Chat Noir -黒猫と私- Deux(2nd)
Cat №42 黒猫ライアー
その③
『黒猫ライアー その③』
誰 ぁ れ が 嘘 を つ い て い る ?
P.280
―――――
――
私たちはプレゼント選びを中断して、今は近くのカフェに来ている。
「溝口さんが変って…?あの人いつも変じゃない(←失礼)」
「樗木さんよりはましじゃない(←そして涼子も失礼)」
「でも変って……?」
私は吸っていたタバコを灰皿に置いてコーヒーを一飲み。
「うん………何か最近出かけたがらなくて……ずっとデートは溝口さんのおうちだし…
本当は付き合ってはじめてのクリスマスだから、ディズニーとか行きたかったのに
遠いとか言って結局溝口さんちになっちゃったり…」
ふーん、へ~
私は相の手のように頷いた。
「でもそれってただの倦怠期ってヤツなのでは…??」
私は今までの男と体験したことないけど。
と言うか体験する前に破局しちゃったんだけどね。
私が一人で考えていると
「それにね!最近なんかこそこそしてるの!!
インターネットでしょっちゅう調べものしてるし!」
突然涼子は勢い込み、
「それは……お仕事なのでは……?」
「違うの!だって私が覗き込むと、不自然過ぎるぐらい慌てて閉じるし…」
溝口さんが…エッチなサイトを覗いている……??
それは簡単に想像できるけど、でも
それなら涼子の居るところでわざわざやらないよね。
「それに不審な電話がかかってくるの!相手は樗木さんだって言うけど
あの二人そんなに仲が良かった!?」
涼子の話はだんだんヒートアップしていってとうとう机に突っ伏して泣き出した。
「アキくん絶対浮気してる!」
結局その結末に行きついて、
店内にいたお客さんがぎょっとしたようにこちらを振り返り
私自身が一番驚いた。
涼子………
あんなにラブラブだったのに。
「……まだちょっとそう決めつけるのは早いよ」
そうは言ったものの、チェシャ猫さんは溝口さんのこと噂すらしてないし。そもそもあの二人仲が良いわけじゃない。
……溝口さん…クロだな。あんなに涼子のこと好き好きオーラが出てたのに。
短期間で人って変わるものだな。
私だって
泣きたいよ……
私だって
「チェシャ猫さんに女が居るかも……」
何てタイミング何てカミングアウト。
「嘘!朝都もっ!!」
「そうなの」
私たちは二人そろってわぁわぁ泣いた。
P.281
考えたらカフェ側にはかなりの迷惑よね。
私たちはしばらくの間互いを慰め合ったり、アドバイスをしたりと忙しかったけれど
それも少しすると落ち着いてきた。
その際に全部チェシャ猫さんとのこと涼子に打ち明けて、幾分かすっきりした。
ゆっくりコーヒーを啜ると、前の席で涼子も赤くなった目元をぬぐいながら紅茶のカップに何とか口を付けている。
ごくり、とそれを飲み込むと
「樗木さんに女の影…ねぇ。五年間彼女居ないって言ってたのに
……嘘かも??
はぁ……私たち……男運ないのね…」
「まぁね……」
考えたら私―――浮気されてばかりだ。
黒猫の前の元彼もそうだったし、黒猫もロシアン葵ちゃんと会ってるっぽかったし、平気で「違う」とか言ってたし、
今彼(?)のチェシャ猫さんも、もしかして女がいるかもしれないし。
こうまで男運がないのは、彼らが悪いのではなく、私に問題があるのじゃないか―――
そんな風にさえ思えてきた。
でも
まだ一縷の望みに縋りたい。
私がダメだったのなら、
私が変わるしかないのだ―――
「決めた!」
私はコーヒーのカップを置いて、前を向いた。
向かい側で涼子が紅茶のカップから口を離して目をぱちぱち。
「まだシロかクロかはっきり決まったわけじゃないし、
確認してみる!」
「確認……て…?浮気してます??って聞くの?」
涼子はまたも目に涙を浮かべて聞いてくる。
「そんなにストレートには聞かないけれど、でも
今までちゃんと向き合ってこなかったからダメになってる気がする」
私が言いきると涼子は目をぱちぱち。
「ちゃんと考えてること、聞きたいこと―――全部聞く。
納得のいくまで喋ってもらって、それでもだめなら
本当に諦める」
黒猫は諦めたら終わりだ、と言っていたし、
実際私は彼からそう教えてもらった。
大切なこと
私より子供なのに
彼は
知っていた。
P.282
To:樗木さん
Sub:こんにちは
本文:話したいことがあります。少しお時間いただけないでしょうか。
いつになく他人行儀になっちゃった気がしたけれどこの際どうだっていい。
そう言う内容のメールを送って一日経った。
けれどチェシャ猫さんから返信がなく、二日経って電話してみたけれど、電話にも出なくて
急に途切れた音信に、同じだけ急に不安になった。
そうして三日経ったある日―――
溝口さんが例のごとく研究室に納品に来てくれて、
「溝口さん、ちょっといいですか…?」
チェシャ猫さんがどうしてるのか溝口さんなら知ってるかも、って思って溝口さんに喋りかけると
「朝都さん、ちょうど良かった!ちょっとっ…話したいことがあるんですが…」
こっちは私より深刻そうに言って、私は研究室からひっぱり出された。
とうとう浮気のカミングアウトか溝口、と身構えていたけれど
近くのカフェテリアでお茶をしながら聞かされた内容は…
「は!?サプライズ!!
しかも
涼子にプロポーズ!!!」
とな……
P.283
「しーー!!声が大きいです」
溝口さんは唇に指をやって慌てた。
誰か聞いてないか辺りをきょろきょろ。
「じゃ、じゃぁ最近こそこそしてたのは…」
「こそこそって……何で知ってるんですか」
溝口さんが顎を引いて、私はかくかくしかじか涼子が溝口さんの浮気を疑っている事実を話し聞かせると
「俺、そんなに不審っぽく見えてたんですねー…」
はぁ
溝口さんは大きなため息を吐いて頬杖。
溝口さんは普通にしてても不審ですけどネ。
「こそこそ…と言うか指輪のリサーチしてたんですよ。
どれがいいのか、とか。サイトで人気のあるデザイン調べたり…
それにディズニーに行きたいって涼子さんは言ってたけど、実は俺もうレストラン予約しちゃったんすよね。
俺んちに手料理作りに来てくれるって言ってたけど、その前に連れて行ってびっくりさせようかと」
そんな計画が……
「でも最近おうちデートが多いってのは…?」
「それはまぁ指輪に金が掛かったんで……はっきりした値段は言えないすけど、給料三か月分」
溝口さんは三本の指を立てて、こめかみを掻き掻き。
三か月!!となっ!
溝口さんのお給料が推定手取りで35万円X三か月分=100万円!!?
ぅわぁ!!
「まー…そりゃ節約したくなりますよね…」
「でしょ……?」
けど
なるほどね。
かんっぜんに!涼子のとり越し苦労ね。
P.284
「でも……黙っててくださいね!!絶対絶対!」
そう念押しされて
「いいですけど…何故その情報をわざわざ私に…?」
「実は…買った指輪が涼子さんが気に入ってくれるか急に不安になっちゃって」
溝口さんは恥ずかしそうにまたもこめかみを掻き、スーツのポケットから婚約指輪を取り出した。
それはドラマや映画で良く目にする四角い小さな箱。ベルベット素材が高級感溢れている。
その箱を
パカッ
開くと
ピカーっ!!
眩しッ!!
それはチェシャ猫さんの笑顔と同じぐらいキラキラした豪華な指輪だった。
銀色の……プラチナ素材なんだろうなー…その台座にダイヤモンドが散りばめられている。
「涼子さんはまだ院生として残るって言ってたので、すぐには無理すけど
でも涼子さんが大学を卒業したら正式に籍を入れようかと。それまでは婚約と言う形で彼女と一緒に居たいんです」
へー…はー…
私は変な声で頷くしかできない。
そう言えば溝口さん、食堂で派手に涼子に愛の告白した人だったワ。
今さらこんなことで驚く方が間違ってるわね。
「でも何で急にプロポーズを…?」
溝口さん若いし、涼子だってまだ学生だ。急ぐ理由なんてないのに…
「何でって……まぁ樗木のヤツが朝都さんに婚姻届を渡したって話聞いたからかな~…」
「えっ!」
またも驚いて私は目をぱちぱち。何でそこでチェシャ猫さんが出てくる。
「焦ってたってわけじゃないんすけど、何か本気を見せつけられたみたいで
あいつの行動力が―――羨ましかったんス」
P.285
「俺もやっぱり涼子さんが一生の人だと思ったけれど、
このまま将来に何の確信もないまま、今の状態で付き合っていくのは涼子さんに不安を抱かせるかな…とか。
俺だって考えてんスよ?」
そう言われましてもね~…
涼子は今でも不安がってますよ、溝口さんに浮気されたって。
サプライズを企画するより、恋人を不安にさせないよう気を配るのが涼子にとって嬉しいことじゃない。
でも
そうゆう考えは
―――「素敵ですね。
その指輪。
涼子、きっと気に入ると思いますよ」
私は溝口さんに笑いかけた。
「ところでチェシャ……じゃなくて樗木さんってどうしてますか?
この三日間連絡取れなくて―――」
涼子へのプロポーズ大作戦に衝撃を受けて忘れそうになってたけれど、たった今チェシャ猫さんの話を聞いて思い出した。
私が聞くと
「あれ…?朝都さん知らないんスか?あいつ今
病欠っすよ。インフルエンザ…?じゃなくて風邪だったかなー…」
え―――………
P.286
――――
――
連絡もせずにいきなり来てしまった…
どこへ??と問われれば、チェシャ猫家へ。
こないだ連れてきてくれたから場所は分かっている。
手にはコンビニのビニール袋。中にはポカリとかカップゼリーとかアイスなんかが乱雑に入っている。
お見舞い…にしちゃちょっと可愛げないかな。
何せ急なことでおっしゃれ~なケーキ屋さんで果物やプリンを買う余裕なんてなかった。
でもでも!さすがに手ぶらで来るわけにはねっ。
ちょっと前
『樗木さんが風邪!?
知りません!どうしてそれを早く教えてくれなかったんですか!』
私が溝口さんに勢い込むと
『あいつ朝都さんには言ってるかと思ったけど……俺も詳しく事情を知らなくて…
でも珍しいことじゃないっすよ。時々酷い風邪ひいて休むことがあるんスあいつ。
見た目に寄らず体が弱いのかな』
と。
休むなんて相当なのに、それ以外病状はもちろん、詳しい情報は一切分からず。
つかえねー溝口。
と言うわけで自らお見舞いに来てしまった。
まだ彼女じゃないのに、お見舞いとか。この微妙な関係がこういったときにどう振舞えばいいのか影響してくる。
聞かなかったことにしてスルーすることもできたけれど、何でもないようにまた『どうして返事くれなかったんですかー』とか聞けば良かったけれど
けどやっぱり
スルーできないよ。
だって溝口さんのお話によると休んだのは今日からだけど二日前からかなりしんどそうだった、と。
そうとは知らずにもやもやと連絡を待ってた私が急に恥ずかしくなった。
チェシャ猫さんの一大事だと言うのに…
P.287
……ピンポーン
緊張で震える指でインターホンを押したけれど
しーん……
立派なおうちの中では物音一つしない。
寝てるのかな……?
今一人なのかな。
おうちの人は?薬は飲んだんですか?病院は―――……
ぐるぐる色んなことを考えながら二回目のインターホンを押すと
それから少しして
カチャッ
「………――――はい」
酷い鼻声で顔色を悪くしたチェシャ猫さんが部屋着のまま扉を開けてくれた。
今まで寝てたのだろうか、髪があちこちに跳ねていた。
寝癖を付けて病みやつれたチェシャ猫さん。それでも美青年には変わりない。
美しすぎる病人だ。
チェシャ猫さんはうつろな目で私を見下ろしていたけれど、やがて
「………さ、真田さん!」
と急に慌てだした。
「あ、あの!具合悪いって聞いて……溝口さんから……会社も休んでるって聞いて……
急にすみません!」
思わず頭を下げると
「……い、いえ……わざわざ来てくれたんですね。ありがとうございます」
チェシャ猫さんは恥ずかしそうに寝癖を慌てて直し、身なりを整える意味で着ていたボーダーのカットソーの裾を直す。
その慌てっぷりが病人なのに、何だか可愛く見えた。
「と、とりあえず中へ」
と、中へ促してくれて、
私はほとんど何も考えず―――家の中に入った。
P.288
「すみません急に」
私は何度目かの言葉を口にして
「こちらこそ連絡できずにすみません」
チェシャ猫さんも謝る。
さっきから何度このやりとりを繰り返しただろう。
私たち『すみません』ばかりだ。
こんなの不自然過ぎるよ―――
チェシャ猫さんの話によるとお父さんは海外の学会のために長い間留守にしていて、チェシャ猫さんはこの実家に一人だそうだ。
そう言えばチェシャ猫さんからお母さんの話って聞かないや。
お母さん、何してる人なんだろう。こないだ来たときも会ってないし。
考えたら私チェシャ猫さんのことあんまり知らなかった。
はじめて入るチェシャ猫さんのお部屋はこざっぱりとしていて、どこか殺風景だった。
大きなベッドが一つとPCが乗ったデスク。それから大きなテレビが一つだけ。
「……あ、お茶!お茶でも……」
チェシャ猫さんはせっかく部屋に来たばかりだと言うのに、すぐにふらふらと回れ右。
「い、いえ!お構いなく……寝ててください…」
「そうゆうわけには……」
チェシャ猫さんは頭の後ろに手をやってちょっと眉を寄せる。
チェシャ猫さんはなかなか寝てくれ無さそうだ……私の目から見てもかなり具合悪そうなのに。
「本当にお構いなく…!」
私はチェシャ猫さんを寝かせるつもりで強引に肩に手を置きベッドに座らせた。
「今日はその……すぐ帰るつもりですし…」
「すぐ……?」
チェシャ猫さんは額に手を置き、辛そうに目を伏せた。
肩にちょっと触れただけで分かった。熱―――かなり高そう。
チェシャ猫さんはまたも私の手をそっと握ると
「すぐ―――帰っちゃわないでください。
ここに…
俺の傍に――――……居て」
チェシャ猫さんはまるで捨てられそうな猫のように瞳を揺らし、立ったままの私を見上てくる。
私は彼の手は文字通り熱を含んでいて
熱かった。
P.289
「ポカリ、これ飲んであと…ゼリー食べてくださいね。
薬はあります?市販のじゃなくちゃんと病院へ行きました?」
てきぱきと指示をすると、私のいいつけを守って横になったチェシャ猫さんは目だけを上げた。
「いえ。病院には行ってません。薬は飲みました。市販のですけど…」
行きましょう!と言って病院に連れて行くことさえ困難なようでチェシャ猫さんはぐったりと目を閉じている。
「風邪ですか…?」
「風邪です…」
「どうして連絡くれなかったんですか?もっと早く気づいてれば色々できたのに」
思わず本音が出ると
「だって
かっこ悪いじゃないですか。こんなところ見られるのは」
ふー…
チェシャ猫さんは小さく息を吐き額に手をやる。
かっこ悪―――
なんて思わない。
「そんなこと……ないです…
もっと
頼ってほしいです。私を」
ベッドの元に腰を下ろしチェシャ猫さんを覗き込むと、チェシャ猫さんはゆっくりと目を開けた。
「今、頼っていいですか?」
チェシャ猫さんは顔をこちらに向けて小さな声で聞く。
「もちろん……してほしいこととか…言ってください。
何か食べたいものがあれば作りますし、飲みたいものがあれば買ってきます」
「じゃぁ…」
と言ってチェシャ猫さんが布団から手を出すと、またも私の手をそっと握ってきた。
「うつったらすみません。でも今日はこうやって手を繋いで―――傍に居てほしい」
「それだけ―――……?」
「それだけです」
傍に居て。
繋いだ手から―――その熱を感じ取った。
P.290
それから少しして、チェシャ猫さんは目を閉じ、心地よさそうな眠りに入った。
相変わらずきれいな寝顔でチェシャ猫さんはすやすや夢の中。
定期的な寝息が聞こえてきて私の方も安心。
――――していた。
その音が鳴るまでは。
ピンポーン…
その音はチェシャ猫さんが眠って三十分ほどで鳴った。
おうちのインターホンだ。
チェシャ猫さんがゆっくりと目を開ける。
「あ、あの……お客さん…みたいですね…」
チェシャ猫さんは何も答えず寝起きの瞼を軽くこすっている。
思わず手を離そうとしたけれど、ぎゅっとそれを阻まれチェシャ猫さんは私の手を握ったままゆっくりと起き上がった。
ピンポーン…
「誰だろう…」
鳴り続けるインターホンに、チェシャ猫さんがとうとう出ることを決意。
玄関は一階で、チェシャ猫さんのお部屋は二階。ゆっくりした足取りで降りる最中、私は彼が心配で後をついていった。
「大丈夫ですか?」
「大丈夫です…そこまで僕危なっかしいですか…?」
と笑う余裕まで出てきた。
ピンポーン…
何度目かのインターホンの音で
ガチャっ
チェシャ猫さんが玄関を開けると、そこには
髪が長い―――
きれいな綺麗な若い女の人が―――
立っていた。
P.291
黒い髪はゆる巻きにしてあって、白い肌にその髪は良く映えた。大きな目が印象的で鼻も口も全部のパーツがきれいだった。
まるでマネキンを見ているように完璧に整っている。
それは例えるなら……まるで鶴のように美しい―――人だった。
黒いワンピースに赤いカーディガン。
その女の人を目に入れるとチェシャ猫さんは目を開き―――
そこだけ時間が止まったように
硬直した。
この瞬間、ううん。彼女が現れた瞬間にもう
私は彼女が何者であるのか
チェシャ猫さんにとってどういう人なのか―――
分かっちゃったよ。
「千鶴」
チェシャ猫さんは目を開いたまま彼女の名前を口にした。
P.292
チヅルさんはチェシャ猫さん見上げて
「ごめん…寝てた…?」
僅かに髪を耳に掛けた。
ふわり
優しい香水の香りが香ってきて、その仕草も視線すらも私とは全然違う……女っぽいものを感じた。
「……うん」
チェシャ猫さんは素直に答える。でも、心なしかその声に元気はなかった。
「おばさまから聞いたの。省が風邪ひいて寝込んでるから様子見てくれって…」
省――――…私の知らない呼び方で彼を呼ぶ。
お母さん……存在していらっしゃったのネ。
チェシャ猫さんからお母さんの話聞かないから、何となく……いらっしゃらないと思ってたケド。
チヅルさんは私の知らないチェシャ猫さんのこと―――たくさん知ってるんだ…
そう思うと心臓の辺りがきゅっと締め付けられる。
「母さんから……?別にわざわざ知らせることしなくても…」
そう言い終わると同時に、チェシャ猫さんの高い背に隠れるように突っ立ていた私の存在にチヅルさんが気づいた。
「ごめんなさい、来客中だと知らずに……そちらは―――」
と申し訳なさそうに私の方を目配せ。
その視線がどことなく寂しそうな悲しそうなものに見えたのは気のせい―――
なんかじゃない。
「ご、ご挨拶が遅れてすみません。真田 朝都です」
私は慌てて頭を下げ大学名とチェシャ猫さんがその研究室に薬を卸してくれていることを簡単に説明した。
「真田さん…こちらは僕の友達の千鶴サン。
僕の大学時代、同じサークルの先輩だった人」
チェシャ猫さんはチヅルさんを私に紹介してくれて、私はまたも頭を下げた。
大学時代の先輩―――……
そしてすぐにチヅルさんを見ると
「チヅ、この人は僕の―――……」
「省の新しい彼女さんでしょう」
チヅルさんはチェシャ猫さんの言葉を最後まで聞かずして、言葉をかぶせた。
P.293
「いえ……まだ…」
私が言いかけると
「うん、彼女」
チェシャ猫さんが今度ははっきりと透る声で言いきった。
「だと思ったわ。あなたが女の人を家にあげるなんて早々ないものね」
その口ぶりはチェシャ猫さんをよぉく知ってるようだった。
でも全然嫌味じゃない。
何て言うのかな…大人の余裕を感じられた。
「これ、あなたが好きだったお店のプリン。たくさんあるから彼女さんと食べて」
チヅルさんは有名お菓子店のロゴが入ったケーキの箱をチェシャ猫さんに手渡し、
「せっかく来てくれたからお茶でも……」
とさすがにチェシャ猫さんもすぐには追い出す気配を見せず。
「ううん。仕事の合間に来たから。タクシー外で待たせてるの。
またゆっくり、来るわ」
チヅルさんは外を目配せ。
そして
癖なのだろうか、またも髪をそっと耳に掛け、そのときにちらりと見えた―――
デイジーの…
ピアス
見間違いなんかじゃない。ちょっと変わったデザインだったし。
涙のような滴型のダイヤがちらりと髪の間で揺れ、きらりと光った。
「そのピアス……」
思わず声に出しちゃったら
「これ…?気にいったデザインなんですけど…一個どこかに落としちゃって…」
チヅルさんは恥ずかしそうに笑って耳元を押さえた。
やっぱりあのピアスは―――
チヅルさんのものだったんだ。
P.294
「それじゃ、省。またね。
彼女さんも―――またゆっくりお話しましょうね」
チヅルさんは優雅な仕草で手を挙げ、くるりと姿勢良く踵を返す。
その時気づいた。
コツッ
小さな音がして
それはヒールの音なんかじゃなく杖をつく音だと気づいた。
お年寄りが使っている杖じゃなく、それはリハビリ用なんかで見る障がい者の方が利用するステッキ。
クラッチクローズタイプのもので、それを鳴らしながら不器用そうに脚を引きずるチヅルさん。
その後ろ姿に
「チヅ………」
チェシャ猫さんは手を伸ばしかけた。
けれどチヅルさんがチェシャ猫さんその声に振り返ると
チェシャ猫さんは伸ばしかけた手を下ろした。
『僕は―――大切な人を作るのが苦手です。
誰かに僕の内側に入ってこられるのも、僕が深く入り込むのもどちらも』
何故か―――ふと、チェシャ猫さんの以前の言葉を思い出した。
チェシャ猫さんの手はチヅルさんに触れることなく―――ただ行き場を彷徨って指先が不自然に宙ぶらりんになっている。
「いや……何でもない」
「そ?じゃぁね」
今度こそチヅルさんは前を向いて
パタン…
チェシャ猫さんも自ら静かに扉を閉めた。
「事故だったんだ―――……
五年前
以来、千鶴の左足はほどんど機能しない」
と静かに説明をくれた。
また
五年前―――
P.295
それがどんな意味のあるワードなのか、私は考えても
考えても考えても
考えても当然答えなんて出ず―――
『行き先が分からないんです。
僕の時間は五年前に止まったまま』
あれは―――……いつ、どこで聞いた台詞だったろう。
ふと思い出す。
ああ……あれは確か夢で……―――
けど所詮は夢だし……
関係ないよ。
チェシャ猫さんのためにお粥を作りにキッチンに立ち、米を鍋で炊きながら
私はチヅルさんの姿を思い浮かべていた。
どこをどう見ても完璧な美しさは、どこか私の親友―――涼子に似ていた。
きっと「美人」て言う人種が存在するのね。私は人種違いってことで…
………
なんて考えてみるも、この考えやっぱ違う…
ガクリ
私はお玉を握ったまま項垂れた。
だって―――私には逆立ちしてもできない優雅な仕草と女っぽい気品があって。
どう考えたって私―――チヅルさんに勝てる要素なんて一つもないよ。
何を持って勝ちなのか、負けなのかは分からないけれど
けど確実に『負けた』と思うのは
あの二人に流れる微妙な空気が、不自然なほどよそよそしい態度が
『友達』以上のものに思えたから―――
大事なものに触れることが―――チェシャ猫さんの中で重要なことだと
それは知っていた。
けれど
チヅルさんに対しては―――あんなにも躊躇して、結局
触れることはなかった―――
その不自然過ぎる行動が
チェシャ猫さんとチヅルさんは私の知らない何かを共有していて、その〝何か”が二人を離さない―――まるで『呪縛』のように彼らを縛っているように思えた。
きっと
チヅルさんはチェシャ猫さんが好きで
チェシャ猫さんも
チヅルさんを――――
P.296
なら……
どうしてあの二人は互いの想いを封じてまで、あんな関係を続けるのか―――
何故チェシャ猫さんは私を好きだ、と言うのか―――
考えていると
ふわっ
チェシャ猫さんがキッチンで料理する私の後ろからふわりと抱きしめてきた。
びっくり…!したぁ…
だって全然気配なかったし。
さっすがチェシャ猫!
って、驚いてる場合じゃないって…
「……あ…あの…?」
思わず顔を振り向かせようとするも、チェシャ猫さんは
「そのまま…」
と言って私の両腕をそっと掴み、抱きしめる。
その手が僅かに震えていた。
大切な人と手を繋ぎたい―――
チェシャ猫さんがそう言うのは、きっと―――
五年前―――チヅルさんの事故に何か関係しているんだ。
結局、チェシャ猫さんは抱きしめる以上のことはしてこなくて―――
私はそれに何だか
ほっとしたんだ。
何故ほっとしたんだろう。普通ならそんな存在偶然にしろ見せられて、平常心で居られない。不安で不安でたまらない―――と言うところだろうけど
これ以上先に進んでしまったら、私もチェシャ猫さんも―――今度こそ後戻りのできないところまで堕ちちゃう気がした。
私もチェシャ猫さんも本心を押しかくして、そんな関係になるのは
そんなのやっぱり
だめだよ。
P.297
冬の夜
キミへの気持ちを窓に託しました
たった一言が言えない私は臆病者ですか?
でも今はこれが精一杯
雪に想いを
『次はお天気コーナーです。今日から明日にかけて低気圧が日本の南を発達しながら東北東に進み、明日には日本の東に進む見込みです。
関東甲信地方では今夜から雨が次第に雪に変わり、あす午前中にかけて山沿いを中心に、平野部でも積雪となる所がある見込みです。雪による交通障害、架線や電線、樹木等への着雪、路面の凍結に注意してください』
今朝のワイドショーのお天気キャスターの言葉を思い出したのは、勤めている会社の定時を迎え業務を終えたときだった。
「えー!やだっ!雪降ってるじゃん」と誰からともなく声が挙がり
「ホントだー、私傘持ってきてない」
「どうりで冷えると思った」
と同僚たちが次々と口にする。
またも誰かが「せっかく彼氏に買って貰ったバッグが濡れちゃう」と言い出し、それでもちっとも困った様子ではなく、どこか誇らし気だ。
そしてその周りの女子たちが盛んに羨ましがる。
「いいなー、でもあたし今度のクリスマスにダイヤの指輪ねだっちゃうんだー」と一人の女の子。
「いいなー!」黄色い声に、私は苦笑いを浮かべるしかない。ここでの男の年収と、女の品格は反比例する。いかにいい服を着るか、いかにいいバッグを持つか、いかにいい男を彼氏にするか、年中こんな会話でうんざりする。
かと言って輪に加わらないわけにはいかない。仕事とプライベートの内容こそ比例するのだ。
P.1
「仁科《にしな》さんはいつも素敵な服着てますよね」ふいに一人から話題を振られた。
「えっ、そう?」私は曖昧に笑って言葉を濁した。今日の服装は白いタイトワンピ。腰回りに太いベルトが巻き付いていて、ちょっと豪華に見えるゴールドのバックルがワンポイント。
そして同じくゴールド系のスパンコールが襟元に入ったコートを腕にかけて帰りたいアピール。
シンプルな服装だったけど、流石は目が肥えている女子たち。すぐにそれが高価なものだと見破った。女のチェック程厳しいものはない。私がオシャレをするのは対、男ではなく、彼女たちの為。
「仁科さんてぇ、結婚しないんですかぁ」間延びした話し方が赦されるのはこの年代の特権だ。
「結婚ね……相手がいないから」私は適当にごまかして再び言葉を濁した。
こう言っておけば大抵の女は引き下がる。私が長い間、人付き合いをしてきて、これが最良の方法だと知ったのはつい最近のこと。
私がこの会社に勤めはじめて五年になる。この会社での女性正社員では長いほうだ。後から派遣された若い女の子たちから見れば私なんてお局のようだった。
「そう言えばぁ仁科さん、この前見ちゃったんですぅ」一人の女の子が思わせぶりに口元へ手をやった。
短く切った髪にはパーマがあててあり、傍から見ればマシュマロのように可愛らしい女の子だ。
だが、そんな可愛らしさに惑わされてはいけない。女はいつでも顔の下にしたたかな一面を隠しているのだから。
P.2
「何を?」私は平静を装って取り澄ました。
もしかして“アイツ”と居る所を見られた?と思ってドキリとしたが
「この前の金曜日、青山のイタリアンレストランで、経理の前田さんと一緒にいるところぉ」
ああ、そっちか。とちょっとほっと安堵する。
「ええー!!」周りから黄色い声が飛ぶ。私は思わず頭を押さえたくなった。
そう、確かに経理の前田に誘われて先週の金曜に青山まで行った。
でも食事をしただけで、別に艶かしい関係ではない。だが、ここで重要なのが、経理の前田という男、この会社ではなかなかのハンサムでしかも独身、きさくな性格をしているわりには頼れる上司でもあるのだ。そうゆう男を若い女性社員が放っておくわけがない。
「いいなー、ねえお二人って付き合ってるんですか?」
食事をするイコール男女の関係と、どうして若い子たちはそう短絡的なのだろう。私はこの場から逃げ出したくなった。だけど、この場から立ち去ると認めたことになってしまう。
「別に、ただお食事に誘われただけよ」
「うそー、絶対前田さん仁科さんのこと狙ってるわよぅ。だって、あたしたちがいくら誘っても全然だったのよー。それなのに前田さんは仁科さんのこと」
嫉妬心と羨望の眼差しで見られ、私は思わず後ずさり。
何とか前田との話を切り返し、従業員出入り口から女子の群れに混ざって出てきた所だった。
遠くで派手なエンジン音が聞こえてきて、この狭い路地裏へと近づいてきた。この聞き慣れたエンジン音。私は嫌な予感がして思わず一方通行の標識を見つめた。
「よーう、仁科」黒のポルシェの窓から腕を出し、銜えタバコをしながら九条《くじょう》が手を振っている。
「やっぱり」
私は、今度こそ頭痛をこらえるように頭をしっかりと押さえた。
P.3
「仁科、今終わりか?これから飯でも食わねー?」
この状況を知らずに能天気に笑ってるその整った横っ面に今すぐ張り手を食らわせたい。
「あ、あんたいつ東京に戻ってきたわけ?」私は女の子の群れから一人離れると、九条の車に近づいた。
「あー、悪い。三日ぐらい前かな?この前言ってた日本料理屋行こうぜ」
「あんたっていつも何で急なのよ」
私が声を潜めて九条を睨んでいるときだった。
「えー、仁科さんの彼氏さんですかぁ?かっこいい!」
女の子たちの視線が九条に移った。予想していなかった最悪の事態。
上半身しか見えなかったが、今日の九条は黒いジャケットの中に白いカットソーを着ていて、真冬だって言うのに襟ぐりに濃いサングラスをかけている。いつものように髪をラフにセットしてあって、左耳には輪っかのようなピアスが三つ光っていた。
そう
どこからどーみてもこいつは
ホスト。
P.4
「仁科、今終わりか?これから飯でも食わねー?」
この状況を知らずに能天気に笑ってるその整った横っ面に今すぐ張り手を食らわせたい。
「あ、あんたいつ東京に戻ってきたわけ?」私は女の子の群れから一人離れると、九条の車に近づいた。
「あー、悪い。三日ぐらい前かな?この前言ってた日本料理屋行こうぜ」
「あんたっていつも何で急なのよ」
私が声を潜めて九条を睨んでいるときだった。
「えー、仁科さんの彼氏さんですかぁ?かっこいい!」
女の子たちの視線が九条に移った。予想していなかった最悪の事態。
上半身しか見えなかったが、今日の九条は黒いジャケットの中に白いカットソーを着ていて、真冬だって言うのに襟ぐりに濃いサングラスをかけている。いつものように髪をラフにセットしてあって、左耳には輪っかのようなピアスが三つ光っていた。
そう
どこからどーみてもこいつは
ホスト。
P.4
でも勘違いしてもらっては困る。私はこいつの客じゃない。東京を離れていたのも、大方客の一人と遠征旅行でもしていたのだろう。
「違っ!こいつとは単なる腐れ縁。彼氏とかじゃないから」
と慌てて否定するも秒の単位で噂が回るこの会社で明日の朝には『仁科さんて、ホストに貢いでるらしいよ』とあちこちで言われるに違いない。
くらり、と眩暈が起きた。
腐れ縁、と言うのは間違いない。中学からの同級生だから。
「じゃあ、本命は前田さんですかぁ?」女の子達が興味津々で目を輝かせている。
「前田??ひどいなー、仁科ぁ。俺たち何度もセック……もがっ」
最後の方が言葉にならなかったのは私の手が九条の口を塞いだから。
ふざけんな!何言い出すんだこいつぁ!!
空気読めっつうの!
と言うことを目で訴えると、流石に冗談が過ぎたと思ったのか九条は苦笑い。
「で?行くの?行かないの?」せっかちに聞かれて
「わかったわよ!行くわよ」半ば怒鳴るように九条を睨みつけると、私はそそくさと助手席に回った。
「それじゃ、私はこれで。お先に」女の子たちにはなるべく平静を装って、にこやかに手を振る。
ため息をついて車の助手席を開けると、運転席から九条が笑顔で手を差し伸べてきた。
「ただいま、仁科」
昔とちっとも変わらない笑顔。眉が下がり、目を細める、優しい笑顔。そして時々その低い声で呼ばれる、自分の名前。何だかくすぐったいが、この笑顔を向けられたら、たとえ九条の勝手に振り回されても、赦せてしまう。
「……おかえりなさい」私は俯くと、小さく返事を返した。
P.5
前述した通り私と九条とは中学からの付き合いだ。かれこれ十年以上の付き合いになる。十年、と言う歳月は長く感じられるけれど、その間に音信不通になったり、そしてどこからか連絡先を入手して電話を寄越して来たり、をだらだらと繰り返している。
でも、私たちははっきりと『付き合って』はいない。もちろん九条のブラックジョークの『体の関係』もない。
あるのは中学生から変わらないノリと
私が九条のこと「好き」
と言うことだけ。歳を重ねて、九条がホストになって……あ、今はホストじゃなくホスト店を経営してるオーナー様でもあったかしら。とにかく環境は変わったものの、不変的な何かは確実に存在している。
パワーウィンドウの外をちらほらと雪が降っていた。
「北海道行ってきたんだ~土産に蟹買ってきてやったぞ」と九条は運転しながらどこか楽しそう。
「北海道……ここより雪が多そうね」ぼんやりと呟きながら、九条に気づかれない程度にこっそりと、外気との差で曇った窓ガラスに、人差し指で
『好き』
と書く。
私の書いた文字は私の体で隠れて九条からは見えない。
「蟹すきしようぜ~、お前んちで」
「何であんたを一々上げないといけない?」
言い合いをしながら、やがて私のマンションに着く頃にはみぞれになった大粒の白いものが私の『好き』をかき消す。
「だってお前んち床暖あるじゃん?」
「そんな理由かよ」
中学生から変わってないこの関係とノリ。
今はまだ―――
この関係でいいや。
~FIN~
P.6