Chat Noir -黒猫と私- Deux(2nd)
Cat №35 黒猫Friend その②
『黒猫Friends その②』
キミは最高の友達だよ。
P.161
悩む―――よ。
そりゃ年齢の壁って大きなことだし。
「そんなのあと五年もすりゃ同じになるって。
その不安だったらきっと倭人の立場の方が大きいはずだぜ?
だって相手は五歳も年上のおねーさま。
彼女と同じ年代の男は大抵自分より金持ってるし、経験がある分ある程度慣れてリードできるし、大抵は働いてるし望めば今すぐ結婚だってできる。
それに比べたらやっぱ倭人の方が不利だって―――」
トラネコくんの説明に私は目をぱちぱち。
そっか……
そー言えば溝口さんにも妙につっかかるし、浩一のことはめちゃくちゃ警戒してたし、ミケネコお父様もライバル視してたし……
倭人も倭人なりに色々不安だったんだ。
「俺、基本フザけてるけどさ、こうしてフザけてると今抱えてる悩みとかどーでも良くならない?
怒ったり笑ったりしてるとサ、いっときでも忘れられる」
トラネコくんは白い歯を見せて無邪気に笑った。
あ
今気付いた。トラネコくんの笑顔……ほんのちょっとチェシャ猫さんの笑顔と重なる―――
「アサちゃんがあの男と付き合ったらさー、マジで倭人もうダメ?」
トラネコくんが“必殺!子猫ちゃんのうるうるおめめの視線”を向けてきて、私はその穢れなき純粋な目から視線を逸らそうとした。
トラネコくん……親友のことをそんなに心配して……わけわかんないところあるけど、ホントはいい子!
そう思ってると
「だってそーなったらさー、もし…もし!だよ。
果凛とくっついちゃったら、俺どーしたらいいんだよ」
前言撤回。
この悪魔め。
P.162
「結局のところキミが必死になるのはそこか」
呆れた目でトラネコくんを見ると
「当たり前ジャン。俺は自分の恋で精一杯なの」
と胸を張って言う。
でも…
待てよ??“もし”くっついちゃったら、ってことはまだあの二人付き合ってないのか…
if
付き合っちゃったら……
何だかすっごいお似合いなんですけど!可愛い高校生カップルだ。
「全然だよ。二人の関係は変わらず。
倭人はどっちかって言うと俺と遊んでる方が多いし。あいつアサちゃんのことばっかり話してる」
そう―――……なんだ。
「まだ諦めきれないみたいだぜ?こっぴどくフられてんのにー。かっこわり」
トラネコくんは何がおかしいのかイシシと笑う。
でもその笑顔をふっと和らげて頬杖をつくと窓の外…うんと遠くを眺めながらぽつりと漏らした。
「でもさー……かっこ悪いこと
できちゃうんだよね、あいつ。
なりふり構わずまっすぐに、自分の気持ちに正直で―――
そゆうのってサ、かっこいいよね」
トラネコくん―――……
P.163
「トラネコくんは倭人のことをリスペクトしてるの、それともディスってんの?」
今度は私がふざけてトラネコくんに聞いた。
「その両方♪バカだな~と思う反面、尊敬もできる。
だからサ、早くヨリ戻しちゃいなよ」
せっかくいい話聞いてたのに、その流れで何故そうなる。
「さっきの男なんてやめてさ。
暗殺者みたいな顔してるくせに、にこにこしちゃって!
きっとどっかの国のCIAだよ。アサちゃんなんてすぐ殺されちゃうんだから」
トラネコくんは大真面目。
暗殺者…CIA??
「どっかの国って、トラネコくん。CIAはアメリカよ。Central Intelligence Agency」
私の返答にトラネコくんは目を点。
大丈夫かしらこの子。私、個人的に彼の家庭教師をやりたいわ。
「彼超イケメンじゃない。
イマドキ珍しい美青年よ?」
「そりゃツラはいいけどさ~…なんていうの?危険な感じ。
アサちゃん絶対イタイ目見るって」
「大丈夫よ。
その辺の分別ぐらいできる」
そう
私はチェシャ猫さんの言葉を全面的に信じてるわけじゃない。
本気になると痛い目を見る。
言われなくても
本能がそう警告している。
P.164
駅前のコーヒーショップもいよいよ閉店になりお店を追い出されると、終電に乗って帰ることにした。
席に隣り合って揺られながら、トラネコくんが窓の外を眺めてぽつりと呟いた。
「アサちゃん。
やっぱアサちゃんは凄いよ」
突然何を言い出すのか…
またオフザケかと思ったけど、トラネコくんの顔は真面目だった。
「俺がいつまでもグズグズしてて、
果凛に気持ち打ち明けられなかったから、果凛は俺の気持ちにも気付かず倭人を好きで
その果凛を手に入れたいからアサちゃんには倭人と仲良くしてて、ってムシが良すぎ」
トラネコくんは両手をポケットに突っ込んで両足を投げ出す。
最終電車は人がまばらで、トラネコくんが長い足を伸ばしても誰も迷惑する人はいなかった。
「行動も起こしてないのに、アサちゃんを攻めるようなことしてごめん」
急に謝られて、私はびっくり。
「…へ!…い、いや…私そこまで深く考えては…
トラネコくんにはトラネコくんのタイミングがあるだろうし」
慌てて言うとトラネコくんはにっこり笑った。
「アサちゃんはやっぱイイ女だよ。
果凛のことがなくてもさ、やっぱり俺倭人とアサちゃん仲良くしててほしいよ。
だって一緒に居る二人、すっげぇ幸せそうだったから」
トラネコくん……
「だからさー、この際チューでもしとく?」
何でそーなる!!
「するか」
速攻で断ったけど、トラネコくんの顔が素早く近づいてきて
チュ
おでこに軽~いキス。
「だってイイ女がすぐ隣に居たら、そりゃキスするべきっしょ?」
トラネコくんは舌をぺろりと出して、にやりと笑う。
私はキスされた場所を押さえてトラネコくんを睨んだ。
でも
――――トラネコくんは理解している。
いくら力説されようと説得されようと、もう倭人のところに戻らないことを。
それを知ってて敢えて私が暗くならないよう悲しまないよう、冗談ばっか言ってくれてる。
これは「さよなら」のキス。
ごめんね。キミの恋路を邪魔するようなことをして。
ありがとう。
こんな不甲斐ない私を“イイ女”と言ってくれて。
キミはサイコーにイイ“友達”だよ。
P.165
その日私は家に帰り着いて、この場でようやくお弁当の紙袋が消えてることに気付いた。
あれ??どこかに忘れてきた?
ま…いっか。
どうせ余り物だし。中身ぐちゃぐちゃになっちゃったしね。
今日は――――、一日に色んなことがあった。
疲れ切っていたけれど、涼子から借りたワンピースを脱いでメイクを落としてシャワーを浴び
寝る前にはその一つ一つの出来事の記憶が少し薄らいでいた。
ちゃんと考えれば思い出せるだろうけど、現実逃避したいってのもある。
考えたいけど、考えたくなくて、私は晩酌もせずにベッドにもぐりこんだ。
黒猫からもらったクマちゃんを抱っこして眠る。
未練がましいかな。
こんなことしたら余計に黒猫に会いたくなっちゃう。
けど、今は一緒に眠りたい―――
そんな気分。
クマちゃんを抱きしめながら、私はいつの間にかうとうと。
――――
―…
気付いたら私は―――電車のホームに突っ立っていた。
人は誰も居なくてがらんとした無人の駅。
どこかで見た景色だと思ったら、その光景はチェシャ猫さんと会った場所だった。
電車が鉄の線路を軋ませてホームに滑り込んできた。
「この電車の行き先はどこ?」
独り言を漏らすと
『さぁ。それは誰にも分からないこと』
からかうような笑い声が聞こえて、声のした方を見上げると電車の屋根の上に淡い紫色とピンクの縞模様のネコがにぃっと白い歯をむき出して笑っていた。
それは誰もが一度は目にしたことのある架空のネコ。
不思議の国のアリスが出会ったチェシャ猫だった。
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私はアリス??
てかそんなキャラじゃないけど。
『迷いの列車にようこそ』
ニタニタ笑いを浮かべる薄気味悪いネコは笑いだけを残してすぅっと消えた。
扉が開いて、私はほとんど何も考えずに乗り込む。
普通だったらそんな気味悪いネコの誘導に乗らないけどね。
だってこれ、夢だし…
私はアリス。
そう
夢、なのだ。
列車のシートには何故かミケネコお父様が座っていて、私はまたも何も考えず彼の隣に座った。
「“良く一緒になりますね”」
ミケネコお父様が私を見てにっこり微笑んできて
「紗依の言葉―――前話したよね。覚えてる朝都ちゃん」
そう聞かれて
ああ……公園で話したことを思い出した。
「人は常に選択して道を切り拓く生き物だと思う。
その選択が間違っていようと、正しかろうと、ただ進むしかないんだ―――
だけど
紗依の選択は、彼女にとって最良だったのかどうか僕には分からない」
―――そんなの誰にも分からないんです。
本人じゃないと。
「そうだね」
ミケネコお父様はのんびり言って微笑み、
「僕は降りるよ。行き先を見つけた」と言って席を立ち上がった。
窓からお父様の行方を眺めていると、お父様はホームで待っていたペルシャ砂糖さんを目に入れると慌てて電車を飛び出した。
ペルシャ砂糖さんを抱きしめ、やがてその姿は
消えた。
「俺、自信がないんです」
ふいにすぐ隣で声が聞こえて顔を戻すと、そこには溝口さんが座っていて
今度は溝口さん…?
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「好きな人を幸せにする自信が―――
黒猫くんみたいなまっすぐな自信が―――」
―――自信なんて誰もないんです。
大事なのは“将来”じゃなくて、“未来”。
相手を想う純粋な気持ちさえあれば、ほかには何もいらない。
「純粋な気持ち…俺見つけました。大事にしたいんです」
―――行き先を見つけました?
「はい。ありがとうございます」
溝口さんが立ち上がると
「溝口さん!」涼子が電車の中に入ってきて
「もぉ~探しましたよ」彼の手を引っ張っていく。
二人は笑いあって電車を降り、
そして入れ違いにトラネコくんの姿が現れた。
「俺がぐずぐずしてるから果凛は倭人に行っちゃうんだ。ごめんねアサちゃん、攻めるようなことして」
―――ううん。トラネコくんは悪くない。
「そう、誰も悪くない」
また違う声が聞こえて、今度は顔を上げなくても分かる。
チェシャ猫さん―――
それはさっきの薄気味悪いにたにた笑顔を浮かべるチェシャ猫じゃなく、ちゃんと人の形をした樗木さんだった。
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「こんばんは」
彼は微笑んだ。
―――こんばんは。
私もその言葉に返した。
―――この電車―――動かないんです。ずっと止まったまま。
どうしてですか?
「動きませんよ。
五年前から」
五年前から…
―――長いですね。
「ええ、とても長い―――気が狂いそうになるぐらい……ね」
―――その間チェシャ猫さんは一人でここに座っていたんですか?
「ええ、ずっと」
―――どうして?
「行き先が分からないんです。僕の時間は五年前に止まったまま」
チェシャ猫さんが目配せする先には、今のチェシャ猫さんより少し若い青年が座っていて、私は目をまばたいた。
見覚えのないカーキ色のコート。フードがついていて淵にファーがついている。
鼻の先がちょっと赤い。
―――きっと寒かったんですね、この日は。
「ええ、とても。雪が降ってました。“あの日”は―――」
チェシャ猫さんはコートのポケットに両手を突っ込んで私に微笑みかける。
「手を―――繋いでいいですか?」
……はい。
「僕はこの手を離しません」
…はい。
―――チェシャ猫さん―――
「はい」
何故…
―――何故泣いてるんですか?
「俺が―――泣いてる……?」
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涙は出ていない。声もあげてない。
だけどその笑顔の裏側で、心で―――チェシャ猫さんは
―――泣いてる。
涙を流して、両手で顔を覆って腰を折って。
その涙は誰の為に流したものですか。
「さぁ」
チェシャ猫さんは微笑みを浮かべてはぐらかす。
―――泣いてもいいんですよ。
私しかいません。
「俺は泣き方を忘れました。
列車が走り方を忘れたように。
真田さん、俺の大切な人になってください」
―――それはできません。
だってあなたは―――私とは違う人を求めている。
―――
―――――……
「………!」
ぱっと目が覚めて辺りを見渡すと、そこは見慣れた私の部屋だった。
「夢―――……」
それにしても変な夢だった。
窓の外を見ると、カーテンの向こうは薄暗がりだった。
「まだ朝ぁ??」
寝ぼけた目で開きっぱなしになってるケータイを手繰り寄せ時間を確認すると18:30だった。
ありえない、自分。
昨日は変な緊張の連続で疲れてたんだな、と決め付けて涼子からメールが来てるのに気付いた。
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“昨日の合コンどうだった?いい人いた??”
合コン―――だったね、そいやぁ。
私は大きな欠伸をしながら寝起きのボサボサ頭を掻き掻き。
「いい人は……」
声に出してメールを打ち、“いなかった”と続けたけど、やめた。
一文字一文字消去して、
“ちょっと気になる人がいた。溝口さんは大丈夫だよ。私がしっかり見張っておいたから”
と正直に文章を訂正して涼子に送った。
送ったあとに慌てて髪を手櫛で直し、何となく正座してみる。
バカみたい。チェシャ猫さんが見てるわけじゃないのに。
でも、思いもかけないところからひょっこり現れるから油断禁物って言うか……
でも
『気になる』て意味は、異性に対する気になるじゃなく、人として。
何だか不思議な人だったな。
と言う意味で。
でも言葉足らずの私のメールに
~♪
すぐに涼子から返信がきた。
“どーゆうこと!詳しく教えてっ”とメールが。
本来なら即行で電話が掛かってくるだろうに、まだ親戚の人たちと一緒に居るんだろうな。
何だかメールで一々説明する気にもなれなくて
“また明日詳しく話す。大学で会おう”
それだけ送って私はまたもベッドに逆戻り。
P.171
あれだけ寝たのに、まだ頭がぼーっとする。
変な夢のせいかな。
そんなことを考えながら、涼子からのメールでいっぱいいっぱいで私は自分が正常なときにきたメールのことを思い返す余裕がなかった。
だから黒猫のメールも半分記憶の隅っこへ追いやられていたわけで…
ううん
ホントは覚えてる。
一言一句全部―――
でも覚えてないフリして、目を逸らすのが精一杯。
向き合っちゃったら、きっと―――
―――俺の大切な人になってください。
結局返事もできずにチェシャ猫さん帰っちゃったし。
あの人私の番号も知らないくせにどうするつもり?
それともあの場のノリ??みたいなもの?
酔ってはなさそうだったけど、会った女の子全員に言ってることかもしれないし。
わかんないなぁ。
“真田さん、
俺の大切な人になってください”
“何でそこに居るのが俺じゃないんだよ。
朝都に会いたい”
―――私はどうすればいいのだろう。
P.172
月曜日。
昨日『眠れる森の…』その後に続く言葉は敢えて自制させていただくわ。
とにかくオーロラ姫のように眠り続けた私は脳も体もやけにすっきりと冴え渡っていた。
王子さまがキスしてくれるわけでもなく、単にレム睡眠とノンレム睡眠のメカニズムの法則に逆らえなかっただけ。
ああ、どこまで現実的。
合コンのこと涼子に直接説明したかったけど、こんなときに限って涼子とは一日顔を合わせなかった。
もう法事からは帰ってるはずなのに。
ま、いっか。そのうち会えるでしょ。
溝口さんとも顔を合わせたらキマヅイかな…一昨日の帰り、チェシャネコさんと何かあったか聞かれると困る。とかちょっと考えたりしたけど。
「予算が余ってるのでラテックスグローブを大箱で一箱、それから12mmのシリンジを1ケース。この二つは学内予算ですから、科研費とは別で納品書作ってください」
ああ、いつも通り絶好調。失恋で落ち込んでる私はどこへやら。
私は発注ノートを見ながら淡々と溝口さんに聞くと
「学内予算の二点了解しました。科研費もまだ余裕があるのでいくつか見積もりつくっておきます」
溝口さんも相変わらずのデキる営業マン本領発揮でハキハキと自分の手帳と向かい合っている。
「「…………」」
私たちはそれぞれペンを置くと思わず顔を合わせた。
一昨日とは言え、私この人と合コン行ったんだよね。
「(こないだのことはともあれ)朝都さん、助手でも務まりますね」
「(こないだのことは聞かないでください)そうですか?うちはほら、カーネル教授がのんびりしてる先生でしょ?
慣れですよ、慣れ」
それぞれ会話に含みを持たせて、今日私たちは研究員と営業マン。
四年間もこうゆうことやってると文字通り慣れた。
カーネル教授も教授で、考えるのが面倒なのか学生の私に丸投げだし。
適当だなぁ。
「朝都先輩、このまま院生として残ってここに居てくださいよ~!先輩が卒業しちゃったら予算の管理誰がするんスか!!俺、絶対無理っすよ!!」
そう弱音を吐いて縋ってくるのは同じ研究室の後輩くん。
まぁ。今はお金の計算していればいっとき、黒猫メールとチェシャ猫さんの告白(?)を忘れられる気がするし―――
私ってヒドイ女。
P.173
まぁ本当ならこのままここで院生で残って、気心の知れた研究員と好きな研究だけに没頭したい。
カーネル教授はのんびりしてるし、後輩くんは面白いし、院生の先輩も優しいし。
ついでにコーヒー(インスタントだけど)も飲み放題だしね。
「朝都さんならしっかりしてるし、無理も言わないから俺も助かるっちゃ助かるんですが」
と溝口さんまで後輩くんの意見に賛同する。
でもねぇ。
「うち、院生になってまで勉強する(お金の)余裕なんてないですから。
それよりも新しい環境と人間関係に多少目を瞑って、例え予算の関係で研究がし辛くなっても好きなことしてお金もらえた方が合理的じゃありません?」
予算表とにらめっこしたまま淡々と答えると
「ドライっスね」と溝口さんは苦笑い。
「じゃぁ朝都先輩は余裕があったらここに残ってくれるんですか!」
と後輩くんは真剣。目がマジなんですけど。
そんなにイヤか、予算管理。
まぁ私が卒業したら自然に管理する役目が彼になるからね~。院生の先輩は研究畑の人でお金のことに疎いし。
「だから言ったでしょう?余裕がないって。奨学金だって返さなきゃいけないし、働かざるもの食うべからず」
発注のボードファイルの側面で、後輩くんのおでこをはたくと
「じゃぁ結婚しちゃえばいいじゃないですか」
何を言い出す溝口。
P.174
寝言は寝て言ってほしいわ。
「嘘!朝都先輩結婚するんスか!」
後輩くんもびっくり。
ちょっとちょっと、どーしてそこまで話が飛躍する。
「溝口さん“結婚”て意味知ってます?一人じゃできないんですよ」
冷めた目で溝口さんを睨むと
「知ってますよぉ。今なら超!お得物件がすぐ近くに!
身長180cm弱。A型の蠍座♪ピっチピチの25歳営業マン☆年収700万。
しかもなんと!!実家暮らしだから、貯金もたんまり。
朝都さん一人を大学に行かせることぐらい軽い軽い」
溝口さんはまるでテレビの通販番組で商品を紹介するノリでにっこにこ。
溝口さんのノリが一番軽い軽い、だわ。
でも(一部)どっかで聞いた情報……
考えて、はっとなった。
トイレの女子会議だ。女の子たちが噂してたのは―――
チェシャ猫さん。
「溝口さ……」言いかけたときだった。
「朝都~~!!!♪♪溝口さん来てる~??」
今度は涼子の登場。
どうなってるこの研究室。
P.175
涼子は溝口さんとお付き合いをはじめてから、更に頻繁に研究室に来るようになった。
いくら構内で秘密の関係って言ってもねぇ、この研究室をデート場にしないでほしいわ。
しかも今日は
500mlのビーカーに入った色とりどりの……
マカロン??
ご丁寧にビーカーにリボン巻いてあるし。
「溝口さんのために空いた時間、食物科の調理室借りてマカロン作ったんですぅ♪」
「うわ♪うまそー☆ですね♪」
てか溝口さん。マカロンどうのこうのより、そのビーカーにツッコもうよ。
二人は私たちそっちのけでラブラブモード。
なるほど。涼子の姿が今日見えなかったのは調理室に居たからか。
涼子は極上の美人笑顔を私に向けてきて
「朝都もど~ぞ」といつになく親切。
な…なんかその笑顔…怖いんですけど。
マカロンはワイロか??何を企んでる…とちょっと疑心暗鬼になってそのマカロンを凝視していると、後輩くんの手がマカロンに伸びてきた。
「うまそう☆俺も一つくださ~い」
けれど涼子はその手をペシリと払い、
「キミはダメ。食べたいのなら調理室に行って来て。まだ残ってるから」
「え!何でっ!!」
後輩くんもびっくり。と言うか不服そうだ。
「今なら食物科の一年の女の子がたくさんよ★ほら、Go Go!」
涼子が入り口を指差すと、現金な後輩くんは「行ってきます!!☆」と研究室を飛び出していった。
「ふっ。ちょろいわね」
涼子は面白そうに顎に手を当てにやり。
トラネコくんにならって、あんたも悪魔か。
P.176
後輩くんを追い出して、おなじみ私と涼子、溝口さんのメンバーになると
「で!気になる人って誰!!」と、いきなり涼子が勢い込んできた。
あ、やっぱそーなるぅ…??
「もしかして樗木のこと??」
と溝口さんも目をきらきらさせている。
溝口さん…チェシャ猫さんのことどこまで知ってるんだろう。
チェシャ猫さんのことほとんど知らないし、彼が溝口さんに何を言ったのか分からず私は探るように目を上げ
「樗木さん、私のこと何か言ってました?」
と聞くと、
「言ってた、と言うより聞いてきましたよ。“真田さん、彼氏居るのかなぁ”とか」
あの状態で居るはずないじゃない。
「んで、俺答えておきました。別れたばっかりって☆」
溝口さんはペコちゃんみたいに舌を出して親指を立てる。
溝口……余計なことしてくれたわね。
「でもでも!それってその…樗木さん?って人は朝都のこと気になってるっぽいじゃない」
涼子も手を組んでうっとりと宙を見上げる。
「で、二人して合コン会場から消えたって言うじゃない。何があったの」
涼子は急に真剣になって私を覗き込んできて、私は引き腰。
涼子⇔溝口さん
の間に隠し事や秘密は一切ないようでCIAもびっくりな素早い情報網。
二人の敏腕諜報員に迫られて、もはや隠し切れない状態。
二人に『吐け!すべて吐け』と迫られているようで私はあっさり降参。
一昨日のことをかくかくしかじか話し聞かせた。
「うっそ!大切な人になってください、
ってそれ告白ジャン!!
しかも手を繋いだなんて、うふふ~♪♪」
涼子は楽しそうに手を叩き、最後に気味悪い声で笑った。
「あいつ…疑ってたけどマジでそっちの趣味じゃなかったんだな。
ちょっと安心。俺迫られたらどーしよう…とか考えたこともあったんスけど」
溝口さんは腕を組んでしみじみ。
溝口さん、失礼ですよ。
それにチェシャ猫さんもたとえそっちの趣味でも相手を選びますって。
溝口さんがいいのは顔だけですから。←私もかなり失礼ね。
P.177
「んで、返事は?」
涼子にせっかちに聞かれて、私は肩をすくめた。
「返事も何も、それが愛の告白かどうかも分かんないし。
……失礼かもしれないけど、その場のノリみたいな軽い冗談だったら真面目に答える私がバカみたいじゃない」
この場の雰囲気が気詰まりで、私はことさら何でもないようにマカロンに手を伸ばした。
鮮やかなベリー色をしたマカロン。
恋に色があるのならイメージは淡い淡~いピンク。こんなビビットピンク色の恋って
何だか妖しい。
妖しいけど、それを口に入れるとほろりと優しく口の中で溶けた。
「あいつ、その場で軽い冗談とか気を持たせるようなことは絶対言わないですよ。特にその手の話題には。
だから俺らが勘違いするわけで」
溝口さんは大真面目。
そう……なのか。
「会社でも超美人な先輩や同期や後輩やら事務の女の子や得意先の女性社員から……他etc、告られても、どんなに美人な女に逆ナンパされても絶対なびかないヤツなんです」
そ、そんなに言い寄られてたのか。
まぁあれだけの見てくれだしな。
「いいジャン、いっちゃえいっちゃえ♪」
涼子は楽しそうに手を組んで上目遣いで目をぱちぱち。
行くってどこまでよ。
そんな会話をしているうちに溝口さんは違う研究室から呼び出されて、真面目にお仕事に戻り
涼子と二人きりになって
「で、実際問題どうするつもりよ」
と涼子が勝手知ったると言った感じで手馴れた手つきでコーヒーを淹れながら大真面目。
どーするもなにも……
P.178
私はかじりかけのピンクのマカロンを再び口に入れ、涼子の淹れてくれたコーヒーでマカロンの欠片を流しこんだ。
ごくり、と喉を鳴らしてマカロンを飲み込むと
「非の打ち所がない人なんだよね。
かっこいいし、優しいし、気が利くし。
おまけにお金持ちっぽいじゃない?」
最後のは涼子の似非友達情報だけど。
インスタントコーヒーのカップの中身を覗き込むと、未だ謎めいたあのチェシャ猫さんの腹の中と同じ色をしているように見えた。
「でもそんな、何でも揃った人に彼女が居ないの?って普通思わない?
特定の彼女は居ませんケド遊んでます~って公言してるようなもんじゃない」
「考え過ぎじゃない?」
涼子はのんびり言って今度はレモンイエロー色をしたマカロンを手に取る。
チェシャ猫さんは『大切な人を作りたくなかった』って言った。
それって深く人と関わりたくない、ってことじゃない。
表面上の軽い付き合い希望、ってことじゃない。
これが昨日一日考えた結論だった。
「どっちにしろ、私チェシャ猫さんの連絡先知らないし、向こうも知らない。
それで、しゅーりょーだよ」
あっさり言い切って私はコーヒーをぐいと煽った。
砂糖もミルクも入れてないコーヒーは当然ながらほろ苦い味がした。
涼子はたっぷりの砂糖とミルクを入れて
「そんなに簡単に終わりにしちゃっていいの?
まだ良く知らない人なのに決め付けるなんて朝都らしくないじゃん。
それともまだ黒猫くんのこと―――……」
と上目遣いで聞いてくる。
私らしい―――って何?
それに
チェシャ猫さんのことは黒猫とは無関係だよ。
そう言い切れない私。
たとえばチェシャ猫さんがもっとかっこ良く無くて、お金持ちじゃなかったら彼のこと疑わずに済んで、
『いいかも』なんて思うのかな。
たぶん違う気がする。
かと言って黒猫の元に戻ることなんてできないし―――
私は―――どうしたいんだろう。
私、またも迷子だ。
今度は『迷いの森』に入り込んじゃったみたい。
P.179<→次へ>
冬の夜
キミへの気持ちを窓に託しました
たった一言が言えない私は臆病者ですか?
でも今はこれが精一杯
雪に想いを
『次はお天気コーナーです。今日から明日にかけて低気圧が日本の南を発達しながら東北東に進み、明日には日本の東に進む見込みです。
関東甲信地方では今夜から雨が次第に雪に変わり、あす午前中にかけて山沿いを中心に、平野部でも積雪となる所がある見込みです。雪による交通障害、架線や電線、樹木等への着雪、路面の凍結に注意してください』
今朝のワイドショーのお天気キャスターの言葉を思い出したのは、勤めている会社の定時を迎え業務を終えたときだった。
「えー!やだっ!雪降ってるじゃん」と誰からともなく声が挙がり
「ホントだー、私傘持ってきてない」
「どうりで冷えると思った」
と同僚たちが次々と口にする。
またも誰かが「せっかく彼氏に買って貰ったバッグが濡れちゃう」と言い出し、それでもちっとも困った様子ではなく、どこか誇らし気だ。
そしてその周りの女子たちが盛んに羨ましがる。
「いいなー、でもあたし今度のクリスマスにダイヤの指輪ねだっちゃうんだー」と一人の女の子。
「いいなー!」黄色い声に、私は苦笑いを浮かべるしかない。ここでの男の年収と、女の品格は反比例する。いかにいい服を着るか、いかにいいバッグを持つか、いかにいい男を彼氏にするか、年中こんな会話でうんざりする。
かと言って輪に加わらないわけにはいかない。仕事とプライベートの内容こそ比例するのだ。
P.1
「仁科《にしな》さんはいつも素敵な服着てますよね」ふいに一人から話題を振られた。
「えっ、そう?」私は曖昧に笑って言葉を濁した。今日の服装は白いタイトワンピ。腰回りに太いベルトが巻き付いていて、ちょっと豪華に見えるゴールドのバックルがワンポイント。
そして同じくゴールド系のスパンコールが襟元に入ったコートを腕にかけて帰りたいアピール。
シンプルな服装だったけど、流石は目が肥えている女子たち。すぐにそれが高価なものだと見破った。女のチェック程厳しいものはない。私がオシャレをするのは対、男ではなく、彼女たちの為。
「仁科さんてぇ、結婚しないんですかぁ」間延びした話し方が赦されるのはこの年代の特権だ。
「結婚ね……相手がいないから」私は適当にごまかして再び言葉を濁した。
こう言っておけば大抵の女は引き下がる。私が長い間、人付き合いをしてきて、これが最良の方法だと知ったのはつい最近のこと。
私がこの会社に勤めはじめて五年になる。この会社での女性正社員では長いほうだ。後から派遣された若い女の子たちから見れば私なんてお局のようだった。
「そう言えばぁ仁科さん、この前見ちゃったんですぅ」一人の女の子が思わせぶりに口元へ手をやった。
短く切った髪にはパーマがあててあり、傍から見ればマシュマロのように可愛らしい女の子だ。
だが、そんな可愛らしさに惑わされてはいけない。女はいつでも顔の下にしたたかな一面を隠しているのだから。
P.2
「何を?」私は平静を装って取り澄ました。
もしかして“アイツ”と居る所を見られた?と思ってドキリとしたが
「この前の金曜日、青山のイタリアンレストランで、経理の前田さんと一緒にいるところぉ」
ああ、そっちか。とちょっとほっと安堵する。
「ええー!!」周りから黄色い声が飛ぶ。私は思わず頭を押さえたくなった。
そう、確かに経理の前田に誘われて先週の金曜に青山まで行った。
でも食事をしただけで、別に艶かしい関係ではない。だが、ここで重要なのが、経理の前田という男、この会社ではなかなかのハンサムでしかも独身、きさくな性格をしているわりには頼れる上司でもあるのだ。そうゆう男を若い女性社員が放っておくわけがない。
「いいなー、ねえお二人って付き合ってるんですか?」
食事をするイコール男女の関係と、どうして若い子たちはそう短絡的なのだろう。私はこの場から逃げ出したくなった。だけど、この場から立ち去ると認めたことになってしまう。
「別に、ただお食事に誘われただけよ」
「うそー、絶対前田さん仁科さんのこと狙ってるわよぅ。だって、あたしたちがいくら誘っても全然だったのよー。それなのに前田さんは仁科さんのこと」
嫉妬心と羨望の眼差しで見られ、私は思わず後ずさり。
何とか前田との話を切り返し、従業員出入り口から女子の群れに混ざって出てきた所だった。
遠くで派手なエンジン音が聞こえてきて、この狭い路地裏へと近づいてきた。この聞き慣れたエンジン音。私は嫌な予感がして思わず一方通行の標識を見つめた。
「よーう、仁科」黒のポルシェの窓から腕を出し、銜えタバコをしながら九条《くじょう》が手を振っている。
「やっぱり」
私は、今度こそ頭痛をこらえるように頭をしっかりと押さえた。
P.3
「仁科、今終わりか?これから飯でも食わねー?」
この状況を知らずに能天気に笑ってるその整った横っ面に今すぐ張り手を食らわせたい。
「あ、あんたいつ東京に戻ってきたわけ?」私は女の子の群れから一人離れると、九条の車に近づいた。
「あー、悪い。三日ぐらい前かな?この前言ってた日本料理屋行こうぜ」
「あんたっていつも何で急なのよ」
私が声を潜めて九条を睨んでいるときだった。
「えー、仁科さんの彼氏さんですかぁ?かっこいい!」
女の子たちの視線が九条に移った。予想していなかった最悪の事態。
上半身しか見えなかったが、今日の九条は黒いジャケットの中に白いカットソーを着ていて、真冬だって言うのに襟ぐりに濃いサングラスをかけている。いつものように髪をラフにセットしてあって、左耳には輪っかのようなピアスが三つ光っていた。
そう
どこからどーみてもこいつは
ホスト。
P.4
「仁科、今終わりか?これから飯でも食わねー?」
この状況を知らずに能天気に笑ってるその整った横っ面に今すぐ張り手を食らわせたい。
「あ、あんたいつ東京に戻ってきたわけ?」私は女の子の群れから一人離れると、九条の車に近づいた。
「あー、悪い。三日ぐらい前かな?この前言ってた日本料理屋行こうぜ」
「あんたっていつも何で急なのよ」
私が声を潜めて九条を睨んでいるときだった。
「えー、仁科さんの彼氏さんですかぁ?かっこいい!」
女の子たちの視線が九条に移った。予想していなかった最悪の事態。
上半身しか見えなかったが、今日の九条は黒いジャケットの中に白いカットソーを着ていて、真冬だって言うのに襟ぐりに濃いサングラスをかけている。いつものように髪をラフにセットしてあって、左耳には輪っかのようなピアスが三つ光っていた。
そう
どこからどーみてもこいつは
ホスト。
P.4
でも勘違いしてもらっては困る。私はこいつの客じゃない。東京を離れていたのも、大方客の一人と遠征旅行でもしていたのだろう。
「違っ!こいつとは単なる腐れ縁。彼氏とかじゃないから」
と慌てて否定するも秒の単位で噂が回るこの会社で明日の朝には『仁科さんて、ホストに貢いでるらしいよ』とあちこちで言われるに違いない。
くらり、と眩暈が起きた。
腐れ縁、と言うのは間違いない。中学からの同級生だから。
「じゃあ、本命は前田さんですかぁ?」女の子達が興味津々で目を輝かせている。
「前田??ひどいなー、仁科ぁ。俺たち何度もセック……もがっ」
最後の方が言葉にならなかったのは私の手が九条の口を塞いだから。
ふざけんな!何言い出すんだこいつぁ!!
空気読めっつうの!
と言うことを目で訴えると、流石に冗談が過ぎたと思ったのか九条は苦笑い。
「で?行くの?行かないの?」せっかちに聞かれて
「わかったわよ!行くわよ」半ば怒鳴るように九条を睨みつけると、私はそそくさと助手席に回った。
「それじゃ、私はこれで。お先に」女の子たちにはなるべく平静を装って、にこやかに手を振る。
ため息をついて車の助手席を開けると、運転席から九条が笑顔で手を差し伸べてきた。
「ただいま、仁科」
昔とちっとも変わらない笑顔。眉が下がり、目を細める、優しい笑顔。そして時々その低い声で呼ばれる、自分の名前。何だかくすぐったいが、この笑顔を向けられたら、たとえ九条の勝手に振り回されても、赦せてしまう。
「……おかえりなさい」私は俯くと、小さく返事を返した。
P.5
前述した通り私と九条とは中学からの付き合いだ。かれこれ十年以上の付き合いになる。十年、と言う歳月は長く感じられるけれど、その間に音信不通になったり、そしてどこからか連絡先を入手して電話を寄越して来たり、をだらだらと繰り返している。
でも、私たちははっきりと『付き合って』はいない。もちろん九条のブラックジョークの『体の関係』もない。
あるのは中学生から変わらないノリと
私が九条のこと「好き」
と言うことだけ。歳を重ねて、九条がホストになって……あ、今はホストじゃなくホスト店を経営してるオーナー様でもあったかしら。とにかく環境は変わったものの、不変的な何かは確実に存在している。
パワーウィンドウの外をちらほらと雪が降っていた。
「北海道行ってきたんだ~土産に蟹買ってきてやったぞ」と九条は運転しながらどこか楽しそう。
「北海道……ここより雪が多そうね」ぼんやりと呟きながら、九条に気づかれない程度にこっそりと、外気との差で曇った窓ガラスに、人差し指で
『好き』
と書く。
私の書いた文字は私の体で隠れて九条からは見えない。
「蟹すきしようぜ~、お前んちで」
「何であんたを一々上げないといけない?」
言い合いをしながら、やがて私のマンションに着く頃にはみぞれになった大粒の白いものが私の『好き』をかき消す。
「だってお前んち床暖あるじゃん?」
「そんな理由かよ」
中学生から変わってないこの関係とノリ。
今はまだ―――
この関係でいいや。
~FIN~
P.6