Chat Noir -黒猫と私- Deux(2nd)
Cat №33 黒猫と笑う猫
『黒猫と笑う猫』
「帽子屋も三月ウサギでもなかったら、じゃぁ真田さんは何を探しているんですか?」
捨てた筈の黒猫
P.114
――――
結局
合コン先に指定されたお店へ向かう私。
涼子にあんなに必死にお願いされちゃね。
行く、と決めた以上溝口さんの見張りはしっかりするわよ!
「でも時間がない!遅刻しそうっ」
私は電車のホームへと続く階段を駆け下りた。
いつもと違う電車だから何時に何が来るのかもさっぱりだし。
慌ててホームへ降り立つと、電車は行ったばかりなのか、ホームに待ってる人は少なかった。
一番近くの乗り場へ歩いていくと、私の前に先客が。
すらりと背の高い男の人で、黒いトレンチコートを着ている。
あ、あの人、溝口さんぽいな~
溝口さんだったりして。
確かめるつもりでさらに近づくと、その男の人の横顔がちらりと見えた。
溝口さん―――…じゃなかった。
横顔だけだけど、びっくりするような
イケメン
肌が透き通るように白くてきれいで、大き目の目じりは急角度で吊り上っている。
一見してちょっと怖そうとも思えるけどすっと透った高い鼻筋や整った薄い唇が上品さを漂わせていた。
わぁぉ。
顔ちっちゃ~、肌キレイ!
心の中でちっちゃく感嘆。自分と別世界の人だなぁ。
『まもなく2番ホームを新快速列車が通過します。黄色い線の内側に下がってご注意ください』
場内アナウンスが流れ、
そのときだった。
そのイケメンは
コートの裾を僅かに翻し、一歩進むと身を乗り出した。
え――――…!
P.115
ゴォオオオ!
列車が鉄の線路を軋ませる轟音が近づいてきて、その勢いで風が舞いイケメンのコートの裾をなびかせる。
整った横顔がまたも見え、その顔は人形のように
無表情だった。
ま……
「待って!!!!!」
ほとんど何も考えず体が動いた。
ドサっ
お弁当が入った紙袋が落ちたけど、この際どうだっていい。
私は手を伸ばし、イケメンの腕を無我夢中で掴んだ。
細身の…だけどきれいな筋肉がついた腕を力いっぱい掴んで―――引き戻す。
男の人を引っ張るのは、それはそれは結構な力が必要で、でも火事場の馬鹿力って言うの??
とにかく夢中で引っ張った。
「―――……え…?」
イケメンがゆっくり振り返り、驚いたように目を開く。
私が腕を引いたせいでイケメンが少しバランスを崩して私の方によろけてきたけれど、私にぶつかるところなく何とか立ち止まる。
真正面から改めて見たイケメン。
横顔よりももっと―――
整った美しい顔立ちの青年だった。長い睫が頬に影を落としている。
ふわり
風が吹いてイケメンのコートの裾が再び舞い
ゴォォオオオオ!
列車が通過する音が聞こえ、私たちは揃って音がした方を振り向いた。
列車は何事もなく“反対側”のホームを通過していって
「……へ??」
遠くへ過ぎ行く列車を見送りながら、自分がとんでもない勘違いしたことに
気付いた。
P.116
間違えた!?
通過する列車は反対方向で、間違えた!と気付いても私は慌て過ぎていて、イケメンの腕を掴んだまま、呆然と立ち尽くしていた。
再びイケメンが私を振り返り、私が掴んでいる腕を見下ろしながら何か言いかけたケド
「……あの…」
「す、すみません!わ、私早トチリで!!」
私はイケメンの言葉を遮り、数秒遅れでようやく冷静さを取り戻し慌てて手を離す。
イケメンは掴まれていた腕と私の顔を見比べ、
「早トチリ……
ああ、僕があらぬ気でも起こしたか……と、思ったんですか?」
ええ、そのとーりでゴザイマス。
はじめてちゃんと聞くイケメンの声は…声までイケメン(?)だった。
しびれる甘いヴォイスで、でも喋り方はちょっと強面のその顔とは似つかずおっとり優しい。
キツめな瞳とは違って、口角が優しい角度で上がる。
「時間、見ていただけですよ。ほら、あそこに時計が。見にくいんですよね。
ちょっと急ぎの用があったもので」
イケメンは目だけを上げて駅に設置されている時計を指差し。
…確かに。あの位置だったら時計は見辛いかも。
「ホントにすみません」
もうこの言葉しか言えません。
平謝りでひたすらに頭を下げると
イケメンはちょっと屈んで、私の足元に転がったお弁当の紙袋を手に取り上げ
「いえ。助けようとしてくれたんでしょう?
ありがとうございます。これ、あなたの?」
イケメンはこれまた極上な爽やか笑顔でにこっと微笑むと私に紙袋を手渡してきた。
「そーです……って!お弁当!!ぐちゃぐちゃ!!」
一応タッパーには入れたけど、容器の中であちこち移動しておかずが混ざり合ってる。
結局、私はイケメンの笑顔よりもお弁当の中身の方が大事だったり…
P.117
「お弁当?誰かに差し上げる予定だったのですか?」
丁寧に聞かれて
「いえ。差し上げる予定の人は未定です」
私、日本語変。
「つまり誰にあげるかもまだ決まってない状態で…余り物詰め込んできただけなので気にしないでください」
私は軽く手を挙げて「溝口さんにでもあげよっかな。あの人だったら食べてくれるでしょ…」
と独り言をボソ。
その独り言を聞いていたのか
「溝口?」
イケメンが少しだけ目をぱちぱち。
わぁ!聞かれてたっ。
「い、いえ!独り言です!!すみません、それじゃ」
自殺未遂だと勘違って、さらにはみっともないお弁当も見られちゃって恥ずかし過ぎるし、キマヅ過ぎる。
てなわけで私はそそくさと後ずさりして、逃げるように隣の車両の乗り場へ移動。
あのまま同じ車両とか無理。
あまりの不審過ぎる私の動きに謎のイケメンは最初の方こそ気にしていたものの、やがて列車が来ると大人しく乗り込んでいった。
――――
―
ガタンゴトン…
電車に揺られながら、私は何となく―――ちらりと隣の車両に目を向けた。
列車の中は適度に混雑していて、でもあのイケメンの姿は……
窓際で腕を組んで窓の外をじっと無表情で見つめていて、でも私の視線に気付いたのかちらりとこちらを気にする。
思い切り目が合って、またもにこっと優しく微笑まれる。
わ!
私は慌てて目を逸らし何でもないように窓の外を眺めた。
まさか降りる駅も一緒じゃないよね。
かなりのイケメンだけど、それ以上に大失態を犯してしまったから、恥ずかし過ぎてすぐに忘れたいし忘れてほしい。
ガタン
列車が大きく揺れてほんの少し足場が悪くなりよろけると、またも隣の車両が目に入った。
さっきまで窓際に居たあのイケメンは―――居なくなっていた。
あれ??
P.118
途中に駅なんて無かったけど、どこか違う場所まで移動していったに違いない。
ちょっとだけ、ほっ
目的の駅に到着して流れる人の列に混ざって駅の改札を通ったはいいけど、
「えーっと…合コンの会場は…」
涼子に聞いたお店は駅から歩いて五分ほどのところらしいけどいまいち場所がつかめていない。
ケータイを取り出し、もたもたとお店のURLを検索しようとしていると、
ん???
ちょっと先に…さっきの黒いコート姿が…
え゛!まさかの降りる駅も一緒!
こうゆうの普通だったら“運命”とか言っちゃうんだけど、あんな失態しでかしておいて“運命”もへったくれもない。
人の波の中、
まるで私がついてきていることを確認するように、イケメンがちらりと後ろを振り返り
私と目が合うとやっぱりにっこり微笑む。
まるで『不思議の国』に迷い込んだアリスを誘導するチェシャ猫のように―――
笑顔一つで導いてくれる。
まぁでもチェシャ猫ってあんなに柔らかく“にこっ”って感じじゃなく“にやにや”だけどね。
再びケータイに目を戻しお店のホームページを見て、そしてまたも何となく顔を戻すと
あれ…??いない。
消えたり…かと思ったら急に現れたり。
そう思ったらまた消えたり。
――――本当にチェシャ猫だ。
P.119
――――
――
結局来てしまった。
涼子が予約した、と言うお店のHPを何度もケータイで確認しながら、
何故か手作り弁当持参で合コンに参加する女が一名。
何なのこの状況。ありえないよ。
ブツブツ思いながらお店に向かっていると
「朝都さん!」
お店の前で溝口さんがブンブン手を振っていて、見知った顔にちょっとほっ。
「良かった~…来てくれないと思ったから」
溝口さんは私以上にほっ。
「涼子に代わって溝口さんの監視を仰せつかまりました。今日はよろしくお願いします」
嫌味混じりで言うと溝口さんにその嫌味が通じてないのか、私を無遠慮にじろじろ。
「朝都さん…化けましたねー…普段とは大違い」
溝口さんは口元に手をやってちょっと顔をそらす。
はぁ!?化けた、とな!!『コスプレ』より酷いよ!
「あなたの彼女の仕業ですよ。二人して一体何を企んでるんですかっ」
思わず溝口さんを睨むと、溝口さんは話題を変えるように私の背後に目をやって
「おっ」と口を開いた。
「樗木!こっちこっち~!」
チシャキ……変わった名前…
溝口さんのお友達で合コンメンバーのお相手の一人??
何となく振り返ると
「お待たせ」
ぅわぁ。
“運命”☆そして“再会”―――したくなかったよ!!
さっきのイケメン!いつの間に私の背後に!!?
ってツッコむとこそこじゃないよ!
溝口さんのお友達だったの!!!!?
最悪↓↓
P.120
合コンに当たりハズレってあるじゃない?
運を2パターンで選べるのなら、当たりを引く可能性は二分の一。
今日の合コンのメンバーをこの2パターンで別けるなら、間違いなく当たりっ!!
てな具合で溝口さんのお友達は溝口さんチェシャ猫さんをはじめとする、残り二人も今風のイケメンだった。
二分の一の確立でも合コンでなかなか当たりを引くのは難しいし、そもそも最初から期待してなかった私はそのメンバーを見て思わず引き腰。
ちょっとお洒落な和食ダイニングバーはほのかにトーンダウンしてあるってのに、この場所だけキラキラしてるような…
中でもやっぱり一際目を引くのはチェシャ猫さん。
「樗木さんてぇ彼女居るんですかぁ」
おっとぉ。いきなり突っ込んでいくなぁ。
私を除く女子たちはチェシャ猫さんにターゲットロックオン!てところか。
私はさっきのことがあるから恥ずかしくて目も合わせられない。
「居ません、残念ながら」
チェシャ猫さんはまたもおっとり笑って、女子たちは更にテンション↑↑
「居ないって!やった☆」
居ないんだ、あんなにかっこいいのに。
それにしても女子!何て可愛いんだ!
やっぱ女はこうゆう可愛い反応しなきゃね。弁当の心配してる場合じゃないって。
溝口さんが狙われてるってワケじゃなさそうだから、こうなったら一刻も早く立ち去りたい。
私は最初からオトコを探しにきたわけじゃないし、溝口さんの見張りのためだったから最初から溝口さんの隣をキープ。
何だかんだ言ってこの位置が一番安心。
「早く終わりませんかね…」と弱音を吐きながら溝口さんの袖を引っ張ると
「何言ってンすか」
と溝口さんは呆れ顔。まぁ主催者だしね。
そんなやり取りをしてると
じっ……
チェシャ猫さんの視線が……突き刺さるように痛い。
見てる、見てる!めっちゃ見てる。
P.121
何故見る。
その真意を知りたくてちらりとチェシャ猫さんの方を見ると
にこっと白い歯を見せて笑ってくれて
あまりにも無邪気に笑われて、私は慌てて顔を逸らした。
やっぱさっきの失態がおかしくてついつい笑っちゃうのか。
それとも違う理由で―――…?
結局チェシャ猫さんの真意なんて分かる筈もなく。
何なの……と心の中で零す。
目を逸らした先には涼子のお友達……私とは違う学部の女子三人もみんなすっごく可愛いくてノリがいい。
「はいは~い!女性陣、飲み物何がいい??♪」
溝口さんがノリも良くこの会をリードしてくれて…
てか溝口さん、慣れてんなー
涼子が居ないからってハメ外さないように目を光らせておかなきゃ。
「私カルーアミルク」
「私、ピーチツリーフィズ」
「私は……ノンアルコールのピンクサファイヤ♪」
女性陣…頼むドリンクも可愛いし。
「朝都さんは……」
溝口さんが気を遣って聞いてくれたけど
「決まってるでしょう?まずは生中で」
「ですよね~」
一人だけ明らかに毛色が違う私。
なじめてないのは分かってるけど、ただ酒だと分かってるし、そもそも彼氏を作るつもりでいなかったかららかっこ付ける必要なんてないし。
でも私たちの会話が聞こえてたのかチェシャ猫さんは「ははっ」と明るい笑い声を漏らして、またも笑顔。
ホントに…
何なのよ。
P.122
それから数分後、
サラダやから揚げ、枝豆やらポテトフライ等の居酒屋定番のメニューがテーブルに並び
恒例の自己紹介も終わり、
十数分すると合コン特有のぎくしゃくした雰囲気が何となく薄らぎつつあった。
ひとえに盛り上げ役の溝口さんの手腕にも寄るものだけど。
「え~!!溝口さんおもしろ~い♪♪」
そして女の子にモテモテ。
みんなチェシャ猫さん狙いだったと思ったのに、イケメンに対するハングリー精神ハンパない。
私は…と言うと、溝口さんが繰り出す話題そっちのけで
「溝口さん、メニュー取ってくれます?」
「溝口さん、店員さん呼んでください」
「溝口さん、溝口さん…」
こんなにも彼の名前を呼んだのもあとにも先にもこの日だけ。
溝口コールをし続け、夢でも私は溝口さんを呼びそうだ。
何て言ったって涼子に頼まれてるからね!
しっかり見張らないとっ。
あからさまな私のけん制に溝口さんはちょっと苦笑い。
「朝都さん、ちょっと…」
と、遂には呼び出しを食らってしまった。
個室の外…ほのかにトーンダウンした廊下で私と溝口さんは立ち話。
「涼子さんに頼まれて俺の監視してるんでしょう?大丈夫ですから、
涼子さんを裏切るようなことは絶対にしませんから。
だから今日は俺らのことなんて忘れて、朝都さんは楽しんでくださいよ」
「楽しむつもりなんて最初からないです。
私は今日、溝口さんの監視に来たのです」
キラっと目を光らせて溝口さんを見上げると、
「はぁ……これじゃうまくいくのもいかないよ…」
と溝口さんは独り言をもらしてため息。
別にうまくいかなくてもいいし。てか望んでないし。
そんな会話をしていると、個室の引き戸からチェシャ猫さんが顔だけちらりと覗かせてこちらを伺っていた。
こっから見ると、首だけ浮いてるように見えるよ。
やっぱりチェシャ猫だ。
P.123
溝口さんが気付かないうちに、チェシャ猫さんの首はひょっこり引き戸の向こう側に消えて
「いいですか?変な気は遣わないでいいですから楽しんでください」
と言うクドクドお説教(?)を聞き流しながらも私たちは個室に戻った。
引き戸を開けると、入り口に誰かが潜んでいたのか私の手をそっと握って引っ張られる。
チェシャ猫の次は忍(シノビ:忍者)!?
思わず目を剥いて凝視すると、やっぱりチェシャ猫さんで―――
ああ…やっぱり……何でこの人私に突っかかってくるのかなー…
さっきのは謝ったでしょう??
とは当然ながら言い出せず
私は有無を言わさずストンとその場に座らされた。
「…あ…あの??」
思わず聞くと
「溝口とはどうゆう関係ですか?」
と、ホームに立っていたときの無表情で聞かれる。
どーゆう関係……て。
友達??でもないし、ましてや恋人でもない。
「私の研究室に出入りしてる担当が溝口さんで、それ以上もそれ以下もないです」
結局素直に答えた。
チェシャ猫さんはほっとしたように頬を緩ませまたも穏やかな笑顔。
「あ、私の親友が溝口さんと付き合ってるんです」
補足の説明を加えると、チェシャ猫さんは破顔一笑。
「さっき溝口って名前聞いたとき…もしかして今日のメンバーなのかも、って思いました」
あぁ…思い出したくもないあのときの…
「そしたらやっぱり当たりで、
本当は僕こうゆう所苦手で、今日来る予定ではなかったんですけど
溝口にどうしてもメンバーが足りないから来てくれって言われて渋々だったんですが
でも
来て良かった」
P.124
来て良かった
よかった
―――よかった
※エコーでお聞きください♪
ああ、チェシャ猫さんの声が耳奥にこだまする。
普通の女子だったらそんな爽やか笑顔でそんな嬉しそうにされると、勘違いしちゃうよ?
考えたらさぁ、こんなイケメンが自分に興味持つことなんてありえないし。
チェシャ猫だし??あの笑顔の裏で何か別のこと考えてるんだよ。
勘違い――――
なんてしない。
すぐ隣にすっごいイケメンがいるってのに、私の中は違うネコのことでいっぱい。
ずっとずっと―――……
「生憎ですが、帽子屋も三月ウサギも探してませんから案内は不要です」
私が手を挙げると
「は?」
とチェシャ猫さんは目をきょとん。
「…いえ、独り言です。お気になさらず」
私はジョッキの中のビールをぐいと煽り、小さくため息。
何言ってんだか、私。
その横でチェシャ猫さんは頬杖をついて楽しそうにのんびり。
「独り言多いですね。帽子屋も三月ウサギでもなかったら、じゃぁ真田さんは何を探しているんですか?」
そう聞かれて私はちょっとだけ目を伏せた。
「捨てた筈の黒猫」
バカな私。
いくらチェシャ猫さんが優しくても、どんな場所にでも導いてくれる気がしても、
黒猫の元には導いてくれるはずもないのに。
P.125
「黒猫?ペット飼ってるんですか?」
そう聞かれて私は曖昧に笑ってごまかした。
ビールをぐいと飲み込む。気付いたらもうビールのジョッキは空だった。チェシャ猫さんのジョッキも空だ。
「「次、何か飲みます?」」
どちらからともなく聞いて、でも二人して同じタイミングで声が被った。
「「ビールで」」
そして答えるタイミングも内容も一緒だった。
二人して笑う。
ようやくチェシャ猫さんと笑うタイミングが合わさった。
最初はミステリアスな雰囲気がちょっと苦手だったけど、今はちょっとだけ「面白いかも」と思える。
そんなやり取りを目にしていた溝口さんたちメンズが遠巻きで、珍しいものを見るような目つきで、じっ…
今度は溝口さん??
一体何だってのよ。
「めっずらし~“あの”樗木が」
「朝都ちゃんみたいのがタイプなのか?」
溝口さんたちのひそひそ話…てか聞こえてるからヒソヒソってほどでもないけど。
何だか気になる噂だったけれど、目の前で女子たちが面白く無さそうにブスっと唇を尖らせていて
「あたしにもメニュー見せてください~」と強引に割り込んでくる女の子も。
チェシャ猫さん大人気だな。
その後チェシャ猫さんの向かい側や隣で女の子たちが入れ替わり立ち代りトークをしていって、私の隣も入れ替わり立ち代りメンズたちが話しかけてくる。
そのうちの何度目かで
「朝都さん、さっき樗木と何話してたんスか?」
溝口さんが隣に来て、私の隣だからか、すっかりくつろぎモードで胡坐をかいて私に聞いてきた。
「何って、ビールとかおつまみの話を少々」
三分クッキングの『塩少々』ってな具合で出来上がった料理は~
「あまり実のない話でした」
溝口さんはビールのジョッキに口をつけて、ちょっと考えるように前を向き
「めっずらしい。“あの”樗木が……」
もう一度呟いた。
だから何なのよ。
“あの”って何??
暗号か!
P.126<→次へ>
冬の夜
キミへの気持ちを窓に託しました
たった一言が言えない私は臆病者ですか?
でも今はこれが精一杯
雪に想いを
『次はお天気コーナーです。今日から明日にかけて低気圧が日本の南を発達しながら東北東に進み、明日には日本の東に進む見込みです。
関東甲信地方では今夜から雨が次第に雪に変わり、あす午前中にかけて山沿いを中心に、平野部でも積雪となる所がある見込みです。雪による交通障害、架線や電線、樹木等への着雪、路面の凍結に注意してください』
今朝のワイドショーのお天気キャスターの言葉を思い出したのは、勤めている会社の定時を迎え業務を終えたときだった。
「えー!やだっ!雪降ってるじゃん」と誰からともなく声が挙がり
「ホントだー、私傘持ってきてない」
「どうりで冷えると思った」
と同僚たちが次々と口にする。
またも誰かが「せっかく彼氏に買って貰ったバッグが濡れちゃう」と言い出し、それでもちっとも困った様子ではなく、どこか誇らし気だ。
そしてその周りの女子たちが盛んに羨ましがる。
「いいなー、でもあたし今度のクリスマスにダイヤの指輪ねだっちゃうんだー」と一人の女の子。
「いいなー!」黄色い声に、私は苦笑いを浮かべるしかない。ここでの男の年収と、女の品格は反比例する。いかにいい服を着るか、いかにいいバッグを持つか、いかにいい男を彼氏にするか、年中こんな会話でうんざりする。
かと言って輪に加わらないわけにはいかない。仕事とプライベートの内容こそ比例するのだ。
P.1
「仁科《にしな》さんはいつも素敵な服着てますよね」ふいに一人から話題を振られた。
「えっ、そう?」私は曖昧に笑って言葉を濁した。今日の服装は白いタイトワンピ。腰回りに太いベルトが巻き付いていて、ちょっと豪華に見えるゴールドのバックルがワンポイント。
そして同じくゴールド系のスパンコールが襟元に入ったコートを腕にかけて帰りたいアピール。
シンプルな服装だったけど、流石は目が肥えている女子たち。すぐにそれが高価なものだと見破った。女のチェック程厳しいものはない。私がオシャレをするのは対、男ではなく、彼女たちの為。
「仁科さんてぇ、結婚しないんですかぁ」間延びした話し方が赦されるのはこの年代の特権だ。
「結婚ね……相手がいないから」私は適当にごまかして再び言葉を濁した。
こう言っておけば大抵の女は引き下がる。私が長い間、人付き合いをしてきて、これが最良の方法だと知ったのはつい最近のこと。
私がこの会社に勤めはじめて五年になる。この会社での女性正社員では長いほうだ。後から派遣された若い女の子たちから見れば私なんてお局のようだった。
「そう言えばぁ仁科さん、この前見ちゃったんですぅ」一人の女の子が思わせぶりに口元へ手をやった。
短く切った髪にはパーマがあててあり、傍から見ればマシュマロのように可愛らしい女の子だ。
だが、そんな可愛らしさに惑わされてはいけない。女はいつでも顔の下にしたたかな一面を隠しているのだから。
P.2
「何を?」私は平静を装って取り澄ました。
もしかして“アイツ”と居る所を見られた?と思ってドキリとしたが
「この前の金曜日、青山のイタリアンレストランで、経理の前田さんと一緒にいるところぉ」
ああ、そっちか。とちょっとほっと安堵する。
「ええー!!」周りから黄色い声が飛ぶ。私は思わず頭を押さえたくなった。
そう、確かに経理の前田に誘われて先週の金曜に青山まで行った。
でも食事をしただけで、別に艶かしい関係ではない。だが、ここで重要なのが、経理の前田という男、この会社ではなかなかのハンサムでしかも独身、きさくな性格をしているわりには頼れる上司でもあるのだ。そうゆう男を若い女性社員が放っておくわけがない。
「いいなー、ねえお二人って付き合ってるんですか?」
食事をするイコール男女の関係と、どうして若い子たちはそう短絡的なのだろう。私はこの場から逃げ出したくなった。だけど、この場から立ち去ると認めたことになってしまう。
「別に、ただお食事に誘われただけよ」
「うそー、絶対前田さん仁科さんのこと狙ってるわよぅ。だって、あたしたちがいくら誘っても全然だったのよー。それなのに前田さんは仁科さんのこと」
嫉妬心と羨望の眼差しで見られ、私は思わず後ずさり。
何とか前田との話を切り返し、従業員出入り口から女子の群れに混ざって出てきた所だった。
遠くで派手なエンジン音が聞こえてきて、この狭い路地裏へと近づいてきた。この聞き慣れたエンジン音。私は嫌な予感がして思わず一方通行の標識を見つめた。
「よーう、仁科」黒のポルシェの窓から腕を出し、銜えタバコをしながら九条《くじょう》が手を振っている。
「やっぱり」
私は、今度こそ頭痛をこらえるように頭をしっかりと押さえた。
P.3
「仁科、今終わりか?これから飯でも食わねー?」
この状況を知らずに能天気に笑ってるその整った横っ面に今すぐ張り手を食らわせたい。
「あ、あんたいつ東京に戻ってきたわけ?」私は女の子の群れから一人離れると、九条の車に近づいた。
「あー、悪い。三日ぐらい前かな?この前言ってた日本料理屋行こうぜ」
「あんたっていつも何で急なのよ」
私が声を潜めて九条を睨んでいるときだった。
「えー、仁科さんの彼氏さんですかぁ?かっこいい!」
女の子たちの視線が九条に移った。予想していなかった最悪の事態。
上半身しか見えなかったが、今日の九条は黒いジャケットの中に白いカットソーを着ていて、真冬だって言うのに襟ぐりに濃いサングラスをかけている。いつものように髪をラフにセットしてあって、左耳には輪っかのようなピアスが三つ光っていた。
そう
どこからどーみてもこいつは
ホスト。
P.4
「仁科、今終わりか?これから飯でも食わねー?」
この状況を知らずに能天気に笑ってるその整った横っ面に今すぐ張り手を食らわせたい。
「あ、あんたいつ東京に戻ってきたわけ?」私は女の子の群れから一人離れると、九条の車に近づいた。
「あー、悪い。三日ぐらい前かな?この前言ってた日本料理屋行こうぜ」
「あんたっていつも何で急なのよ」
私が声を潜めて九条を睨んでいるときだった。
「えー、仁科さんの彼氏さんですかぁ?かっこいい!」
女の子たちの視線が九条に移った。予想していなかった最悪の事態。
上半身しか見えなかったが、今日の九条は黒いジャケットの中に白いカットソーを着ていて、真冬だって言うのに襟ぐりに濃いサングラスをかけている。いつものように髪をラフにセットしてあって、左耳には輪っかのようなピアスが三つ光っていた。
そう
どこからどーみてもこいつは
ホスト。
P.4
でも勘違いしてもらっては困る。私はこいつの客じゃない。東京を離れていたのも、大方客の一人と遠征旅行でもしていたのだろう。
「違っ!こいつとは単なる腐れ縁。彼氏とかじゃないから」
と慌てて否定するも秒の単位で噂が回るこの会社で明日の朝には『仁科さんて、ホストに貢いでるらしいよ』とあちこちで言われるに違いない。
くらり、と眩暈が起きた。
腐れ縁、と言うのは間違いない。中学からの同級生だから。
「じゃあ、本命は前田さんですかぁ?」女の子達が興味津々で目を輝かせている。
「前田??ひどいなー、仁科ぁ。俺たち何度もセック……もがっ」
最後の方が言葉にならなかったのは私の手が九条の口を塞いだから。
ふざけんな!何言い出すんだこいつぁ!!
空気読めっつうの!
と言うことを目で訴えると、流石に冗談が過ぎたと思ったのか九条は苦笑い。
「で?行くの?行かないの?」せっかちに聞かれて
「わかったわよ!行くわよ」半ば怒鳴るように九条を睨みつけると、私はそそくさと助手席に回った。
「それじゃ、私はこれで。お先に」女の子たちにはなるべく平静を装って、にこやかに手を振る。
ため息をついて車の助手席を開けると、運転席から九条が笑顔で手を差し伸べてきた。
「ただいま、仁科」
昔とちっとも変わらない笑顔。眉が下がり、目を細める、優しい笑顔。そして時々その低い声で呼ばれる、自分の名前。何だかくすぐったいが、この笑顔を向けられたら、たとえ九条の勝手に振り回されても、赦せてしまう。
「……おかえりなさい」私は俯くと、小さく返事を返した。
P.5
前述した通り私と九条とは中学からの付き合いだ。かれこれ十年以上の付き合いになる。十年、と言う歳月は長く感じられるけれど、その間に音信不通になったり、そしてどこからか連絡先を入手して電話を寄越して来たり、をだらだらと繰り返している。
でも、私たちははっきりと『付き合って』はいない。もちろん九条のブラックジョークの『体の関係』もない。
あるのは中学生から変わらないノリと
私が九条のこと「好き」
と言うことだけ。歳を重ねて、九条がホストになって……あ、今はホストじゃなくホスト店を経営してるオーナー様でもあったかしら。とにかく環境は変わったものの、不変的な何かは確実に存在している。
パワーウィンドウの外をちらほらと雪が降っていた。
「北海道行ってきたんだ~土産に蟹買ってきてやったぞ」と九条は運転しながらどこか楽しそう。
「北海道……ここより雪が多そうね」ぼんやりと呟きながら、九条に気づかれない程度にこっそりと、外気との差で曇った窓ガラスに、人差し指で
『好き』
と書く。
私の書いた文字は私の体で隠れて九条からは見えない。
「蟹すきしようぜ~、お前んちで」
「何であんたを一々上げないといけない?」
言い合いをしながら、やがて私のマンションに着く頃にはみぞれになった大粒の白いものが私の『好き』をかき消す。
「だってお前んち床暖あるじゃん?」
「そんな理由かよ」
中学生から変わってないこの関係とノリ。
今はまだ―――
この関係でいいや。
~FIN~
P.6