう、それは『愛』に他ならないのです」
瑠華が女を包み込むように抱きしめると、彼女の頭を掻き抱いた。
それはまるで
聖母マリアが、キリストを抱くその姿に
酷似していた。
P.529
「あなたは愛されたくて、愛されたくて―――ただそれを一方的に求めていただけ。
でも恋愛は『愛されたい』だけでは成り立たちません。人を思いやる気持ちもまた“愛”なのです。
でも諦めないで。
先ほども言いました。あなたを愛してくれる人は、今後必ず現れます。
あなたが人を思いやることの大切さに気づいたら。
また人を好きになってその方を愛し、やがてその方からも愛される」
瑠華の言葉に女はとうとう、わっ!と大声を挙げて泣き出し、しゃくりあげながらも瑠華を抱きしめ返した。
「―――あたしのように」
と言う言葉は、女の泣き声で裕二と綾子には聞こえなかったろうが
俺の耳元にははっきりと届いた。
そうだよ
瑠華
瑠華はまたもこの女に自分を重ねたんだろう。
本当はマックスに愛され続けたかった。
瑠華がマックスに対して思いやりに欠けていた、とは思わない。
ただ、儚い夢だったのだ。短い夢はあっという間に終わり、やがて目覚める。その後に待っていたのは温度のない現実。
けれどまた夢を見る。
俺、と言う夢を―――
けれど俺は夢を夢で終わらせるつもりはない。瑠華が目覚めたとき、そこはおとぎ話のような世界で満ち溢れさせていたい。
女は瑠華に抱きしめられながら、ひたすら嗚咽を漏らし泣きじゃくっていたがそれも数分後には落ち着いて、
涙が引っ込むと、瑠華の支えもありゆっくりと立ち上がった。
何をするのか一瞬身構えたが、女は大人しくバッグを手に取り、きちんと腰を折って
「ご迷惑を―――おかけしました。
申し訳ございません」
と一礼して、静かに立ち去っていった。
後に残された俺たち四人。まだ微妙な空気は払拭できていないが、これで一件落着??
と、思いきや
グスッ……
どこからか鼻を啜る声が聞こえてきて、誰かが瑠華の言葉に感化されて泣いていることに気づいた。
泣いているのは…
「柏木さん……ありがとう……」
裕二!!お前かよ!!
裕二は目元に手を当てひたすら感心したように瑠華に熱い視線を送っている。
おい!裕二ぃ!!瑠華は俺の女だ!!そんなむさくるしい視線送ってンじゃねぇ!!
P.530
と、まぁ瑠華のおかげで何とか警察も救急車の御厄介にもならずに済んだから良かったが。
だが
「裕二。何で私に相談してくれなかったの。
それに啓人、やっぱり私を騙してたのね。柏木さんもグルになって。
信じられない」
と、今度は別問題が勃発!
綾子が額に手をやり目を吊り上げてる。
当然と言えば当然だよな。結果、綾子を騙す形になったわけだから。
「……ごめんなさい」
いくら俺と裕二から頼み込まれたからって、結局引き受けた責任を感じているのだろう。瑠華が目を伏せ眉を寄せている。
だが、瑠華が“グル”と言うことは断じて違う。
「言っておくが…」
と言い掛けた言葉を力強い裕二の言葉が遮った。
「違う!柏木さんは、俺が無理やり頼み込んで協力してもらっただけなんだ。
柏木さんは、最初から綾子に全部話すことを提案してた。最初から最後まで。
でも、『俺が綾子を守りたい』って言ったから―――」
綾子が目をまばたきさせて裕二と、項垂れている瑠華を交互に見やっている。
瑠華は唇を引き結びただ黙っている。今更何を言ってもいい訳のように捉えられるだろうと思っているのだろう。俺は瑠華から日本で親しい“女友達”と言う人間を聞いたことがない。
この国に来て気を許せる同性が綾子だった―――
そこには俺へ抱いた種類とは違うが確かに“愛”と言う繋がりがあった。
責任感の強い瑠華が、その唯一の存在である綾子を『裏切った』と思っているのだろう。
「本当のことだ」
俺はまだしゃがみ込んでいる瑠華の腕を取りゆっくりと立たせた。
「瑠華は最初から最後まで乗り気じゃなかった」俺が言うと、またも裕二が俺の言葉を追いかけるように被せた。
「綾子を守りたい―――
って言ったけど、俺本当は
過去の女を清算できなかった俺のことを知られると、綾子に嫌われると思った。
自分の保身で、柏木さんと啓人を
巻き込んだんだ。
柏木さんの言う通り、俺はクズ男だよ。
でも
そんなリスクを背負ってまで、俺が必要だと言うのなら
着いてきてほしい。
もちろん、『要らない』と言うのなら、それに応じる。
俺は綾子が
大事なんだ」
P.531
裕二がはっきりと透る声でキッパリと言い切り、言った後で首を項垂れる。
今度こそ、綾子と終わりかもな。
一瞬、そう過った。
綾子にフラらえたら一杯奢るか。とまで考えていたが……
けれど
何か裕二、かっこ悪いところばっかなのに、今この瞬間、お前誰よりも
すっげぇかっこいいよ。
「ホントに……
どうしようもないクズ男だけど
でも
そんなことで嫌いになるわけないでしょう?」
綾子の言葉に裕二が顔を上げ、数秒遅れで俺が綾子の方を見やり瑠華が顔を上げた。
「私が怒ってるのは、どうして私だけ蚊帳の外なの、ってことよ。
裕二が私の事心配してくれてる気持ちは分かるけれど、一緒に
闘わせてよ。
それに柏木さんが私の分まで裕二にビンタしてくれたから、ちょっとスッキリしたって言うのもあるけどね」
綾子は悪戯っ子のようにペロリと舌を出した。
まぁ確かにあのビンタは強烈だったよなー……
以前言った。
それは桐島の結婚式でのスピーチで、桐島とその奥さんマリちゃんに向けた言葉。そして
瑠華に向けた言葉。
苦しみは半分。喜びは二倍
手を取り合って
幸せはすぐ近くにある。
裕二と綾子のバカップルには散々振り回されたし、どうしてこの二人がくっついたのかイマイチ理解できなかったが、
この瞬間、気づいた。
二人の間を繋ぐ確かな『愛』って言うものが存在するってことを―――
―――――
――
結局、裕二と綾子は何となくだが仲直りして、「柏木さんもごめんなさいね。裕二のアホな行動に振り回されて、私も柏木さんに酷いこと言っちゃったし」と瑠華との仲も修復したみたいだ。
これにて一件落着!!
『遠山の金さん』じゃないが、俺はお決まりの台詞を心の中で呟いて
さて!次は心音ちゃんだ!
何せ時間がない!と慌てて出て行こうとする俺と瑠華に向かって裕二の言葉が追いかけてくる。
「柏木さん!
本当にありがとう。一つ………
貸しができちゃったな」
と、恥ずかしそうに頭の後ろに手をやる。
ホント…瑠華が居なきゃこの場はあんなにうまく収まっていないだろう。
「麻野さん」
瑠華はまたも温度のない瞳を裕二に向けて
「私は心を許した人以外に貸し借りを作るのは好みません。
物にしろ、お金にしろ」
瑠華の言葉に俺は目をパチパチ。
………良かった~
俺、瑠華に気に入ってる映画のDVDとかお互い貸し借りしてるし、綾子に至っては「私はパジャマ貸したわ♪」と。
つまり、裕二だけが心を許されてないってワケか。
くくっ!
ちょっと笑えてきて、声を押し殺していると、裕二は表情を歪めた。
「でも、そうですね―――いずれ
それなりの対価を支払ってもらいます」
瑠華がちょっとだけ……ほんのちょっとだけ口元に淡い笑みを浮かべると、
「お借りしていたものです。返します」と綾子の手に裕二の部屋の合鍵を手渡した。
瑠華は『対価』と言う言葉を使ったが、それは裕二に『借り』を作った、と言う意味だと捉えていいだろう。
つまり、瑠華は言う程裕二を嫌ってないと言うことだ。
けれど
このとき俺はいずれ裕二が
その“対価”と言うものを支払う日が
そう遠い日でないことを
まだ知らなかった。
P.532
時間は夕方の18:17を指していて、俺たちは慌てて車に乗り込んだ。
ここから成田空港まで通常なら一時間弱で行けるが、渋滞とかを考慮するともう少し遅れる。
いそいそと車のエンジンを掛け、とりあえずは裕二のマンションを飛び出るように出発した。
「ごめんね、心音ちゃんの電話途中で切るようなことさせて。怒って……なかった?」
車を運転しながらおずおずと瑠華の様子を見ると、瑠華はさっきのストーカー女にあれこれ言っていた激しい感情をすっかり仕舞いこみ、いつも通りの無表情で
「心音だって大抵時間にルーズなので、今更あたしを攻めるようなことはしません」
と、あっさりキッパリ。
そう…?それなら良かったけど……
「それよりも私はすぐに110番出来るように携帯を握りしめていたので、心音からの着信があったとしても出ないつもりでした」
瑠華は携帯を開いて俺に見せてきて、発信画面に彼女が言った通り『110』の数字を見たときは感心すら覚えた。
110番……
やっぱり瑠華はデキる女だ。仕事では常に先回りして、それを見事にさばく程デキる女だが、プライベートでも変わりない。
俺はちょっと苦笑。
そこまで考えが及ばなかった。
「まぁあの場所に男性二人が居たので何とかなるとは思いましたが、万が一のことを備えて」
「助かったよ~。君のおかげで、まぁ何とかあの場が収まって良かった」
ほぉっとため息を着く間も与えられず
「ところで、緑川さんの様子はどうでした?」
と、次の質問がなされて俺はため息を途中で止める羽目になった。
P.533
俺はシロアリ緑川が確かに体調を崩していそうなこと報告した。
「大丈夫なんでしょうか」
と、瑠華は心から心配している様子。
本人から「風邪」と言う一言は聞いてないが、たぶん軽度の風邪だろう。声も枯れてなかったし、くしゃみをしていたわけでもない。ただ、どことなく体調は悪そうだったが。ま、走る元気さえあったからな、そこまで酷くはないだろ。
走る―――……
と考えが過った瞬間、あの赤ん坊の手が緑川の背後に浮かんでいたのを思い出し、俺は軽く頭を振った。
今までは、瑠華や俺の周囲に現れていたあの小さな手。
何故緑川に―――
いや、ただの偶然だ。俺は錯覚を起こしていたに違いない。見える見えると思ってたから、見えただけで、本当は何もない
筈。
それから―――
「緑川の部屋から二村が出てきて、鉢合わせた」
と、報告するときは何故かハンドルを握る手に汗が浮かんだ。
「二村さんが?」
瑠華が表情を歪めて顎を引く。
「ごめん、緑川の様子を見てすぐ帰るべきだったけど」
言い訳のように聞こえるが……まぁ言い訳なんだけどね。
「いえ、あたしに謝られましても」と瑠華は苦笑い。
とりあえずは、「何故早く帰らなかったのですか!」とお怒りが無かったことにほっとするが
「二村さんは何と仰っていました?どんな会話を?」と間をおかず聞かれて
「あいつ、“一応”は緑川が『彼女』だと言うことを認めたよ。まぁ認めたと言っても本人の居る手前『違います』なんて言えないって言うのが本音だな。
今、緑川の気持ちがあいつから離れて行かれると、あいつ自身が困るからな」
「最低ですね」
瑠華は吐き捨てるように一言。
まぁ俺が言うのもなんだけど、
二村
お前、サイテーだよ。
「それから、裕二のことあれこれ知ってた」
「麻野さん?何故彼のことを?」瑠華が不思議そうに目をまばたく。
「いや、これから裕二ンとこに行くから、そのついででって感じで話したら、あいつ裕二のデータをペラペラしゃべってきて。
出身がどこか、とか専門学校での成績とか、あと血液型なんかも。そいえば身長体重まで知ってたな。
何か、人事にコネがあるとかないとか」
最後の言葉に、瑠華がはっきりと分かる程険しく眉を寄せたのが横目で分かった。
P.534
「それは、はっきりと分かる“脅し”ですね」
瑠華の言葉に俺は目をまばたいた。
「どういうこと?」
「麻野さんのデータをそこまで詳細に知っている、と言うことはあなたやあたしのことも簡単に調べられる、と言うことですよ。
もしかしてもう知っているかもしれません」
瑠華は淡々と言ったが、その顔には険しい何かが浮かんでいた。
「まぁ知られたところで、言いふらされて恥ずかしい行いはしていませんが」
と、瑠華はキッパリと言い切ったが……てか、そんな風に言い切っちゃう瑠華、かっこいいぜ!
なんて感心してる場合じゃないな。
「でもやっぱり
他人に知られていいことなんてないよ。
瑠華に離婚歴があり、さらにその相手はヴァレンタイン財閥の御曹司。
その上、子供までいた―――なんて
瑠華が傷つくのは
目に見えてる」
そう、瑠華の過去を知るのは俺だけだ。それは独占欲とかそう言った類ではなく、噂が回るのが早い会社で瑠華が影で何を言われるのか大体想像できる。
だから俺は裕二や綾子、桐島にそのことを言っていない。まぁあいつらは勝手な憶測をしてあれこれ言いふらすヤツらじゃないことは確かだが……
でも変な同情を買われるのもきっと瑠華は良い顔しないだろう。
離婚裁判の末、親権を奪われた―――と、までは個人情報に載っている筈がないし。
裕二たちに知られても構わないが、
何も知らない社員たちがそのことを知ったら―――………?
子供を捨てた悪い母親
と言うレッテルを貼られるに決まっている。
捨てたくて捨てたんじゃない。
―――奪われたんだ。
自分の命より大切な
唯一無二の存在を―――
何も知らない社員たちの口汚い噂を耳に入れたら瑠華がどれだけ傷つくか
それだけが心配だ。
「優しいんですね」
瑠華の声を聞いて、俺は顔を彼女の方へ向けた。
ちょうど信号は赤信号で前の車のブレーキランプが灯ったところだった。
P.535
ゆっくりと瑠華の方へ顏を向けると、瑠華がうっすらと微笑を湛えてこちらを見ていた。
「違うよ。独占欲が強いだけー。俺だけが知ってる瑠華情報を他人に知られてたまるかっての」
と、冗談めかして笑うと
くすっ
瑠華は喉の奥で涼しく笑った。
「あなたしか知らないあたしを、あなたはたくさん知っているじゃありませんか。
表面上の経歴や出来事以上に、本当のあたしを知っているのは啓だけです」
瑠華……
「これからたくさん……いいえ、本当にもう数えきれない程色々な面を知っていくのです。
だってあたしたち、『恋人同士』でしょう?」
瑠華がはみかみながらちょっとだけ笑い、自分で言った台詞が恥ずかしかったのかほんのちょっとピンク色に染めた頬をふいと顔を逸らした。
瑠華
瑠華―――
瑠華
何度呼んでも、何度囁いても、足りない。
俺の頭の中に、今まで知らない瑠華のことをいっぱいにして?
他のことなんて何も考えらないぐらい。
P.536<→次へ>
冬の夜
キミへの気持ちを窓に託しました
たった一言が言えない私は臆病者ですか?
でも今はこれが精一杯
雪に想いを
『次はお天気コーナーです。今日から明日にかけて低気圧が日本の南を発達しながら東北東に進み、明日には日本の東に進む見込みです。
関東甲信地方では今夜から雨が次第に雪に変わり、あす午前中にかけて山沿いを中心に、平野部でも積雪となる所がある見込みです。雪による交通障害、架線や電線、樹木等への着雪、路面の凍結に注意してください』
今朝のワイドショーのお天気キャスターの言葉を思い出したのは、勤めている会社の定時を迎え業務を終えたときだった。
「えー!やだっ!雪降ってるじゃん」と誰からともなく声が挙がり
「ホントだー、私傘持ってきてない」
「どうりで冷えると思った」
と同僚たちが次々と口にする。
またも誰かが「せっかく彼氏に買って貰ったバッグが濡れちゃう」と言い出し、それでもちっとも困った様子ではなく、どこか誇らし気だ。
そしてその周りの女子たちが盛んに羨ましがる。
「いいなー、でもあたし今度のクリスマスにダイヤの指輪ねだっちゃうんだー」と一人の女の子。
「いいなー!」黄色い声に、私は苦笑いを浮かべるしかない。ここでの男の年収と、女の品格は反比例する。いかにいい服を着るか、いかにいいバッグを持つか、いかにいい男を彼氏にするか、年中こんな会話でうんざりする。
かと言って輪に加わらないわけにはいかない。仕事とプライベートの内容こそ比例するのだ。
P.1
「仁科《にしな》さんはいつも素敵な服着てますよね」ふいに一人から話題を振られた。
「えっ、そう?」私は曖昧に笑って言葉を濁した。今日の服装は白いタイトワンピ。腰回りに太いベルトが巻き付いていて、ちょっと豪華に見えるゴールドのバックルがワンポイント。
そして同じくゴールド系のスパンコールが襟元に入ったコートを腕にかけて帰りたいアピール。
シンプルな服装だったけど、流石は目が肥えている女子たち。すぐにそれが高価なものだと見破った。女のチェック程厳しいものはない。私がオシャレをするのは対、男ではなく、彼女たちの為。
「仁科さんてぇ、結婚しないんですかぁ」間延びした話し方が赦されるのはこの年代の特権だ。
「結婚ね……相手がいないから」私は適当にごまかして再び言葉を濁した。
こう言っておけば大抵の女は引き下がる。私が長い間、人付き合いをしてきて、これが最良の方法だと知ったのはつい最近のこと。
私がこの会社に勤めはじめて五年になる。この会社での女性正社員では長いほうだ。後から派遣された若い女の子たちから見れば私なんてお局のようだった。
「そう言えばぁ仁科さん、この前見ちゃったんですぅ」一人の女の子が思わせぶりに口元へ手をやった。
短く切った髪にはパーマがあててあり、傍から見ればマシュマロのように可愛らしい女の子だ。
だが、そんな可愛らしさに惑わされてはいけない。女はいつでも顔の下にしたたかな一面を隠しているのだから。
P.2
「何を?」私は平静を装って取り澄ました。
もしかして“アイツ”と居る所を見られた?と思ってドキリとしたが
「この前の金曜日、青山のイタリアンレストランで、経理の前田さんと一緒にいるところぉ」
ああ、そっちか。とちょっとほっと安堵する。
「ええー!!」周りから黄色い声が飛ぶ。私は思わず頭を押さえたくなった。
そう、確かに経理の前田に誘われて先週の金曜に青山まで行った。
でも食事をしただけで、別に艶かしい関係ではない。だが、ここで重要なのが、経理の前田という男、この会社ではなかなかのハンサムでしかも独身、きさくな性格をしているわりには頼れる上司でもあるのだ。そうゆう男を若い女性社員が放っておくわけがない。
「いいなー、ねえお二人って付き合ってるんですか?」
食事をするイコール男女の関係と、どうして若い子たちはそう短絡的なのだろう。私はこの場から逃げ出したくなった。だけど、この場から立ち去ると認めたことになってしまう。
「別に、ただお食事に誘われただけよ」
「うそー、絶対前田さん仁科さんのこと狙ってるわよぅ。だって、あたしたちがいくら誘っても全然だったのよー。それなのに前田さんは仁科さんのこと」
嫉妬心と羨望の眼差しで見られ、私は思わず後ずさり。
何とか前田との話を切り返し、従業員出入り口から女子の群れに混ざって出てきた所だった。
遠くで派手なエンジン音が聞こえてきて、この狭い路地裏へと近づいてきた。この聞き慣れたエンジン音。私は嫌な予感がして思わず一方通行の標識を見つめた。
「よーう、仁科」黒のポルシェの窓から腕を出し、銜えタバコをしながら九条《くじょう》が手を振っている。
「やっぱり」
私は、今度こそ頭痛をこらえるように頭をしっかりと押さえた。
P.3
「仁科、今終わりか?これから飯でも食わねー?」
この状況を知らずに能天気に笑ってるその整った横っ面に今すぐ張り手を食らわせたい。
「あ、あんたいつ東京に戻ってきたわけ?」私は女の子の群れから一人離れると、九条の車に近づいた。
「あー、悪い。三日ぐらい前かな?この前言ってた日本料理屋行こうぜ」
「あんたっていつも何で急なのよ」
私が声を潜めて九条を睨んでいるときだった。
「えー、仁科さんの彼氏さんですかぁ?かっこいい!」
女の子たちの視線が九条に移った。予想していなかった最悪の事態。
上半身しか見えなかったが、今日の九条は黒いジャケットの中に白いカットソーを着ていて、真冬だって言うのに襟ぐりに濃いサングラスをかけている。いつものように髪をラフにセットしてあって、左耳には輪っかのようなピアスが三つ光っていた。
そう
どこからどーみてもこいつは
ホスト。
P.4
「仁科、今終わりか?これから飯でも食わねー?」
この状況を知らずに能天気に笑ってるその整った横っ面に今すぐ張り手を食らわせたい。
「あ、あんたいつ東京に戻ってきたわけ?」私は女の子の群れから一人離れると、九条の車に近づいた。
「あー、悪い。三日ぐらい前かな?この前言ってた日本料理屋行こうぜ」
「あんたっていつも何で急なのよ」
私が声を潜めて九条を睨んでいるときだった。
「えー、仁科さんの彼氏さんですかぁ?かっこいい!」
女の子たちの視線が九条に移った。予想していなかった最悪の事態。
上半身しか見えなかったが、今日の九条は黒いジャケットの中に白いカットソーを着ていて、真冬だって言うのに襟ぐりに濃いサングラスをかけている。いつものように髪をラフにセットしてあって、左耳には輪っかのようなピアスが三つ光っていた。
そう
どこからどーみてもこいつは
ホスト。
P.4
でも勘違いしてもらっては困る。私はこいつの客じゃない。東京を離れていたのも、大方客の一人と遠征旅行でもしていたのだろう。
「違っ!こいつとは単なる腐れ縁。彼氏とかじゃないから」
と慌てて否定するも秒の単位で噂が回るこの会社で明日の朝には『仁科さんて、ホストに貢いでるらしいよ』とあちこちで言われるに違いない。
くらり、と眩暈が起きた。
腐れ縁、と言うのは間違いない。中学からの同級生だから。
「じゃあ、本命は前田さんですかぁ?」女の子達が興味津々で目を輝かせている。
「前田??ひどいなー、仁科ぁ。俺たち何度もセック……もがっ」
最後の方が言葉にならなかったのは私の手が九条の口を塞いだから。
ふざけんな!何言い出すんだこいつぁ!!
空気読めっつうの!
と言うことを目で訴えると、流石に冗談が過ぎたと思ったのか九条は苦笑い。
「で?行くの?行かないの?」せっかちに聞かれて
「わかったわよ!行くわよ」半ば怒鳴るように九条を睨みつけると、私はそそくさと助手席に回った。
「それじゃ、私はこれで。お先に」女の子たちにはなるべく平静を装って、にこやかに手を振る。
ため息をついて車の助手席を開けると、運転席から九条が笑顔で手を差し伸べてきた。
「ただいま、仁科」
昔とちっとも変わらない笑顔。眉が下がり、目を細める、優しい笑顔。そして時々その低い声で呼ばれる、自分の名前。何だかくすぐったいが、この笑顔を向けられたら、たとえ九条の勝手に振り回されても、赦せてしまう。
「……おかえりなさい」私は俯くと、小さく返事を返した。
P.5
前述した通り私と九条とは中学からの付き合いだ。かれこれ十年以上の付き合いになる。十年、と言う歳月は長く感じられるけれど、その間に音信不通になったり、そしてどこからか連絡先を入手して電話を寄越して来たり、をだらだらと繰り返している。
でも、私たちははっきりと『付き合って』はいない。もちろん九条のブラックジョークの『体の関係』もない。
あるのは中学生から変わらないノリと
私が九条のこと「好き」
と言うことだけ。歳を重ねて、九条がホストになって……あ、今はホストじゃなくホスト店を経営してるオーナー様でもあったかしら。とにかく環境は変わったものの、不変的な何かは確実に存在している。
パワーウィンドウの外をちらほらと雪が降っていた。
「北海道行ってきたんだ~土産に蟹買ってきてやったぞ」と九条は運転しながらどこか楽しそう。
「北海道……ここより雪が多そうね」ぼんやりと呟きながら、九条に気づかれない程度にこっそりと、外気との差で曇った窓ガラスに、人差し指で
『好き』
と書く。
私の書いた文字は私の体で隠れて九条からは見えない。
「蟹すきしようぜ~、お前んちで」
「何であんたを一々上げないといけない?」
言い合いをしながら、やがて私のマンションに着く頃にはみぞれになった大粒の白いものが私の『好き』をかき消す。
「だってお前んち床暖あるじゃん?」
「そんな理由かよ」
中学生から変わってないこの関係とノリ。
今はまだ―――
この関係でいいや。
~FIN~
P.6