Chat Noir -黒猫と私- Deux(2nd)
Cat
№43 黒猫とパンドラの箱
『黒猫とパンドラの箱』
最後に残ったのが絶望なんかじゃないと
信じたい。
P.298
――――
――
―――その晩、夢を見た。
どこを見渡しても人、人、人―――の波。
私の故郷の田舎町からしたらここはやっぱり都会で電車一つ乗るのも一苦労な私は
ホテルの帰り方の道順がメモされた小さな紙を片手に帰りを急ぐ。
その日は雪が
降っていた。
駅の雑踏の中―――女の人の悲鳴が上がった。
何……?
人と人との波を縫ってその声のする方に何とか向かうと、階段の下
若い男の人が何事か叫んでいた。
フードがついていて縁にファーがついているカーキ色のコートの背中が見え、さらに覗き込むと、
その足元には同じ世代の女の人がぐったりと倒れていた。
―――きれいな足がミニスカートから伸びていて、でもその膝から下がざっくりと切れていて血を流している。
「チヅ……!しっかりしろ!チヅ!
千鶴――――!!」
男の人の―――…
ううん
チェシャ猫さんの叫び声が聞こえた。
P.299
「―――はっ!」
となって目覚めた。
あれは―――……夢…??
ううん、過去に見た―――記憶だ。
五年前……私はまだ高校生で大学受験のために上京した。そのとき見た光景だ。
後から知ったけれどあのとき―――確か駅で転落事故があって、
長い階段から女の人が転落したって―――駅員さんが教えてくれた。
雪のために列車のダイヤは乱れ、そのために早く仕事を終えたサラリーマンやらOLたちがごった返しになっていてその場は騒然となっていた。
倒れた女の人を見てプチパニックに陥っていた女子大生っぽい人も居た。
救急車がすぐに駆けつけ、血だらけになった女の人を抱きかかえて男の人…チェシャ猫さんは顔色を真っ青にしていた。
今よりほんのちょっと若いけれど―――あれは
やっぱり
チェシャ猫さんだった。
私はベッドから飛び上がると、慌ててチェストの引き出しをひっぱり出した。
そこにはチェシャ猫さんが落として行ったピルケースと、車の中で拾ったデイジーのピアスがあって。
デイジー…
それを取り出し私はマジマジと見つめた。
だけど見つめても何か分かるはずでもなく
私はとうとうそのケースを開ける決意をした。
P.300
まるでパンドラの箱を開けるような気持ちでドキドキと、そのケースの蓋をそっと開けた。
中から出てきたのは希望か
それとも絶望か―――
と言うところだけど、実際そんな大げさなものじゃなく
小さな錠剤が二個と、経口薬が一個。
ピルケースには文字通り薬が入っていただけだった。
―――――
「グッドミン錠に、それからこっちはセレナミン錠、これは―――リスペリドンだね」
薬学部に居る友人にピルケースの中身を見せたところ、六法全書のような分厚い薬事典で友達が調べてくれた。
「この最初のは睡眠薬で、セレナミン錠とリスペリドンは抗うつ剤だよ。
でもリスペリドンはあまり常用する人はいないみたいだね。どっちかって言うと頓服に使われるみたい」
抗うつ――――……
「頓服…?」
「強い不安感や興奮状態のときに服用して気持ちを落ち着かせるの」
「へぇ……」
そんな薬があるなんて存在すら知らなかった。
「これを使用してる人は―――うつ病…かもしかしてノイローゼ?」
そう聞かれて私は「知らない」と言う意味で首をぶんぶん振った。
「まぁ聞きにくるってぐらいだから本当に知らないんだろうね」
友達はメガネを直して真面目に推理。
「持ち歩いている量は少量だし、たぶん他にもたくさん持ってるから無くなってもそれほど焦ってないんじゃない?
日常的に服用しないまでも、持ってるだけでも安心するて言うタイプかもしれないし」
チェシャ猫さんが
うつ病――――……
P.301
「これ持ってた人は朝都の友達?
だったら早く返してあげないとね。それから変に気を遣うのも良くないみたいだよ」
とありがたいアドバイス。
「うつ病は心の風引きって言うからね……いつかは治るよ。それまで周りがしっかり支えてあげないとね」
風邪引きかぁ―――
溝口さんが言ってた。
チェシャ猫さんはたまに酷い熱を出して会社を休むって―――それは心の風引きが影響してるんじゃないだろうか。
精神的にしんどいときって免疫が弱まるしね。
何か―――辛いことでもあったのだろうか。
私は―――
私の周りにはそうゆう人が居なかった。チェシャ猫さんだっていつも元気だし。
そんな素振り見せなかった。言ってほしかったのに―――
けど
「うつ病の人がわざわざ自分から『私、うつ病なんです』なんて言わないよ」
と友達にまたも言われて、まぁそっか……と納得。
今さらながらこんな事実が分かってどうすればいいのか分からず戸惑う。
「ありがと。色々参考になったわ」
解決策は見当たらないけれど、解明された部分もある。
私は薬をピルケースにしまい込んでいると
「あ、これ!Marguerite(マルグリット)のピルケースじゃない!」
と友達は何故かケースに食いついてきた。
Marguerite―――フランス語で雛菊―――
デイジーを意味する。
P.302
「マルグリット?有名なの?」
私が聞くと
「割と有名だよ。ネットで通販販売しかしてないんだけどね、アクセとか超可愛いんだ!
ほしかったんだけど、すぐに売り切れちゃうんだよ」
頼んでもないのに友達はPCでMargueriteのHPを開いてくれた。
よっぽどそのお店が気にいってるのだろう。
トップページはデイジーの花で可愛らしく飾られていて、その下にはずらりと画像入りの商品が掲載させれいる。
でもその商品一覧は結構「sold-out」の赤い文字が目立つ。
「商品は職人さんの全部手作りなんだって。一応掲載はして一般販売もしてるけど、ほとんどが注文を受けての受注発注だからオーダーメイドみたいなものね。
欲しいんだけど、予約制で半年待ち」
友達は小さくため息を吐いて商品をクリック。
クリックしたのは、キラキラしたクリスタルやきれいな色をしたビーズがお洒落な配置でいくつもくっついたブレスレットだった。
お店の名前にもなっているブロンズ製のデイジーのモチーフが中央にぶら下がっていて、
か、可愛い……
ケド
お値段が可愛くない。
それでも欲しいと願う人は後を絶たないようで、これも残念ながら売り切れの文字が。
「クリスマスに彼氏におねだりしようかと思ったんだけど、売り切れじゃぁね」
と友達が唇を尖らせながら他の商品もクリック。
「こっちのピアスも可愛いんだけど、これも売り切れだしぃ」
と言ってクリックしてくれたのは、
こないだチヅルさんが片耳にしていた―――ピアス。
友達はポインタをスクロールして
「でもまぁデザイナーと職人を兼ねてる人が一人っぽいから難しいんだろうね。
きれーな人だよ。ほらっ」
友達は頼んでもないのにわざわざデザイナー紹介の画像を見せてくれた。
そこに映っていたのは
え―――――……
チヅルさん――――……
P.303
それから二日間、私は悩みに悩んだ。
“これ”をどうやって返そう―――と。
五年前―――……あの駅でチヅルさんは事故に遭った。
二人がそのときどういう関係だったのか分からないけれど、先輩後輩なのに名前で呼び合うってのは――――……やっぱりそう言う関係だった―――
のかなぁ……
とにかく、そのときチェシャ猫さんもその場に居て、
一旦は“友達”になったものの
彼は助けられなかったチヅルさんにずっと申し訳ない、と思ってる―――
その罪の意識から病気になっちゃって、今に至る。
要約するとこんな感じかな。
でも
現実はもっときっと複雑で、悲しい話だろう。
でも私がいくら二人の過去を推理したからって、どうにもなることないし……
それにチェシャ猫さんも私と同じよう過去から逃げて、今
私と言う女に目を向けている―――
そうなのかな……
それでいいのかな―――
本当は
チェシャ猫さんはチヅルさんのことが好き――――……
だってチヅルさんがデザインした、作ったピルケースに大事な薬を入れて持ち歩くぐらいなんだもん。
チヅルさんのこと―――
どう思ってるの?
それはまるでパンドラの箱の中身のように、気になるけれど
決して開けてはいけないこと。
それが聞けずに二日間。
私の手の中にはピルケースとピアスが。
それを握っては開いて、の繰り返し。
はぁ
何度目かため息を吐いていると、
「何すか、先輩。恋の悩みスか。新しい彼氏と喧嘩でも?」
と例のごとく後輩君がにやにや笑いで問いかけてくる。
だから“まだ”彼氏じゃないし。
でもそれを説明するのも面倒。
私は黙ったまま机に突っ伏しているときだった。
TRRRR
突如白衣のポケットで電話が鳴り
完全に気が抜けていた私は、ケータイを開いて着信欄に“チェシャ猫さん”の流れる文字を見たとき
「わ、わわ!」
みっともないほど動揺しちゃった。
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だから
『こないだはお見舞いに来てくださってありがとうございました。
おかげ様でもうすっかり元気です。
お礼も兼ねて今日うちに泊まりにきませんか?父から美味しいワインをもらったので』
と言うストレートな誘いに
「は、はい!喜んで」
なんてバカげた返事を返しちゃって、電話を切った後に
「今何て言った!この人」
てか何でそんな流れになる!
ケータイを凝視するも時すでに遅し。
泊まる
とか言っちゃったよ。
私は目を開いてケータイを凝視したまましばらく固まって、動揺しまくっていたのか何故か後輩くんを目配せ。
「どうしたんスか。恋人が事故にでも遭ったんすか」
私の動揺をなんと勘違いしたのか後輩くんが心配そうに私を覗き込む。
事故――――
から
チェシャ猫さんは前に進もうとしている。
本当はチヅルさんを好きかもしれないのに―――
チヅルさんを忘れるために―――
それでいいの―――?
と問いかけたいけれど、
でも
私も同じ。
黒猫を忘れるためにチェシャ猫さんを利用しようとしている。
チェシャ猫さんを責めること
私にはできないよ。
P.305
私はピルケースとピアスを握りしめた。
「決めた!」
今は例のごとく涼子と恋の相談、inカフェテリア!!
「決めたって何を……?あんたの口からその台詞を聞くと、
またとんでもないことやらかすんじゃないかと心配だよ」
と、いつになく涼子がそわそわ。
涼子は―――まだ溝口さんの浮気を疑っているのか、もともと細いのにさらに痩せちゃって可哀想なぐらいカリカリになっている。
涼子を安心させるためにホントのこと言っちゃおうかな…
とか一瞬思っちゃったりしたけど、そんなことしたら今度は私が溝口さんに麻酔薬を打たれちゃう。
お口チャック!と言う意味で私は話題を変えるため
「今日、チェシャ猫さんちに泊りに行く!」
と決意を語った。
涼子は飲んでいた紅茶のカップを
ガシャン……
ちょっと乱暴な仕草で置いて顔を上げると目を開いた。
「え――――………?」
P.306
涼子が何で驚くのか謎だったけれど、
でも
そう決めたもん。
「ちょっと待って…!早過ぎるんじゃない?」
と涼子はカップを置いて身振り手振りで慌てて手をふりふり。
「何でよー…涼子だって溝口さんと付き合う前にキスしちゃったりしたじゃない」
「それはそうだけど……」
涼子は「行け行け~★」てな具合で悪ノリしながら応援してくれると思ったのに。
「何でよ」
もう一度問いかけると
「何でって……まだ早いよ。だってまだチェシャ猫さんのことそこまで詳しく知らないでしょ?」
「別にいいじゃん。これから知っていくってのも」
常識がある人ならこんな関係絶対、不道徳だと言うかもしれないけれど
体からはじまる関係だってある。
そう思いたい。
それに
私はチェシャ猫さんに婚姻届をもらった仲だし―――
何も問題ない。
―――そう思いたい。
とにかくあれこれ考えているとまた考えが鈍っちゃうし、前に進む大事な一歩をいつまでも踏み出せなくなる。
そんなことを考えながらコーヒーに一口口を付けると、向かいの席でカップを大事そうに包んで深刻そうに眉を寄せた涼子がゆっくりと俯いた。
「あのね…朝都―――
ホントのこと言うとね―――」
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ホントのこと―――
私が目をまばたいていると、涼子はゆっくり顔を上げて
「私なの。
私が樗木さんを朝都に会わせたの―――」
今にも泣きだしそうに涼子は瞳を潤ませ、
私はその視線に目をぱちぱち。
「いや…それは分かってるし。だって涼子が合コンに誘ってくれたジャン」
「そうゆう意味じゃなくて」
涼子は抑揚を欠いた声で弱々しく呟いた。
いや、まったく意味が分かりませんが。
と言う意味で目をまばたいていると
「私が頼んだの。溝口さんに―――
朝都を好きなフリしてくれる人をセッティングしてって」
好きなフリ―――………?
え?
「言ってる意味が―――
………分かりませんガ」
私は間抜けにそう答えた。
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「朝都を気になるフリをしてくれる人だったら誰でも良かったの」
涼子は体を乗り出し真剣な目で訴えかけてくる。
私は益々意味が分からず目の前がぐるぐる…回りそうだった。
「えっと……」
何て言っていいのか分からず、私はぐるぐるする視界の中必死に涼子の姿を捉えていた。
「だから
朝都を好きなフリして、ってお願いしたの」
「どうして……」
だめだ。何だか堂々巡りだ。
これじゃ日が暮れても答えが見つからないよ。
質問を変えるために
「じゃぁチェシャ猫さんは私のために演技してくれたって言うの?」
と早々に結論を出した。
声が震えた。
語尾が弱々しく消え入りそうになって、目頭のすぐそばまで涙が出てきそうになる。
「でも
何で―――…」
結局そこに行きついて、私は出かかった涙をぐいと押し込めた。
「朝都に―――
黒猫くんのこと本当はまだ好きだって気づかせるためだよ。
黒猫くん以外の男に言い寄られたら気持ちが復活するんじゃないかと思って」
何でそんなこと―――
P.309
私はテーブルの上でぎゅっと拳を握った。その手が僅かに震えている。
そんなこと―――
「頼んでない」
私の口から出たのは自分でもびっくりするぐらい低い声だった。
「じゃぁ何?チェシャ猫さんの今までのは全部演技だったって言うの?
演技で婚姻届私に渡したってこと…?
サイテー」
チェシャ猫さんも
涼子も―――
それを知っていた溝口さんも
みんなサイテーだ。
知らなかったのは私だけ。
一人浮かれたり沈んだり、バカみたいだ。
それを見て笑ってたってわけ??
涼子は慌てて立ち上がった。
「違うよ!樗木さんにはお願いしたけれど、彼最初は断ってきたらしいの。
合コンに行く気すらないって。それを無理やり溝口さんが連れていってくれたの。
それに
確かに私は朝都に気があるフリをしてくれってお願いしたけれど
樗木さんが朝都のことを気にいったのは本当のことで―――
『本気で好きになった』って溝口さんに宣言したらしいの彼」
だから涼子は焦ってたわけだ。
最初はフリだけで、私の気持ちを気づかせるためだったのに、チェシャ猫さんが本気になって
私も前に進もうかなって思い始めたから……
「はぁー……」
私は盛大にため息を吐き、額に手をやった。
何だそれ―――
何だそれ。
P.310
「何だそれ」
何度目かの心のつぶやきは口に出た。
私は手の隙間から涼子を睨み上げると、涼子は委縮したように肩を震わせてストンと椅子に逆戻り。
「……ごめんね……悪気があったわけじゃないの……私―――」
涼子は俯いたまま唇を噛み視線をあちこちに彷徨わせている。
悪気があっちゃもっとサイテーだよ。
私はテーブルに置いたケータイを眺めた。
白いケータイに白いマウスのストラップ。マウスの背中にはバイオハザードのマークが書かれていて
それを目にしてようやく分かった。
黒猫のときはあんなに元気だったバイオハザードウィルスがチェシャ猫さんのときはとんと大人しかったのは
最初から仕組まれていたことだから。
私はのろのろとケータイを手に取り、
マウスを持つと
ブチッ!
マウスの頭から生えている紐を引っ張って引きちぎった。
「朝都……!」
涼子が驚いて目を見開く。
私はそんな驚いている涼子の顔にマウスのストラップを投げつけた。
投げつける―――と言っても所詮はぬいぐるみだし、そもそもそこまで勢いはつけていない。
マウスは涼子の顔にポスッとぶつかり、涼子の手の中に落ちた。
それでもこの行き場のない怒りはどうすればいいのか。
「バカにしないでよ!私の気持ちを何だと思ってんの――――……!
涼子は溝口さんとバカみたいにラブラブだから、私の気持ちなんてこれっぽっちも気づいてないんじゃない!
だからって無神経すぎるよ!」
一言叫んで
ガシャンっ!!
テーブルを叩くと、涼子も眉を吊り上げて立ち上がった。
「バカみたいに悩んでるのはあんたの方でしょうが!樗木さんがいなくてもいても
あんたはいつまでもうじうじイジイジ。
前を向こうって決めて何度挫折したのよ!
鬱陶しいのよそれを見てると」
涼子に怒鳴られて私は目を開いた。
イタイとこ―――突かれた。
私はケータイを掴むと、500円玉だけテーブルに叩き置いて
「とにかく今後は涼子の指示には一切従わないから」
冷たく言い放って逃げるようにその場を立ち去った。
P.311
信じられない…
信じられない―――
信 じ ら れ な い
親友だと思ってたのに。
何でそんな私の気持ちを無視して勝手なことするの。
何で―――
ただひたすらに走りながら私は涙を流していた。
さっき必死に飲み込んだはずの涙。
チェシャ猫さんの気持ちが演技だったかも―――と思ったときの涙とは種類が違って
これは何だか
痛いよぉ。
心がきゅっと縮まって私は針でチクチクさされているみたいだ。
その痛みに涙が出てくるんだ。
涼子
涼子―――
涼子
ずっと私を裏切ってたなんて
嘘だと言ってよ。
P.312
どこへ向かっていたのか、なんて私自身も分からない。
ただあのカフェテリアから早く逃げ出したくてほとんど走るように廊下を駆けた。
あまり前を向いてなかったから
ドンっ!
誰だか分からないけれど、男の人たち数人にぶつかった。
ここの学生だろう。みんな浩一と同じように白衣をまとっていた。
「……っと!大丈夫?」
ぶつかった相手は私を支えてくれて、
私は嗚咽で言葉も出ず、ただただ頷くしかできなかった。
「―――真田さん……だよね。細胞病理学の。俺のこと知らないかな。クラスは違うけど同じ学部の……」
名前を名乗られても知らない名前だった。
「…大丈夫?何かあった?」
そう聞かれて
「……大丈夫…」
そう答えるのが精一杯。
漏れそうになる嗚咽を堪えるように口元を押さえてまたも歩き出そうとすると
「待って!」
その男子に呼び止められた。
ゆっくり振り返ると
「何があったのか知らないけど……お、俺!話なら聞くよ」
ありがたい言葉だったけれど、ほとんど他人な人に話を聞いてもらう義理もない。
周りに居た男子たちが
「話だけかよ。お前、真田さんのこと気になってたじゃん。お近づきになるチャンスじゃん」
とひそひそ囃し立てる声が聞こえてきて
「……ごめん、今そう言う冗談は……」
言いかけたときだった。
ふいにすぐ背後で背の高い気配を感じて、嗅ぎ慣れた香水とほんのわずかセブンスターの香りが香ってきて
「悪いけど、こいつ今具合悪いみたいだから、俺が連れてく」
あったかい腕が私の手首を掴み
私はその人物に連れられるがまま、その場を後にした。
P.313
「ったく…今度はどーした?
そんな風に泣いてたら、変な男につけ入られるだろーが」
浩一は無理やり浮かべた苦笑いで私を覗き込み、
それでもまだ泣き止まない私は――――浩一のその優しさに触れて
またも涙があふれ出てきた。
どうして浩一はこんなに優しいんだろう。
こないだ私、浩一にヒドイことしちゃったって言うのに…
どうして私はこんな優しい人の手を取らなかったんだろう。
「どうして―――」
何度目かの心の中の呟きは浩一の声と重なった。
「どうして俺は……お前にフられてばっかなのに、前を向けないんだろう。
こんなにもお前の傍に居たいと思うんだろう。
どうして俺は
お前の支えになりたいと思うんだろうな……」
浩一……
ごめんね。
それは私も一緒だよ。
どうして私は黒猫のこと―――忘れられないんだろう。
――――
――
「ほれっこれ飲んであったまるとちょっとは落ち着くぞ?」
そう手渡されたのはあったかいコーンスープの缶。構内にある外の喫煙スペースにあった古びたベンチに腰掛け
「ありがと」
私は鼻をすすりながらその缶を受け取った。
浩一も私の隣に腰掛けてくる。
プルタブを開けて一口それに口を付けると浩一の言った通りちょっと落ち着いた。
まだ嗚咽が喉の奥でくすぶっているけれど、涙はほんの少しだけ渇いた。
頃合いを見計らって
「ちょっと落ち着いた?」と浩一が隣で頬杖をついて聞いてくる。
「………うん、ありがと」
「良かった。……お前ってさ……
ちょっと……いやかなり??てかマジで
………可愛いじゃん?」
浩一が突然
さらりと言って、私はコーンスープの缶を握ったまま思わずコーンを吹き出しそうになった。
P.314
か、可愛いとな!
何を言い出す浩一!!熱でもあるのか?
私は自分より浩一の方が心配になった。
奇異なものを見る目つきで浩一を眺めていると、
「顔だけならね」
としっかり付け加えてくれやがった。
「だからさー…狙ってる男も多いワケよ。いっつも研究以外興味ありませんって顔してるから近づかれないだろうけどー…そんな風に泣いてたら隙だらけなのヨ、
分かる?」
照れ隠しなのか私に軽くデコピンしながら浩一が聞いてきて、私は目をぱちぱち。
いや…私の頭の中は研究どころかバイオハザードウィルスに乗っ取られてるし。
とはさすがに言えなかったけど。
「んで?あの猫と喧嘩でもしたの?」
浩一は呆れたように吐息をついて私から視線を逸らすと遠くを眺めながらぽつり、呟いた。
私はコーンスープの缶をきゅっと握りしめ俯いた。
「違う……
喧嘩の相手は
涼子」
私の言葉に浩一はゆっくりと顔を戻し、目をぱちぱちさせながら
「は?マジで?」
と間抜けな顔で聞いてきた。
P.315
浩一に理由は話せなかった。
けれど浩一は深く理由を問いただすことはなく、ただ真剣な顔で前を向いたまま
「何があったか知らねーけど、早く仲直りできるといいな。
てかできるって。根拠のない自信だけど。
だってお前ら、すっげぇ仲いいじゃん?
姉妹みたいにさ。だから大丈夫だって」
と言ってくれた。
私も―――根拠のない自信だけど浩一がそう言ってくれると本当にそうなれる気がするよ。
結局私は浩一に理由を話せないまま、浩一は時間が許す限りずっと傍に居てくれて―――
そして完全に私が泣き止むと、ご丁寧に研究室まで送ってくれた。
研究室に浩一と二人で顔を出すと
「浩一先輩!お久しぶりです!!」と後輩くんが♥マークを飛ばして浩一をお出迎え。
「最近めっきり来てくれなくなっちゃってー…俺、朝都先輩にいじめられてばかりだったんで寂しかったっす」
と、こっちもまたよけーな一言を(怒)
くくっ
浩一は喉の奥で笑いながらちょっとだけ腰を折っている。
浩一が研究室に来なかった理由は―――私たちが失友したから…なのに―――
その理由を考える雰囲気でもなく、浩一は思いのほかあっけらかんとしてる。
それともフリなのだろうか。
「あ、朝都先輩。ケータイ…のストラップ??変な落書きがしてあるマウスを涼子先輩が届けてくれましたよ。
カフェテリアに忘れていったって」
後輩君にバイオハザードマウスを手渡され
“涼子”の名前を聞いたときズキリと心臓に痛みが走った。
思わず浩一と顔を見合わせると
「大丈夫だって」
浩一は苦笑いで私の頭をぽん。
「なんすか、なんすか!何があったんスか!」
と一人置いてきぼりの後輩くんが私たちの間をいったりきたり。
「別に、何もねーよ。研究に励めよ」
浩一は苦笑いで手を挙げ
「じゃな朝都。またな」
と言って去っていってしまった。
P.316<→次へ>
冬の夜
キミへの気持ちを窓に託しました
たった一言が言えない私は臆病者ですか?
でも今はこれが精一杯
雪に想いを
『次はお天気コーナーです。今日から明日にかけて低気圧が日本の南を発達しながら東北東に進み、明日には日本の東に進む見込みです。
関東甲信地方では今夜から雨が次第に雪に変わり、あす午前中にかけて山沿いを中心に、平野部でも積雪となる所がある見込みです。雪による交通障害、架線や電線、樹木等への着雪、路面の凍結に注意してください』
今朝のワイドショーのお天気キャスターの言葉を思い出したのは、勤めている会社の定時を迎え業務を終えたときだった。
「えー!やだっ!雪降ってるじゃん」と誰からともなく声が挙がり
「ホントだー、私傘持ってきてない」
「どうりで冷えると思った」
と同僚たちが次々と口にする。
またも誰かが「せっかく彼氏に買って貰ったバッグが濡れちゃう」と言い出し、それでもちっとも困った様子ではなく、どこか誇らし気だ。
そしてその周りの女子たちが盛んに羨ましがる。
「いいなー、でもあたし今度のクリスマスにダイヤの指輪ねだっちゃうんだー」と一人の女の子。
「いいなー!」黄色い声に、私は苦笑いを浮かべるしかない。ここでの男の年収と、女の品格は反比例する。いかにいい服を着るか、いかにいいバッグを持つか、いかにいい男を彼氏にするか、年中こんな会話でうんざりする。
かと言って輪に加わらないわけにはいかない。仕事とプライベートの内容こそ比例するのだ。
P.1
「仁科《にしな》さんはいつも素敵な服着てますよね」ふいに一人から話題を振られた。
「えっ、そう?」私は曖昧に笑って言葉を濁した。今日の服装は白いタイトワンピ。腰回りに太いベルトが巻き付いていて、ちょっと豪華に見えるゴールドのバックルがワンポイント。
そして同じくゴールド系のスパンコールが襟元に入ったコートを腕にかけて帰りたいアピール。
シンプルな服装だったけど、流石は目が肥えている女子たち。すぐにそれが高価なものだと見破った。女のチェック程厳しいものはない。私がオシャレをするのは対、男ではなく、彼女たちの為。
「仁科さんてぇ、結婚しないんですかぁ」間延びした話し方が赦されるのはこの年代の特権だ。
「結婚ね……相手がいないから」私は適当にごまかして再び言葉を濁した。
こう言っておけば大抵の女は引き下がる。私が長い間、人付き合いをしてきて、これが最良の方法だと知ったのはつい最近のこと。
私がこの会社に勤めはじめて五年になる。この会社での女性正社員では長いほうだ。後から派遣された若い女の子たちから見れば私なんてお局のようだった。
「そう言えばぁ仁科さん、この前見ちゃったんですぅ」一人の女の子が思わせぶりに口元へ手をやった。
短く切った髪にはパーマがあててあり、傍から見ればマシュマロのように可愛らしい女の子だ。
だが、そんな可愛らしさに惑わされてはいけない。女はいつでも顔の下にしたたかな一面を隠しているのだから。
P.2
「何を?」私は平静を装って取り澄ました。
もしかして“アイツ”と居る所を見られた?と思ってドキリとしたが
「この前の金曜日、青山のイタリアンレストランで、経理の前田さんと一緒にいるところぉ」
ああ、そっちか。とちょっとほっと安堵する。
「ええー!!」周りから黄色い声が飛ぶ。私は思わず頭を押さえたくなった。
そう、確かに経理の前田に誘われて先週の金曜に青山まで行った。
でも食事をしただけで、別に艶かしい関係ではない。だが、ここで重要なのが、経理の前田という男、この会社ではなかなかのハンサムでしかも独身、きさくな性格をしているわりには頼れる上司でもあるのだ。そうゆう男を若い女性社員が放っておくわけがない。
「いいなー、ねえお二人って付き合ってるんですか?」
食事をするイコール男女の関係と、どうして若い子たちはそう短絡的なのだろう。私はこの場から逃げ出したくなった。だけど、この場から立ち去ると認めたことになってしまう。
「別に、ただお食事に誘われただけよ」
「うそー、絶対前田さん仁科さんのこと狙ってるわよぅ。だって、あたしたちがいくら誘っても全然だったのよー。それなのに前田さんは仁科さんのこと」
嫉妬心と羨望の眼差しで見られ、私は思わず後ずさり。
何とか前田との話を切り返し、従業員出入り口から女子の群れに混ざって出てきた所だった。
遠くで派手なエンジン音が聞こえてきて、この狭い路地裏へと近づいてきた。この聞き慣れたエンジン音。私は嫌な予感がして思わず一方通行の標識を見つめた。
「よーう、仁科」黒のポルシェの窓から腕を出し、銜えタバコをしながら九条《くじょう》が手を振っている。
「やっぱり」
私は、今度こそ頭痛をこらえるように頭をしっかりと押さえた。
P.3
「仁科、今終わりか?これから飯でも食わねー?」
この状況を知らずに能天気に笑ってるその整った横っ面に今すぐ張り手を食らわせたい。
「あ、あんたいつ東京に戻ってきたわけ?」私は女の子の群れから一人離れると、九条の車に近づいた。
「あー、悪い。三日ぐらい前かな?この前言ってた日本料理屋行こうぜ」
「あんたっていつも何で急なのよ」
私が声を潜めて九条を睨んでいるときだった。
「えー、仁科さんの彼氏さんですかぁ?かっこいい!」
女の子たちの視線が九条に移った。予想していなかった最悪の事態。
上半身しか見えなかったが、今日の九条は黒いジャケットの中に白いカットソーを着ていて、真冬だって言うのに襟ぐりに濃いサングラスをかけている。いつものように髪をラフにセットしてあって、左耳には輪っかのようなピアスが三つ光っていた。
そう
どこからどーみてもこいつは
ホスト。
P.4
「仁科、今終わりか?これから飯でも食わねー?」
この状況を知らずに能天気に笑ってるその整った横っ面に今すぐ張り手を食らわせたい。
「あ、あんたいつ東京に戻ってきたわけ?」私は女の子の群れから一人離れると、九条の車に近づいた。
「あー、悪い。三日ぐらい前かな?この前言ってた日本料理屋行こうぜ」
「あんたっていつも何で急なのよ」
私が声を潜めて九条を睨んでいるときだった。
「えー、仁科さんの彼氏さんですかぁ?かっこいい!」
女の子たちの視線が九条に移った。予想していなかった最悪の事態。
上半身しか見えなかったが、今日の九条は黒いジャケットの中に白いカットソーを着ていて、真冬だって言うのに襟ぐりに濃いサングラスをかけている。いつものように髪をラフにセットしてあって、左耳には輪っかのようなピアスが三つ光っていた。
そう
どこからどーみてもこいつは
ホスト。
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でも勘違いしてもらっては困る。私はこいつの客じゃない。東京を離れていたのも、大方客の一人と遠征旅行でもしていたのだろう。
「違っ!こいつとは単なる腐れ縁。彼氏とかじゃないから」
と慌てて否定するも秒の単位で噂が回るこの会社で明日の朝には『仁科さんて、ホストに貢いでるらしいよ』とあちこちで言われるに違いない。
くらり、と眩暈が起きた。
腐れ縁、と言うのは間違いない。中学からの同級生だから。
「じゃあ、本命は前田さんですかぁ?」女の子達が興味津々で目を輝かせている。
「前田??ひどいなー、仁科ぁ。俺たち何度もセック……もがっ」
最後の方が言葉にならなかったのは私の手が九条の口を塞いだから。
ふざけんな!何言い出すんだこいつぁ!!
空気読めっつうの!
と言うことを目で訴えると、流石に冗談が過ぎたと思ったのか九条は苦笑い。
「で?行くの?行かないの?」せっかちに聞かれて
「わかったわよ!行くわよ」半ば怒鳴るように九条を睨みつけると、私はそそくさと助手席に回った。
「それじゃ、私はこれで。お先に」女の子たちにはなるべく平静を装って、にこやかに手を振る。
ため息をついて車の助手席を開けると、運転席から九条が笑顔で手を差し伸べてきた。
「ただいま、仁科」
昔とちっとも変わらない笑顔。眉が下がり、目を細める、優しい笑顔。そして時々その低い声で呼ばれる、自分の名前。何だかくすぐったいが、この笑顔を向けられたら、たとえ九条の勝手に振り回されても、赦せてしまう。
「……おかえりなさい」私は俯くと、小さく返事を返した。
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前述した通り私と九条とは中学からの付き合いだ。かれこれ十年以上の付き合いになる。十年、と言う歳月は長く感じられるけれど、その間に音信不通になったり、そしてどこからか連絡先を入手して電話を寄越して来たり、をだらだらと繰り返している。
でも、私たちははっきりと『付き合って』はいない。もちろん九条のブラックジョークの『体の関係』もない。
あるのは中学生から変わらないノリと
私が九条のこと「好き」
と言うことだけ。歳を重ねて、九条がホストになって……あ、今はホストじゃなくホスト店を経営してるオーナー様でもあったかしら。とにかく環境は変わったものの、不変的な何かは確実に存在している。
パワーウィンドウの外をちらほらと雪が降っていた。
「北海道行ってきたんだ~土産に蟹買ってきてやったぞ」と九条は運転しながらどこか楽しそう。
「北海道……ここより雪が多そうね」ぼんやりと呟きながら、九条に気づかれない程度にこっそりと、外気との差で曇った窓ガラスに、人差し指で
『好き』
と書く。
私の書いた文字は私の体で隠れて九条からは見えない。
「蟹すきしようぜ~、お前んちで」
「何であんたを一々上げないといけない?」
言い合いをしながら、やがて私のマンションに着く頃にはみぞれになった大粒の白いものが私の『好き』をかき消す。
「だってお前んち床暖あるじゃん?」
「そんな理由かよ」
中学生から変わってないこの関係とノリ。
今はまだ―――
この関係でいいや。
~FIN~
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