Chat Noir -黒猫と私- Deux(2nd)
Cat
№45 黒猫360°
『黒猫360°』
チヅルさんはどっからどう見てもイイ女。
P.332
――――
チェシャ猫さんの腕の中、私は一晩中眠れなかった。
目を閉じるとあれこれ―――考えちゃって眠気なんて当然こない。
次の日の明け方、私は眠ったままのチェシャ猫さんの腕の中から抜け出し、帰ることを決意。
突然帰ることを決めてごめんなさい。
ベッドからそっと抜け出すと、カーテンを開け放った窓ガラスにチェシャ猫さんの姿が映っていた。
ガラス窓に映ったチェシャ猫さんは向こう側を向いていて、眠っていたと思っていたら目を開いていた。
その印象的な大きなつり目を開いて、窓越しにじっと
私を見ていた。
けれど私はそれを見ないフリで
扉を開け―――部屋を立ち去った。
――――
明け方5時台―――ホームで電車を待っていると、その短い間に薄紫色をしていた空はそのベールを取り去り、うっすらと、光を纏った白い空が見え始めた。
その空に白い綿菓子みたいな雲が浮かんでいて、昨日の雨の影は微塵も見えなかった。
今日は―――晴れだ。
すっきりとした秋晴れの空に、けれど風だけは冷たく早くも真冬の気配を滲ませていた。
さすがに吐く息は白くなかったけれど、それでも指先は冷え切っていて、私は何度も指先に息を吹きかけた。
そう考えるとチェシャ猫さんの腕の中はあったかかった。
そのチェシャ猫さんが嫌いな電車に私は乗ろうとしている。
チェシャ猫さんが電車を嫌いな理由―――あれほど私に「乗るな」と言ったのはきっと心に抱えたトラウマのせい。
“あの日”手を離したのはチェシャ猫さんですか―――
それともチヅルさん――――……?
でも
今度手を離したのは私の方から―――
ううん
最初からチェシャ猫さんの手は私を抱きしめるためにあるんじゃない。
本当にあるべき場所は―――私じゃない。
あるべき場所に―――戻してあげなくちゃ。
プルルルル
ホームに電車が滑り込んでくる警報が鳴り、私は黄色い線より一歩下がった。
『間もなく2番線に列車が到着します』
この電車は―――、一体どこまで行くのだろう。
P.333
この日、私は講義をさぼって大学とは反対方向の地域にある駅まで来ていた。
ケータイで開いたURLに載せられた地図を頼りに『Marguerite』の事務所がある場所まで迷いながらも何とか到着。
住所として記載されていた場所は雑居ビルの一階部分で、事務所―――と言うよりもお洒落なカフェ風な佇まい。
ホントにここであってるのかな……
若干自信がなく何度も地図と番地を見比べるものの、『Café Marguerite』と看板が出ていて
ここで間違いがないことにほっと胸を撫で下ろす。
“風”ではなく“カフェ”そのものだ。
白い木製の扉を開くと、カランカラン……古風な鐘のドアベルの音が鳴った。
扉を開けるとちょっと濃い目の紅茶の良い香りが香ってきて、辺りを見渡すとまるでミニチュアのドールハウスから抜け出てきたような可愛いカントリー風の店内が視界に入ってきた。
いかにも女の子ウケしそうだ。涼子とか好きそう。
店内は閑散としていて、奥のテーブル席におばちゃんとおじちゃん、と言う中年夫婦の組み合わせが一組、若い女の子二人組が一組だった。
「いらっしゃいませ~」
と出迎えてくれたのは、カフェエプロンをした素朴な感じの女性店員さん。
「おひとり様ですか?」と聞かれて、私は慌てて手を振った。
「あの……ちょっとお尋ねしたいことがありまして!えっと………」
言いかけて言葉に詰まった。
しまった!私チヅルさんのフルネーム知らないや!!
しかも私何の関係もないのにいきなり訪ねてきて、不審者極まりない。
「?」
女の店員さんが目を瞬きながら首をかしげる。
勢いでここまで来ちゃったけれど、ど……どーしよ。
一人返答に困っていると
二階に続く、これまたカントリー風の白い可愛い階段から
コツ……コツっ…
ゆっくりと杖を突く音が聞こえてきて
「マリちゃん、私少し出かけてくるわ。あと宜しく」
チヅルさんが現れた。
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チヅルさんは私を目に入れると
「あら……あなた省の―――…」
と口元に手を当てる。その仕草すらも女性らしい上品なもので、思わず委縮しながらも私は慌てて頭を下げた。
「この前は―――…」
言いかけると
「こちらこそお邪魔しちゃってごめんなさいね。気を悪くされなかったかしら、ってずっと気になってたの」
チヅルさんは悲しそうに―――笑った。
その笑顔は―――
チェシャ猫さんの笑顔と良く似ていた。
―――――
――
チヅルさんがもっとワルい女だったら良かった。
と、心のどこかで思ってた部分もある。
例えばあのピアスはわざとチヅルさんが落としていって「省は私のものよ」ってアピールされてるって気づけば、少しは気が楽だったかもしれない。
でも
チヅルさんはどこからどう見てもいい女。
360°どの角度から見ても―――
チヅルさんは今日は先日会ったときの黒いワンピースじゃなく、今日はちょっと深いミントグリーンの地に赤い薔薇の花柄プリントワンピース、そしてこげ茶のジャケット姿。
ついでにセンスもいい。
私……もっとお洒落してくるべきだったわ。
今さらながら自分の姿…履き古したジーンズに、ニットと言う恰好を確認してずーんと気落ち。
私たちは今一階部分のカフェでお茶をしている。
テーブルでコーヒーを飲みながら、向かい合って
私はそっとピアスをその白いテーブルに置いた。
「これ、チヅルさんの忘れものですよね。
今まで黙っててすみませんでした」
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チヅルさんはテーブルに置かれたピアスと私とを見比べて大きな目をぱちぱち。
「えっと……これを…どこで?」
チヅルさんが見つかった嬉しさより先に困惑の色を浮かべて私を見る。
「すみません…もっと早く言うべきだったんですけど―――
チェシャ…じゃなくて樗木さんの車の助手席で―――」
私は俯いたまま、琥珀色をしたコーヒーをただじっと見つめた。
コーヒーはデイジーの絵が入った白いカップに入れられていて、そこから香り高いコーヒーの湯気が立ち上っていた。
でもそれをゆっくりと堪能している余裕もない。
チヅルさんがどんな反応するのかちょっと怖かったのだ。
こんな
チェシャ猫さんが好きなチヅルさんの前で『私が彼女よ?』みたいな意地悪なこと言って―――彼女を傷つけるのが―――
「省の―――助手席で……?」
チヅルさんは私の言葉を口の中で反芻し、やがてはっとなったように慌ててピアスを隠す。
「違うの。これは…!たまたま省にここまで送ってもらったときに落ちたみたいで
私もずっと探していたの……
―――…ごめん…なさい……
でも
私たち―――ただの“友達”だから……
何にもないのよ。本当よ」
チヅルさんはピアスを手で覆い、髪を掻き揚げながら僅かに身を乗り出す。
チヅルさんは―――360°どこからどう見てもいい女―――
本当はチェシャ猫さんのこと好きだろうに、私なんかの存在なんて疎ましいだけだろうに―――
どこをどう見たって私に“勝つ”要素はたくさん持っているのに、チヅルさんは“勝つ”ことを望んでいない。
彼女が願っているのはたった一つ―――
チェシャ猫さんの“幸せ”だ。
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こんな風に無心で誰かを愛せるってすごいことだよ。
私は勝ち負け以前の問題だと思ってたけれど、気持ちの大きさから言ったらチヅルさんに
完敗だよ。
まだほんの二回しか会ったことないって言うのに、私は彼女が嘘をついていない、と何故だかそう思えた。
「信じてます。私……樗木さんがそのことに関しては嘘をついてない―――と。
それに今まで黙ってた私もいけないんです」
私は素直にこれを見つけたいきさつを打ち明け、チヅルさんは申し訳なさそうに頭を項垂れていた。
「ご、誤解しないでください!私、あなたのこと疎ましく思ってるわけじゃありません」
慌てて手を振ると、チヅルさんがゆっくり顔を上げた。
苦しそうに眉を寄せて胸元に手を置いている。
それ以降何て話を展開すればいいのか分からず、沈黙が私たちを包んだ。
勢いでここまで来ちゃったけれど、次に何を言うのか全然考えてなかった。
ま、まぁ??とりあえずピアスは返せたしひとまずの目標は達成できたのかな。
私はコーヒーを一口。
それはガツンとした苦みのあるストロングで、けれどその苦みと酸味が―――どのコーヒー店で飲んだコーヒーよりもおいしかった。
レジカウンターの中で“マリちゃん”と呼ばれた店員さんがちらちら。
心配そうに私たちの姿を窺っている。
私―――嫌な女になってる……??見た目も中身も美しいこの人を悲しませてる悪い女―――の図が出来上がってそうで
ちょっと心配してたら
「省の――――」
チヅルさんがやがて口を開いた。
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「省のこと―――宜しくお願いしますね」
突然
深々と頭を下げてチヅルさんは静かに言い放った。
私はそれになんと答えていいのか分からず同じように顔を上げて真正面からチヅルさんを見つめた。
テーブルの上で組んだ手の先で何度も指を組み替えながら、チヅルさんは目だけを伏せてとっつとつと語り出した。
それは私が心から知りたいと願っていた
真実。
「私の脚の怪我は――――五年前……事故で―――」
チヅルさんは苦しそうに眉を寄せて、ますます私から視線を逸らすと、窓の外―――のうんと遠くを眺めていた。
「私―――……省とはサークルの先輩後輩って言う仲でした。
ルアーサークルって言って……ルアーフィッシングのサークル。
私は友人にしぶしぶ付き合って入ったけれど省は結構好きで―――」
そう言えば……趣味は釣りって言ってた……
チェシャ猫さんの言葉をふと思い出して私は頷いた。けれどチヅルさんの目は私を見ていなかった。
「省とはそこで知り合って―――
ルアー会って言う集まりは毎回面倒だったのが正直な意見だったけれど、省が丁寧に教えてくれて―――
ルアーのこと好きになる速度より早く省のことを好きになって
ある夏、ルアー会の帰りに私から告白を。
驚くことに省も私のこと好きでいてくれたみたいで、私たちすぐに
付き合うことになって
五年前まで恋人同士でした」
突然の告白に今度は私の方が視線をそらしたくなった。
やっぱり――――
「大好きだった。
彼のこと」
チヅルさんの声は小刻みに震える。
語尾がだんだん小さくなっていって、私の方は何だか視界が滲んできた。
「でも付き合って二年目の冬―――
私が事故に遭ったその日に、私たちは大喧嘩をしてしまった」
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チヅルさんは喧嘩の原因は覚えてない、と言う。それほどきっかけは小さなものだった。
「私たちその日電車に乗って映画館に行く予定だったの。
『乗継が面倒だね』って話していたのを覚えてる。
その乗継ぎ列車に向かう途中、言い合いになっちゃって―――」
チヅルさんはさらに続ける。
『もういい!帰る!!』
彼女はそれまで恋人同士、繋いでいた手を乱暴に引きはがしたそうだ。
チェシャ猫さんの方も同じ気持ちだったようで
『勝手にしろ』と、今では考えられない言動で反対側の電車に向かおうとした。
そこで
事故は起こった。
「雪が降っていた日なの―――あちこちで列車のダイヤは乱れていて、外階段に降り注いだ雪のせいで足元が凍結していた。
会社や学校を早く切り上げて家路を急ぐ人であふれかえっていた。
私は派手に人にぶつかられて―――」
チヅルさんは階段から落ちた。
チヅルさんの行動が気になったのか振り返ったチェシャ猫さんの目に映ったのは―――
階段を落下していく
チヅルさん――――
『チヅ!!』
彼は咄嗟に―――必死に手を差し伸べたに違いない。
けれどチヅルさんの手はチェシャ猫さんの手を掴むことは
なかった。
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「私は脚の骨を折ると言う大怪我をして病院に運ばれたわ。
もちろんその場に居た省も付き添ってくれた。
おかしなことよね。
いつだって冷静だった彼があのときばかりはまるで“この世の終わり”みたいな顔しちゃって
『俺が手を離さなければ』―――と運ばれていく間まるで呪詛のように繰り返し、繰り返しつぶやいていた」
チヅルさんは自嘲じみてちょっと笑う。
その瞳に一粒の涙が浮かんでいた―――ように見える。
誰だってそうなるよ。
私だってチェシャ猫さんが同じ状況に陥ったらパニックになる。
だから
だからチェシャ猫さんは大切な人と手を繋ぎたがるんだ―――
決して離さないよう―――
そこにこだわるんだ。
電車が嫌いと言ったあの言葉も、ようやく想像の域を超えて確信にたどり着いた。
「脚は―――骨折の後遺症ですか……」
ここではじめて私が口をはさむと
「いいえ。骨折の手術はうまくいったのだけれど、術後にインフルエンザのウィルスに感染しちゃって―――すぐに手術をやり直したけれどダメだったわ。
運が悪かったのね。それ以来動くことはないわ―――」
そう、だったんだ―――
「省はそれを自分のせいだと思い込んで、ずっと自分を責めていた。
責任を取る意味で一時期結婚の話も出たけれど、そんな理由で一緒には
居られなかった。
私が弱かったから―――
省のこと大好きだったけれど、一緒に居てくれるのは私の脚の怪我があるせいだ、と―――
そう思うと、一歩を踏み出せなかった。
苦しかった
二人一緒に居るとお互いダメになりそうだった」
だから別れを
チヅルさんは最後に言い添えて説明を終えた。
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実は私は五年前のその事故を―――目撃している。
あの日あの時間
受験会場の下見で―――大学からホテルへの帰り道だった―――
慣れない都会の電車の乗継であくせくしていたとき、騒ぎがあったのだ。
私の故郷の田舎町からしたらここはやっぱり都会で電車一つ乗るのも一苦労な私は
ホテルの帰り方の道順がメモされた小さな紙を片手に帰りを急ぐ。
その日は雪が
降っていた。
チヅルさんはブーツの上から少しだけ足を撫でさすると
「今日みたいに…急激に冷え込む日は足が痛くなるの」と無理やり苦笑い。
上質なスウェードのブーツ。それはジャケットと同じ色合いでチヅルさんの華奢な足をきれいに飾っていた。
「ごめんなさいね」
チヅルさんは足を撫でさすり、小さく謝ってきた。
何に対しての『ごめんなさい』なんだろう……そう思った。
だってチヅルさんは―――何も悪くない。
ううん、チェシャ猫さんも悪くない。
きっと誰も
悪くないんだよ。
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私は席を立ち上がると、チヅルさんの座っている席まで回り込んだ。
「ちょっと失礼しますね」
一応断りを入れてチヅルさんの左足首をブーツの上からそっと掴む。
チヅルさんがびっくりしたように目を開き、同じように心配した面持ちで‟マリちゃん”と呼ばれた店員さんがこちらに駆け寄ってこようとした。
けれど
「マッサージ……私、うまいんです。
自慢じゃないけれど、スポーツ科学とリハビリテーションの講義は成績が良くって」
と言うと、チヅルさんはマリちゃんに軽く手を挙げ心配不要と言いたげで手を振った。
「スポーツ科学って……ああ、医学部の学生さんでいらしたわね」
「ええ、そうです」
「どうりで……マッサージ上手ですね。ちょっと楽になってきたわ。
以前にも誰かにこうやってマッサージを?」
不意に聞かれて、私は目を上げた。
私―――どんな顔しててんだろう……チヅルさんがちょっと気まずそうに目をまばたいたのを見て
慌てて笑顔を取り繕った。
「私………私の知人も昔、足に怪我しちゃって、すっごく好きだったサッカーができなくなって
諦めなきゃいけなかった男の子が居たんです」
黒猫が届くと思って居たゴールは、やっぱりジャンプしても届かなくて―――
それがどれだけ悔しいのか、どれだけ悲しいのか私には計り知れない。
あとちょっと―――
バカな私。
今気づいた。
チェシャ猫さんが手を繋ぎたがる本当の意味を知って……
ううん、彼に
教えられたのだ。
手を伸ばした先に大事なものがあるとしたら―――届く範囲内に居る人を、大切にするべきだ。
黒猫の手をすり抜けて行ったゴールの先、チェシャ猫さんの手をすり抜けたチヅルさんの過去。
時間は巻き戻せないけれど、取り戻すことはできる。
黒猫……
私はやっぱりあんたを忘れることなんてできないよ―――
だってどんな小さな会話でさえも、どんな些細な言葉でさえも全部―――あんたに繋がっていく。
私が―――
つなげていく。
それは無限に続くループ。
奇妙にねじれるメビウスの帯。
永遠の文字―――インフィニティーを象ったあの輪に
君への気持ちを乗せて―――
P.342
――――
――
そのあと私は十分ほどでそのカフェを辞去することを決意。
チヅルさんにお礼を言って、
「あ、あの連絡先交換してくれませんか」
私が思い切ってケータイを取り出すと、チヅルさんが驚いたように目をぱちぱち。
「あ…えっと変なことに利用しようとかしてるんじゃないです。
友達に―――なりたいな……とか思っちゃったり」
「友達……?」
チヅルさんは私の言葉を口の中で復唱して
しまった!私思いっきりハズした!?
イマドキ友達になろうって言う女いないよ!!
しかも私、表向きにはチェシャ猫さんの彼女だし……(あくまで表向き)はライバルなのに……
「い、いえ!!迷惑ならっっ」
慌てて言い訳を考えていると
「嬉しい」
チヅルさんは私の予想とは反して小さく笑うと、口元に手を当てはにかんだ。
私はまたもたどたどしく……チヅルさんの手を借りながら何とか番号とアドレスを赤外線交換。
交換が終わるとチヅルさんはゆっくりと腰を折り丁寧にお辞儀。
「真田さん―――今日はありがとうございました。
私―――心のどこかで願ってた。
真田さんがもっともっと意地悪で嫌な女だったら良かったのに―――って」
顔を上げたチヅルさんの黒い目にうっすらと涙がたまっていた。
同じことを―――思って居たのだ、私たちは。
「けれどそうじゃなかった。
真田さんはどこからどう見ても可愛らしくて優しくて強い―――
素晴らしい女性」
チヅルさんは私を買いかぶり過ぎだ。
私、可愛くないし優しくもない。大好きな人から逃げてチェシャ猫さんの気持ちを利用して逃げた
弱虫だ。
「省を―――宜しくお願いします」
もう一度言われて
私は頷くことはしなかった。
「ここは冷えます、どうぞ中へ―――」
私がお店の中へ促すとチヅルさんは一礼だけしてゆっくりとした足取りでお店に入って行った。
私たちはそうしてお店の前で別れた。
チヅルさんの残した残り香だろうか、ふわりと風がいい香りを運んできて、改めて意識させられる。
チヅルさんは―――360°どこからどう見ても
可愛いヒトだってこと。
P.343<→次へ>
冬の夜
キミへの気持ちを窓に託しました
たった一言が言えない私は臆病者ですか?
でも今はこれが精一杯
雪に想いを
『次はお天気コーナーです。今日から明日にかけて低気圧が日本の南を発達しながら東北東に進み、明日には日本の東に進む見込みです。
関東甲信地方では今夜から雨が次第に雪に変わり、あす午前中にかけて山沿いを中心に、平野部でも積雪となる所がある見込みです。雪による交通障害、架線や電線、樹木等への着雪、路面の凍結に注意してください』
今朝のワイドショーのお天気キャスターの言葉を思い出したのは、勤めている会社の定時を迎え業務を終えたときだった。
「えー!やだっ!雪降ってるじゃん」と誰からともなく声が挙がり
「ホントだー、私傘持ってきてない」
「どうりで冷えると思った」
と同僚たちが次々と口にする。
またも誰かが「せっかく彼氏に買って貰ったバッグが濡れちゃう」と言い出し、それでもちっとも困った様子ではなく、どこか誇らし気だ。
そしてその周りの女子たちが盛んに羨ましがる。
「いいなー、でもあたし今度のクリスマスにダイヤの指輪ねだっちゃうんだー」と一人の女の子。
「いいなー!」黄色い声に、私は苦笑いを浮かべるしかない。ここでの男の年収と、女の品格は反比例する。いかにいい服を着るか、いかにいいバッグを持つか、いかにいい男を彼氏にするか、年中こんな会話でうんざりする。
かと言って輪に加わらないわけにはいかない。仕事とプライベートの内容こそ比例するのだ。
P.1
「仁科《にしな》さんはいつも素敵な服着てますよね」ふいに一人から話題を振られた。
「えっ、そう?」私は曖昧に笑って言葉を濁した。今日の服装は白いタイトワンピ。腰回りに太いベルトが巻き付いていて、ちょっと豪華に見えるゴールドのバックルがワンポイント。
そして同じくゴールド系のスパンコールが襟元に入ったコートを腕にかけて帰りたいアピール。
シンプルな服装だったけど、流石は目が肥えている女子たち。すぐにそれが高価なものだと見破った。女のチェック程厳しいものはない。私がオシャレをするのは対、男ではなく、彼女たちの為。
「仁科さんてぇ、結婚しないんですかぁ」間延びした話し方が赦されるのはこの年代の特権だ。
「結婚ね……相手がいないから」私は適当にごまかして再び言葉を濁した。
こう言っておけば大抵の女は引き下がる。私が長い間、人付き合いをしてきて、これが最良の方法だと知ったのはつい最近のこと。
私がこの会社に勤めはじめて五年になる。この会社での女性正社員では長いほうだ。後から派遣された若い女の子たちから見れば私なんてお局のようだった。
「そう言えばぁ仁科さん、この前見ちゃったんですぅ」一人の女の子が思わせぶりに口元へ手をやった。
短く切った髪にはパーマがあててあり、傍から見ればマシュマロのように可愛らしい女の子だ。
だが、そんな可愛らしさに惑わされてはいけない。女はいつでも顔の下にしたたかな一面を隠しているのだから。
P.2
「何を?」私は平静を装って取り澄ました。
もしかして“アイツ”と居る所を見られた?と思ってドキリとしたが
「この前の金曜日、青山のイタリアンレストランで、経理の前田さんと一緒にいるところぉ」
ああ、そっちか。とちょっとほっと安堵する。
「ええー!!」周りから黄色い声が飛ぶ。私は思わず頭を押さえたくなった。
そう、確かに経理の前田に誘われて先週の金曜に青山まで行った。
でも食事をしただけで、別に艶かしい関係ではない。だが、ここで重要なのが、経理の前田という男、この会社ではなかなかのハンサムでしかも独身、きさくな性格をしているわりには頼れる上司でもあるのだ。そうゆう男を若い女性社員が放っておくわけがない。
「いいなー、ねえお二人って付き合ってるんですか?」
食事をするイコール男女の関係と、どうして若い子たちはそう短絡的なのだろう。私はこの場から逃げ出したくなった。だけど、この場から立ち去ると認めたことになってしまう。
「別に、ただお食事に誘われただけよ」
「うそー、絶対前田さん仁科さんのこと狙ってるわよぅ。だって、あたしたちがいくら誘っても全然だったのよー。それなのに前田さんは仁科さんのこと」
嫉妬心と羨望の眼差しで見られ、私は思わず後ずさり。
何とか前田との話を切り返し、従業員出入り口から女子の群れに混ざって出てきた所だった。
遠くで派手なエンジン音が聞こえてきて、この狭い路地裏へと近づいてきた。この聞き慣れたエンジン音。私は嫌な予感がして思わず一方通行の標識を見つめた。
「よーう、仁科」黒のポルシェの窓から腕を出し、銜えタバコをしながら九条《くじょう》が手を振っている。
「やっぱり」
私は、今度こそ頭痛をこらえるように頭をしっかりと押さえた。
P.3
「仁科、今終わりか?これから飯でも食わねー?」
この状況を知らずに能天気に笑ってるその整った横っ面に今すぐ張り手を食らわせたい。
「あ、あんたいつ東京に戻ってきたわけ?」私は女の子の群れから一人離れると、九条の車に近づいた。
「あー、悪い。三日ぐらい前かな?この前言ってた日本料理屋行こうぜ」
「あんたっていつも何で急なのよ」
私が声を潜めて九条を睨んでいるときだった。
「えー、仁科さんの彼氏さんですかぁ?かっこいい!」
女の子たちの視線が九条に移った。予想していなかった最悪の事態。
上半身しか見えなかったが、今日の九条は黒いジャケットの中に白いカットソーを着ていて、真冬だって言うのに襟ぐりに濃いサングラスをかけている。いつものように髪をラフにセットしてあって、左耳には輪っかのようなピアスが三つ光っていた。
そう
どこからどーみてもこいつは
ホスト。
P.4
「仁科、今終わりか?これから飯でも食わねー?」
この状況を知らずに能天気に笑ってるその整った横っ面に今すぐ張り手を食らわせたい。
「あ、あんたいつ東京に戻ってきたわけ?」私は女の子の群れから一人離れると、九条の車に近づいた。
「あー、悪い。三日ぐらい前かな?この前言ってた日本料理屋行こうぜ」
「あんたっていつも何で急なのよ」
私が声を潜めて九条を睨んでいるときだった。
「えー、仁科さんの彼氏さんですかぁ?かっこいい!」
女の子たちの視線が九条に移った。予想していなかった最悪の事態。
上半身しか見えなかったが、今日の九条は黒いジャケットの中に白いカットソーを着ていて、真冬だって言うのに襟ぐりに濃いサングラスをかけている。いつものように髪をラフにセットしてあって、左耳には輪っかのようなピアスが三つ光っていた。
そう
どこからどーみてもこいつは
ホスト。
P.4
でも勘違いしてもらっては困る。私はこいつの客じゃない。東京を離れていたのも、大方客の一人と遠征旅行でもしていたのだろう。
「違っ!こいつとは単なる腐れ縁。彼氏とかじゃないから」
と慌てて否定するも秒の単位で噂が回るこの会社で明日の朝には『仁科さんて、ホストに貢いでるらしいよ』とあちこちで言われるに違いない。
くらり、と眩暈が起きた。
腐れ縁、と言うのは間違いない。中学からの同級生だから。
「じゃあ、本命は前田さんですかぁ?」女の子達が興味津々で目を輝かせている。
「前田??ひどいなー、仁科ぁ。俺たち何度もセック……もがっ」
最後の方が言葉にならなかったのは私の手が九条の口を塞いだから。
ふざけんな!何言い出すんだこいつぁ!!
空気読めっつうの!
と言うことを目で訴えると、流石に冗談が過ぎたと思ったのか九条は苦笑い。
「で?行くの?行かないの?」せっかちに聞かれて
「わかったわよ!行くわよ」半ば怒鳴るように九条を睨みつけると、私はそそくさと助手席に回った。
「それじゃ、私はこれで。お先に」女の子たちにはなるべく平静を装って、にこやかに手を振る。
ため息をついて車の助手席を開けると、運転席から九条が笑顔で手を差し伸べてきた。
「ただいま、仁科」
昔とちっとも変わらない笑顔。眉が下がり、目を細める、優しい笑顔。そして時々その低い声で呼ばれる、自分の名前。何だかくすぐったいが、この笑顔を向けられたら、たとえ九条の勝手に振り回されても、赦せてしまう。
「……おかえりなさい」私は俯くと、小さく返事を返した。
P.5
前述した通り私と九条とは中学からの付き合いだ。かれこれ十年以上の付き合いになる。十年、と言う歳月は長く感じられるけれど、その間に音信不通になったり、そしてどこからか連絡先を入手して電話を寄越して来たり、をだらだらと繰り返している。
でも、私たちははっきりと『付き合って』はいない。もちろん九条のブラックジョークの『体の関係』もない。
あるのは中学生から変わらないノリと
私が九条のこと「好き」
と言うことだけ。歳を重ねて、九条がホストになって……あ、今はホストじゃなくホスト店を経営してるオーナー様でもあったかしら。とにかく環境は変わったものの、不変的な何かは確実に存在している。
パワーウィンドウの外をちらほらと雪が降っていた。
「北海道行ってきたんだ~土産に蟹買ってきてやったぞ」と九条は運転しながらどこか楽しそう。
「北海道……ここより雪が多そうね」ぼんやりと呟きながら、九条に気づかれない程度にこっそりと、外気との差で曇った窓ガラスに、人差し指で
『好き』
と書く。
私の書いた文字は私の体で隠れて九条からは見えない。
「蟹すきしようぜ~、お前んちで」
「何であんたを一々上げないといけない?」
言い合いをしながら、やがて私のマンションに着く頃にはみぞれになった大粒の白いものが私の『好き』をかき消す。
「だってお前んち床暖あるじゃん?」
「そんな理由かよ」
中学生から変わってないこの関係とノリ。
今はまだ―――
この関係でいいや。
~FIN~
P.6