Chat Noir -黒猫と私- Deux(2nd)
Cat №41 黒猫ライアー
その②
『黒猫ライアー その②』
浩一も平気で嘘をつく。
あんたいつからそんなに器用になった?
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その朝、チェシャ猫さんは一旦実家に帰って行った。
今日は月曜日だし仕事もあるしね。
私も大学に行って、
「ぅわ!朝都、どうしたの!!その顔…」と、のんきに登校してきた涼子に指摘され私はブスッ。
「あ・ん・た・が!!あんたが溝口さんと駆け落ちしちゃうからこんな目に遭ったんでしょー!!」
私のわけの分からない言葉に涼子は目をぱちぱち。
「あ、昨日のこと~?だったらドタキャンしてごめんね?話なら聞くからお昼にランチでもどぉ??」
「ランチじゃ遅いよ!今すぐカフェテリアで話聞いて!!」
私がいつになく真剣に勢い込むと、勢いに押された涼子はブンブン頭を振って頷いてくれた。
私たちは大学の敷地内を出て―――…
結局サボっちゃった一時限目…
まぁいいや。単位は十分に足りてるし。
と言うことで、少し離れた場所にあるおっしゃれーなコーヒーショップに移動。
一杯700円もするコーヒーを飲みながら、かくかくしかじか包み隠さず昨日のことを喋り聞かせた。
涼子は途中「ほ~」とか「へ~」とか相槌を打って面白そうに目をぱちぱち。
一通り喋り終えたところで、すっかりぬるくなったコーヒーを一飲み。
それは冷え切っていてもさすが700円だけあって、濃厚なおいしさが口の中に広がり、そのおいしさに私も一旦落ち着くことができた。
向かい側でカフェオレを飲んでいた涼子も一旦落ち着くと
「で…?黒猫くんとは本当にお別れしちゃったんだね」
と、確認してきた。
「これで樗木さんと付き合う。
そういう意味でいいんだよね」
再度言われて私は俯くしかできなかった。
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それでいい――――って言い方失礼か…
「そうする……」
私は何とか頷いてコーヒーを一飲み。それはさっきと同じコーヒーなのにやたらと苦く感じた。
「…苦っ」
思わずコーヒーに砂糖を入れると、
「あんた大丈夫?」と向かい側で涼子が心配そうに私を覗き込んできた。
何が―――……?
と、聞くほど私はバカじゃない。
大丈夫なんかじゃない―――
けど
大丈夫にするしかない。
涼子に相談しなくても心の中でそう決めていたのだ、私は。
本当は涼子に背中を押してもらいたかった。
「がんばれ」
て。
でも涼子は今回ばかりは―――背中を押してくれなかった。
彼女も何故だかその押す手を躊躇しているように思えた。
何かを考えるように視線を泳がせ、カフェオレを一口。
「こんなつもりじゃなかったのにな……」
と言う言葉をぽつり、漏らして窓の外の景色をぼんやり見ている。
それはこっちの台詞だよ。
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結局涼子と長々お喋りしてたから講義はまる1時限さぼりそうだ。
まぁ大して身にならない講義だったから……『人間健康科学』とか言うヤツで今は「アルコールとニコチンが及ぼす人体への影響」なんて題材で
その二つを止められない私が受けてもねぇ…
涼子は次の講義で学生実験が入ってると言うことでその準備であたふたと実験室に向かっちゃったし、
と言うことで残った時間を私は一人喫煙スペースでタバコをふかせていた。
そこでまたも
浩一に遭遇。
「よ!」
「よっ」
お決まりになった台詞で挨拶をして、お決まりの位置で並んでタバコを吹かせる私たち。
浩一の高い背で私の場所に影ができる。
浩一の―――愛煙しているセブンスターの匂いが心地よく香ってきた。
涼子は―――浩一が無理してるって言ってたけど、そんな風には見えない。
だって私が傷心中だということも知らず普段通り、気軽に喋りかけてくる。
テレビの話題、大学での出来事。最近出かけた居酒屋の話。
あとからあとからぽんぽん。
若干話を聞いているのが面倒くさい気はあったけれど、それでも全然無関係なことを喋ってくれるのはありがたかった。
「それでさ~…こないだ連れと言ったバーが雰囲気良くて」
浩一がそう言ったところで
ふわり
白衣の裾が風でほんの少し舞い上がった。
また―――
香ってきた。
こないだ浩一から香ってきた香水―――
浩一の使ってる香水じゃないレディースものが。
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私はちらりと時間を気にした。
今は午前の9時半過ぎだ。通常なら1時限目が残り15分と言うところ。
浩一もさぼり組みか。
朝からお盛んなことね。
何となく…想像できなくて(したくなくて)私はわざとらしく目を反らして空を見上げた。
突然顔を逸らした私に、浩一が不思議そうに目を細めて私の視線を追いかけるように顔を上げる。
「ごめん……喋りすぎた?俺―――……不自然だった……かな」
何を勘違いしたのか浩一に聞かれて、
「ん?ううん!」
私は慌てて答えた。ここではじめてまともに視線が合い
「お前…顔色悪いんじゃね?大丈夫…?」と心配そうに聞かれた。
浩一に心配されるほど、私は浩一にとってイイ女じゃない。
だって何に悩んでるか、何が悲しいのか未だに私は浩一に話せていないし。
妙な罪悪感が邪魔をして、私は本心を未だに打ち明けられないでいる。
「大丈夫。医務室なら行かないよ」
わざと冗談ぽく言うと
浩一も苦笑い。
「あんときはさー……悪かったワ。って前謝ったじゃん!」
と、浩一も調子を合わせてくる。
「お前、意外と根に持つタイプ??」
「そうかもね」
私は笑ってやった。もうなんとも思ってない、と言う素振り全開で。
そうじゃないと……―――少しずつ私の中の罪悪感をすり減らして、少しずつ友達に戻らないと
前のようには戻れない。
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「そいやぁこないだのツナ味の柿ピー食べたよ。おいしかった♪
ありがとうね」
「ん。そりゃよかった。また珍しいもん見つけたら買ってきてやるよ」
タバコの煙を吐き出し浩一が無邪気に笑う。
白衣のような白い歯を見せて。
私の中にまたも罪悪感が生まれて、心の中がもやもやと重くなった。
バイオハザードウィルスが変化を遂げて、進化したような―――そんな複雑な気持ち。
「でもさ……そうゆうのは〝彼女”にやってあげなよ」
私はことさらなんでもないようにタバコを吹かせながら浩一の方を眺めた。
浩一は私の方を見下ろしていて
「――――は?」
たっぷりの間を開けたあと、眉をひそめて問い返してきた。
「彼女なんていねーし。
俺が好きなのは――――…」
言いかけて浩一は不機嫌そうに顔を逸らした。
またも言い知れない罪悪感がよみがえってきて、でも今度のは一言で言い表せない複雑なものだった。
浩一の高い影が私を包み込む。
その影から逃れるよう、私は一歩横にずれた。
他の女の香りを纏って、まだ私に気がある素振りをする浩一。
あんたはいつからそんなに器用になったの。
それとも男って生き物はそもそもそうゆうものなの?
簡単に『大切な人になってください』と言った
チェシャ猫さんだって―――
ロシアン葵ちゃんの来訪を『知らない』と言い切った
黒猫だって。
何かしら秘密を抱えて、笑顔で言い切る。
いや、男に限らず女もそうか―――
黒猫のこと大好きなのに、気持ちを押し通すことなく別れを選んだ私。
黒猫と別れたことが浩一にまだ言い出せない私。
黒猫のことが忘れられないことをチェシャ猫さんに言っていない私。
いつだって本心を押し隠して、ただ流れに身を任せている卑怯な私。
浩一のこと、黒猫やチェシャ猫さんのこととやかく言えないよ。
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涼子が言ってた「無理してる」てのはやっぱり当たっていたみたいで
浩一だって他の女の子に目を向けようと今必死になってる最中かもしれない。
それなのに―――
それを邪魔するような私はサイテー女だ。
「あ、あはは!ごめん。勘違い」
強引に笑ってみたものの、浩一は今度は笑ってくれなかった。
「上野先輩~休憩終わりました??実験はじまりますよ~」
遠くで白衣を着た女の子がこちらに向かって手を振っている。
浩一は不機嫌顔のまま
「あ、うん」とだけ答え、せっかちにタバコを吸い終わると、乱暴な仕草でタバコの火を消し
「ごめん、俺実験残ってるから行くわ」
と立ち去った。
詰めた距離が―――またも遠のいた瞬間。
バカな朝都。
これでもう完全に友達同士には戻れないよ。
せっかく浩一が努力してくれてたのに。
私が全部―――台無しにした。
浩一の後ろ姿を眺めていると、浩一を呼びに来た女の子が僅かに振り返り
こちらに向かってきた。
明るい茶色い髪のサラサラロングヘアの可愛い女子だった。
「?」
首をかしげていると
「これ」
女の子はピンクのペンのようなものを私に手渡してきて
「〝浩一先輩”が真田先輩に返してきてくれって」
とにっこり笑顔を浮かべた。
こんなペン貸したっけ……
首をかしげていると
ああ!思い出した。確か入学早々浩一の隣に座った私が筆記具を忘れた浩一に貸したものだった―――
てかこの存在すっかり忘れてたよ。
私は「ありがとう」
ペンを受け取りながら、何でこの子が??とまたも首を傾げた。
「それじゃ、失礼します」
女の子は白衣を翻して、立ち去る。
その瞬間―――
女の子の白衣から、浩一から香ってきたレディースものの香水と同じ香りが―――
漂ってきた。
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――――
――
「なるほど、それはその子の牽制ですよ」
ビールを飲みながら人差し指を突き立てるチェシャ猫さん。
私は一日の講義を終え、研究室で実験レポートを作成していたけれど、
浩一とのもやもやが頭に浮かんで一向にレポートは進まなくて頭を抱えていたところ、チェシャ猫さんから電話があったのだ。
『今日、飲みに行きませんか』と言うお誘い電話。
正直月曜日だったしどうしようか悩んだけれど、一向に進まないレポートに向かってるよりはいいし、浩一との一件でもやもやしてたし
そもそもチェシャ猫さんとの距離を縮めようと決意したのは自分だ。
誘ってもらえるうちに行こう、と決めたってわけ。
連れてきてもらったのは大学の近くのおっしゃれ~なイタリアンのお店。
やたらと長い名前のパスタやらピザを頼んで、今日の私はカクテルを注文。
今さらだけど、ちょっとは女の子らしいところもあるってとこ見せておかなきゃね。
そのうち愛想つかされちゃったらやだし。
そして私はかくかくしかじかパスタを食べながら今日あったことを話し聞かせている最中だった。
「牽制って?」
ピンク色をしたやたらと甘いカクテルを飲みながら私が聞くと
「『私は先輩のことが好きなんです。だから真田先輩、彼に近づかないでくださいね』って言う」
「ぇえ!」
「それしかないでしょう。
僕が考えるに、その子の完全なる片思いですよ。彼の服や持ち物に自分の香水を掛けて
まぁ他の女避けにもなりますしね」
チェシャ猫さんはさらり。
そ、そーなのか!!
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「…てか樗木さん、詳しいですね…まさか」
「やったことはないですけど、されたことは―――……」
言いかけて「ごほん」チェシャ猫さんはわざとらしく咳払いをしてビールを一飲み。
あるだろうなー。
このルックスだしね。
イタリアンて言うと女の子が多いから、さっきから客の視線が痛いよ―――
ほとんどの子がチェシャ猫さんをチラ見、二度見、あ…中にはガン見してる子も居るし…
今さらながら不思議だけど、何でこんなにきれいな男の人が私??
うーん…分からなくて
私は二杯目に赤ワインを注文。やっぱこっちの方が合うわ。
「じゃぁ浩一は……付き合ってる人はいないってことですか…」
浩一のこと会ったこともない人に聞くような質問じゃないけどチェシャ猫さんならなんでも見通してそうだしこの際だから聞いてみた。
「そうじゃないですか?」
「えー!どうしようっ!私浩一にヒドイこと言っちゃった!!
そりゃ怒るのも無理ないわ」
私は頭を抱えて青い顔。
でもすぐに
「でもでも!普通気づかないってあります!?ほかの香水つけてたって」
「まぁ……あるんじゃないですかね……自分が香水つけてたら余計に」
「そっか…浩一香水つけてたもんな…」
独り言をもらしていると
チェシャ猫さんはゆっくりとテーブルに頬杖をつき、つまらさそうに目を細めた。
「真田さんはさっきからその彼の話ばっかり。
正直、僕は良い気がしないです。
いい加減僕のこと―――見てくれませんか?」
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いい加減――――………
そう言われて、はっとなった。
ダメね、朝都。チェシャ猫さんの前で浩一の話とか―――
けれど違う意味でもはっ!となった。
そ、それって口説き文句ってヤツ………ですか……
言われ慣れてない言葉に顔から湯気が出そうになった。
「あ、あの……」
何て答えていいのか分からずしどろもどろチェシャ猫さんを見上げると
「ははっ」
チェシャ猫さんは無邪気に笑い
「すみません、急に。つまらない妬きもち妬いちゃいました」
妬きもち―――……
「今日真田さんが僕に付き合ってくれたことだけでも、僕にとっては前進なのに
それ以上を望んじゃいました」
それ以上―――とな!
な、何を望んでいるチェシャ猫!!
警戒する意味で体を抱きしめていると
「真田さんがもう少しだけ僕の方を見てくれるといいなー…って」
見てますよ。
私はチェシャ猫さんを見るって決めた。
前を向くって決意した。
けれど
キラキラっ!
あ…眩しっ!!
そう
リアルにチェシャ猫さんを見つめられない理由―――それはチェシャ猫さんが美しすぎるからだ。
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――――
――
私、こんなんでチェシャ猫さんとお付き合い、できるのかな……
ましてや結婚なんて……
イタリアンを食べ終えて帰りのバスの中、二人席で揺られながら
私はバッグをぎゅっと抱きしめた。
まだ手帳には婚姻届が―――入っている。
チェシャ猫さんは昨日寝てないからなのか……それともよっぽど疲れてるのか私の隣で早々にねんね。
長い睫を伏せてこれまた美しい寝顔で、さながら眠り姫のようにスヤスヤお休み中。
気づいたら次がチェシャ猫さんの降りる降車駅だった。
チェシャ猫さん、次ですよ~
って意味でゆさゆさ揺すってみる。でもよっぽど疲れているのか全然起きる気配がなくって―――
眠り姫って……
王子さまのキスで目覚めるって―――言うよね?
この場合、私がお姫様でチェシャ猫さんが王子さまだけど。
この際どうだっていい。
キス
したらさすがに起きるかな…
今日の私―――大胆だ。
先を急ごうとして気だけが逸っているのかな。
でもそんなのどうだっていいや。
キス一つで気持ちが変わるのなら―――
黒猫のこと忘れられるのなら―――……
私はチェシャ猫さんに顔を近づけた。
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幸いにもこの時間帯、人は少なく私たちの前に会社帰りのサラリーマンぽい人が一人
あとは一番前の席で高校生の女の子が一人だけ。後ろには誰もいないし、誰も気づかないはず。
ごくり
喉を鳴らして
唇と唇が触れ合う瞬間…
『次は〇☓駅前~〇☓駅前~』
突如アナウンスが流れ、
ぱちっ
チェシャ猫さんは目をぱっと開けた。
ぅわぁ!!
ずさっ!
私は思い切り後ずさり。
チェシャ猫さんは寝起きの目を擦りながら、
「僕、このバス良く利用するんでどのタイミングで起きればいいのか大体分かるんです」
はあ……
「真田さん、今僕にキスしようとしたでしょ?」
そう聞かれて
ぎゃぁ!!気づかれてた!!!
私は顔から火が出そうな勢い。思わず顔を隠すように覆ってチェシャ猫さんをバシバシ叩いた。
「き、気づいてたんなら何かリアクションしてくださいよ!」
完全に私が悪いのに、私はチェシャ猫さんのせいにして彼を睨んだ。
「人が悪いですよ。からかって楽しんでたんだ」
完全にむくれて唇を尖らせると
「だって僕、真田さんとキスしたかったから―――」
チェシャ猫さんは私を覗き込んで、しれっとして言う。
へ――――……
「キス
しませんか」
え――――………
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いやいや!この場でっ!?このタイミングで!
私は車内を見渡した。当然ながらメンバーも座っている場所も変わらず…
「えっと…」
突然のことで何て答えていいのか分からず…私はすぐ近くに迫るチェシャ猫さんの整った顔を眺めるしかできなかった。
チェシャ猫さんの顔が近づいてくる。
ドキンドキン……
心臓が早鐘を打ち、私は思わずぎゅっと目を瞑った。
そのときだった。
キキッ!
バスのタイヤが軋む…急ブレーキの音が聞こえてきて、私たちの体は大きく揺れた。
「わっ!」
「ぅわ!」
二人して体を大きく傾かせ、私は咄嗟にチェシャ猫さんにしがみついた。
チェシャ猫さんも私を必死に支えてくれている。
『ただいまの急ブレーキ、大変失礼いたしました!』
バスの運転手さんの声が聞こえてきて、私たちは顔を合わせて目をぱちぱち。
「真田さん、どこか打ってないですか?」
「どこも。樗木さんこそ…大丈夫ですか?」
「僕は大丈夫です……」
「ふっ」
何だか唐突に笑えてきた。だって私たち―――キスしようとしてたんだよ。
そのタイミングで急ブレーキとか……
「ははっ」
チェシャ猫さんも笑った。
私たちは笑い合い、そして
手を繋いだ―――
きっとバスの急ブレーキは私へのブレーキだったに違いない。
神様が……
私に「まだ早い。まだそのタイミングじゃない」って言ってくれたんだ。きっと―――
絡めた指先から、チェシャ猫さんのぬくもりが伝わってきて
「今度こそ、
俺があなたを守れた」
チェシャ猫さんはちょっと嬉しそうに手に力を入れてきた。
P.275
―――守られた。
守ってくれた―――
いい加減気づいた。
私が望めば、きっとこの人は―――ずっとずっとこの手を離さないでいてくれるだろう。
チェシャ猫さんのこと―――信じても大丈夫。
全部この人に任せて委ねよう。
そう決意した。
――――
それから月日は流れ、クリスマスもあと半月に迫ったある日のこと。
今日はチェシャ猫さんと三度目のデート。
それまで大学の帰りや、チェシャ猫さんの仕事の帰りに二人して飲んだことはあったけれどちゃんと休みの日に一日デートってのは、あのお好み焼きデート以来はじめてだった。
実に二週間も経っていて、その間―――
黒猫のことを忘れることは
正直できなかった。
たった二週間で忘れられるほどの記憶じゃない。
会わなければ気持ちは薄れていく、そう思ったけれど私が甘かった。
ペルシャ砂糖さんの手紙事件のことは早々忘れることができなかったし、気が付けば彼女の身の安全を案じている。
それを考えると、引っ張られるように黒猫のことも思い出す。
この頃…日に日にその想いが強くなってきた。
黒猫の飼い主に戻りたい。
気づけば街は緑や赤、ブルーや白のクリスマスカラー一色で、女の子たちは薄手のトレンチコートからふわふわのコートに代わっていた。
私もその一人。
でもコートは変わっても不変的なものはまだ私の中に存在する。
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「コート可愛いですね」
会ったその瞬間、チェシャ猫さんは私の白いコートを指さし。私も自分で気に入っている。
スタンドカラーのAラインコート。丈は短めで襟と袖にふわふわのファーがついている。
お気に入りのコートにお気に入りのブーツ。
涼子に借りっぱなしになってる……と言うか涼子が「それ朝都に似合うからあげるわ。ちょっと早いけどクリスマスプレゼント♪」てくれたグロスをぬってメイクもしっかり。
今日の私は完璧なはずなのに、心のどこかにぽっかりと隙間ができている。
完璧なパズルを完成させるのは、もう一つピースが―――足りない。
でも足りないピースを探しているより、その隙間を埋めてくれる人の方が今は大事。
―――私は今日もチェシャ猫さんの車の助手席に当たり前のように座る。
「真田さんが見たいって言ってた映画…すみません、僕時間調べ間違えちゃって」
「いえ、大丈夫です。お気になさらず」
そう言ったけれど―――
「これ」は気になっちゃうよな―――
私は座った際におしりに小さな痛みを感じて、そのとき何かが落ちていることに気付いた。
“それ”をチシャネコさんに見せることなく今は私の手の中。
助手席に落ちていたもの―――
それはシンプルなデザインの
ピアスだった。
チェシャ猫さんの―――……?
一瞬そう思いたかったけれど、チェシャ猫さんの耳にピアスホールはない。
それにこれ
デザインが女ものだ。
可愛いデイジーの花の下、滴のようなダイヤがゆらゆら揺れている。
あの――――ピルケースと同じデザインで
私の心の中にざわざわと嫌な何かが首をもたげた。
P.277
過去形なのか現在進行形なのか、どっちか。
英文法じゃないわよ?
チシャネコさんに女の影―――
デザインがレディースだし、そもそもチシャネコさんの耳にピアスホールはない。
私もこんなデザインのピアス持ってないし。
五年は彼女が居ないって言ってた―――
それにこないだ乗ったとき、こんなピアス落ちてなかった。
妹―――…は居ないし、母親がするようなデザインでもない。
じゃぁ友達??
“友達”と言う考えに引っ掛かりを覚える。
『チヅル』
その名前は今の今まで忘れかけていたのに、ピアス一つで簡単に鮮やか過ぎるほどに
私の頭の中に蘇った。
その後、ちょっと小さなテーマパークっぽくなってるシネコンに向かったけれど
楽しみにしてた映画はちっとも楽しくなくて、
お茶をしてもちっとも会話がはずまなかった。
結局その日は特に何かをするわけでもなく夜の22時に「さよなら」
ピアス
持って帰ってきちゃった。
―――――
次の日の日曜日。
私は涼子と久々デート。
今日はクリスマスプレゼントを一緒に選びにきたってわけだけど。
メンズの洋服のショップでマフラーを手に取りながら
「で?どうよ、最近」
涼子はまるでおっさんが若いOLにセクハラ発言をするかのような口調で聞いてきて
すぐにそれがチェシャ猫さんとのことであることに気づいた。
P.278
「どうって…変わらずだよ。進展もなければ後退もないかな…」
私はチェシャ猫さんに似合いそうなワイン色のマフラーを手に取ってしげしげ。
涼子にはこないだのピアスのこと言ってない。
私は話題を変えるように
「涼子は溝口さんにクリスマスプレゼント何あげるの?」
とわざとらしく聞いてみた。
「私?手作りケーキと手作りの御馳走♪」
「涼子は何もらうつもりなの?」
「新しいバッグー♪すっごい可愛かったけど高くて自分じゃ買えなかったんだ~♥」
…………
「涼子…いつからそんな悪女キャラへ??」
「冗談に決まってるでしょ?まだ決まってないの。だから朝都と選びに来たわけ」
何だ。
溝口さん涼子に貢がされてボロボロになって捨てられればいい、とかちょっと願ったりしたけど。←朝都が一番悪女キャラ。
って…私病んでる??
こないだのピアスの発見からちょっとおかしい。
人の破滅を願うなんて、前には考えなかったことなのに―――
早くこのもやもやを何とかしたい。
このもやもやを解消するには―――やっぱり直接本人に聞くしかないのかなぁ。
はぁ…
小さくため息を吐いていると
「分かる~メンズものとは言え高いよね~あ、これ溝口さんに似合いそう」
と涼子は何を勘違ったのか、深い青色のネクタイを手にとってすぐ隣でうんうん頷いている。
涼子の研究室は教授の意向でバイト禁止なのだ。見つかったら単位取り消し、と言うでっかいペナルティーもある。
何でも学生には研究に没頭してほしいとか。
その代わり教授の実験のお手伝いとか学会への付き添いの際には微々たるものだがバイト代が出る。
「私は院生としても残るし、まだ貧乏生活が続くわ~。まぁ実家だからそれほどお金もかからないけど」
涼子は小さくため息。
「早く結婚しちゃえば?」
溝口さんと。
「んー…」
と涼子は気のない返事。どことなくその横顔に元気がないような。
そう考えたらいつも美人オーラでまくりの涼子、ちょっとの間でやつれた??
「どうしたの…?」
思わず聞くと、
涼子はネクタイをぎゅっと握りしめ
「最近アキくん(溝口さんのこと)……変なの…」
突然涼子は今にも泣きそうに瞳を揺らした。
P.279<→次へ>
冬の夜
キミへの気持ちを窓に託しました
たった一言が言えない私は臆病者ですか?
でも今はこれが精一杯
雪に想いを
『次はお天気コーナーです。今日から明日にかけて低気圧が日本の南を発達しながら東北東に進み、明日には日本の東に進む見込みです。
関東甲信地方では今夜から雨が次第に雪に変わり、あす午前中にかけて山沿いを中心に、平野部でも積雪となる所がある見込みです。雪による交通障害、架線や電線、樹木等への着雪、路面の凍結に注意してください』
今朝のワイドショーのお天気キャスターの言葉を思い出したのは、勤めている会社の定時を迎え業務を終えたときだった。
「えー!やだっ!雪降ってるじゃん」と誰からともなく声が挙がり
「ホントだー、私傘持ってきてない」
「どうりで冷えると思った」
と同僚たちが次々と口にする。
またも誰かが「せっかく彼氏に買って貰ったバッグが濡れちゃう」と言い出し、それでもちっとも困った様子ではなく、どこか誇らし気だ。
そしてその周りの女子たちが盛んに羨ましがる。
「いいなー、でもあたし今度のクリスマスにダイヤの指輪ねだっちゃうんだー」と一人の女の子。
「いいなー!」黄色い声に、私は苦笑いを浮かべるしかない。ここでの男の年収と、女の品格は反比例する。いかにいい服を着るか、いかにいいバッグを持つか、いかにいい男を彼氏にするか、年中こんな会話でうんざりする。
かと言って輪に加わらないわけにはいかない。仕事とプライベートの内容こそ比例するのだ。
P.1
「仁科《にしな》さんはいつも素敵な服着てますよね」ふいに一人から話題を振られた。
「えっ、そう?」私は曖昧に笑って言葉を濁した。今日の服装は白いタイトワンピ。腰回りに太いベルトが巻き付いていて、ちょっと豪華に見えるゴールドのバックルがワンポイント。
そして同じくゴールド系のスパンコールが襟元に入ったコートを腕にかけて帰りたいアピール。
シンプルな服装だったけど、流石は目が肥えている女子たち。すぐにそれが高価なものだと見破った。女のチェック程厳しいものはない。私がオシャレをするのは対、男ではなく、彼女たちの為。
「仁科さんてぇ、結婚しないんですかぁ」間延びした話し方が赦されるのはこの年代の特権だ。
「結婚ね……相手がいないから」私は適当にごまかして再び言葉を濁した。
こう言っておけば大抵の女は引き下がる。私が長い間、人付き合いをしてきて、これが最良の方法だと知ったのはつい最近のこと。
私がこの会社に勤めはじめて五年になる。この会社での女性正社員では長いほうだ。後から派遣された若い女の子たちから見れば私なんてお局のようだった。
「そう言えばぁ仁科さん、この前見ちゃったんですぅ」一人の女の子が思わせぶりに口元へ手をやった。
短く切った髪にはパーマがあててあり、傍から見ればマシュマロのように可愛らしい女の子だ。
だが、そんな可愛らしさに惑わされてはいけない。女はいつでも顔の下にしたたかな一面を隠しているのだから。
P.2
「何を?」私は平静を装って取り澄ました。
もしかして“アイツ”と居る所を見られた?と思ってドキリとしたが
「この前の金曜日、青山のイタリアンレストランで、経理の前田さんと一緒にいるところぉ」
ああ、そっちか。とちょっとほっと安堵する。
「ええー!!」周りから黄色い声が飛ぶ。私は思わず頭を押さえたくなった。
そう、確かに経理の前田に誘われて先週の金曜に青山まで行った。
でも食事をしただけで、別に艶かしい関係ではない。だが、ここで重要なのが、経理の前田という男、この会社ではなかなかのハンサムでしかも独身、きさくな性格をしているわりには頼れる上司でもあるのだ。そうゆう男を若い女性社員が放っておくわけがない。
「いいなー、ねえお二人って付き合ってるんですか?」
食事をするイコール男女の関係と、どうして若い子たちはそう短絡的なのだろう。私はこの場から逃げ出したくなった。だけど、この場から立ち去ると認めたことになってしまう。
「別に、ただお食事に誘われただけよ」
「うそー、絶対前田さん仁科さんのこと狙ってるわよぅ。だって、あたしたちがいくら誘っても全然だったのよー。それなのに前田さんは仁科さんのこと」
嫉妬心と羨望の眼差しで見られ、私は思わず後ずさり。
何とか前田との話を切り返し、従業員出入り口から女子の群れに混ざって出てきた所だった。
遠くで派手なエンジン音が聞こえてきて、この狭い路地裏へと近づいてきた。この聞き慣れたエンジン音。私は嫌な予感がして思わず一方通行の標識を見つめた。
「よーう、仁科」黒のポルシェの窓から腕を出し、銜えタバコをしながら九条《くじょう》が手を振っている。
「やっぱり」
私は、今度こそ頭痛をこらえるように頭をしっかりと押さえた。
P.3
「仁科、今終わりか?これから飯でも食わねー?」
この状況を知らずに能天気に笑ってるその整った横っ面に今すぐ張り手を食らわせたい。
「あ、あんたいつ東京に戻ってきたわけ?」私は女の子の群れから一人離れると、九条の車に近づいた。
「あー、悪い。三日ぐらい前かな?この前言ってた日本料理屋行こうぜ」
「あんたっていつも何で急なのよ」
私が声を潜めて九条を睨んでいるときだった。
「えー、仁科さんの彼氏さんですかぁ?かっこいい!」
女の子たちの視線が九条に移った。予想していなかった最悪の事態。
上半身しか見えなかったが、今日の九条は黒いジャケットの中に白いカットソーを着ていて、真冬だって言うのに襟ぐりに濃いサングラスをかけている。いつものように髪をラフにセットしてあって、左耳には輪っかのようなピアスが三つ光っていた。
そう
どこからどーみてもこいつは
ホスト。
P.4
「仁科、今終わりか?これから飯でも食わねー?」
この状況を知らずに能天気に笑ってるその整った横っ面に今すぐ張り手を食らわせたい。
「あ、あんたいつ東京に戻ってきたわけ?」私は女の子の群れから一人離れると、九条の車に近づいた。
「あー、悪い。三日ぐらい前かな?この前言ってた日本料理屋行こうぜ」
「あんたっていつも何で急なのよ」
私が声を潜めて九条を睨んでいるときだった。
「えー、仁科さんの彼氏さんですかぁ?かっこいい!」
女の子たちの視線が九条に移った。予想していなかった最悪の事態。
上半身しか見えなかったが、今日の九条は黒いジャケットの中に白いカットソーを着ていて、真冬だって言うのに襟ぐりに濃いサングラスをかけている。いつものように髪をラフにセットしてあって、左耳には輪っかのようなピアスが三つ光っていた。
そう
どこからどーみてもこいつは
ホスト。
P.4
でも勘違いしてもらっては困る。私はこいつの客じゃない。東京を離れていたのも、大方客の一人と遠征旅行でもしていたのだろう。
「違っ!こいつとは単なる腐れ縁。彼氏とかじゃないから」
と慌てて否定するも秒の単位で噂が回るこの会社で明日の朝には『仁科さんて、ホストに貢いでるらしいよ』とあちこちで言われるに違いない。
くらり、と眩暈が起きた。
腐れ縁、と言うのは間違いない。中学からの同級生だから。
「じゃあ、本命は前田さんですかぁ?」女の子達が興味津々で目を輝かせている。
「前田??ひどいなー、仁科ぁ。俺たち何度もセック……もがっ」
最後の方が言葉にならなかったのは私の手が九条の口を塞いだから。
ふざけんな!何言い出すんだこいつぁ!!
空気読めっつうの!
と言うことを目で訴えると、流石に冗談が過ぎたと思ったのか九条は苦笑い。
「で?行くの?行かないの?」せっかちに聞かれて
「わかったわよ!行くわよ」半ば怒鳴るように九条を睨みつけると、私はそそくさと助手席に回った。
「それじゃ、私はこれで。お先に」女の子たちにはなるべく平静を装って、にこやかに手を振る。
ため息をついて車の助手席を開けると、運転席から九条が笑顔で手を差し伸べてきた。
「ただいま、仁科」
昔とちっとも変わらない笑顔。眉が下がり、目を細める、優しい笑顔。そして時々その低い声で呼ばれる、自分の名前。何だかくすぐったいが、この笑顔を向けられたら、たとえ九条の勝手に振り回されても、赦せてしまう。
「……おかえりなさい」私は俯くと、小さく返事を返した。
P.5
前述した通り私と九条とは中学からの付き合いだ。かれこれ十年以上の付き合いになる。十年、と言う歳月は長く感じられるけれど、その間に音信不通になったり、そしてどこからか連絡先を入手して電話を寄越して来たり、をだらだらと繰り返している。
でも、私たちははっきりと『付き合って』はいない。もちろん九条のブラックジョークの『体の関係』もない。
あるのは中学生から変わらないノリと
私が九条のこと「好き」
と言うことだけ。歳を重ねて、九条がホストになって……あ、今はホストじゃなくホスト店を経営してるオーナー様でもあったかしら。とにかく環境は変わったものの、不変的な何かは確実に存在している。
パワーウィンドウの外をちらほらと雪が降っていた。
「北海道行ってきたんだ~土産に蟹買ってきてやったぞ」と九条は運転しながらどこか楽しそう。
「北海道……ここより雪が多そうね」ぼんやりと呟きながら、九条に気づかれない程度にこっそりと、外気との差で曇った窓ガラスに、人差し指で
『好き』
と書く。
私の書いた文字は私の体で隠れて九条からは見えない。
「蟹すきしようぜ~、お前んちで」
「何であんたを一々上げないといけない?」
言い合いをしながら、やがて私のマンションに着く頃にはみぞれになった大粒の白いものが私の『好き』をかき消す。
「だってお前んち床暖あるじゃん?」
「そんな理由かよ」
中学生から変わってないこの関係とノリ。
今はまだ―――
この関係でいいや。
~FIN~
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