Chat Noir -黒猫と私- Deux(2nd)
Cat
№31 黒猫メイズ
『黒猫メイズ』
私たちはほんの少し迷子になっただけだ。
P.77
――――…次の日。
私はその日の講義を終えて、きっちり研究室に顔を出し
自分の研究をし終えても、まっすぐうちに帰る気になれなかった。
かと言ってマウスに24時間張り付いている気力も沸かず、
結局
「いらっしゃいませ~」
前のバイト先まで来てしまった。
出迎えてくれたのはミケネコお父様。今日もギャルソン風の制服がキマってる。
「朝都ちゃん……」
昨日の今日でキマヅイ…
酔っ払って迷惑掛けたうえ、盛大な勘違いでお父様を攻めちゃったから。
でも他に時間を潰せるところなんて思い浮かばなくて、
何となく……ここが私の“帰れる場所”な気がしたから来ちゃった。
「もしかして…強請に来た…?セクハラで訴える前に取るだけ取ろうってこと??」
お父様は苦笑いで、若干引き腰。
誰が元カレのお父様を強請にわざわざ来ますかっての。
てかそこまで金の亡者じゃないし。
「あれはセクハラの内に入りません。私もお父様にひどいこと言ったのでおあいこです。
お互い水に流しましょう」
大人ぶって言ってみたけど、私はお父様の放ったあの寝言が耳から離れない。
『紗依――――……』
お父様はまだ黒猫のお母さんサエさんのことを―――忘れられないのだろうか。
それとも忘れたくない?
どっちなんだろう。
私は肩に掛かった髪の先を手にとってそっと匂いをかいでみた。
私が使っているシャンプーの香りがして、それはみずみずしい華の香りだった。
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「ま、座って座って~」
ミケネコお父様は立ち直りも早くにこにこ言ってカウンターのスツールを勧めてくれた。
店内を見渡すと、人はいつもよりまばらで閑散としている。
時間帯の問題だろう。もっと遅くなったら合コンの二次会連中やら、夜のデートカップルたちで店がにぎわう。
それを計算してか、カウンターに居るバーテンの子たちもいつもより少ない。
その子たちの誰も見知った顔はいなかった。
ニューフェイスだ。
「ベテランの子たちはピーク時に来てもらうことにしてるんだ~
あ、この子には僕が何か作るから君たちは他のお客様をよろしく」
ミケネコお父様は手際よく、カウンターに入っていた男女のバーテンに指示。
女の子の方はホントに二十歳を迎えたばかりの初々しい子で、
入った頃の私とどこか被る。
「このお客様店長のお知り合いですか?」
女の子はミケネコお父様を上目遣いで見上げ、
「ちょっとね。以前ここで働いてくれてた子なんだ」とミケネコお父様はその子に説明。
「ふぅん」
女の子は探るように私に目を向けてきて、私は唇を引き結んだ。
前言撤回。
私、こんな不躾な態度とったことなかったわ。
一瞬でライバル視されてたことがすぐに分かった。
この若い子は店長が好きなんだって。
「店長モテモテ?
ペルシャ砂糖さんに言いつけてやろ~」
ちょっと意地悪く笑ってやると、ミケネコお父様は笑ってかわすかと思ったのに…
「朝都ちゃん……昨日の…朝のことだけどさ…」
ミケネコお父様は真面目に私を見据えて、私は思わず目をまばたきさせた。
P.79
「昨日の……」
ミケネコお父様はテキーラの瓶を握り締め、私と向かい合っている。
その先を聞かれたらどうしようかと思ったけれど
「店長~!このカクテルこれで大丈夫ですかぁ?」
違うお客に作っていたカクテルが仕上がったのだろう。さっきの若い女の子が透明の液体が入ったタンブラーグラスを店長に突き出し、
「…ちょっと待って…」
ミケネコお父様は味見用の長いスプーンを手に取った。
正直―――助かった……
ミケネコお父様が本当は何を言いたかったのか分からないけれど、
きっと私はちゃんと答えられない気がした。
“大人”の顔をして何も知らないフリ―――それができればいいのに、たぶんそれだけは無理だ。
「うん、いいよ。これで出して」
ミケネコお父様は味見用のスプーンを水の入ったグラスに突っ込みGOサインを出したけれど
大胆にもそのスプーンを取り返し、自ら味見をする店員。
ちらりと私の方を見て、ペロリ…そのスプーンでカクテルを掬うと一飲み。
ぅわぁ。
客(私)の居る前で大胆だなぁ。
私は唖然。
きっと私たちの会話に聞き耳を立てていたに違いない。
ミケネコお父様もその子の態度に少しだけちっさいため息。
「新人の教育は難しいよ」
教育って言うより、あの子は根本的な何かが違う……
と思ったけれど私はその言葉を飲み込んだ。
「何飲む?朝都スペシャル?」
朝都スペシャル…ってこないだミケネコお父様が作ってくれたカクテルのことかな。
テキーラとシロップとイチゴの甘くて可愛いカクテル。
「今日はショットでください」
私が申し出ると、ミケネコお父様は目をぱちぱち。
「しょっぱなから飛ばすね~、大丈夫?」
「大丈夫です。あ、良かったらお父様も…」
私が薦めると
「じゃぁ、ありがたく~♪」と言ってお父様は二杯分のショットグラスにテキーラを注ぎいれた。
私が薦めた理由。
それはさっきの言葉に続く言葉を―――聞きたくなかったから。
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―――それから数時間後。
店内はいい感じに賑わってきた。
ただ、いつもはカップル客や団体客が多いのに今日はピンの客が多い。
一人でこーゆう店に来るぐらいだから、サラリーマンとかが多い。
「お一人ですか?」
そのうちの何人かに声を掛けられた。
ナンパとかじゃなく、ここでの挨拶みたいなもの。
中には
「よく一人で飲みに来るの?一緒に飲もうよ」と馴れ馴れしいのも。
この時間にはさすがに友達(♀)も入っていて
「この子、彼氏居ますよ。口説かないでくださいね」と助け舟を出してくれた。
さすがベテラン。あしらい方も慣れている。
しかも
「朝都~、あんたホントに帰った方がいいんじゃない?
店員ならまだしも客だとすぐに目をつけられるよ」
とありがたいアドバイス。
「年下の彼が心配するよ??店長の息子さんと最近どぉ?」
アドバイスなのか興味本位なのか、友達は楽しそうにカウンターから身を乗り出してきた。
聞かれたくなかったけど、ここに居れば自然話がそうゆう流れになるだろうことは想像してた。
「あー……うん。
別れちゃった」
何杯目かのカクテルを飲み干して、グラスをテーブルに置くと、カウンターを挟んで友達は目をまばたいていた。
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「あー……それは残念だね。
でもそれだったらなおさらだよ……こんなところで自棄酒してたら、たちの悪い酔っ払いにお持ち帰りされちゃうよ?
話なら今度ゆっくり聞くから、帰ったら?」
友達は心底心配そうに言って、次からはカクテルじゃなくミネラルウォーターが入ったグラスを進めてくれる。
自棄酒―――か…
そうかも…
黒猫のことを考えたくなくて、一人であの狭いアパートに居ると考えちゃいそうで帰りたくなくて…
素面で居ると涙が出そうになるから、それをアルコールで流しているだけかも。
「僕が酔っ払いを追い払ってあげるよ。朝都ちゃん帰らないで」
とミケネコお父様は私の勧めで何杯目かのグラスを空にしていた。
コン!
やや強い音を立ててカウンターにグラスを叩きつけるその姿は、
ここに来たときよりも疲れているようだった。
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「店長~!」
カウンターの奥でさっきの若い女の子の呼び声が聞こえる。
ミケネコお父様は空になったグラスにテキーラを注ぎいれると、
「マジで居て。今日は普通に終われない」
と、ぐいと飲み干し新人の子を目配せ。
四十過ぎの男が“マジで”とか言うのもどうかと思ったけど妙に似合っちゃうんだよな、これが。
つまり…やっぱりチャラい。
新人の女の子は私たちの様子を気にしているのか、ずっとこっちを見ている。
「さっさとクビにした方がいいですよ。あの子仕事そっちのけで店長ばっかり見てるし」
と友達は冷静過ぎるほどの発言でグラスを拭いている。
「やっぱり気があるのね」
私が友達に聞くと
「当たり前じゃない。店長目当てで入店してきたんだから」と友達はぷりぷり。
「大体四十過ぎの男が二十そこそこの小娘相手にすると思う??」
と友達は思い切り顔をしかめ
「ひどいよ。確かに僕は四十路だけど…」とミケネコお父様はガクリ。
「結婚されること言ったらどうですか?」
私がアドバイスすると
「ダメよ、あの子めげないもの。不倫してでも奪うつもり満々よ?
大して可愛くもないくせに」
と、友達がミケネコお父様の変わりに答えて、腕を組みその新人の方を睨む。
ミケネコお父様はさすがにお手上げと言う感じで両手を軽く上げた。
親子でもこうまで違うとはなぁ。
黒猫だったらそもそも気を持たせるような優しい態度取らないし、あいつは女の子に嫌われるたちだから。
黒猫のクール(?)な部分をお父様に分けてあげたいよ。
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それでもミケネコお父様と新人のバーテンの子が気になり、私はだらだらと酒を飲み続けた。
たった一日だけど、気を緩めたらあのバーテンの子きっとミケネコお父様にモーション掛けそうだし。
ペルシャ砂糖さんは確かに可愛いけど、お嬢様だし気が弱そうだしきっと負けちゃうよ。
見張り、と言う意味で閉店まで居座って
何故か閉店作業まで手伝って、私とミケネコお父様は大通りでタクシー待ち。(新人の女の子は無理やり返した)
思えば……どれぐらいぶりだろう。
こんな風にタクシーを二人で待つのは。
ミケネコお父様は男女分け隔てなく誰にも優しいし(ときに厳しいけど)だから勘違いしちゃう子もいるだろうけど
根は紳士で、いつも従業員の身の安全を心配してくれていた。
いつもはタクシーチケットを渡してくれるけど、今日に限っては
「おうちまで送り届けるよ」と一緒に乗り込むお父様。
「あの…今日はありがとうございました」
何を隠そう、今日の飲み代はチャラなのだ。
「付き合ってもらったお礼だよ~」
お父様はにこやかに笑ったけれど、いつもより喋り方がゆっくり。
あれから結構飲んだしなー、少し酔っ払ってるのかも。
かく言う私も、いつもより体が熱い。
「久しぶりだよね、こうやってタクシー乗るの」
「一緒にタクシー乗るのははじめてです。店長は私をタクシーの乗せたあと経理の仕事とかで残ってるじゃないですか」
私が言うとミケネコお父様はにっこり微笑みを浮かべ
「朝都ちゃんから久しぶりに聞いたかもな~“店長”て」
ま、まぁ?店長以前に黒猫のお父様だし…
でも黒猫と付き合う前はやっぱり「店長」で。
変ったのは私―――か。
と実感した。
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タクシーに私のアパートの住所を告げ、タクシーは走り出した。
変な感じ。
前はタクシーに乗っても、一人か……相乗りしているのは同じバーの女の子だったから。
店長と二人きりでタクシーに乗るのははじめてで、何故か少しだけ
緊張した。
タクシーに乗る前まで
「タクるか!♪」なんて妙にハイテンションだったのに。
てかその歳で「タクる(タクシー拾う)」って…やっぱチャラいし。
タクシーに乗ったら急にだんまりなお父様。
背もたれに深く背を預けて、ぼんやりと窓の外を眺めているお父様の横顔を見つめて
その顔がやっぱりどこか黒猫と似ていた。
当たり前か。
親子だもんね。
いつかの―――黒猫とタクシーに乗った夜を思い出す。
あの日は、お父様と初対面のペルシャ砂糖さんと食事会だった。黒猫との交際を認めてもらうためのご挨拶だたけれど、まさかのペルシャ砂糖さんとの結婚報告を聞かされて
あのときの食事のほとんど味を覚えていない。
でも今日は―――しっかりお酒の味を覚えている。
最後に飲んだのはラムベースのXYZ。そのあとに続くスペルはないから、『これ以上にないカクテル』と言う意味だけど…
ミケネコお父様とこれ以上にないほど、距離を詰めて
このタクシーは一体どこまで走るのだろう。
そんなことをふと思う。
バカみたいだ、うちに決まってるのに。
「こないださー、富山行ったんだよね」
ミケネコお父様がぽつりと言い出し、私は顔を上げた。
自分のバカみたいな考えを読まれたのかと思ってちょっと恥ずかしくなり、顔を上げたあと慌てて視線をそらす。
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「あ…はい。富山ですか……お酒を探しに…?出張ですか?」
なんでもないように振舞って当たり障りのない答えを返す。
「当たり~♪うちは洋酒がメインだったけど、お客さんの要望で日本酒も揃えて欲しいって」
はー、なるほど。
富山の地酒…想像しただけも涎が出そうだ。
「ブリに白えび、ホタルイカにかまぼこ。お米もおいしいし、いい場所ですよね」
考えたら黒猫の好きそうなものがいっぱい。
黒猫と旅行したら楽しそうだ。
ちょっと考えて私は首を振った。
「白えび食べたよ。甘くておいしかった。ブリもホタルイカも食べたけど、かまぼこは食べてないな」
ミケネコお父様はいつもの調子に戻ってにこにこ指を折って説明してくれる。
「え~いいな~」
大丈夫…
私たちの関係は―――店長と元従業員。元カレのお父様だし。
それ以下でもそれ以上でもない―――
「でも一番おいしかったのはサケといくらの親子丼
だったなー」
「親子丼♪へ~なるほど、確かに親子ですね」
何気なく返したけど…
親子丼…
へ??
お父様を思わず見上げると、
「お腹に入っちゃったら一緒だけどね」
お父様は意味深な流し目で私を見下ろしていて、
さっきより近づいた後部座席の距離…
少し車体が揺れると手が触れそうなその位置にドキリと心臓が鳴った。
このタクシーは一体どこまで走るの?
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早く着かないかなー…と思う反面、永遠に着かないといいのに。
そう思う自分も居た。
ミケネコお父様と私の距離は指一本分の距離を空けて並んでいたけれど
その距離が私には心地よかった。
大好きな人の面影を浮かべたその人と―――
隣り合っていると、大好きな人のぬくもりまで感じられる気がして
それは錯覚だと言うのに。
でも
今なら分かる。
お父様が私の中にサエさんを探しているその気持ちが。
香りだけで私を亡くなったサエさんに重ねられるその気持ちが―――
今なら答えられる。
「忘れようとしても無理です。
無理なんです」
スカートの上でぎゅっと握った手に、
お父様の手がそっと重なった。
指一本分の距離を乗越えて―――
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お父様の手が指一本の距離を飛び超えて私の手に触れたのは、その一瞬だけだった。
お父様はすぐに手を離し、
「明日晴れるかなー…」とわざとらしく話題を変え、ぼんやりと窓の外を眺めていた。
変なの。私よりずっと大人で私より遥かに経験を積んでいそうなのに
ときどき酷く不器用で、そこがやっぱり黒猫と同じだ。
まだそんなに時間が経ってないのに妙に懐かしいのと、こんな小さなことでも黒猫との共通点を見つけ出そうとしている自分に
嫌気がさす。
私は一体―――どうしたいのだろう。
車内を微妙な沈黙が満たしながらも
その五分後には私のアパートの前まで来ていた。
……着いちゃった。
私はタクシーを降り、開け放ったままの扉から顔をちょっと覗かせて
「ありがとうございました…」小さく頭を下げた。
「こちらこそ、遅くまでありがとう。
……それじゃ」
お父様は軽く手を挙げ、運転手さんに次の行き先を告げる。
「今日は色々…ありがとうございました。…おやすみなさい」
きっと今扉が閉まれば、私たちは何事も無かったように…いえ実際何もなかったけれど
引き返せる気がした。
軽いデジャヴ。
そう、黒猫と付き合うときもそう考えていた。
―――今ならまだ引き返せる。
早く扉が閉まって、と思う反面走り去るタクシーを見送りたくない自分が居て
胸の奥がむかむかとくすぶっている。
頭を下げて何となく名残惜しそうに車内を見ると、
お父様の視線とぶつかった。
扉が閉まる瞬間
「すみません!僕も降ります。
清算してください」
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お父様はポケットから長財布を取り出し、慌てて万札を運転手さんに手渡し、あわただしくお釣りを受け取ると
タクシーから飛び出てきた。
どうして―――
「はは…何でだろう…
何でかこのまま“さよなら”もないかなーとか思って」
お父様は恥ずかしそうに笑って頭の後ろに手をやる。
“どうして”なんて心の中でも呟くのはバカげてる。
だって私―――
お父様がこうやって降りてくること、少しだけ期待してた。
お父様のこと好きとかじゃない。冷静に考えればペルシャ砂糖さんだって居るのに。
ペルシャ砂糖さんからお父様を奪うつもりはないし、“そう”なったら今度こそ黒猫に顔向けできないよ。
そう分かっているけど
ただ、
寂しかったのだ。
誰でも良かったわけじゃない。
大好きな人と血が繋がった人に―――錯覚だと思っても
傍に居て欲しかった。
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「あ…あの…お茶でも飲んで行きます?」
言ったあとになって後悔した。
何だかひどく安っぽい言葉に聞こえて、
これじゃさっきバーで店長を熱烈に慕っていたあの子と同じだよ。
僅かに俯くと
「じゃー、ちょっと歩こうか。自販機でコーヒーでも。缶コーヒーだけど」
ミケネコお父様は暗く広がる路地の方を指差し。
―――ガコンっ
自販機の中で缶コーヒーの落ちる機械的な音を聞いて、現実に戻った気がした。
「はい」
あったかいコーヒーを手渡されて、私はそのコーヒーを手の中で包んだ。
近くに公園があり―――
そこが以前黒猫と夜のお散歩に来た場所だと気づくのに、そう時間は掛からなかった。
二人で古びたベンチに座り、お父様はコーヒーの缶に口を付けながらタバコを取り出した。
「紗依とはじめて会ったのは二十歳のとき。僕が専門学生のときだった。
紗依は近くの女子大に通ってて、何度かバスで一緒になったんだ」
お父様は唐突に喋りだした。
バスの中での出会い―――
「ロマンチックですね」
微笑ましい光景を思い浮かべ、思わず微笑を浮かべるとお父様も頬を緩めた。
「ある日偶然近くに居合わせた紗依と二人席に相席になったんだ。
座ったときは何の下心もなかったけど、春先でねー…窓がちょっと開いてて
ふわって彼女の髪がなびいて香ってきたんだ。
ライラックの香りが」
それは文字通り思い出の香り―――
お父様にとっては生涯忘れることのない、
愛おしい香り。
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「『ぅっわ…何だろう…すっごく良い香り』ってちょっとドキドキしてね」
お父様は心臓の当たりを押さえて恥ずかしそうに笑う。
お父様、それは甘酸っぱい恋の香りですよ♪とはからかえず、
「可愛いですね」
思わず思ったことを言うとお父様は照れくさそうに苦笑い。
「紗依の香りはどこまでも優しくて、どこまでも心地よくて
ずっと近くで感じたいと思って、その日僕は……」
何々、告白したとか!?デートに誘ったとか??
私はその後の話の続きがきになってわくわくとお父様を見上げた。
お父様は長々と口からタバコの煙を吐き出しどこか遠い目。
「目的のバスの停留所で降りることを忘れちゃったんだ」
何だそりゃ。
ガクリと首を折ったけど…
ぷっ
私は思わず吹き出した。
可愛い、って言うかお父様もそんな時代があったんだな~
甘酸っぱい恋の味。それは誰もが一度通る青春の光景。
改めて考えるとちょっと笑えたり。
「まぁ一歩間違えれば痴漢の域に入るけどー、でもその香りで紗依のことが気になりだして
それ以降僕は紗依の隣が空いてるとそこに座るようになった。
どんなに空いてて他の席が空いていようと、彼女の隣に―――
さすがにそれが三ヶ月以上も続くと、紗依も訝しく思ったみたいで
ある日向こうから声を掛けてきたんだ。
『どうしてここに?』とか『席いっぱい空いてますよ』とかじゃなく
『良く一緒になりますよね』
彼女はライラックの香り以上に優しく微笑みかけてくれて、
勇気を振り絞ってその日、僕は彼女に電話番号を聞いた。それがきっかけだった」
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どうやらサエさんも相席してくるお父様のことが徐々に気になっていたようだ。
それは良い意味での『気になる』
お父様が番号を聞いてサエさんは『気になる』から、はっきりと恋を意識した、と後々になってお父様は知ることになったようだ。
お父様とサエさんはそこから親しくなって喫茶店でお茶をする関係から映画館や水族館にデートに行く関係へ、
ゆっくりゆっくり愛をはぐくみ、その三年後…お父様が海外の料理店に出向になったのを機に結婚を決めたみたいだ。
「フランス行きの話が出たときは迷ったよ。
紗依を残してフランス行きを決めたら、超遠距離になるでしょ?
でも夢は諦めたくない。自分の力がどこまで通用するのか試してみたい。
愛と夢の間でずいぶん揺れた。
不安要素はいっぱいあった。
だから思い切ってプロポーズしたんだ。
フランスに着いてきて欲しい、って。
僕にとっては人生最大の賭けだったよ。
紗依がついてきてくれると言うのだったら、彼女を一生幸せにしよう。
ついてくれなかったから、彼女を諦めよう。
てね」
「答えは―――?」
わざわざ聞かずとも、分かっていた。
でも敢えて聞いたのは、お父様の気持ちを推し量りたかったのかもしれない。
「答えは、僕についてきてくれる―――って。
びっくりしたのはさー、彼女が
僕が『いつ言い出してくれるんだろう』って悩んでたって」
笑っちゃうよね。
お父様はそう続けてはにかみながらコーヒーを勢い良く飲み干し、空になった空き缶に吸殻を捨てる。
「そのとき気づいた。
ああ、自分は何を悩んでいたんだろう―――って、もう少し彼女の気持ちを信じていれば良かったってね」
サエさんの気持ち―――……
「人は常に選択して道を切り拓く生き物だと思う。
その選択が間違っていようと、正しかろうと、ただ進むしかないんだ―――
紗依の選択は、彼女にとって最良だったのかどうか僕には分からない。
だけど彼女は一度だって『後悔してる』なんて言わなかった」
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「でも僕が……元々体の弱かった彼女に心労を負わせて
無理させて、まだ生きられる命を僕が縮めた―――
最近ふと考える。
紗依があのときフランス行きを断っていたら、彼女は今でも生きられたのか―――とね」
私はお父様の手に自分の手をそっと重ねた。
それはタクシーで一瞬だけ触れた体温より少しだけ低かった。
お父様はのろのろと顔を上げ、眉を下げて私を見てくる。
私は無言で首を横に振った。
「店長のせいじゃありません。サエさんは……たとえ決められた命が短くなろうと、あなたを愛することを決めて
凄く幸せだったと思います」
一度だけ倭人が見せてくれた。家族三人で写ってる写真。
お父様とサエさんは凄く幸せそうで、その写真を見つけた倭人も幸せそうで―――
「彼女が残した軌跡は未来の大きな幸せへと繋がったんです」
ゆっくりと言うとお父様は最初のうち目を開いていたものの、ゆっくりとまばたきをして
「ありがとう…やっぱり朝都ちゃんは凄いなー…
僕の方が年上なのに、君にはいつも大事なものが何か教えられる」
大事なもの―――
お父様は私の指をそっと握り返し、吸い終わったタバコの吸殻を空き缶に入れた。
「カズミちゃんと結婚が近づいてきてさー……考えてたんだよね。
僕は彼女を本当に幸せにできるのか―――って。
僕が彼女と結婚して、彼女は本当に幸せなのか。
また愛する人を失ったりとか……
もう嫌なんだ」
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ペルシャ砂糖さん……確かにはかなげなお嬢様だし。
まぁ家事面で若干頼りないけど…でも彼女もお父様を愛している。
お父様のために苦手な料理を一生懸命勉強して、お父様の支えになろうとしている。
「なぁんだ。
答えなんて最初から分かってたじゃないですか」
私がお父様から手をすり抜き両足を投げ出すと、ミケネコお父様は目をきょとん。
「店長はペルシャ砂糖さんが好きで好きで
だーい好きで、
ただそんな大好きな彼女を幸せにする自信がほんのちょっと無くなっただけ。
昔の結婚生活があるから?
過去を思い出して気弱になったから?
恋愛って、小さなことで尻込みするし、こと想いが強ければ強いほど臆病になるものです」
私だって何度倭人を前に悩んだことがあったか。
聞きたいことも聞けず、小さなすれ違いを生みやがて別々の道を辿る結果になったのは全て
『嫌われたくない』と思っている臆病な自分のせいだ。
「店長は……少しだけ迷子になっただけです」
私も迷子になっていた。
見えない迷路をさまよって、ただすれ違った人に助けを求めるよう、
お互い錯覚しながら一瞬だけ手を取り合った。
でも本当に手を繋ぎたいのは―――
黒猫……倭人―――
町で偶然会った時、いつかのお化け屋敷で、ショッピングモールで…
彼はいつだって私を力強く引っ張っていってくれた。
安心した。ドキドキもした。
私はまだその気持ちを忘れたくはない。
「あなたの帰るべき場所は
カズミさんのところです」
P.94
私はタバコの煙を深く吐き出しお父様に顔を向けた。
「楽しいお話ありがとうございます」
「…うん。僕も楽しかったよ」
お父様はわずかに眉を下げて私を見つめ返してくる。
「正直、僕は君の言葉に期待してた。家にあがることを
望んでいなかった、とは嘘になる」
お父様は正直に答えてくれて、私も口元に微笑を浮かべた。
「私もですよ。私も店長がタクシーを降りてくれるのを期待してました。
でもその先に待ってるのは
何も無いんです」
迷路の先にゴールはなく、ただ永遠に続く罪の道。
ミケネコお父様は僅かに俯き
「僕は君の中に紗依の面影を見つけようとしていた。
紗依はもうこの世のどこにも居ないのに。
ふいに彼女と同じ香りを纏った君を近くで感じて、気持ちが揺れた。
僕にはカズミちゃんと言う大切な人があり、君は僕の息子の恋人だ。
許された関係じゃない」
はっきりきっぱり言われても、私はどこかすっきりしていた。
「元、ですよ。元恋人」
冗談めかして笑う余裕すらできてきたのは、私の心の余裕ができたからだろうか―――
「君の言った通り何も無い。あるのは罪と、その罰を背負っていかなきゃいけない十字架。
歳だからかな~
思い切った行動が取れない。最後の最後になってブレーキを掛けるんだ」
お父様も苦笑いで頭の後ろに手を置き
「ブレーキを掛けてくれて良かった」
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「……行こうか」
お父様が空き缶を手に立ち上がり、私もそれにならった。
お父様は空をふと仰ぎ見て、そしてゆっくりと視線を地面に落とした。
頼りなげな街灯に照らし出された私たちの影を眺めて
「真夜中に男女が二人きりなのに、ね。
コーヒーを飲んでただお喋りって、まるで高校生のデートみたいだね」
「高校生だってもっとススんでます」
そう言ってやると
「まさか倭人のヤツ!朝都ちゃんを茂みに連れ込んで!」
お父様は顔を真っ青にさせてあわわ。
お父様……もう少しご自分の息子を信じてあげてください。
倭人はそこまでケダモノじゃありません。
呆れたように白い目で見ながら
「倭人とはコーヒー飲んでお喋りです。トラネコりょーたくんなら分からないけど」
「あはは、良かった~」
お父様はほっとため息。
「どんな想像してるんですか。
……まさかお父様…経験がおありで?」
さらに白い目でお父様を睨むと
「まさか!外ではないよ」
お父様は慌てて手を振って否定。
だけど“外で”と言う言葉に引っかかりを感じながらも私はそれをスルーした。
「朝都ちゃん」
ふいに名前を呼ばれて顔を上げると
「抱きしめていい?」
お父様は三日月のように目を細めて口元に淡い微笑を浮かべながら私を見下ろしていた。
私はそっと両手を差し伸べた。
「はい」
P.96
最初は遠慮がちに肩を抱き寄せられ、私の体がびくりとこわばった。
黒猫とは違う香り―――
浩一とも違う香り。
タバコと……ほんの少しの香水…そして香ばしい樽の香りは……ウィスキーだろうか。
お父様はまるで壊れ物を扱うような丁寧で慎重な手つきに
どこか安心できた。
黙ってお父様に身を任せていると、遠慮がちだった手が私の背中に回りさらにぎゅっと強く抱きしめられる。
お父様の体は黒猫のそれよりも少しだけ華奢で背中が少しだけ骨ばっていた。
サエさんは―――
この腕に抱きしめられてきっと幸せだったと思う。
この腕に全てを委ね、お父様の隣で安心できたと思う。
「朝都ちゃん、ありがとう。
君のおかげで今度こそ―――後ろを振り向かず前を歩ける」
お父様は私の耳元で囁き
私も
「いいえ、こちらこそ」
気の利いた言葉を返せずおざなりな言葉を返したけれど、今必要なのは言葉じゃないと
そう感じた。
「君がライラックの香りを運んできてくれて、想い出を運んできてくれた。
君が迷子になっていた僕を助け出し、導いてくれた。
ありがとう。
だから僕も君を苦しみから解放するよ。
新しい家庭教師を見つける。君は退職扱いにするから
君も新しい人生を歩んで。
僕ができる手助けと言ったらこんなことしかできないけれど
君の未来にどうか光を―――」
ザザっ
風が大きく公園の木を揺らし、街灯の光の中、黄金色に色づいた銀杏の葉が舞った。
キラキラ…
お父様の背後でそれは輝いて見えたけれど、でも私は涙で滲んで見えなかった。
大好きな人の面影を浮かべたその人を必死に抱きしめながら
私はまたも泣いていた。
今度こそ
さよならだね。
倭人―――
P.97
その後お父様はきっちり私のアパートまで私を送り届けてくれて、私は今度こそ
「お茶でも?」の一言は言わなかった。
「元気で」
ミケネコお父様が軽く手を挙げてちょっと眉を下げる。
「はい、お父様も。ペルシャ砂糖さん大事にしてあげてください」
変なの。まるで恋人同士が永遠の別れに遭遇したみたいに―――
でも私たちにその感情はなかったし、あったとしてもそれは愛ではなくそれに似た何か。
私たちは互いに愛する人の影を追い求め、二人で迷子になっていただけ。
私はお父様の見つめる中、今度こそ一度も振り返らず自分の部屋へ帰った。
もうお父様のバーに飲みに行くのはやめよう。
倭人の影を追い求める真似はやめよう。
そう決意してベッドに入る。
ここ数日間、ベッドに潜り込むと考えようとしなくても思い浮かんでくるのは黒猫の姿で
でもこの日だけは―――
何も考えずにぐっすりと眠りにつけた。
夢を見た。
夢の中で私は迷路に迷い込んでいて、私の両サイドには大きくて高い黒い壁が聳え立っている。
前を向くと白い道が広がっていて、後ろを振り向いても同じ道がどこまでも続いている。
迷路って壁伝いに歩くと出られるって言うわよね。
私はその黒い壁にそっと手を伸ばしそれに手を触れると
その壁は硬くなくて、ふわふわ暖かかった。
空を見上げるといつの間にか私は迷路の中から抜け出ていて、そのぐるぐると渦を巻く丸い迷路を見下ろしていた。
ゴールの先に黒い大きなネコが丸まっていて、迷路だと思っていたのは黒いネコのふわふわのしっぽだった。
何だ…
迷ったと思ったら、私はずっと
黒猫の中にいたんだね。
「にゃ~」
黒いネコが小さく泣いて、私はそのネコを抱き上げた。
「ホントはね、倭人のことだーい好きだよ。
ごめんね」
『にゃ~』
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冬の夜
キミへの気持ちを窓に託しました
たった一言が言えない私は臆病者ですか?
でも今はこれが精一杯
雪に想いを
『次はお天気コーナーです。今日から明日にかけて低気圧が日本の南を発達しながら東北東に進み、明日には日本の東に進む見込みです。
関東甲信地方では今夜から雨が次第に雪に変わり、あす午前中にかけて山沿いを中心に、平野部でも積雪となる所がある見込みです。雪による交通障害、架線や電線、樹木等への着雪、路面の凍結に注意してください』
今朝のワイドショーのお天気キャスターの言葉を思い出したのは、勤めている会社の定時を迎え業務を終えたときだった。
「えー!やだっ!雪降ってるじゃん」と誰からともなく声が挙がり
「ホントだー、私傘持ってきてない」
「どうりで冷えると思った」
と同僚たちが次々と口にする。
またも誰かが「せっかく彼氏に買って貰ったバッグが濡れちゃう」と言い出し、それでもちっとも困った様子ではなく、どこか誇らし気だ。
そしてその周りの女子たちが盛んに羨ましがる。
「いいなー、でもあたし今度のクリスマスにダイヤの指輪ねだっちゃうんだー」と一人の女の子。
「いいなー!」黄色い声に、私は苦笑いを浮かべるしかない。ここでの男の年収と、女の品格は反比例する。いかにいい服を着るか、いかにいいバッグを持つか、いかにいい男を彼氏にするか、年中こんな会話でうんざりする。
かと言って輪に加わらないわけにはいかない。仕事とプライベートの内容こそ比例するのだ。
P.1
「仁科《にしな》さんはいつも素敵な服着てますよね」ふいに一人から話題を振られた。
「えっ、そう?」私は曖昧に笑って言葉を濁した。今日の服装は白いタイトワンピ。腰回りに太いベルトが巻き付いていて、ちょっと豪華に見えるゴールドのバックルがワンポイント。
そして同じくゴールド系のスパンコールが襟元に入ったコートを腕にかけて帰りたいアピール。
シンプルな服装だったけど、流石は目が肥えている女子たち。すぐにそれが高価なものだと見破った。女のチェック程厳しいものはない。私がオシャレをするのは対、男ではなく、彼女たちの為。
「仁科さんてぇ、結婚しないんですかぁ」間延びした話し方が赦されるのはこの年代の特権だ。
「結婚ね……相手がいないから」私は適当にごまかして再び言葉を濁した。
こう言っておけば大抵の女は引き下がる。私が長い間、人付き合いをしてきて、これが最良の方法だと知ったのはつい最近のこと。
私がこの会社に勤めはじめて五年になる。この会社での女性正社員では長いほうだ。後から派遣された若い女の子たちから見れば私なんてお局のようだった。
「そう言えばぁ仁科さん、この前見ちゃったんですぅ」一人の女の子が思わせぶりに口元へ手をやった。
短く切った髪にはパーマがあててあり、傍から見ればマシュマロのように可愛らしい女の子だ。
だが、そんな可愛らしさに惑わされてはいけない。女はいつでも顔の下にしたたかな一面を隠しているのだから。
P.2
「何を?」私は平静を装って取り澄ました。
もしかして“アイツ”と居る所を見られた?と思ってドキリとしたが
「この前の金曜日、青山のイタリアンレストランで、経理の前田さんと一緒にいるところぉ」
ああ、そっちか。とちょっとほっと安堵する。
「ええー!!」周りから黄色い声が飛ぶ。私は思わず頭を押さえたくなった。
そう、確かに経理の前田に誘われて先週の金曜に青山まで行った。
でも食事をしただけで、別に艶かしい関係ではない。だが、ここで重要なのが、経理の前田という男、この会社ではなかなかのハンサムでしかも独身、きさくな性格をしているわりには頼れる上司でもあるのだ。そうゆう男を若い女性社員が放っておくわけがない。
「いいなー、ねえお二人って付き合ってるんですか?」
食事をするイコール男女の関係と、どうして若い子たちはそう短絡的なのだろう。私はこの場から逃げ出したくなった。だけど、この場から立ち去ると認めたことになってしまう。
「別に、ただお食事に誘われただけよ」
「うそー、絶対前田さん仁科さんのこと狙ってるわよぅ。だって、あたしたちがいくら誘っても全然だったのよー。それなのに前田さんは仁科さんのこと」
嫉妬心と羨望の眼差しで見られ、私は思わず後ずさり。
何とか前田との話を切り返し、従業員出入り口から女子の群れに混ざって出てきた所だった。
遠くで派手なエンジン音が聞こえてきて、この狭い路地裏へと近づいてきた。この聞き慣れたエンジン音。私は嫌な予感がして思わず一方通行の標識を見つめた。
「よーう、仁科」黒のポルシェの窓から腕を出し、銜えタバコをしながら九条《くじょう》が手を振っている。
「やっぱり」
私は、今度こそ頭痛をこらえるように頭をしっかりと押さえた。
P.3
「仁科、今終わりか?これから飯でも食わねー?」
この状況を知らずに能天気に笑ってるその整った横っ面に今すぐ張り手を食らわせたい。
「あ、あんたいつ東京に戻ってきたわけ?」私は女の子の群れから一人離れると、九条の車に近づいた。
「あー、悪い。三日ぐらい前かな?この前言ってた日本料理屋行こうぜ」
「あんたっていつも何で急なのよ」
私が声を潜めて九条を睨んでいるときだった。
「えー、仁科さんの彼氏さんですかぁ?かっこいい!」
女の子たちの視線が九条に移った。予想していなかった最悪の事態。
上半身しか見えなかったが、今日の九条は黒いジャケットの中に白いカットソーを着ていて、真冬だって言うのに襟ぐりに濃いサングラスをかけている。いつものように髪をラフにセットしてあって、左耳には輪っかのようなピアスが三つ光っていた。
そう
どこからどーみてもこいつは
ホスト。
P.4
「仁科、今終わりか?これから飯でも食わねー?」
この状況を知らずに能天気に笑ってるその整った横っ面に今すぐ張り手を食らわせたい。
「あ、あんたいつ東京に戻ってきたわけ?」私は女の子の群れから一人離れると、九条の車に近づいた。
「あー、悪い。三日ぐらい前かな?この前言ってた日本料理屋行こうぜ」
「あんたっていつも何で急なのよ」
私が声を潜めて九条を睨んでいるときだった。
「えー、仁科さんの彼氏さんですかぁ?かっこいい!」
女の子たちの視線が九条に移った。予想していなかった最悪の事態。
上半身しか見えなかったが、今日の九条は黒いジャケットの中に白いカットソーを着ていて、真冬だって言うのに襟ぐりに濃いサングラスをかけている。いつものように髪をラフにセットしてあって、左耳には輪っかのようなピアスが三つ光っていた。
そう
どこからどーみてもこいつは
ホスト。
P.4
でも勘違いしてもらっては困る。私はこいつの客じゃない。東京を離れていたのも、大方客の一人と遠征旅行でもしていたのだろう。
「違っ!こいつとは単なる腐れ縁。彼氏とかじゃないから」
と慌てて否定するも秒の単位で噂が回るこの会社で明日の朝には『仁科さんて、ホストに貢いでるらしいよ』とあちこちで言われるに違いない。
くらり、と眩暈が起きた。
腐れ縁、と言うのは間違いない。中学からの同級生だから。
「じゃあ、本命は前田さんですかぁ?」女の子達が興味津々で目を輝かせている。
「前田??ひどいなー、仁科ぁ。俺たち何度もセック……もがっ」
最後の方が言葉にならなかったのは私の手が九条の口を塞いだから。
ふざけんな!何言い出すんだこいつぁ!!
空気読めっつうの!
と言うことを目で訴えると、流石に冗談が過ぎたと思ったのか九条は苦笑い。
「で?行くの?行かないの?」せっかちに聞かれて
「わかったわよ!行くわよ」半ば怒鳴るように九条を睨みつけると、私はそそくさと助手席に回った。
「それじゃ、私はこれで。お先に」女の子たちにはなるべく平静を装って、にこやかに手を振る。
ため息をついて車の助手席を開けると、運転席から九条が笑顔で手を差し伸べてきた。
「ただいま、仁科」
昔とちっとも変わらない笑顔。眉が下がり、目を細める、優しい笑顔。そして時々その低い声で呼ばれる、自分の名前。何だかくすぐったいが、この笑顔を向けられたら、たとえ九条の勝手に振り回されても、赦せてしまう。
「……おかえりなさい」私は俯くと、小さく返事を返した。
P.5
前述した通り私と九条とは中学からの付き合いだ。かれこれ十年以上の付き合いになる。十年、と言う歳月は長く感じられるけれど、その間に音信不通になったり、そしてどこからか連絡先を入手して電話を寄越して来たり、をだらだらと繰り返している。
でも、私たちははっきりと『付き合って』はいない。もちろん九条のブラックジョークの『体の関係』もない。
あるのは中学生から変わらないノリと
私が九条のこと「好き」
と言うことだけ。歳を重ねて、九条がホストになって……あ、今はホストじゃなくホスト店を経営してるオーナー様でもあったかしら。とにかく環境は変わったものの、不変的な何かは確実に存在している。
パワーウィンドウの外をちらほらと雪が降っていた。
「北海道行ってきたんだ~土産に蟹買ってきてやったぞ」と九条は運転しながらどこか楽しそう。
「北海道……ここより雪が多そうね」ぼんやりと呟きながら、九条に気づかれない程度にこっそりと、外気との差で曇った窓ガラスに、人差し指で
『好き』
と書く。
私の書いた文字は私の体で隠れて九条からは見えない。
「蟹すきしようぜ~、お前んちで」
「何であんたを一々上げないといけない?」
言い合いをしながら、やがて私のマンションに着く頃にはみぞれになった大粒の白いものが私の『好き』をかき消す。
「だってお前んち床暖あるじゃん?」
「そんな理由かよ」
中学生から変わってないこの関係とノリ。
今はまだ―――
この関係でいいや。
~FIN~
P.6