Chat Noir -黒猫と私- Deux(2nd)
Cat
№44 黒猫の雨宿り
『黒猫の雨宿り』
チェシャ猫さんの腕の中で雨宿りをしただけ。
同じくチェシャ猫さんも私の腕の中雨宿りをしているだけだ。
P.317
その日は結局研究をして、でも集中できるはずもなく
私は早々に研究を切り上げて帰ることを決意。
帰る道々、私はチェシャ猫さんに電話を掛けた。
お泊りを断るつもりでいたのにいざ
『今日、楽しみにしています』
と本人の声を聞くと、断れない弱い自分。
はぁ
深い深いため息を吐きながら、何だか怪しい雲行きの空を見上げると
どんよりと灰色の分厚い雲が頭上いっぱいに広がっていた。
電車の中ですれ違った人はその半数が大きな傘を持っていて、
今日……雨降るって予報だったっけ……
ニュースは一通りチェックするけれど、最近何故だか集中できずにぼんやりと耳に入れているだけだ。
もっとしっかりしなきゃ。
軽く頭を振って、乗り換えの電車が到着していることに気づいた。
それは自分の家に向かう電車ではなく、チェシャ猫さんのおうちに向かう方面だったことに気づいたのはそのすぐあと。
しっかりしなきゃ、と思った矢先に失敗しているし。
チェシャ猫さんが迎えに来てくれるから一度家に帰るつもりでいたのに。
慌てて降りようとして、私はふとその足を止めた。
向かい側の電車の窓際に見知った背中を発見したからだ。
黒い―――
ふわふわの髪。
何度もあの髪に手を触れた。
制服の紺色ジャケット―――あのジャケットを何度も脱がせたいと想像した。
ワイシャツに包まれた肢体はしなやかで美しい“男”の筋肉をしていることも知ってる。
黒猫
倭人――――…
どうして――――……
思わず両手で口を覆って、彼から見えないように体を反転させるも、慌てて
「降りなきゃ!」と思っても何故だか足が床に吸い付いて動けない。
向こう側の電車は―――なんてことない……黒猫の家の方角に向かう電車で―――
黒猫が乗っててもおかしくないことに気づいた。
またもガラにもなく『運命』とか思っちゃう自分がイタイ。
けどそんな『偶然』でさえもやっぱり『運命』て頭の中で変換しちゃうよ。
これもバイオハザードウィルスのせいなのかな……
私はまたもそっと体を反転させ黒猫の背中に向き合い、ガラスの窓越しにその背中にそっと手を這わせた。
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電車の窓にそっと指を這わせる。
黒猫の髪を―――またいつもように何の抵抗もなく撫で撫でしたくて、
そうしてる気分に近づくため、ガラス越しに―――彼の頭にそっと触れる。
バカみたいだけど、はたからみたらかなりイタイ女だけど―――
でもこの瞬間だけは―――黒猫は私の手の中。
可愛い可愛い
私の猫ちゃん。
指先を僅かに動かす。
黒猫は一人で、
まさか反対側の電車に私が乗っているとは知らず―――音楽を聞いているのだろうか耳からイヤホンのコードが伸びていて
時折イヤホンの調子を直しながら前を向いている。その横顔は相変わらず無表情だったけれど
時折切なそうに眉の端がぴくり、と動く。
何を聴いているのか気になった。
切ないバラード?
ちなみに私は切ないバラードの音楽を最近では一切聞いていない。
黒猫や自分とリンクさせちゃうから―――思い出しちゃうから。
臆病な飼い主で
ごめんね。
黒猫はやがて小さく吐息をつく気配があり、身じろぎするように肩を上下させると何の予告もなしにふいに振り返った。
――――……!
突然のことで私は振り返ることもできず。
黒猫とこちら側に居る私とが目が合うと―――私も……だけど
当然黒猫も目を開き―――
慌てて手をひっこめようとしたものの
バンっ!
黒猫は両手を窓に付き、何事か口を動かした。
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その表情はひたすらに驚いているようでその大きな目を目いっぱい開いて、次の瞬間嬉しそうにくしゃりと笑う。
私の大好きな―――無邪気な太陽みたいな笑顔。
だけどその一瞬は文字通り“一瞬”で
『間もなく三番列車が発車いたします』と無情な場内アナウンスの音とともに
プシュッ
電車の扉が閉まる。
私の乗った電車は動き出し―――黒猫を置き去りにしてゆっくりと車体が動き出した。
黒猫は焦ったように狭い車内を移動して、やがて窓に手をついたまま
またも口を動かす。
私は黒猫を置き去りにしたまま、電車の動きにただじっと身を任せて彼の行方を目をそらさずじっと見つめることしかできなかった。
黒猫の最後の言葉
『すきだ』
口がそう動いた気がした。
泣きたいほど嬉しいけど―――同時に泣きたいほど悲しい。
私の乗った電車は動き出す。
私の気持ちを乗せて―――
黒猫の気持ちを置き去りに……
走り出す。
P.320
ガタンゴトン……
電車に揺られながら、私は窓際から離れられることができなかった。
結局……この電車に乗ってここまで来ちゃったし。
気づけばチェシャ猫さんのおうちの駅はもうあと二駅。戻るのもどうかと思われた。
諦めてチェシャ猫家に直接向かうことを決意したのは、実はたった今―――
窓の外を眺めながら―――……一見して外の景色を眺めているようにも見えるけど、本当のところは窓ガラスに映った黒猫の残像をいつまでも追いかけてる。
そうしているうちに残像がホンモノにならないだろうか―――とバカげた妄想を思い浮かべて。
私はぎゅっとバッグを握った。
バッグの中の手帳にはチェシャ猫さんからもらった婚姻届けと―――
黒猫不在連絡ひょーが入っている。
お届け物:LOVE
もう賞味期限は過ぎていますか?
まだ大丈夫ですか?
早く取りに行かないと腐ってしまう―――と分かっていても、そのお届け物を取りにいけない私は心底臆病者だ。
チェシャ猫さんと同じ―――
大切な人とは手を繋ぎたい。
ようやくその意味することの本当の大切さを知った気がした。
こんなに後悔するのなら、私―――何が何でも黒猫の手を握っていれば良かった。
けど
もう遅い。
黒猫の残像だけを浮かべた窓に―――やがて雨の粒がくっつきだした。
ザー…
車外で雨の降る音が聞こえる。
その雨のせいで、黒猫の残像は歪んでやがて流されて
消えちゃった。
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ほとんど何も考えずにチェシャ猫さんの家の最寄り駅で電車を降りた。
迎えに来てくれる、って言ってたけど予定よりだいぶ早いけど―――
でも
何でかな。
一刻でも早く会いたくて―――
ロマンチックな理由ではなく、目に焼き付いた黒猫の残像を消してほしくて。涼子とのいざこざを忘れたくて―――
私はどこまで卑怯な女―――
これじゃやってることロシアン葵ちゃんと変わらないよ。
バイオリン教室の先生が好きで好きで、大好きで―――その気持ちに蓋をするために黒猫と付き合ったって言ってた。
私も黒猫のことが好きで好きで
大好きで―――
涼子のことが好きで好きで大好きで―――
二人のことを考えると、二人を傷つけたことを考えると―――
このどうしようもなく不甲斐ない自分がイヤになって、だけどこんな自分を受け入れてくれるのは
きっとチェシャ猫さんしかいないんだ―――
――――
駅に到着したときから小雨が本降りになっていた。
赤や黄色、ピンクや青―――
カラフルな傘の波の中、私は一人傘もささず…と言うか持ってなかっただけなんだけど、
次第に強まる雨を体に打ち付け、ひたすらにチェシャ猫さんのおうちへと急いだ。
急いだつもりだったのに―――その足取りは酷く重い。
そのせいでつま先が何も当たっていないのにも関わらず、私は派手に転んだ。
こんなときに限って……スカートで来ちゃった私。
膝を擦りむいて赤く擦り傷がついている。
道行く人が転んだ私を見て、心配そうにあるいは迷惑そうに避けて行った。
前にもあった。こんなこと―――
そう
あれは黒猫のマンションの下でロシアン葵ちゃんと会っちゃったときだ。
あのときも雨が降っててこんな風に派手に転んだ。
学習しない私。
「あーあ……何やってんの、私……」
あのときはトラネコくんが助け起こしてくれた。
けれど今は―――
たった一人……
一人起き上がり、またも足を引きずるようにチェシャ猫さんのおうちについたときは、体がひどく冷え切っていた。
体だけじゃなく―――
心も
降りしきる雨のように―――くすんでいて冷たい。
今日はおうちデートなのに…
はじめてのお泊りなのに…こんなドロドロでみっともない姿―――見せられるものじゃない。
そう思っていたのに、私の足はひたすらにチェシャ猫さんのおうちへと向かっていた。
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――――
――
「真田さん!どうしたんですか!!ずぶぬれじゃないですか!」
幸いにも私がチェシャ猫家に向かうと、チェシャ猫さんは会社から帰ったばかりだったようだった。
上着こそ着ていなかったもののいつものワイシャツネクタイのスーツ姿で登場し、驚いたように目を丸めている。
「傘!傘、どうぞ!あ、タオルも!」
チェシャ猫さんは玄関を引き戻し慌てて大き目の傘を私の頭上に掲げてくれる。
嘘なんでしょう?
その言葉も、その行動も全部―――涼子と溝口さんに頼まれたから
私に優しくしてくれるんでしょう?
そう思ったけれど、その考えは何故か口から出なかった。
嘘―――
だと
思いたくないよ。
信じたいよ。
それがホンモノだって。
――――いつだったか、黒猫が雨の中私を待っていてくれたことがある。
あのときの黒猫も傘を持っていた―――
ふらっ
私は酔っ払いみたいな足取りでチェシャ猫さんに近づくと、
「濡れちゃうかもしれませんが……私ドロドロですけど……すみません」
一応断りを入れ、頭に「?」マークを浮かべているチェシャ猫さんに…私は
予告もなしに彼の細い腰に腕を回し抱き付いた。
嘘でもいい。
この瞬間だけは―――私を抱きしめ返して。
偽りでもいい。
早く――――忘れさせて。
バシャン…!
水が跳ねる音が聞こえてきて、それがチェシャ猫さんの手から離れた傘が地面に落ちた音だと気づいた。
傘が落ちて、また私の頭上に雨が降り注ぐ。
でもそれはほんの一瞬のことで
すぐにその雨から私を守るように―――チェシャ猫さんが私の頭を抱き寄せ―――
今だけは―――嘘でもいい……
私の心の声は降りしきる雨の音でかき消された。
私は彼の腕の中、降りしきる雨の粒でごまかすように
涙を流した。
チェシャ猫さん
本当は気づいていたんだろうな―――
私が泣いてること。
でも気づかないふりで、何も聞かずに――――ただぎゅっと強く私の頭を抱き寄せてくれる。
チェシャ猫さんは嘘つきなんだろうか。
優しい人なのだろうか。
分からないけれど、この腕の中がただ心地いい。
涙を浮かべ滲んだ視界の中――――同じように雨に濡れて、項垂れながら道の端を歩く小さな黒いネコを見た。
そのネコは野良猫なのだろうか、ひたすら雨宿りができる場所を探しているようでうろうろしている。
黒猫―――倭人の気持ちも一緒なのかな。
今頃―――悲しみと言う雨から逃れるため、雨宿り先を必死で探しているのだろうか―――
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――――
――
「シャワーありがとうございます」
私はチェシャ猫家に招かれると、『風邪ひくからすぐに入ってください』とすぐにシャワーを勧められた。
ほとんど何も言うことなく私はチェシャ猫さんの提案にただただ頷いて
勧められるままシャワーを浴びた。
チェシャ猫さんが着替えで用意してくれた彼のボーダーのカットソーは、私が着るとワンピースみたいになった。
私の着ていた服…ブラウスとスカートはチェシャ猫さんが洗濯してくれている。
重ね重ね……スミマセン。
いくらか冷静になった私はひたすら謝ることしかできなかったけれど、チェシャ猫さんは気にしてない様子。
食欲なんてまるでなかった私は当然夕食を摂る気もなれず、チェシャ猫さんは気を遣って
「僕の部屋で先に横になっててください。ゆっくり寝ちゃって疲れを取った方がいいですよ」
と
またも勧めてくれて―――
‟部屋”て単語に一瞬だけドキリとしたけれど、でもチェシャ猫さんの言葉には深い意味なんてなさそうで―――
私はお言葉に甘えて一人彼の部屋に向かった。
主が居ない部屋で一人明かりもつけず―――ただ大きなベッドに腰掛けてぼんやり。
これから“しよう”としているベッドなのにちっともやらしく感じないのは、チェシャ猫さんにその気がなさそうだからか―――
それとも私がそれほど重要視してないからだろうか。
どちらの理由か分からなかったけれど
ひんやりと冷え切ったシーツの上に指を這わせると、「横になっててください」と言う言葉通りにできなかった。
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それから数分後にシャワーを浴び終えたチェシャ猫さんが、濡れた頭にタオルを乗せてガシガシと拭いながら部屋に入ってきた。
部屋着…色違いのボーダーカットソーにチノパンと言う恰好だ。
よっぽど慌ててきたみたいで、まだ黒い髪の先から滴が滴り落ちていて、その滴が目に入ったのかチェシャ猫さんは目をしかめて入ってきた。
目を離した隙に私が居なくなるとか考えたのかな…
私は―――居なくなったりしないのに。
暗い部屋の中、ただぼんやりベッドの上で体操座りをしている私を見つけるとチェシャ猫さんが一瞬びっくりしたように目を開いた。
「電気もつけずにどうしたんですか…?あ、それとももう寝ます…?」
明かりを消したままの部屋の中―――チェシャ猫さんの裸足が…フローリングをペタペタ鳴らす音だけが響いた。
「……いえ……」
私は何とか顔を上げるとチェシャ猫さんを見上げた。
部屋の扉は開けっ放しになっていて、廊下から漏れる明かりの僅かな光がチェシャ猫さんを照らし出している。
それは暗い部屋に幻想的に浮かび上がり―――まるで半分透明の―――
チェシャ猫を思わせた。
チェシャ猫さんは私の隣に座ると
私の抱えている膝に手をそっと伸ばしてきた。
チェシャ猫さんの手がそっと私の膝に乗せられる。
熱い
手のひらだった。
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ドキリ
として目をまばたく。
だって突然のことだったから。
覚悟はしていた。
そうなるつもりでいた。
けれど予想もできないタイミングで予想もできない動きをされると―――
ううん。予想もできない行動なんかじゃなかった。
私がその行動から目を反らそうとしていただけ。
ちゃんと――――向き合わなきゃ。
それでも
ピクリ
私の膝が小さく動いた。
むき出しの膝は外気にさらされて冷たく寒い―――はずなのに触れられた場所だけ熱を持ったように熱い―――
「ちっちゃな
膝小僧―――ですね」
チェシャ猫さんは手のひらの熱さとは違って温かい笑顔を浮かべながら私の膝……ではなく膝小僧にそっと触れ
「怪我―――してる。手当てしなきゃ」
と言って、ごそごそズボンのポケットを探ると、絆創膏を取り出した。
怪我―――………
そっか。
そうだった。
私、転んだんだっけ―――
今の今まで擦り傷を作っていたことを忘れていた自分。
それどころじゃない、ってのが正直な感想だ。
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チェシャ猫さんは丁寧な手つきで絆創膏を貼ってくれて、貼り終えると
「こないだ渡した消エタ―――効果ありでしたか―――……?」
と遠慮がちに聞いてきた。
消エタ―――……
『僕が見たところ、真田さんは―――
心に傷を負っているように見えたので、
大切なものを失って傷ついているように見えました。
これで消毒してください』
以前のチェシャ猫さんの言葉を思い出す。
私は肯定する意味で小さく頷いた。
するとチェシャ猫さんは、うっすら笑って
ふわっ
前置きもなく私を後ろからそっと抱きすくめると、
トサッ
そのまま私をそっとベッドに倒した。
今度は驚かなかった。
もう準備はできていた。心の準備が―――
無言でチェシャ猫さんを見上げると、彼の顔にはこれから“しよう”と言う雰囲気は微塵もなく、ただ苦しそうに眉を寄せて私の頬をそっと
まるで壊れ物を扱うような丁寧な仕草で撫で上げた。
さっき熱を持ったように熱かったその指先は、外気に触れてひんやりと
冷たかった。
「あれ
嘘です」
え――――……?
「本当は願っている。
俺は―――
真田さんが傷ついて傷ついて
壊れちゃえばいいって」
え――――…………
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チェシャ猫さんはさらに眉を寄せると眉間により一層深く皺を刻んだ。
それは人を傷つけて楽しんでいるその表情じゃなかった。
嘘で塗り固めた仮面の顔じゃなかった。
作り物のように整った美しい顔の―――はじめて苦痛に歪んだ顔を見て私はまばたきもせずじっとその姿を見据えた。
「傷ついて、傷ついて―――ボロボロになったら」
――――僕は―――大切な人を作るのが苦手です
「あなたはもっともっと―――俺を見てくれるんじゃないか」
――――誰かに僕の内側に入ってこられるのも、僕が深く入り込むのもどちらも
「それがまやかしの気持ちでも」
――――失うのが怖いんですよ。
だから他人と距離を取るんです。男でも女でも
「少しでもこっちを見てほしい―――
そう願っている」
――――深く関わらなければ、失ったときの悲しみも少ない。
「俺は」
―――僕は
「卑怯な男なんです」
――――臆病者で卑怯者なんです。
「心底」
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チェシャ猫さん―――……
私は今度は驚かなかった。
やっと―――やっとつながった。
ずっと何だか壁を感じていた。
その正体が何だか分からずもやもやしていたけれど、今ようやく―――
私はチェシャ猫さんと同じように彼の頬をそっと撫で上げ彼をまっすぐに見据えた。
そこは私の傷ついた膝小僧と同じ温度をしていた。
―――だから誓ったんです。
僕は次に付き合った人を大切にします。
絶対にこの手を自ら離すことはしません。
絶対に―――
手を繋ぐ。
それはチェシャ猫さんにとって大事なことであって、使命でもあるんだ。
「今日は
抱きしめてください。うんと強く。
抱っこしながら眠りましょう」
私の提案にチェシャ猫さんは悲しそうに笑い、小さく頷くと私をそっと抱きしめてくれた。
温かい体温に包まれ、私もそのぬくもりを抱きしめ返す。
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僅かに振り返ると、チェシャ猫さんは笑っていた。
心で泣きながら―――必死に笑顔を浮かべている。
あなたは泣いてる。
笑いながら―――泣いてる。
「どうして………怖くないんですか…僕が……こんなこと考えている僕が―――」
チェシャ猫さんが強引に浮かべた笑顔を私に向けてきて、私はそれに同じ笑顔を返した。
「怖くなんて―――ない」
私は彼の腰ら辺を―――カットソーの上からぎゅっと掴んだ。
「怖くなんてないです」もう一度呟いて
私はチェシャ猫さんを抱き寄せると、その肩にそっと―――そっと…顔を乗せた。
チェシャ猫さんの手が遠慮がちに私の頭に伸びてきた。
優しく、優しく髪を撫でられる。
今日は手を繋ぐんじゃなくもっと近く、もっと距離を縮めて
私たちは抱き合ったまま布団にもぐりこみ
けれどそれ以上をすることはなくただ静かに目を閉じた―――
やがて数分後、チェシャ猫さんの寝息が聞こえてきて
私は彼の頬に再び手を伸ばすとそっとその頬を撫で上げた。
「やっぱりチェシャ猫さんは嘘つきだ」
ぽつりと呟いたその声は弱々しく広い室内に吸い込まれていった。
チェシャ猫さんのさっきのあの言葉―――
あれは私に向けた言葉じゃない。
あれは
自分自身に向けた言葉だ。
もっともっと傷つけて
自分を追い込んで―――
壊れてしまえばいい。
チェシャ猫さんは自分のことをそう考えている。
チヅルさんのことを想って―――
どんないきさつがあったのか分からないけれど、大切な人を救えなかったと―――チヅルさんを傷つけたのが自分だ―――と追い込んで―――
壊 レ テ シ マ エ バ イ イ
チェシャ猫さんの声がいつまでもこだましている。
P.330
その日一晩、雨は降り続いた。
私はチェシャ猫さんの腕に抱っこされながら、その腕の中―――窓を打ち付ける雨の音に耳を傾けていた。
サラサラサラ…
流れるような音に耳を傾け、その音は―――しとしと……まるで空が泣いているかのように思えた。
私は
チェシャ猫さんの腕の中で雨宿りをしただけ。
同じくチェシャ猫さんも私の腕の中雨宿りをしているだけだ。
皮肉なことに、こうなってはじめて気づいた。
私たちは―――向き合う人を間違えていた。
明日は晴れるだろうか。
空が明るくなって、もう悲しみに涙を流さないよう
今日だけは雨宿り。
この温かい腕の中―――
明日は
晴れてほしい。
P.331<→次へ>
冬の夜
キミへの気持ちを窓に託しました
たった一言が言えない私は臆病者ですか?
でも今はこれが精一杯
雪に想いを
『次はお天気コーナーです。今日から明日にかけて低気圧が日本の南を発達しながら東北東に進み、明日には日本の東に進む見込みです。
関東甲信地方では今夜から雨が次第に雪に変わり、あす午前中にかけて山沿いを中心に、平野部でも積雪となる所がある見込みです。雪による交通障害、架線や電線、樹木等への着雪、路面の凍結に注意してください』
今朝のワイドショーのお天気キャスターの言葉を思い出したのは、勤めている会社の定時を迎え業務を終えたときだった。
「えー!やだっ!雪降ってるじゃん」と誰からともなく声が挙がり
「ホントだー、私傘持ってきてない」
「どうりで冷えると思った」
と同僚たちが次々と口にする。
またも誰かが「せっかく彼氏に買って貰ったバッグが濡れちゃう」と言い出し、それでもちっとも困った様子ではなく、どこか誇らし気だ。
そしてその周りの女子たちが盛んに羨ましがる。
「いいなー、でもあたし今度のクリスマスにダイヤの指輪ねだっちゃうんだー」と一人の女の子。
「いいなー!」黄色い声に、私は苦笑いを浮かべるしかない。ここでの男の年収と、女の品格は反比例する。いかにいい服を着るか、いかにいいバッグを持つか、いかにいい男を彼氏にするか、年中こんな会話でうんざりする。
かと言って輪に加わらないわけにはいかない。仕事とプライベートの内容こそ比例するのだ。
P.1
「仁科《にしな》さんはいつも素敵な服着てますよね」ふいに一人から話題を振られた。
「えっ、そう?」私は曖昧に笑って言葉を濁した。今日の服装は白いタイトワンピ。腰回りに太いベルトが巻き付いていて、ちょっと豪華に見えるゴールドのバックルがワンポイント。
そして同じくゴールド系のスパンコールが襟元に入ったコートを腕にかけて帰りたいアピール。
シンプルな服装だったけど、流石は目が肥えている女子たち。すぐにそれが高価なものだと見破った。女のチェック程厳しいものはない。私がオシャレをするのは対、男ではなく、彼女たちの為。
「仁科さんてぇ、結婚しないんですかぁ」間延びした話し方が赦されるのはこの年代の特権だ。
「結婚ね……相手がいないから」私は適当にごまかして再び言葉を濁した。
こう言っておけば大抵の女は引き下がる。私が長い間、人付き合いをしてきて、これが最良の方法だと知ったのはつい最近のこと。
私がこの会社に勤めはじめて五年になる。この会社での女性正社員では長いほうだ。後から派遣された若い女の子たちから見れば私なんてお局のようだった。
「そう言えばぁ仁科さん、この前見ちゃったんですぅ」一人の女の子が思わせぶりに口元へ手をやった。
短く切った髪にはパーマがあててあり、傍から見ればマシュマロのように可愛らしい女の子だ。
だが、そんな可愛らしさに惑わされてはいけない。女はいつでも顔の下にしたたかな一面を隠しているのだから。
P.2
「何を?」私は平静を装って取り澄ました。
もしかして“アイツ”と居る所を見られた?と思ってドキリとしたが
「この前の金曜日、青山のイタリアンレストランで、経理の前田さんと一緒にいるところぉ」
ああ、そっちか。とちょっとほっと安堵する。
「ええー!!」周りから黄色い声が飛ぶ。私は思わず頭を押さえたくなった。
そう、確かに経理の前田に誘われて先週の金曜に青山まで行った。
でも食事をしただけで、別に艶かしい関係ではない。だが、ここで重要なのが、経理の前田という男、この会社ではなかなかのハンサムでしかも独身、きさくな性格をしているわりには頼れる上司でもあるのだ。そうゆう男を若い女性社員が放っておくわけがない。
「いいなー、ねえお二人って付き合ってるんですか?」
食事をするイコール男女の関係と、どうして若い子たちはそう短絡的なのだろう。私はこの場から逃げ出したくなった。だけど、この場から立ち去ると認めたことになってしまう。
「別に、ただお食事に誘われただけよ」
「うそー、絶対前田さん仁科さんのこと狙ってるわよぅ。だって、あたしたちがいくら誘っても全然だったのよー。それなのに前田さんは仁科さんのこと」
嫉妬心と羨望の眼差しで見られ、私は思わず後ずさり。
何とか前田との話を切り返し、従業員出入り口から女子の群れに混ざって出てきた所だった。
遠くで派手なエンジン音が聞こえてきて、この狭い路地裏へと近づいてきた。この聞き慣れたエンジン音。私は嫌な予感がして思わず一方通行の標識を見つめた。
「よーう、仁科」黒のポルシェの窓から腕を出し、銜えタバコをしながら九条《くじょう》が手を振っている。
「やっぱり」
私は、今度こそ頭痛をこらえるように頭をしっかりと押さえた。
P.3
「仁科、今終わりか?これから飯でも食わねー?」
この状況を知らずに能天気に笑ってるその整った横っ面に今すぐ張り手を食らわせたい。
「あ、あんたいつ東京に戻ってきたわけ?」私は女の子の群れから一人離れると、九条の車に近づいた。
「あー、悪い。三日ぐらい前かな?この前言ってた日本料理屋行こうぜ」
「あんたっていつも何で急なのよ」
私が声を潜めて九条を睨んでいるときだった。
「えー、仁科さんの彼氏さんですかぁ?かっこいい!」
女の子たちの視線が九条に移った。予想していなかった最悪の事態。
上半身しか見えなかったが、今日の九条は黒いジャケットの中に白いカットソーを着ていて、真冬だって言うのに襟ぐりに濃いサングラスをかけている。いつものように髪をラフにセットしてあって、左耳には輪っかのようなピアスが三つ光っていた。
そう
どこからどーみてもこいつは
ホスト。
P.4
「仁科、今終わりか?これから飯でも食わねー?」
この状況を知らずに能天気に笑ってるその整った横っ面に今すぐ張り手を食らわせたい。
「あ、あんたいつ東京に戻ってきたわけ?」私は女の子の群れから一人離れると、九条の車に近づいた。
「あー、悪い。三日ぐらい前かな?この前言ってた日本料理屋行こうぜ」
「あんたっていつも何で急なのよ」
私が声を潜めて九条を睨んでいるときだった。
「えー、仁科さんの彼氏さんですかぁ?かっこいい!」
女の子たちの視線が九条に移った。予想していなかった最悪の事態。
上半身しか見えなかったが、今日の九条は黒いジャケットの中に白いカットソーを着ていて、真冬だって言うのに襟ぐりに濃いサングラスをかけている。いつものように髪をラフにセットしてあって、左耳には輪っかのようなピアスが三つ光っていた。
そう
どこからどーみてもこいつは
ホスト。
P.4
でも勘違いしてもらっては困る。私はこいつの客じゃない。東京を離れていたのも、大方客の一人と遠征旅行でもしていたのだろう。
「違っ!こいつとは単なる腐れ縁。彼氏とかじゃないから」
と慌てて否定するも秒の単位で噂が回るこの会社で明日の朝には『仁科さんて、ホストに貢いでるらしいよ』とあちこちで言われるに違いない。
くらり、と眩暈が起きた。
腐れ縁、と言うのは間違いない。中学からの同級生だから。
「じゃあ、本命は前田さんですかぁ?」女の子達が興味津々で目を輝かせている。
「前田??ひどいなー、仁科ぁ。俺たち何度もセック……もがっ」
最後の方が言葉にならなかったのは私の手が九条の口を塞いだから。
ふざけんな!何言い出すんだこいつぁ!!
空気読めっつうの!
と言うことを目で訴えると、流石に冗談が過ぎたと思ったのか九条は苦笑い。
「で?行くの?行かないの?」せっかちに聞かれて
「わかったわよ!行くわよ」半ば怒鳴るように九条を睨みつけると、私はそそくさと助手席に回った。
「それじゃ、私はこれで。お先に」女の子たちにはなるべく平静を装って、にこやかに手を振る。
ため息をついて車の助手席を開けると、運転席から九条が笑顔で手を差し伸べてきた。
「ただいま、仁科」
昔とちっとも変わらない笑顔。眉が下がり、目を細める、優しい笑顔。そして時々その低い声で呼ばれる、自分の名前。何だかくすぐったいが、この笑顔を向けられたら、たとえ九条の勝手に振り回されても、赦せてしまう。
「……おかえりなさい」私は俯くと、小さく返事を返した。
P.5
前述した通り私と九条とは中学からの付き合いだ。かれこれ十年以上の付き合いになる。十年、と言う歳月は長く感じられるけれど、その間に音信不通になったり、そしてどこからか連絡先を入手して電話を寄越して来たり、をだらだらと繰り返している。
でも、私たちははっきりと『付き合って』はいない。もちろん九条のブラックジョークの『体の関係』もない。
あるのは中学生から変わらないノリと
私が九条のこと「好き」
と言うことだけ。歳を重ねて、九条がホストになって……あ、今はホストじゃなくホスト店を経営してるオーナー様でもあったかしら。とにかく環境は変わったものの、不変的な何かは確実に存在している。
パワーウィンドウの外をちらほらと雪が降っていた。
「北海道行ってきたんだ~土産に蟹買ってきてやったぞ」と九条は運転しながらどこか楽しそう。
「北海道……ここより雪が多そうね」ぼんやりと呟きながら、九条に気づかれない程度にこっそりと、外気との差で曇った窓ガラスに、人差し指で
『好き』
と書く。
私の書いた文字は私の体で隠れて九条からは見えない。
「蟹すきしようぜ~、お前んちで」
「何であんたを一々上げないといけない?」
言い合いをしながら、やがて私のマンションに着く頃にはみぞれになった大粒の白いものが私の『好き』をかき消す。
「だってお前んち床暖あるじゃん?」
「そんな理由かよ」
中学生から変わってないこの関係とノリ。
今はまだ―――
この関係でいいや。
~FIN~
P.6