Chat Noir -黒猫と私- Deux(2nd)
Cat №36 黒猫と婚姻届
『黒猫と婚姻届』
この展開についていけません・・・
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それから三日後。
最近の私自身は……美しくない↓↓
「ぅわっ!朝都先輩大丈夫スか!」
と叫び声をあげ、まるでゾンビにでも遭遇したように顔を青くして飛びのく後輩くん。
何が??と聞くまでもなく、私は
「ちょっと二日ほどまともに寝てなくて…」
と、うつろな目で後輩くんを見上げた。
「二日ほど!新しい研究スか?少しの間でやつれた??」
ええ、やつれましたとも。
体重は確実に二キロは減った。
研究だったらどれだけ楽か―――
……と言うのも
「カーネル教授に頼まれた事務仕事が山積みなのよ。
最終予算の調整でしょ?それから学生実験のお手伝いに、備品の管理リスト作成に…」
つらつらつら…私は書類の束を後輩くんに見せて説明。
その説明を全部言い切らないうちに後輩くんは私の言葉を遮り
「ぅわ…ご苦労さまです」
同情したように手を合わせる。
「何でうちの研究室には秘書さん(※)がいないのよーー!!
何で私がこんなことしなきゃいけないのよ!!」
しかもノーギャラ!!
カーネル教授ケチってんじゃないわよ!
チキンで儲かってるくせに。あの見事な白髪とは裏腹に腹の中は真っ黒だな。
と、私の頭の中はぐちゃぐちゃ。
※大学の研究室には大抵、事務仕事を行ってくれる秘書さんがいます。いないとこもありますが。
秘書さんを雇う雇わないのは教授の費用次第♪
「朝都先輩、ちょっと外の空気吸ってきた方がいいスよ!
ちょっと日光に当たらないと」
あまりの私の変わりっぷりに後輩くんがお手上げと言った感じで、
私は研究室の外へと追い出された。
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追い出された私は…と言うと、眠気覚ましの栄養ドリンクを買おうと購買部へ。
「何よ。あんただってのほほんと研究できるのは私のこの地道な努力があってからしてねー」
ブツブツ言いながら肩をこきこき回す。
回しながら、周りの男子の目がちくちくと私に刺さり
私は「ごほん」小さく咳払いをすると手を下ろして白衣の裾を整えた。
だめね、朝都。
怒りっぽいのはカルシウム不足かしら。
「涼子、またお魚ビスくれないかな~溝口さんでもいいや。あれ結構おいしかったのよね。
疲れた体に糖分補給で一石二鳥」
独り言を漏らして、私の歩みは止まった。
お魚ビスは黒猫もお気に入りだった。
そのお魚ビスにくっついていた青いリボンをマウスの尻尾にくっつけたんだっけ。
何なの、もぉ。
ここ二日間ほど慣れない事務作業に追われて、黒猫のこと考える余裕すらなかったのに
ちょっと気を緩めると
あいつはまたも無断で私の中に入り込んでくる。
黒猫って不吉なイメージがあるし、横切られると不幸が訪れるって言うけど
でもどっかの国では黒猫は福ネコで、勝手に家に入ってきたら幸運が訪れるって言われてる。
思い出すことは幸運なのか不運なのか―――
考え出したらキリがない。
私は考えを改めるつもりでお手洗いに立ち寄って、洗面台の鏡で自分の顔を確認。
ぅわ。確かに後輩くんが心配するのもわかるわー…
髪はボサボサ、肌つやはなく目の下にわずかにクマができてる。
白衣もよれよれだし、ニットとジーンズと言う格好は昨日と変わらない。
「女捨ててるな」
言ってガクリとなった。
購買部でドリンク剤買って飲んで、残りの仕事をやっつけちゃって今日はもう早く帰ろう。
トイレを出ると
「よ。久しぶり。
てか、ひでぇ姿だな」
久しぶりに聞いた声に私は目を開いた。
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視界一面が洗いざらしのシーツのように真っ白に覆われたかと思ったら
何てことない、それは
浩一の白衣だった。
覚えのある香水とセブンスターの香り。
それほど時間が経ってないってのに随分懐かしい香りに思えた。
「よ、よぉ」
私は慌てて手を挙げ、浩一は以前と変わらない屈託ない笑顔で笑った。
「てか浩一、何そのツヤっつやな顔色!私は昨日徹夜だって言うのに」
浩一のところは有能な秘書さんが居る。だから当然書類作りなんてしなくて、研究に没頭できる。
「うらやましいか?俺、今日は半休。
午後からの講義だったし昼まで寝てた」
う、羨まし過ぎる!
浩一は軽く笑って白衣を翻す。その白衣の裾から―――
浩一の香水じゃない香りがふわりと香ってきた。
………え…
「てか女捨ててんな~。もっと気ぃ遣えよ」
浩一は苦笑いで振り向いて、私はそんな浩一を無言で見上げた。
浩一の家は大学から電車で一本。通学時間は一時間ほど。
なのに午後イチからの講義には出席できたっぽいから―――
浩一、彼女できたのかな。
しかも昼まで寝てた……て。まさかの朝帰りかぁ。
まぁ…でもぉ??浩一が新しい彼女とどこで何をしようと、当然ながら私にあれこれ言う権限なんてなくて。
「どした?」
浩一が怪訝そうに振り返り、
「ううん♪浩一おつ~」
私は何でもない素振りで浩一の肩をポンと叩き
「でもさぁやっぱこの姿は男から見てナシ??」気になっていたことを聞いてみた。
別に真剣に意見を聞きたかったわけじゃない。ただ何となくまた気詰まりな空気になっちゃうのが怖くて。
「何だよ急に」
浩一は苦笑い。でもその笑顔をぎこちなく固まらせて
「俺は――――良いと思うよ?
朝都のそうゆうかっこも。全部
俺は好き」
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びっくりして目をまばたいていると、
「あー……そう重く受け取らないで?
あくまで“俺の”意見だから。他の男はどうか知らないけど」
浩一は無理やり顔に苦笑いを取り繕い、頭の後ろを掻き掻き。
…と、言われましても…
と、私は反応に困りきって浩一と同じように俯いて頭の後ろに手をやった。
廊下で立ち話をしていたからか、行きゆく女の子の学生と肩がぶつかった。
「あ、すみません!!」
女の子は申し訳なさそうに謝って先を急ぐ。
随分可愛らしい子だった。ピンクのひらひらスカート。髪もふんわりしていたし。
何となく雰囲気がカリンちゃんに似ていて、私は慌てて目を逸らした。
その女の子はツレの女の子たちと賑やかな会話を振りまいて遠ざかっていく。
「ねぇ!さっきの男の人!!超かっこ良くなかった!?」
「見た見た~芸能人!?」
「でもどっかの会社のネームカードぶらさげてたよ。スーツ着てたし業者の人じゃない?」
キャイキャイ賑やかな黄色い声を上げて遠ざかる女の子たち。
「芸能人??」
「業者?男??」
浩一と私は顔を見合わせ、
「「溝口さんか?」」
またも同時に口を開いた。
「ネッシーでも現れたような騒ぎようだな」
芸能人だろうと、イケメンだろうと、ネッシーだろうと、業者だろうと、溝口さんだろうと
今の私には必要ない。
今、この私に必要なのは―――
秘書になります!って申し出てくれるありがたぁい人。
男女年齢問わず、経験者優遇。
アルバイト情報誌のようなキャッチフレーズを頭の中に思い描き、浩一と別れると私は研究室へと急いだ。
このあとの出来事は―――勝手に入ってきた黒猫によってもたらさせれた幸運なのか
それとも不運なのか―――
今は知る由もない。
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とりあえず、今の私に必要なのはびっくりするような幸運でもなく、泣きそうになるほどの不運でもなく、休息。
てなわけで浩一と別れたあと購買部で栄養剤を買って一気飲みした後、研究室に戻ろうとして、
「かっこいい~誰、誰!?」
と、またもさっきの女の子と同じような台詞を聞いて、私は何となく人だかりの向こう側を見た。
溝口さんと同じような細身のスーツを着て段ボールのようなものを抱えていたのは
チェシャ猫さん!!?
何で!
目をこすって再びそっちの方を向くと、チェシャ猫さんの姿は消えていた。
見間違い??
私、相当疲れてんだな。
研究室に戻ると、見かねた後輩くんが残りの事務仕事を手伝ってくれた。
「これで最後ーー!!」
書類の束を重ねてバンザイをしていると、
コンコン
控えめにノックする音が聞こえた。
時間を見るといつも溝口さんが来る時間だった。
何よ、律儀にノックなんかしちゃって。
いつもは『こんちわーーッス』て気軽に(無遠慮とも言う)入ってくるってのに。
今私は忙しいの。溝口さんにかまってる暇は一秒もないんですから。
と言う意味で
「はーい!」
不機嫌を滲ませた大きめの返事を返すと
「こんにちは」
ひょっこり顔を出したのは
チェシャ猫さんだった。
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私の手からファイルが落ちて
バサバサっ
床に派手に落ちた。
な、何でチェシャ猫さんが!!?
てかさっき見たのはやっぱりチェシャ猫さんだったんだ!
そうだよね。
遠目から見てもやたらとキラキラしてたし。
「え…誰スか?」
と後輩くんだけがおろおろと私の白衣の袖を引っ張る。
「はじめまして。溝口の同期で樗木です。
今日は溝口の代わりに僕が納品に来ました」
とチェシャ猫さんは後輩くんにもイケメンビーム…もといスマイル。
眩しっっっ!!
後輩くんが「あわわ」と言って口元に手をやって私の背後にサっと隠れる。
「朝都先輩…何スか!あの人っ!!同じ人間スか」
「当たり前じゃない。人種的に、染色体的に言うとキミと一緒よ。(顔と体の造りはまるで違うけど←失礼)」
まぁ後輩くんとチェシャ猫さんだったらキューピーちゃんとケン(ジェニーちゃんの恋人)ぐらい違うけどね。
あ、私うまいこと例えた。
「ははっ。真田さん、こないだと全然変わらないですね」
チェシャ猫さんはおかしそうにくしゃりと笑い、口元に手をやった。
ええ、あなたも。お変わりないようで。
「あの、でもなんで……??溝口さんはお休みですか?」と言う私の問いかけに
「僕が無理やり変わってもらったんです。こんな風に」
チェシャ猫さんは一歩近づくと、おもむろに机の端に腰掛け、なっがい脚なんか組んで僅かに顔を傾けると
私の顎先に指を這わせる。
「俺。今日、真田さんに会いたいんだけど
代わって、く・れ・な・い?」
いつもの爽やか笑顔じゃなくて、エっロっっ!!く、ニヤリと笑うチェシャ猫さんに
ピキッ!
私はその場で硬直。
私の背後に隠れていた後輩くんも硬直。
私たちの口から心臓が飛び出てきそうなほどの衝撃。
「溝口はすぐに代わってくれました♪」
すぐにエロい笑顔をしまいこむと、いつもの調子に戻ってにこっと微笑むチェシャ猫さん。
溝口さん、怖くなって逃げ出したな。
まぁそりゃそうだろうな。
溝口さんが気持ち悪がるの分かってて、まさに秘儀!だな。
てかチェシャ猫さん計算高っ!!!謎過ぎる。
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「あ、俺!用事思い出しましたっ」
後輩くんは突然手を挙げて研究室を飛び出ていって
「えっ…ちょっ!」
後輩くんめ!逃げたなっ。私を置いていくなーーー!!
と叫びだしたいのに、当然ながら叫べず。
一人チェシャ猫さんだけがニコニコ。
「納品に来ました」
溝口さん…今日ほど溝口さんが恋しいと思った日はありません。
戻ってきてください(泣)
それでもチェシャ猫さんは仕事に関しては真面目なのか
「特級の硝酸と、同じく特級の塩化カリウム、それからマスク。それから※消エタです」
研究室で注文した商品をテーブルに並べて検品。
※消エタ…消毒用エタノールのことです♪注射前のあの消毒液ですよ~
でも
「あれ?…あの……私、消エタ頼んでないですよ?溝口さんの間違いかな」
私は消エタの茶色い瓶を手に取りしげしげ。
「いいえ。これは僕からのサービスです」
サービス……??何故に?
「僕が見たところ、真田さんは―――
心に傷を負っているように見えたので、
これで消毒してください」
チェシャ猫さんが少しだけ眉を寄せて悲しそうに笑う。
心に傷を―――……
「大切なものを失って傷ついているように見えました。
違ったらすみません」
私の手の中にある消エタの瓶を取り戻そうとするチェシャ猫さん。
私はその手を阻んでゆるゆると首を横に振った。
「こんなもので消毒とか、バカみたいですけど、とりあえず僕があなたに出来るのはこれぐらいしかないので」
クスリは薬屋さんに行けば買える。
チェシャ猫さんも広義の意味で言えば薬屋さんで。
でも
心の傷を治すクスリなんてどこにも売ってない。
そう分かってても……
消毒しなきゃ、傷はやがて化膿してそこから壊死していく。
自ら被った傷とは言え―――私はその深さと痛みに、涙が出てきそうだった。
傷が早く癒えるように。
消毒。
しなきゃ。
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「こ…コーヒーでもいかがですか?」
私はチェシャ猫さんを慌てて椅子に促し
「この研究室は楽園ですね。溝口のヤツ毎回こんないい思いしてたのか」
と、しみじみ。
「いい思いかどうかは分かりませんけど。インスタントだし」
「僕は個人病院が中心なので、あまりリラックスできないんですよね」
まぁ違った意味でリラックスできなさそうだな。
ナースの目がギラギラしてそう。(チェシャ猫さんを狙って)
そんなくだらないことを思いながら、コーヒーを淹れているといつの間にかすぐ近くに立っていたチェシャ猫さんが私の手元を覗き込んでいた。
「わ」
思わずポットを落としそうになってチェシャ猫さんが慌てて支えてくれる。
重なった手から、こないだ手を繋いだときの感触をじわりじわりと思い出す。
思い出して……
はっ!となった。
ズサっ
思わず後ずさり、私の奇行を見てチェシャ猫さんが首をかしげる。
「あの……こないだの私は別人でして…
素の私が“これ”なんです。だから勝手にがっかりとかしないでくださいね」
手のひらを開いてチェシャ猫さんに宣告するも
「それが何か?」と更に首をかしげる。
「いっつもこうじゃないですけど…今日は特に酷くて…
たまたま昨日研究室に泊り込みでシャワーを浴びれなかったので、化粧もしてないし、髪もボサボサ…
白衣も…」
言いかけてその言葉をチェシャ猫さんが遮った。
顔にまた柔らかい微(美)笑を浮かべている。
「だから?真田さんはたとえどんなかっこうをしていようと
可愛いですよ?」
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可愛いですよ
可愛いですよ
可愛いですよ
※またもエコーでお聞きください。
な、なんっ!何でこの人そんなこっ恥ずかしいこと素で言えちゃうの!
飲んでもないのに。
あ、そっか。
「また冗談を。誰にでも言ってるんでしょう」
そう考えれば納得だ。
「僕は女性にお世辞など言いません。その気になられたら困ります」
きっぱりはっきり言われて、
…………
またも私は静止。
台詞だけ聞いたら「はぁ?」とか思っちゃうケド、チェシャ猫さんが言ったら納得。
美しい者だけが許される台詞だわね。
「真田さんは僕を勘違いしているようですけど、
僕は決して女性に対してだらしない人間じゃないです。
これだけは自信を持って言えます」
突然真顔で言われて私は目を開いた。
「溝口から聞きました。真田さんが僕のことを真剣に捉えないのは、僕がいわゆる遊び人だと思っているフシがある、と」
丁寧に説明されて私は大きく頷いた。
思ってマシタ。
けど……溝口さん……?
私、溝口さんにそんな直接的なこと言った覚えがないけど…と思ってはっ!となった。
涼子だな!
CIAめ!いらない情報だけ早いんだから。
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「とは言ってもどうやって証明すればいいのか分からず。
僕は真面目な人間ですって言っても、たった一回会っただけの人間の言葉なんて信じられませんよね」
Yes。そのとーりでございます。
と言う意味で小さく頷くと
「だから僕の本気を伝えたくて、今日は来ました。
真田さんにこれを渡したくて」
チェシャ猫さんはスーツの上着に手を入れて内ポケットから小さく折りたたまれた紙を取り出した。
四つ折にしてある紙で、ラブレター??イマドキ古風ね……
なんてのんきに思ってたけど
受け取って開いたとき、私は目を剥いた。
それは茶色い線の枠で
「婚姻届ぇぇえええええ!!」
私ははじめて現物を目の当たりにしたその婚姻届と、にこにこ笑顔のチェシャ猫さんとの間でいったりきたり。
婚姻届の『夫となる人』の欄にはすでに名前や本籍地が記入されていて
“樗木 省吾”とフルネームが書いてあった。
はじめて知ったよ。樗木さんの名前“しょーご”って言うんだ。
名前まで芸能人みたい。
本籍地は…あ、意外に私のアパートから近い…
って冷静に考えてる場合じゃないわよ、朝都!
どうゆうこと!!
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くらり…
私はリアルに眩暈を起こしそうになって慌てて机に手をついた。
チェシャ猫さん…謎だ謎だと思ってたけど、謎を通り越してもう理解不能。
頭のネジが一本…どころか二本以上ハズれているに違いない。
「あの……たった一回会ったきりなのにどうして…」
私は婚姻届を呆れた目で見下ろして小さくため息。
「好きになるのに時間とか回数とか関係あるんですか?」
チェシャ猫さんが目だけを上げて聞いてきて、
私は言葉に詰まった。
私自身―――黒猫のことは告白されるまで全く意識してなかったし、
黒猫の可愛すぎる告白にKOされたクチで。
つまりあの一瞬で抜け出せないほどの深みにはまってしまったわけ。
「で、でも私はあなたのことまだ良く知らないし」
慌てて言うと
「何が知りたいんですか?知りたいこと全部教えますよ。
身長は178cm、体重は…」
「あ、それはいいです。CIAから情報が来てるので」
「CIA??」
「溝口諜報員です」
ちょっとだけ手を挙げるとチェシャ猫さんはまたもおかしそうに「ははっなるほど」と軽く笑った。
「じゃぁ好きなこと…まぁ趣味ですね。
釣りとテレビゲーム。時間があったら何時間でもやってます」
釣りとゲーム…意外に地味。
はっ!待てよ!!釣りってのはナンパでゲームってのはリアル恋愛ゲーム。
やっぱ遊び人。
そう解釈していると
「リアルに釣りとゲームです。釣りはルアーで、好きなゲームは格闘技」
私の心の声が聞こえてたのか、チェシャ猫さんが苦笑を浮かべながら補足の説明をくれた。
さらに「地味ですみません」と付け加えて。
「苦手なものは納豆と、嫌いなものは
―――電車」
ここではじめてチェシャ猫さんは少し翳りのある表情を見せて小さく俯いた。
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納豆ってのは理解できるけど、
「電車―――……?それってどうゆう意味…」
私が聞くと、
「以上です。これ以外に聞きたいことは?」
とチェシャ猫さんはにこっ。
チェシャ猫さんの爽やか笑顔にそれ以上突っ込んで聞けず、
「えーっと…えーっと…」と質問を考えていると、
「それ以外に必要なことってあります?
それとも真田さんは僕の年収とか、実家が何をやってるのか気にする人ですか」
何もかも見透かされていそうな釣り上がった大きな目で、まっすぐな視線で問われ
私は再び言葉に詰まった。
ぐっと息を呑んで
「必要―――あります」
同じだけまっすぐな目でチェシャ猫さんを見据え返す。
「だって結婚する相手だったらそうゆうのこそ大事じゃないですか?
恋愛において不必要かもしれませんけど、結婚は別もの」
本当はお金なんてなくても実家が何をしていようと、
好きで…好きで、好きでどうしようもない相手と結婚するのが一番。
だから黒猫との結婚も夢見てた。
儚くて短い
夢だった。
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私の答えにチェシャ猫さんは気を悪くするかと思いきやまたも優しく微笑んで
「真田さんは素直ですね。
そうゆうまっすぐなとこ、いいなって思いました。正直な気持ちです。
でも僕は―――
それが真田さんの本心じゃないと思ってます。何故だか。
真田さんはお金や地位がなくても人を愛せる―――愛して、愛して
自分が不幸になってもその相手の幸福を願って
真の意味で愛し抜ける人だと、思います」
真剣に言われて、私は思わず俯いた。
「勘違いです。樗木さんは私のこと買いかぶり過ぎです」
私はそんなに強くない。
私は臆病者だから―――黒猫から
逃げた。
今度こそチェシャ猫さんが本当に気を悪くするかと思ったけど
「知らなければこれから知っていけばいいと思うんです。
手始めにデートしませんか?」
恐るべし前向き発言。
「……はぁ、まぁそれぐらいなら…」
言って
「ん!?」
今デートって言った!?
「デート!?」
「はい、デートです。お互いのことまだ良く知らないと言うのならそれが一番です」
チェシャ猫さんはちょっとそこのコンビニまで付き合ってくれませんか?てな軽~い感じで誘ってきた。
まぁ結婚よりは軽いのは確かだけどネ。
どうしよ。
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――――
―
「ぇえ!それってプロポーズ!!」
講義がはじまる前の休憩時間、私は涼子に婚姻届をもらったことの相談。
涼子の言葉に周りの学生たちが何事かこちらを注目する。
「しー!声が大きいって!」
私は慌てて涼子の口を塞ぎ、涼子はもごもご。
「ごめん。びっくりして」
「だよね。私だってびっくりした。涼子の反応はまともだよ。
まともじゃないのはチェシャ猫さん」
私は深いため息を吐いて机に突っ伏した。
「大体さー、一回会っただけだよ?私の何が分かるっての」
「朝都に運命感じたんじゃない♪この人だ!って言うネ。
聖子ちゃん風に言うと『ビビっと来た』」
「そうなのかなー…」そんな単純なものなのかな。
私はきっと逆立ちしても聖子ちゃんになれないわ。
「で、その婚姻届どうしたの?」
「あ、うーん…チェシャ猫さんが私に持っててくれって。私がその気になったら記入して届け出しようって」
「わ~!それはかなり本気じゃない!!じゃぁ朝都の気持ち次第?」
「そんな簡単な問題じゃないよー。
大体さぁあんないい男から言い寄られて本来なら…てか普通の女子だったらもっと舞い上がって楽しいはずじゃない?」
「まぁ出会ったばっかりだしね~、しかもお互い良く知らない同士だし?
あんたの中でまだそれほど盛り上がってないのなら尚更だよね。
向こうは盛り上がってるから楽しいだろうけど♪」
う゛~ん…そうなのかなぁ。
盛り上がってる…のか、あれは。
前を向こうって誓ったばかりなのに、気ばっかり遣って全然楽しめてない。
それとも最初はみんなそうなのかな。
黒猫とは―――“付き合った”最初から楽しかった。
それ以前のことは
思い出せない。
黒猫との思い出が強すぎて、自分がどうしてたのかどんなだったのか、
忘れちゃった。
P.194
「涼子は?溝口さんと最初から楽しかった??」
私は机に突っ伏したまま目だけを上げて聞くと、
「まぁ知らない仲じゃなかったしね。そりゃまぁ営業のおにーさんから、彼氏に代わって多少は戸惑ったけど
その緊張も楽しかったよ」
それが“恋”と言うものだ。
自分の中で変なナレーションが流れて、
名言だな。私、相田みつをを目指してみようかな。
なんてくだらないこと考えていると
「よっす」
ポコっ
軽く頭をはたかれてのろのろ顔を上げると、浩一が薄い参考書を片手にすぐ傍に立っていた。
「……よっ」
「おーっす、浩一。あんたもこの講義取ってたっけ??」
涼子はいつも通り浩一に笑いかける。
「いや。取ってねぇけど、この講義のレポート提出しなきゃなんねぇの」
浩一は面倒くさそうにため息を吐き、
「あ、そうそう朝都、お前にいいもんやるよ。昨日偶然見つけてさー
お前絶対好きだと思ったから買ってみた」
とコートのポケットの中をごそごそ。
何よいいもの、って。こんな構内で堂々とお酒出さないでよ??と若干疑いのまなこでその動作を見つめていると、そこから出てきたのは
「ほれ」
ツナ味の柿ピー!!?
「うっそ!こんなの売ってるの!!うわっ!超おいしそう。
ありがとー浩一!!」
私は大はしゃぎで涼子に自慢げに見せた。
涼子はあきれ返って浩一を見上げ、浩一も同じように苦笑を漏らしている。
「おっさん丸出しだね。もっと女子ならさぁイチゴ味のマシュマロとかで喜んだ方がいいんじゃないの?」
イチゴ味のマシュマロ??
Non,Non
私にとってはイチゴ味だろうがチョコ味だろうがマシュマロより柿ピーの方が断然嬉しいわけで!
「ピーナツの食いすぎで鼻血出さないように気ぃつけろよ」
浩一はちょっと笑って前の方の席に移動していった。
P.195
「浩一、無理してるなぁ」
前の方に座った浩一の背中を見ながら涼子は頬杖をついて呆れ顔。
「無理??」
「いつも通り振舞おうって無理してたよ、あれは。だって指先ほんのちょっと震えてたもん」
指先…??
涼子、あんた細かいところまで見てんのね。
私は全然気付かなかったよ。
「ま、あんたに変な気を遣わせないためでしょ。
それはそうと、樗木さんのこと浩一には何て言うの?黙ってるつもり?
あいつあんたが黒猫くんと別れたことすら知らないよ?」
涼子に言われて、私は珍しい柿ピーをもらえてはしゃぎまくっていたテンションが一気に落ちた。
「…言わなくていーよ。向こうだって新しい女の子見つけてヨロシクやってんだから」
「へ!浩一に新しい彼女??うっそ、初耳なんだけど」
涼子は浩一の新しい彼女と言うのが気になった様子で浩一の背中をじっと見る。
「私だって知らなかったよ。浩一も言うつもりはなかったみたいだし」
私はかくかくしかじか、レディースものの香水について語ると、涼子は面白そうににんまり。
「ふーん、やるね浩一も♪」
「せっかく……
せっかく友達に戻ろうとしてるんだから、敢えて波風立てないのがいいんじゃないかな。
お互いそう思ってるからそう言う結果に行き着くわけでさ」
結局『何も言わない』って方向に落ち着こうとしてるけど
でも何か心の中がもやもや。
それって逃げてるんじゃないの?
好意を寄せてくれた浩一をフって、すぐにまた別の男?
いくら浩一に新しい彼女ができようと、私と浩一とでは立場が違うよ。それは何だかフェアじゃない気がする。
またも心の中で別の私が囁く。
「ま、樗木さんとはどうなるか分かんないし。様子見ね」
涼子は腕を組んで再び浩一の背中を眺める。
涼子の視線に気付いたのか、それとも何となくか…浩一がゆっくり振り返り目が合うと浩一はびっくりしたように唇を結んだ。
涼子は笑顔を浮かべてひらひら手なんか振っていて、浩一はぎこちなく笑みを浮かべながらちょっとだけ手を挙げ、またも私から顔を逸らすと前を向いた。
浩一も―――進もうとしてる――――……んだよね?
P.196<→次へ>
冬の夜
キミへの気持ちを窓に託しました
たった一言が言えない私は臆病者ですか?
でも今はこれが精一杯
雪に想いを
『次はお天気コーナーです。今日から明日にかけて低気圧が日本の南を発達しながら東北東に進み、明日には日本の東に進む見込みです。
関東甲信地方では今夜から雨が次第に雪に変わり、あす午前中にかけて山沿いを中心に、平野部でも積雪となる所がある見込みです。雪による交通障害、架線や電線、樹木等への着雪、路面の凍結に注意してください』
今朝のワイドショーのお天気キャスターの言葉を思い出したのは、勤めている会社の定時を迎え業務を終えたときだった。
「えー!やだっ!雪降ってるじゃん」と誰からともなく声が挙がり
「ホントだー、私傘持ってきてない」
「どうりで冷えると思った」
と同僚たちが次々と口にする。
またも誰かが「せっかく彼氏に買って貰ったバッグが濡れちゃう」と言い出し、それでもちっとも困った様子ではなく、どこか誇らし気だ。
そしてその周りの女子たちが盛んに羨ましがる。
「いいなー、でもあたし今度のクリスマスにダイヤの指輪ねだっちゃうんだー」と一人の女の子。
「いいなー!」黄色い声に、私は苦笑いを浮かべるしかない。ここでの男の年収と、女の品格は反比例する。いかにいい服を着るか、いかにいいバッグを持つか、いかにいい男を彼氏にするか、年中こんな会話でうんざりする。
かと言って輪に加わらないわけにはいかない。仕事とプライベートの内容こそ比例するのだ。
P.1
「仁科《にしな》さんはいつも素敵な服着てますよね」ふいに一人から話題を振られた。
「えっ、そう?」私は曖昧に笑って言葉を濁した。今日の服装は白いタイトワンピ。腰回りに太いベルトが巻き付いていて、ちょっと豪華に見えるゴールドのバックルがワンポイント。
そして同じくゴールド系のスパンコールが襟元に入ったコートを腕にかけて帰りたいアピール。
シンプルな服装だったけど、流石は目が肥えている女子たち。すぐにそれが高価なものだと見破った。女のチェック程厳しいものはない。私がオシャレをするのは対、男ではなく、彼女たちの為。
「仁科さんてぇ、結婚しないんですかぁ」間延びした話し方が赦されるのはこの年代の特権だ。
「結婚ね……相手がいないから」私は適当にごまかして再び言葉を濁した。
こう言っておけば大抵の女は引き下がる。私が長い間、人付き合いをしてきて、これが最良の方法だと知ったのはつい最近のこと。
私がこの会社に勤めはじめて五年になる。この会社での女性正社員では長いほうだ。後から派遣された若い女の子たちから見れば私なんてお局のようだった。
「そう言えばぁ仁科さん、この前見ちゃったんですぅ」一人の女の子が思わせぶりに口元へ手をやった。
短く切った髪にはパーマがあててあり、傍から見ればマシュマロのように可愛らしい女の子だ。
だが、そんな可愛らしさに惑わされてはいけない。女はいつでも顔の下にしたたかな一面を隠しているのだから。
P.2
「何を?」私は平静を装って取り澄ました。
もしかして“アイツ”と居る所を見られた?と思ってドキリとしたが
「この前の金曜日、青山のイタリアンレストランで、経理の前田さんと一緒にいるところぉ」
ああ、そっちか。とちょっとほっと安堵する。
「ええー!!」周りから黄色い声が飛ぶ。私は思わず頭を押さえたくなった。
そう、確かに経理の前田に誘われて先週の金曜に青山まで行った。
でも食事をしただけで、別に艶かしい関係ではない。だが、ここで重要なのが、経理の前田という男、この会社ではなかなかのハンサムでしかも独身、きさくな性格をしているわりには頼れる上司でもあるのだ。そうゆう男を若い女性社員が放っておくわけがない。
「いいなー、ねえお二人って付き合ってるんですか?」
食事をするイコール男女の関係と、どうして若い子たちはそう短絡的なのだろう。私はこの場から逃げ出したくなった。だけど、この場から立ち去ると認めたことになってしまう。
「別に、ただお食事に誘われただけよ」
「うそー、絶対前田さん仁科さんのこと狙ってるわよぅ。だって、あたしたちがいくら誘っても全然だったのよー。それなのに前田さんは仁科さんのこと」
嫉妬心と羨望の眼差しで見られ、私は思わず後ずさり。
何とか前田との話を切り返し、従業員出入り口から女子の群れに混ざって出てきた所だった。
遠くで派手なエンジン音が聞こえてきて、この狭い路地裏へと近づいてきた。この聞き慣れたエンジン音。私は嫌な予感がして思わず一方通行の標識を見つめた。
「よーう、仁科」黒のポルシェの窓から腕を出し、銜えタバコをしながら九条《くじょう》が手を振っている。
「やっぱり」
私は、今度こそ頭痛をこらえるように頭をしっかりと押さえた。
P.3
「仁科、今終わりか?これから飯でも食わねー?」
この状況を知らずに能天気に笑ってるその整った横っ面に今すぐ張り手を食らわせたい。
「あ、あんたいつ東京に戻ってきたわけ?」私は女の子の群れから一人離れると、九条の車に近づいた。
「あー、悪い。三日ぐらい前かな?この前言ってた日本料理屋行こうぜ」
「あんたっていつも何で急なのよ」
私が声を潜めて九条を睨んでいるときだった。
「えー、仁科さんの彼氏さんですかぁ?かっこいい!」
女の子たちの視線が九条に移った。予想していなかった最悪の事態。
上半身しか見えなかったが、今日の九条は黒いジャケットの中に白いカットソーを着ていて、真冬だって言うのに襟ぐりに濃いサングラスをかけている。いつものように髪をラフにセットしてあって、左耳には輪っかのようなピアスが三つ光っていた。
そう
どこからどーみてもこいつは
ホスト。
P.4
「仁科、今終わりか?これから飯でも食わねー?」
この状況を知らずに能天気に笑ってるその整った横っ面に今すぐ張り手を食らわせたい。
「あ、あんたいつ東京に戻ってきたわけ?」私は女の子の群れから一人離れると、九条の車に近づいた。
「あー、悪い。三日ぐらい前かな?この前言ってた日本料理屋行こうぜ」
「あんたっていつも何で急なのよ」
私が声を潜めて九条を睨んでいるときだった。
「えー、仁科さんの彼氏さんですかぁ?かっこいい!」
女の子たちの視線が九条に移った。予想していなかった最悪の事態。
上半身しか見えなかったが、今日の九条は黒いジャケットの中に白いカットソーを着ていて、真冬だって言うのに襟ぐりに濃いサングラスをかけている。いつものように髪をラフにセットしてあって、左耳には輪っかのようなピアスが三つ光っていた。
そう
どこからどーみてもこいつは
ホスト。
P.4
でも勘違いしてもらっては困る。私はこいつの客じゃない。東京を離れていたのも、大方客の一人と遠征旅行でもしていたのだろう。
「違っ!こいつとは単なる腐れ縁。彼氏とかじゃないから」
と慌てて否定するも秒の単位で噂が回るこの会社で明日の朝には『仁科さんて、ホストに貢いでるらしいよ』とあちこちで言われるに違いない。
くらり、と眩暈が起きた。
腐れ縁、と言うのは間違いない。中学からの同級生だから。
「じゃあ、本命は前田さんですかぁ?」女の子達が興味津々で目を輝かせている。
「前田??ひどいなー、仁科ぁ。俺たち何度もセック……もがっ」
最後の方が言葉にならなかったのは私の手が九条の口を塞いだから。
ふざけんな!何言い出すんだこいつぁ!!
空気読めっつうの!
と言うことを目で訴えると、流石に冗談が過ぎたと思ったのか九条は苦笑い。
「で?行くの?行かないの?」せっかちに聞かれて
「わかったわよ!行くわよ」半ば怒鳴るように九条を睨みつけると、私はそそくさと助手席に回った。
「それじゃ、私はこれで。お先に」女の子たちにはなるべく平静を装って、にこやかに手を振る。
ため息をついて車の助手席を開けると、運転席から九条が笑顔で手を差し伸べてきた。
「ただいま、仁科」
昔とちっとも変わらない笑顔。眉が下がり、目を細める、優しい笑顔。そして時々その低い声で呼ばれる、自分の名前。何だかくすぐったいが、この笑顔を向けられたら、たとえ九条の勝手に振り回されても、赦せてしまう。
「……おかえりなさい」私は俯くと、小さく返事を返した。
P.5
前述した通り私と九条とは中学からの付き合いだ。かれこれ十年以上の付き合いになる。十年、と言う歳月は長く感じられるけれど、その間に音信不通になったり、そしてどこからか連絡先を入手して電話を寄越して来たり、をだらだらと繰り返している。
でも、私たちははっきりと『付き合って』はいない。もちろん九条のブラックジョークの『体の関係』もない。
あるのは中学生から変わらないノリと
私が九条のこと「好き」
と言うことだけ。歳を重ねて、九条がホストになって……あ、今はホストじゃなくホスト店を経営してるオーナー様でもあったかしら。とにかく環境は変わったものの、不変的な何かは確実に存在している。
パワーウィンドウの外をちらほらと雪が降っていた。
「北海道行ってきたんだ~土産に蟹買ってきてやったぞ」と九条は運転しながらどこか楽しそう。
「北海道……ここより雪が多そうね」ぼんやりと呟きながら、九条に気づかれない程度にこっそりと、外気との差で曇った窓ガラスに、人差し指で
『好き』
と書く。
私の書いた文字は私の体で隠れて九条からは見えない。
「蟹すきしようぜ~、お前んちで」
「何であんたを一々上げないといけない?」
言い合いをしながら、やがて私のマンションに着く頃にはみぞれになった大粒の白いものが私の『好き』をかき消す。
「だってお前んち床暖あるじゃん?」
「そんな理由かよ」
中学生から変わってないこの関係とノリ。
今はまだ―――
この関係でいいや。
~FIN~
P.6