Fahrenheit -華氏- Ⅱ

 

運命に惑わされ、陰謀に溺れて

 

 

■Risk(リスク)■

 

 

 

 

 

 

 

*Risk*

 

 

 

 In order to accomplish things

(物事を成し遂げるために)

 

 

Risks are inclusions.

(リスクはつきもの)

 

However

(でも)

 

 

If you are scared you can not move forward.

(怖がっていたら、前には進めないわ)

 

If you are not prepared to take risks,

(リスクを負う覚悟がなければ)

 

Stop it.

(やめなさい)

 

But the term risk is more than just a bad thing.

(でもリスクは決して悪いことがらだけをさすものではない)

 

There is also a meaning of possibility.

(『可能性』と言う意味合いもあって)

 

Before taking action,

(行動を起こす前に)

 

 

Just think for a moment.

(考えてみて)

 

For example, even if you believe in the possibilities, even if you stop footing with fear of failure,

(可能性を信じて進むのも、失敗を恐れて足を止めるのも)

 

 

 

 

It's all up to you.

(あなた次第)

 

 

 

 

 

 

 P.528


 

 

 

女は糸の切れたマリオネットのように、ペタリとその場に腰を落とした。

 

 

色が失せた空虚な視線はどこを彷徨っているのか、誰にも分からない。

 

 

「……あたしはただ……裕二が好きなだけで……」

 

 

と、口の中でまだ呟いていたが、先ほどまでの勢いは欠片も失っている。

 

 

裕二はもちろん、半分被害者なみたいなもんの綾子も、俺も

 

 

誰もが彼女に掛けるべき言葉を見つけられなかった。はっきりと言うが同情、とは違う。ストーカーをする心理が分からないから、下手に刺激できない、と言ったところか。

 

 

いきなりナイフを取り出してブスリと言うことも有り得る。だがソファに置かれた女のバッグから彼女の手元まで距離がある。いざ行動を起こそうとするものなら、身体を張ってまで阻止するつもりだが(愛しの瑠華ちゃんだけは守るぜ!)

 

 

そんな中

 

 

 

 

「それは本当に

 

 

“好き”なのですか―――」

 

 

 

 

瑠華だけが静かに口を開いた。まるでその言葉自体が凶器のように尖っている。

 

 

「先ほど啓が言いました。あなたのしているのは“恋愛”ではなく“依存”だと。

 

 

でも私には恐ろしいまでの“執着”に見えます」

 

 

瑠華はまるで報告書を読み上げるかのごとく淡々と言ってのけた。

 

 

る……瑠華……

 

 

下手に刺激しちゃマズいだろ…と言う意味で、そろりと瑠華の元へ歩み寄ろうとしたが、瑠華はそれを手で制した。

 

 

それは『大丈夫です』と言う意味合いだ。

 

 

瑠華は危険も顧みず自ら女の元にしゃがみ込むと

 

 

 

「でも、その執着心もまた

 

 

一つの愛なのです。

 

 

 

あなたは形は違えど、大切な何かを手に入れることができました。

 

 

 

それは人間にとって不可欠なもの」

 

 

 

 

瑠華が女の両肩にやんわりと手を置く。女は瑠華に乱暴なことをするつもりもないのか、ただただ目の前の瑠華を凝視していた。

 

 

「不可欠なもの……?」

 

 

女が小さな声でおずおずと問いかけて

 

 

 

 

「そう、それは『愛』に他ならないのです」

 

 

 

 

瑠華が女を包み込むように抱きしめると、彼女の頭を掻き抱いた。

 

 

それはまるで

 

 

聖母マリアが、キリストを抱くその姿に

 

 

 

 

 

 

酷似していた。

 

 

 

 

 

 

 

 

P.529


 

 

 

「あなたは愛されたくて、愛されたくて―――ただそれを一方的に求めていただけ。

 

 

でも恋愛は『愛されたい』だけでは成り立たちません。人を思いやる気持ちもまた“愛”なのです。

 

 

でも諦めないで。

 

 

先ほども言いました。あなたを愛してくれる人は、今後必ず現れます。

 

 

あなたが人を思いやることの大切さに気づいたら。

 

 

また人を好きになってその方を愛し、やがてその方からも愛される」

 

 

瑠華の言葉に女はとうとう、わっ!と大声を挙げて泣き出し、しゃくりあげながらも瑠華を抱きしめ返した。

 

 

 

 

 

 

「―――あたしのように」

 

 

 

 

 

 

と言う言葉は、女の泣き声で裕二と綾子には聞こえなかったろうが

 

 

俺の耳元にははっきりと届いた。

 

 

そうだよ

 

 

 

瑠華

 

 

 

 

瑠華はまたもこの女に自分を重ねたんだろう。

 

 

本当はマックスに愛され続けたかった。

 

 

瑠華がマックスに対して思いやりに欠けていた、とは思わない。

 

 

ただ、儚い夢だったのだ。短い夢はあっという間に終わり、やがて目覚める。その後に待っていたのは温度のない現実。

 

 

けれどまた夢を見る。

 

 

 

 

 

俺、と言う夢を―――

 

 

 

 

 

けれど俺は夢を夢で終わらせるつもりはない。瑠華が目覚めたとき、そこはおとぎ話のような世界で満ち溢れさせていたい。

 

 

 

 

 

女は瑠華に抱きしめられながら、ひたすら嗚咽を漏らし泣きじゃくっていたがそれも数分後には落ち着いて、

 

 

涙が引っ込むと、瑠華の支えもありゆっくりと立ち上がった。

 

 

何をするのか一瞬身構えたが、女は大人しくバッグを手に取り、きちんと腰を折って

 

 

「ご迷惑を―――おかけしました。

 

 

申し訳ございません」

 

 

と一礼して、静かに立ち去っていった。

 

 

後に残された俺たち四人。まだ微妙な空気は払拭できていないが、これで一件落着??

 

 

と、思いきや

 

 

グスッ……

 

 

どこからか鼻を啜る声が聞こえてきて、誰かが瑠華の言葉に感化されて泣いていることに気づいた。

 

 

泣いているのは…

 

 

「柏木さん……ありがとう……」

 

 

裕二!!お前かよ!!

 

 

裕二は目元に手を当てひたすら感心したように瑠華に熱い視線を送っている。

 

 

おい!裕二ぃ!!瑠華は俺の女だ!!そんなむさくるしい視線送ってンじゃねぇ!!

 

 

 

 

 

P.530



 

 

と、まぁ瑠華のおかげで何とか警察も救急車の御厄介にもならずに済んだから良かったが。

 

 

だが

 

 

「裕二。何で私に相談してくれなかったの。

 

 

それに啓人、やっぱり私を騙してたのね。柏木さんもグルになって。

 

 

信じられない」

 

 

と、今度は別問題が勃発!

 

 

綾子が額に手をやり目を吊り上げてる。

 

 

当然と言えば当然だよな。結果、綾子を騙す形になったわけだから。

 

 

「……ごめんなさい」

 

 

いくら俺と裕二から頼み込まれたからって、結局引き受けた責任を感じているのだろう。瑠華が目を伏せ眉を寄せている。

 

 

だが、瑠華が“グル”と言うことは断じて違う。

 

 

「言っておくが…」

 

 

と言い掛けた言葉を力強い裕二の言葉が遮った。

 

 

 

 

 

「違う!柏木さんは、俺が無理やり頼み込んで協力してもらっただけなんだ。

 

 

柏木さんは、最初から綾子に全部話すことを提案してた。最初から最後まで。

 

 

 

 

でも、『俺が綾子を守りたい』って言ったから―――」

 

 

 

 

綾子が目をまばたきさせて裕二と、項垂れている瑠華を交互に見やっている。

 

 

瑠華は唇を引き結びただ黙っている。今更何を言ってもいい訳のように捉えられるだろうと思っているのだろう。俺は瑠華から日本で親しい“女友達”と言う人間を聞いたことがない。

 

 

この国に来て気を許せる同性が綾子だった―――

 

 

そこには俺へ抱いた種類とは違うが確かに“愛”と言う繋がりがあった。

 

 

責任感の強い瑠華が、その唯一の存在である綾子を『裏切った』と思っているのだろう。

 

 

「本当のことだ」

 

 

俺はまだしゃがみ込んでいる瑠華の腕を取りゆっくりと立たせた。

 

 

「瑠華は最初から最後まで乗り気じゃなかった」俺が言うと、またも裕二が俺の言葉を追いかけるように被せた。

 

 

 

 

 

「綾子を守りたい―――

 

 

 

って言ったけど、俺本当は

 

 

 

 

過去の女を清算できなかった俺のことを知られると、綾子に嫌われると思った。

 

 

自分の保身で、柏木さんと啓人を

 

 

 

 

巻き込んだんだ。

 

 

 

柏木さんの言う通り、俺はクズ男だよ。

 

 

 

でも

 

 

そんなリスクを背負ってまで、俺が必要だと言うのなら

 

 

 

着いてきてほしい。

 

 

 

もちろん、『要らない』と言うのなら、それに応じる。

 

 

 

 

俺は綾子が

 

 

 

 

 

大事なんだ」

 

 

 

 

 

 

 

P.531


 

 

 

裕二がはっきりと透る声でキッパリと言い切り、言った後で首を項垂れる。

 

 

今度こそ、綾子と終わりかもな。

 

 

一瞬、そう過った。

 

 

綾子にフラらえたら一杯奢るか。とまで考えていたが……

 

 

けれど

 

 

何か裕二、かっこ悪いところばっかなのに、今この瞬間、お前誰よりも

 

 

 

 

 

すっげぇかっこいいよ。

 

 

 

 

 

 

「ホントに……

 

 

どうしようもないクズ男だけど

 

 

 

 

でも

 

 

 

そんなことで嫌いになるわけないでしょう?」

 

 

綾子の言葉に裕二が顔を上げ、数秒遅れで俺が綾子の方を見やり瑠華が顔を上げた。

 

 

「私が怒ってるのは、どうして私だけ蚊帳の外なの、ってことよ。

 

 

裕二が私の事心配してくれてる気持ちは分かるけれど、一緒に

 

 

 

 

闘わせてよ。

 

 

それに柏木さんが私の分まで裕二にビンタしてくれたから、ちょっとスッキリしたって言うのもあるけどね」

 

 

綾子は悪戯っ子のようにペロリと舌を出した。

 

 

まぁ確かにあのビンタは強烈だったよなー……

 

 

 

 

 

以前言った。

 

 

それは桐島の結婚式でのスピーチで、桐島とその奥さんマリちゃんに向けた言葉。そして

 

 

瑠華に向けた言葉。

 

 

 

 

 

 

苦しみは半分。喜びは二倍

 

 

手を取り合って

 

 

 

 

幸せはすぐ近くにある。

 

 

 

 

 

裕二と綾子のバカップルには散々振り回されたし、どうしてこの二人がくっついたのかイマイチ理解できなかったが、

 

 

この瞬間、気づいた。

 

 

二人の間を繋ぐ確かな『愛』って言うものが存在するってことを―――

 

 

 

 

 

 

―――――

 

 

――

 

 

 

結局、裕二と綾子は何となくだが仲直りして、「柏木さんもごめんなさいね。裕二のアホな行動に振り回されて、私も柏木さんに酷いこと言っちゃったし」と瑠華との仲も修復したみたいだ。

 

 

これにて一件落着!!

 

 

『遠山の金さん』じゃないが、俺はお決まりの台詞を心の中で呟いて

 

 

さて!次は心音ちゃんだ!

 

 

何せ時間がない!と慌てて出て行こうとする俺と瑠華に向かって裕二の言葉が追いかけてくる。

 

 

 

 

 

「柏木さん!

 

 

本当にありがとう。一つ………

 

 

貸しができちゃったな」

 

 

 

 

 

 

と、恥ずかしそうに頭の後ろに手をやる。

 

 

ホント…瑠華が居なきゃこの場はあんなにうまく収まっていないだろう。

 

 

「麻野さん」

 

 

瑠華はまたも温度のない瞳を裕二に向けて

 

 

 

 

「私は心を許した人以外に貸し借りを作るのは好みません。

 

 

物にしろ、お金にしろ」

 

 

 

 

 

瑠華の言葉に俺は目をパチパチ。

 

 

………良かった~

 

 

俺、瑠華に気に入ってる映画のDVDとかお互い貸し借りしてるし、綾子に至っては「私はパジャマ貸したわ♪」と。

 

 

つまり、裕二だけが心を許されてないってワケか。

 

 

くくっ!

 

 

ちょっと笑えてきて、声を押し殺していると、裕二は表情を歪めた。

 

 

 

「でも、そうですね―――いずれ

 

 

それなりの対価を支払ってもらいます」

 

 

 

 

瑠華がちょっとだけ……ほんのちょっとだけ口元に淡い笑みを浮かべると、

 

 

「お借りしていたものです。返します」と綾子の手に裕二の部屋の合鍵を手渡した。

 

 

瑠華は『対価』と言う言葉を使ったが、それは裕二に『借り』を作った、と言う意味だと捉えていいだろう。

 

 

つまり、瑠華は言う程裕二を嫌ってないと言うことだ。

 

 

けれど

 

 

 

 

 

 

このとき俺はいずれ裕二が

 

 

その“対価”と言うものを支払う日が

 

 

 

 

 

 

そう遠い日でないことを

 

 

 

 

 

 

まだ知らなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

P.532


 

 

 

時間は夕方の18:17を指していて、俺たちは慌てて車に乗り込んだ。

 

 

ここから成田空港まで通常なら一時間弱で行けるが、渋滞とかを考慮するともう少し遅れる。

 

 

いそいそと車のエンジンを掛け、とりあえずは裕二のマンションを飛び出るように出発した。

 

 

「ごめんね、心音ちゃんの電話途中で切るようなことさせて。怒って……なかった?」

 

 

車を運転しながらおずおずと瑠華の様子を見ると、瑠華はさっきのストーカー女にあれこれ言っていた激しい感情をすっかり仕舞いこみ、いつも通りの無表情で

 

 

「心音だって大抵時間にルーズなので、今更あたしを攻めるようなことはしません」

 

 

と、あっさりキッパリ。

 

 

そう…?それなら良かったけど……

 

 

「それよりも私はすぐに110番出来るように携帯を握りしめていたので、心音からの着信があったとしても出ないつもりでした」

 

 

瑠華は携帯を開いて俺に見せてきて、発信画面に彼女が言った通り『110』の数字を見たときは感心すら覚えた。

 

 

110番……

 

 

やっぱり瑠華はデキる女だ。仕事では常に先回りして、それを見事にさばく程デキる女だが、プライベートでも変わりない。

 

 

俺はちょっと苦笑。

 

 

そこまで考えが及ばなかった。

 

 

「まぁあの場所に男性二人が居たので何とかなるとは思いましたが、万が一のことを備えて」

 

 

「助かったよ~。君のおかげで、まぁ何とかあの場が収まって良かった」

 

 

ほぉっとため息を着く間も与えられず

 

 

「ところで、緑川さんの様子はどうでした?」

 

 

と、次の質問がなされて俺はため息を途中で止める羽目になった。

 

 

 

P.533


 

 

 

俺はシロアリ緑川が確かに体調を崩していそうなこと報告した。

 

 

「大丈夫なんでしょうか」

 

 

と、瑠華は心から心配している様子。

 

 

本人から「風邪」と言う一言は聞いてないが、たぶん軽度の風邪だろう。声も枯れてなかったし、くしゃみをしていたわけでもない。ただ、どことなく体調は悪そうだったが。ま、走る元気さえあったからな、そこまで酷くはないだろ。

 

 

走る―――……

 

 

と考えが過った瞬間、あの赤ん坊の手が緑川の背後に浮かんでいたのを思い出し、俺は軽く頭を振った。

 

 

今までは、瑠華や俺の周囲に現れていたあの小さな手。

 

 

何故緑川に―――

 

 

いや、ただの偶然だ。俺は錯覚を起こしていたに違いない。見える見えると思ってたから、見えただけで、本当は何もない

 

 

 

 

筈。

 

 

 

 

それから―――

 

 

「緑川の部屋から二村が出てきて、鉢合わせた」

 

 

と、報告するときは何故かハンドルを握る手に汗が浮かんだ。

 

 

「二村さんが?」

 

 

瑠華が表情を歪めて顎を引く。

 

 

「ごめん、緑川の様子を見てすぐ帰るべきだったけど」

 

 

言い訳のように聞こえるが……まぁ言い訳なんだけどね。

 

 

「いえ、あたしに謝られましても」と瑠華は苦笑い。

 

 

とりあえずは、「何故早く帰らなかったのですか!」とお怒りが無かったことにほっとするが

 

 

「二村さんは何と仰っていました?どんな会話を?」と間をおかず聞かれて

 

 

「あいつ、“一応”は緑川が『彼女』だと言うことを認めたよ。まぁ認めたと言っても本人の居る手前『違います』なんて言えないって言うのが本音だな。

 

 

今、緑川の気持ちがあいつから離れて行かれると、あいつ自身が困るからな」

 

 

「最低ですね」

 

 

瑠華は吐き捨てるように一言。

 

 

まぁ俺が言うのもなんだけど、

 

 

二村

 

 

お前、サイテーだよ。

 

 

「それから、裕二のことあれこれ知ってた」

 

 

「麻野さん?何故彼のことを?」瑠華が不思議そうに目をまばたく。

 

 

「いや、これから裕二ンとこに行くから、そのついででって感じで話したら、あいつ裕二のデータをペラペラしゃべってきて。

 

 

出身がどこか、とか専門学校での成績とか、あと血液型なんかも。そいえば身長体重まで知ってたな。

 

 

 

 

何か、人事にコネがあるとかないとか」

 

 

最後の言葉に、瑠華がはっきりと分かる程険しく眉を寄せたのが横目で分かった。

 

 

 

 

P.534


 

 

 

 

 

「それは、はっきりと分かる“脅し”ですね」

 

 

 

 

瑠華の言葉に俺は目をまばたいた。

 

 

「どういうこと?」

 

 

「麻野さんのデータをそこまで詳細に知っている、と言うことはあなたやあたしのことも簡単に調べられる、と言うことですよ。

 

 

もしかしてもう知っているかもしれません」

 

 

瑠華は淡々と言ったが、その顔には険しい何かが浮かんでいた。

 

 

「まぁ知られたところで、言いふらされて恥ずかしい行いはしていませんが」

 

 

と、瑠華はキッパリと言い切ったが……てか、そんな風に言い切っちゃう瑠華、かっこいいぜ!

 

 

なんて感心してる場合じゃないな。

 

 

「でもやっぱり

 

 

他人に知られていいことなんてないよ。

 

 

 

 

瑠華に離婚歴があり、さらにその相手はヴァレンタイン財閥の御曹司。

 

 

その上、子供までいた―――なんて

 

 

 

 

 

瑠華が傷つくのは

 

 

 

 

 

目に見えてる」

 

 

 

 

 

そう、瑠華の過去を知るのは俺だけだ。それは独占欲とかそう言った類ではなく、噂が回るのが早い会社で瑠華が影で何を言われるのか大体想像できる。

 

 

だから俺は裕二や綾子、桐島にそのことを言っていない。まぁあいつらは勝手な憶測をしてあれこれ言いふらすヤツらじゃないことは確かだが……

 

 

でも変な同情を買われるのもきっと瑠華は良い顔しないだろう。

 

 

 

 

離婚裁判の末、親権を奪われた―――と、までは個人情報に載っている筈がないし。

 

 

 

 

裕二たちに知られても構わないが、

 

 

何も知らない社員たちがそのことを知ったら―――………?

 

 

 

 

 

子供を捨てた悪い母親

 

 

 

 

 

と言うレッテルを貼られるに決まっている。

 

 

捨てたくて捨てたんじゃない。

 

 

―――奪われたんだ。

 

 

 

 

 

自分の命より大切な

 

 

 

唯一無二の存在を―――

 

 

 

 

 

 

 

何も知らない社員たちの口汚い噂を耳に入れたら瑠華がどれだけ傷つくか

 

 

それだけが心配だ。

 

 

 

 

 

「優しいんですね」

 

 

 

 

 

瑠華の声を聞いて、俺は顔を彼女の方へ向けた。

 

 

ちょうど信号は赤信号で前の車のブレーキランプが灯ったところだった。

 

 

 

 

 

P.535


 

 

ゆっくりと瑠華の方へ顏を向けると、瑠華がうっすらと微笑を湛えてこちらを見ていた。

 

 

「違うよ。独占欲が強いだけー。俺だけが知ってる瑠華情報を他人に知られてたまるかっての」

 

 

と、冗談めかして笑うと

 

 

くすっ

 

 

瑠華は喉の奥で涼しく笑った。

 

 

「あなたしか知らないあたしを、あなたはたくさん知っているじゃありませんか。

 

 

表面上の経歴や出来事以上に、本当のあたしを知っているのは啓だけです」

 

 

瑠華……

 

 

「これからたくさん……いいえ、本当にもう数えきれない程色々な面を知っていくのです。

 

 

だってあたしたち、『恋人同士』でしょう?」

 

 

瑠華がはみかみながらちょっとだけ笑い、自分で言った台詞が恥ずかしかったのかほんのちょっとピンク色に染めた頬をふいと顔を逸らした。

 

 

瑠華

 

 

瑠華―――

 

 

 

 

 

 

瑠華

 

 

 

 

 

何度呼んでも、何度囁いても、足りない。

 

 

俺の頭の中に、今まで知らない瑠華のことをいっぱいにして?

 

 

他のことなんて何も考えらないぐらい。

 

 

 

 

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