Chat Noir -黒猫と私- Deux(2nd)
Cat №48 黒猫と動き出した列車
その②
『Cat №48 黒猫と動き出した列車 その②』
今君のもとへ……
P.376
―――――
チェシャ猫さんとお別れしてから三日経った。
一応失恋……って言うのかなこれは??とにかくそれなりに落ち込んだこともあったけれど、でも黒猫のときほどじゃなかった。
悲しんだりもしなかったし、泣きもしなかった。
ただ
心にぽっかりと風穴が空いていて―――微妙な隙間風を感じてはいた。
その中で私は変わらず研究に明け暮れて、そして例のごとく研究室にだべりに来ている涼子のお相手。
「涼子、きれいなシャドウね。秋色?」
涼子の二重瞼の上にきれいに乗った深いピンク色を眺めて
「新色♪」
涼子は、机の上で頬杖をつきながら長い睫をパサパサ言わせてまばたき。
「ふぅん。私もたまにはおしゃれしよっかな~」
これで完全にどフリーになったわけだし。
黒猫と復縁……したいけど、まだ私の中でどうやって進めていいのか分からず……
でも、いつか元サヤに戻るとき可愛い私で居たいってのが正直な気持ち。
女磨いておくか。
……って…またもバイオハザードウィルスめ!
‟可愛い私”!?女を磨く!?
自分がキモい!!
私は慌てて涼子から視線を逸らした。
「いいじゃない、朝都もしなよ~♪何なら私のメイク道具一式貸そうか??」
涼子はわくわくと聞いてくる。
「ん。やっぱやめとく。そうゆうの似合わない気がする」
「何でよ~…あんた最近樗木さんと別れたからって女捨ててない??」
う゛!
言われてみれば……
今日もジーンズとパーカーと言う恰好によれよれの白衣姿。
化粧と言う化粧もしてないし、寝起きの髪のまま。
「まぁあれよ………スーパーでたたき売りしている細切れ肉と高級神戸牛ぐらいの差を見せつけられたら努力のしようもないって言うかね…」
スーパーのお肉は私で、言うまでもなく高級神戸牛はチヅルさんのことだけどね。
でも
窓に映した私たちの姿。
スーパーと神戸(涼子)だわ―――
がくり
肩を落としていると
「こんにちは。お邪魔します」
聞き慣れたセクシィボイスを聞いて顔を上げると
な、何で!!?
私は目を開いた。
P.377
そこには三日前に別れたばかりのチェシャ猫さんの姿が―――
いつもの仕事仕様でしっかりスーツを着こなし、相変わらずイケメンビームを放っている。
三日前の別れ話のときの雰囲気は微塵も引きずらず、相変わらず爽やかオーラがダダ漏れ。
「溝口に変わって納品にきました」
キラキラっ
眩しッ!!
ああ、こんな研究明けのくたびれた私の近くに寄られると、その光で溶けちゃいそうだ。
てかまたぁ!?
溝口ぃ!!仕事しろっ!
チェシャ猫さんはその後一通り納品を終えると、
「真田さん、ちょっといいですか?」とまたいつものにこにこ笑顔で私を誘って、私たちは構内でも目立たないカフェテリアまで移動した。
「その節は色々ご迷惑をおかけしまして…」
とチェシャ猫さんの方から切り出してくれた。
良かった。その後チヅルさんとどうなったのか気になったけれど、本人に聞くわけにもいかず―――
「チヅルさんとは仲良くしていますか?」
「ええ……まぁ」
チェシャ猫さんは言い辛そうにちょっとだけ視線を泳がせた。
「そこは『はい』でしょ。樗木さんが幸せになってくれないと別れた意味がないんですから」
と、ちょっと怒ったフリでチェシャ猫さんの眉間に指を指すと樗木さんは寄り目。
寄り目でもかっこいいんだから、ホント……イヤになっちゃうわ。
「ハイ。今、ボクは幸せデス」
チェシャ猫さんが棒読みで答えて、でも次の瞬間はにかんだように笑った。
「幸せです」
P.378
幸せです――――
……か。
その言葉を聞けて良かった―――
一人ご機嫌にコーヒーを啜っていると、
「結果はチヅとやり直すことになったんですが―――
真田さんには申し訳ないことを―――
色々酷いことや、変なこと言ったかもしれませんが………水に流してくれると―――ありがたいです。
勝手なことかもしれませんが」
深々と腰を折って、チェシャ猫さんが謝ってきて、私は慌てて手を振った。
「いえ!気にしないでくださいっ。それに勝手じゃないです」
まぁすぐに水に流せるほど私も大人じゃないけど、チェシャ猫さんは見た目も行動も言動も今まで出会ったどんな男よりも強烈でそうそう忘れそうにないけれど――
私だって―――黒猫に未練たらたらだったのにチェシャ猫さんと付き合おうとしていたし。
お互い様です。
「でも俺―――信じてくれないかもしれませんが、
本気で真田さんのことを―――」
「信じてます」
私はきっぱりはっきり言い切った。
信じている。
たとえ嘘からはじまった出会いでも
チェシャ猫さんが一瞬でも私と共に歩もうとしてくれた瞬間があったことを。
―――私は信じてる。
「真田さんが俺の悲しみを受け止めてくれて、
背中を押してくれたおかげです。
本当に
ありがとうございました」
また深々と頭を下げられ、今度は私も手を振らなかった。
P.379
頭を下げたチェシャ猫さんのつむじが見える。
チェシャ猫さん……つむじまで可愛い。くるくるしてる。
って思うと、ちょっと手放したのが惜しくなったかな~なんてネ。
結果、こうなって良かった。
「次は真田さんの番ですね」
と急に話を振られて
「私??」
私は自分を指さし。
「好きなんでしょう?
‟あの”高校生の彼を―――‟黒猫”くんを―――」
チェシャ猫さんの口から‟黒猫”と言う単語を聞いて、ドキリと胸が鳴った。
「私はまだ……」
心の準備が…とごにょごにょ口の中で呟くと
「‟行きなさい”」
チェシャ猫さんが真面目くさった顔で私の後ろを指さし。
「って言ってくれましたよね、真田さん。
女性にあんなこと言われたの、はじめてでした」
ははっ…
私も苦笑いしかできない。
我ながら……自分の言葉が恥ずかしかったり。
チェシャ猫さんは照れたように頭を掻き、でもまた次の瞬間真面目な表情に戻った。
「ああ言ってもらえて嬉しかったし、勇気付けられました。
だから今度は俺が
あなたの背中を押す番。
‟行きなさい”
後悔しないうちに早く―――
年若い彼らの時間は俺なんかの時間よりうんと早く進むものです。
その一秒一秒を大切に
してください」
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“行きなさい”
確かにそれは私がチェシャ猫さんに投げかけた言葉だ。
まさか自分に返ってくるとは思わなかった。
ううん、誰かに―――言ってもらいたかったんだ、私は―――
「行っても―――いいんですか?」
思わず聞くと
「いけない理由が?」と私が見上げた視線と、にっこり微笑を浮かべたチェシャ猫さんの視線とぶつかった。
カタン……
私は音を立てて椅子を立ち上がった。
「行って………
きます!」
カフェテリアのテーブルに500円玉を一枚置いて、白衣の裾を翻す。
ケータイと財布だけを持って。
他に何もいらない。
身一つあれば―――
#行きなさい。
―――走りなさい。
ただひたすらに
大好きな彼の腕の中に飛び込むために。
黒猫、待ってて―――
今、君の元へ行きます。
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私が白衣を翻して走り出すと、研究棟の窓―――ちょうど私の研究室がある場所ら辺から涼子が顔を出し
「朝都!どこへ行くつもり!?」
と大声で聞いてきた。
私は手を挙げて、自分でも久しぶりな大きな笑顔を浮かべて涼子に手を振った。
「黒猫――――……倭人のところに!」
涼子が大きな目をさらに大きく開く気配があった。
だけど次の瞬間、
「がんばってーーー!!」
と手をぶんぶん振り返してくる。
「うん!」
私もそれに手を振り返した。
途中溝口さんともすれ違った。
「朝都さん!樗木のヤツ見てません!?あいつ勝手に俺の納品を…」
言いかけた溝口さんに
「すみません、今急いでるんで」
言いかけて足早に走り去ろうとしたけれど、思いとどまって
「溝口さん、仕事してください」
しっかり言い置き、また走り出した。
「朝都さん、何かいいことありました!?すっげぇ笑顔」
溝口さんの声が追いかけてくる。
「今から黒猫のところに行くんです!私―――
飼い猫を取り戻さなきゃ!!」
「黒猫くんのところへ!?が、がんばってください!!」
溝口さんのエールも受け取り、私はさらに歩幅を広げて走り出した。
がんばる…
がんばるよ!涼子!!溝口さん!
涼子と溝口さんがしてくれたこと―――無駄にしないため―――
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構内を出る間際―――
浩一ともすれ違った。
「朝都。どうしたんだ、そんな急いで」
涼子と溝口さんと同じような反応で目をぱちくりさせる浩一。
そう言えば何につけてもマイペースな私が急ぐことって―――そうそうないよね。
「うん、ちょっとね!そだ!!浩一っっ!!
涼子と仲直りしたよーー!!浩一の言った通り、仲直りできたよ!!
ありがとね」
私は走りながら浩一にぶんぶん手を振った。
「何かよくわからないけど……良かったな!」
「うん!!ありがとーーーー!!」
大学を飛び出て、駅までの道を急ぐ。
黒猫がひたすらに私を待ち続けている駅までの
片道切符を買って
私は電車に飛び乗った。
待たせたね、黒猫。
ごめんね、長い間―――
ずっとずっと私のこと待っててくれた黒猫。
今から行くからね。
P.383
――――と言うものの……現実はそう甘くない。
神様って本当に居るんだと思う。
今までの私の数々の行いを見て―――意地悪されてるんだ。
ガタンっ!!
突如大きな音を立てて止まった電車。
前のめりになって慌てて脚で踏ん張るも、営業回り中のおじさんの背中にダイブ。
「す、すみません」
そんなに高くない鼻をさすさす撫でさすっていると
『乗客の皆様にお知らせします。
お急ぎのところ大変ご迷惑をおかけして申し訳ございませんが、ただいま線路上に不審物を発見しました。
ただいま調査中でございます。
安全と判断するまで今しばらく車内でお待ちください』
と無情なアナウンスが。
嘘!!
止まっちゃったよ!!
私は窓から線路の向こう側を見るように背伸びをすると、同じように急いでいるのか乗客の数人が窓を開けて顔を出して外の様子を伺っている。
だけど当然、線路のずっと向こうの状況なんて分かるはずもなく―――
「危険物って何だろうね」
と私にぶつかられた……人の好さそうなおじさんが私に問いかけてきて
「危険物ではなく不審物です。危険と不審はその区分が違い…」
つらつら……説明をするとおじさん目を点。
「あ、はい」
てか急いでるのに~~~!!
P.384
冬の夜
キミへの気持ちを窓に託しました
たった一言が言えない私は臆病者ですか?
でも今はこれが精一杯
雪に想いを
『次はお天気コーナーです。今日から明日にかけて低気圧が日本の南を発達しながら東北東に進み、明日には日本の東に進む見込みです。
関東甲信地方では今夜から雨が次第に雪に変わり、あす午前中にかけて山沿いを中心に、平野部でも積雪となる所がある見込みです。雪による交通障害、架線や電線、樹木等への着雪、路面の凍結に注意してください』
今朝のワイドショーのお天気キャスターの言葉を思い出したのは、勤めている会社の定時を迎え業務を終えたときだった。
「えー!やだっ!雪降ってるじゃん」と誰からともなく声が挙がり
「ホントだー、私傘持ってきてない」
「どうりで冷えると思った」
と同僚たちが次々と口にする。
またも誰かが「せっかく彼氏に買って貰ったバッグが濡れちゃう」と言い出し、それでもちっとも困った様子ではなく、どこか誇らし気だ。
そしてその周りの女子たちが盛んに羨ましがる。
「いいなー、でもあたし今度のクリスマスにダイヤの指輪ねだっちゃうんだー」と一人の女の子。
「いいなー!」黄色い声に、私は苦笑いを浮かべるしかない。ここでの男の年収と、女の品格は反比例する。いかにいい服を着るか、いかにいいバッグを持つか、いかにいい男を彼氏にするか、年中こんな会話でうんざりする。
かと言って輪に加わらないわけにはいかない。仕事とプライベートの内容こそ比例するのだ。
P.1
「仁科《にしな》さんはいつも素敵な服着てますよね」ふいに一人から話題を振られた。
「えっ、そう?」私は曖昧に笑って言葉を濁した。今日の服装は白いタイトワンピ。腰回りに太いベルトが巻き付いていて、ちょっと豪華に見えるゴールドのバックルがワンポイント。
そして同じくゴールド系のスパンコールが襟元に入ったコートを腕にかけて帰りたいアピール。
シンプルな服装だったけど、流石は目が肥えている女子たち。すぐにそれが高価なものだと見破った。女のチェック程厳しいものはない。私がオシャレをするのは対、男ではなく、彼女たちの為。
「仁科さんてぇ、結婚しないんですかぁ」間延びした話し方が赦されるのはこの年代の特権だ。
「結婚ね……相手がいないから」私は適当にごまかして再び言葉を濁した。
こう言っておけば大抵の女は引き下がる。私が長い間、人付き合いをしてきて、これが最良の方法だと知ったのはつい最近のこと。
私がこの会社に勤めはじめて五年になる。この会社での女性正社員では長いほうだ。後から派遣された若い女の子たちから見れば私なんてお局のようだった。
「そう言えばぁ仁科さん、この前見ちゃったんですぅ」一人の女の子が思わせぶりに口元へ手をやった。
短く切った髪にはパーマがあててあり、傍から見ればマシュマロのように可愛らしい女の子だ。
だが、そんな可愛らしさに惑わされてはいけない。女はいつでも顔の下にしたたかな一面を隠しているのだから。
P.2
「何を?」私は平静を装って取り澄ました。
もしかして“アイツ”と居る所を見られた?と思ってドキリとしたが
「この前の金曜日、青山のイタリアンレストランで、経理の前田さんと一緒にいるところぉ」
ああ、そっちか。とちょっとほっと安堵する。
「ええー!!」周りから黄色い声が飛ぶ。私は思わず頭を押さえたくなった。
そう、確かに経理の前田に誘われて先週の金曜に青山まで行った。
でも食事をしただけで、別に艶かしい関係ではない。だが、ここで重要なのが、経理の前田という男、この会社ではなかなかのハンサムでしかも独身、きさくな性格をしているわりには頼れる上司でもあるのだ。そうゆう男を若い女性社員が放っておくわけがない。
「いいなー、ねえお二人って付き合ってるんですか?」
食事をするイコール男女の関係と、どうして若い子たちはそう短絡的なのだろう。私はこの場から逃げ出したくなった。だけど、この場から立ち去ると認めたことになってしまう。
「別に、ただお食事に誘われただけよ」
「うそー、絶対前田さん仁科さんのこと狙ってるわよぅ。だって、あたしたちがいくら誘っても全然だったのよー。それなのに前田さんは仁科さんのこと」
嫉妬心と羨望の眼差しで見られ、私は思わず後ずさり。
何とか前田との話を切り返し、従業員出入り口から女子の群れに混ざって出てきた所だった。
遠くで派手なエンジン音が聞こえてきて、この狭い路地裏へと近づいてきた。この聞き慣れたエンジン音。私は嫌な予感がして思わず一方通行の標識を見つめた。
「よーう、仁科」黒のポルシェの窓から腕を出し、銜えタバコをしながら九条《くじょう》が手を振っている。
「やっぱり」
私は、今度こそ頭痛をこらえるように頭をしっかりと押さえた。
P.3
「仁科、今終わりか?これから飯でも食わねー?」
この状況を知らずに能天気に笑ってるその整った横っ面に今すぐ張り手を食らわせたい。
「あ、あんたいつ東京に戻ってきたわけ?」私は女の子の群れから一人離れると、九条の車に近づいた。
「あー、悪い。三日ぐらい前かな?この前言ってた日本料理屋行こうぜ」
「あんたっていつも何で急なのよ」
私が声を潜めて九条を睨んでいるときだった。
「えー、仁科さんの彼氏さんですかぁ?かっこいい!」
女の子たちの視線が九条に移った。予想していなかった最悪の事態。
上半身しか見えなかったが、今日の九条は黒いジャケットの中に白いカットソーを着ていて、真冬だって言うのに襟ぐりに濃いサングラスをかけている。いつものように髪をラフにセットしてあって、左耳には輪っかのようなピアスが三つ光っていた。
そう
どこからどーみてもこいつは
ホスト。
P.4
「仁科、今終わりか?これから飯でも食わねー?」
この状況を知らずに能天気に笑ってるその整った横っ面に今すぐ張り手を食らわせたい。
「あ、あんたいつ東京に戻ってきたわけ?」私は女の子の群れから一人離れると、九条の車に近づいた。
「あー、悪い。三日ぐらい前かな?この前言ってた日本料理屋行こうぜ」
「あんたっていつも何で急なのよ」
私が声を潜めて九条を睨んでいるときだった。
「えー、仁科さんの彼氏さんですかぁ?かっこいい!」
女の子たちの視線が九条に移った。予想していなかった最悪の事態。
上半身しか見えなかったが、今日の九条は黒いジャケットの中に白いカットソーを着ていて、真冬だって言うのに襟ぐりに濃いサングラスをかけている。いつものように髪をラフにセットしてあって、左耳には輪っかのようなピアスが三つ光っていた。
そう
どこからどーみてもこいつは
ホスト。
P.4
でも勘違いしてもらっては困る。私はこいつの客じゃない。東京を離れていたのも、大方客の一人と遠征旅行でもしていたのだろう。
「違っ!こいつとは単なる腐れ縁。彼氏とかじゃないから」
と慌てて否定するも秒の単位で噂が回るこの会社で明日の朝には『仁科さんて、ホストに貢いでるらしいよ』とあちこちで言われるに違いない。
くらり、と眩暈が起きた。
腐れ縁、と言うのは間違いない。中学からの同級生だから。
「じゃあ、本命は前田さんですかぁ?」女の子達が興味津々で目を輝かせている。
「前田??ひどいなー、仁科ぁ。俺たち何度もセック……もがっ」
最後の方が言葉にならなかったのは私の手が九条の口を塞いだから。
ふざけんな!何言い出すんだこいつぁ!!
空気読めっつうの!
と言うことを目で訴えると、流石に冗談が過ぎたと思ったのか九条は苦笑い。
「で?行くの?行かないの?」せっかちに聞かれて
「わかったわよ!行くわよ」半ば怒鳴るように九条を睨みつけると、私はそそくさと助手席に回った。
「それじゃ、私はこれで。お先に」女の子たちにはなるべく平静を装って、にこやかに手を振る。
ため息をついて車の助手席を開けると、運転席から九条が笑顔で手を差し伸べてきた。
「ただいま、仁科」
昔とちっとも変わらない笑顔。眉が下がり、目を細める、優しい笑顔。そして時々その低い声で呼ばれる、自分の名前。何だかくすぐったいが、この笑顔を向けられたら、たとえ九条の勝手に振り回されても、赦せてしまう。
「……おかえりなさい」私は俯くと、小さく返事を返した。
P.5
前述した通り私と九条とは中学からの付き合いだ。かれこれ十年以上の付き合いになる。十年、と言う歳月は長く感じられるけれど、その間に音信不通になったり、そしてどこからか連絡先を入手して電話を寄越して来たり、をだらだらと繰り返している。
でも、私たちははっきりと『付き合って』はいない。もちろん九条のブラックジョークの『体の関係』もない。
あるのは中学生から変わらないノリと
私が九条のこと「好き」
と言うことだけ。歳を重ねて、九条がホストになって……あ、今はホストじゃなくホスト店を経営してるオーナー様でもあったかしら。とにかく環境は変わったものの、不変的な何かは確実に存在している。
パワーウィンドウの外をちらほらと雪が降っていた。
「北海道行ってきたんだ~土産に蟹買ってきてやったぞ」と九条は運転しながらどこか楽しそう。
「北海道……ここより雪が多そうね」ぼんやりと呟きながら、九条に気づかれない程度にこっそりと、外気との差で曇った窓ガラスに、人差し指で
『好き』
と書く。
私の書いた文字は私の体で隠れて九条からは見えない。
「蟹すきしようぜ~、お前んちで」
「何であんたを一々上げないといけない?」
言い合いをしながら、やがて私のマンションに着く頃にはみぞれになった大粒の白いものが私の『好き』をかき消す。
「だってお前んち床暖あるじゃん?」
「そんな理由かよ」
中学生から変わってないこの関係とノリ。
今はまだ―――
この関係でいいや。
~FIN~
P.6